一人朝生の結果報告。

mimisemi2009-04-18

久々に一人朝生が深夜から明け方にかけて白熱したおかげで良い議論が出来たんでその結果を書いておくね。


っつーのはね、自由って何?ってことなんだけど、まぁ相当まずあれだ、かなり長い議論だったんで要約して書くけども、恐らくまぁ左翼っつーかさ、人々の自由みたいな感じで自由そのものを最上と見なすような自由ってのは原初状態の自由でさ、それはようは人々が何でも出来るという自由ね。で、あれなんだ、まぁ議論としてさ、監視カメラの話があるけど、監視カメラって人々の安全を守るためにあるわけじゃない?でもその一方で左翼っつーか人々の自由ってのを最上のものとする人達の間では「我々の自由が脅かされている」みたいな話が出てくるわけだけどさ、これも考えたら分かるのがさ、監視カメラが無いことで行使できる自由って法の外のことだけだよね?つまりは監視カメラがあることで行使出来なくなる自由って法の外にある自由ってことで、それは例えば暴力であったり麻薬の売買であったりって言うような違法行為だよね。


カメラがあることでレイプが抑えられるのならカメラがあったほうが俺みたいなヘタクソな頼りにならない男がガードとしてついているより女の人にとっては監視カメラこそが最高のガードマンになるよね。レイプ魔が相当アホじゃない限りカメラがあったらすぐ捕まるってことで監視カメラがある場所でレイプに及べないよね?ここでさ、監視カメラによって脅かされた自由ってレイプ魔のレイプの自由でさ、逆を言えば監視カメラがあることで女性の人権は守られるわけだよね?それを変な話がさ、女性が監視カメラに撮られているってことで誰かに見られているという雰囲気的なブッグブラザーな感じを受けて「私の自由が脅かされているわ」って言うのって大間違いじゃない?むしろカメラの役割はてめぇーの不細工なツラを映すためにあるんじゃなくて、てめーの身を守るために設置されてるんだぞコラ!って話だよね。つまりは市民の自由を守るためにある監視カメラなわけで、善良な市民を監視するためのカメラではないんだよ。まぁある意味で市民も監視されているけど、違法行為なんかをやらない限りは別に彼らの生活になんの支障も無いんだよね。


同じ事が政府にも言えてさ、左翼系の本とか読んでると大体出てくるのがさ、全体主義の危険性だとかさ、権力者に寄りすがりたいと思う大衆の心理みたいなのが出てくるけどこれの何がいけないの?ってことなんだよね。つまりはさ、原初状態の自由っつーのはデパートで例えると売りつくしセールとかいってさ、アホなB層をレペゼンするかのようなオバハン達が取っ組み合いをしながらさ、セーターとかの奪い合いをして、結果的にセーターが伸びちゃうとかさ、倒れた人が踏まれて大けがをしちゃうとかさ、バカが行使する自由ってこういう自由だよね。自然状態の自由ってのは基本的に人々はバカが多いってことでこういうアナーキックな自由というのを連想しておかないとダメなわけ。あとは仮に賢い人が多くても一部のバカが暴走行為をするおかげで他人が信用できなくなったり信用システムで成り立っていたシステムが一部のバカによって壊されるってことで、結果的に人々が人々を監視し合いながら生活するっつーよーなさ、社会契約論の原型みたいなのが生まれるわけだよね。ここでまぁあまりに都合が悪いから誰かを権力者に立ててそいつに権力を行使してもらって統治してもらおうっつーのが社会契約論でさ、まぁこれは実際あるような契約ではなくて想定のものだけど、政治的なものを考える上で不可欠なんだよね。ようはそういうような契約がなされているかいないかってのは全然重要じゃなくて、自然状態があったとすれば、社会の起源とはおおよそそんなもんだろうっていう社会を考える上での大前提なんだよね。


社会契約論的というか、統治者が生まれた上で市民がエンジョイする自由とはどんなもんか?っつーとさ、さっきの奪い合いのカオスなデパートの売りつくしセールを対比として出してくるならさ、統治者が生まれた上でのデパートの売りつくしセールではさ、整理券が配られて「駆け込みはおやめください」とかさ「走るのは大変危険ですのでおやめください」とかっていうようなさ、バカなオバハンの野獣的な本能を抑えるための権力行使がなされるわけだよね。ここでバカなオバハンが原初状態の自由をエンジョイしようと思って駆け込みしたり押し合いをしたら警備員につまみ出されるわけ。これを「人権の侵害だ!」とか言うのは大間違いで、人権の侵害をしかけていたのはこのババアなんだよ。ようは他人の買い物の邪魔をしようとしたわけでさ、他のお客さんのことを考えたらこんなプリミティブなババアはデパートからつまみ出されて当然なわけ。でもなぜかこのダッシュしながらセーターの奪い合いをするといったような原初的な自由ってのが自由なんだっていう風に勘違いしてるのが凄く多いんだよね。でもこんなものは自由でもなんでもなくて、ただの野獣以下の行為なわけ。


んじゃあね、市民社会でエンジョイされるべき自由とは何か?といったらやはりそれは整理券が配られる安全なデパートにおける買い物なわけ。そこではもちろんダッシュをしたりだとか押し合いをしたり誰かが買おうとしていたセーターを奪ったりといったようなプリミティブな自由は奪われているけど、それが奪われているおかげで死傷者も出なければセーターが破れることもなければみんな安全に買い物が出来るわけ。確かにね、「押さないでください」みたいなアナウンスとか警備員とかを見るとコントロールされてる感はあるよ。でもそのコントロールっつーのも自分がちゃんと買い物できるために必要なコントロールなんであってさ、ここで警備員を「デパートの犬め!」みたいに罵倒するのは馬鹿げてるのね。これはさっき書いた監視カメラのことと一緒ね。ここで奪われている自由というのは必要ではない自由なんであって、むしろそういった全体に害を及ぼすような自由というのは権力者の手によって奪われて然るべきなわけ。ビューティフル・マインドでさ、ナッシュがみんながブロンドを狙ったら奪い合いになって誰もブロンドを得られないっつてさ、ただみんなが他の人のことを考えてブロンドを諦めたら誰もブロンドを手にすることは出来ないが、みんなブロンドの友達にありつけることになるし、誰も損する事が無くなるといったようなさ、アダム・スミスだったか忘れたけど、個々の自由な状況における個々が追い求める何かというダイナミズムが必然的に共通善を生み出すっつーのは間違いだみたいなことをナッシュが言うじゃない?それなのよね。まさしく。


アナーキックな状況下で行使される自由というのは一つのセーターを奪い合ってそのセーターを破いてしまうようなことなんであってさ、そこにはみんなが一つのセーターのために奪い合いをしないというようなダイナミズムが必要なんだよね。それは個々の判断によって任せられないっつーのがさ、全体のダイナミズムってのは凄い怖くて、これは大塚久雄が書いていたことだけど、お祭りとかの大勢が集まる場所でさ、人ごみに巻き込まれると潰されちゃうっつーか自分の意志とは関係なく勝手に体が持って行かれて潰されちゃったりするじゃない?ここで屈強な男達が潰された人を守ろうとしても大勢が生み出すダイナミズムには勝てないんだよね。つまりはアナーキックな状況化において個々に判断を任せるというのはさ、性善説が求めるような善良な市民ってのが「奪い合いをやめましょう」って言うようなもんでさ、大半の人達が奪い合いをしている状況下で一部の善良な市民がそういうことを言っても無駄なんだよね。


それはお祭りの中で潰された人を守る屈強な男達みたいなもんでさ、いくら屈強でも大勢のダイナミズムには勝てないわけ。つまりはこのダイナミズムというのがさ、人々の意志とは関係なく勝手に物事が進みながら規定されていってしまうっつーこの屈強な男達の抵抗すらも反映されないっつーのがまぁマルクスの言う疎外という概念だったっつーさ、それ自体がそれで回っていると人々の調整っつーか操作なんて効かないんだよっていうそういうことだよね。つまりは人々に何かを任せていると人々が何気に生み出されたダイナミズムに人々自体が巻き込まれて人々自体の意志とは関係なく人々がそのダイナミズムに巻き込まれて巻き込まれていないと生きていけないとか潰されるみたいな状況になるのがまぁ社会というか民主主義だよね。だからさ、そういうお祭り的状況の中に警備員を配置してさ、圧死する人達が出ないように上手く整備をするのがお祭り運営側の仕事になるよね。これこそが国家で言うところのステイツマンの仕事なんだよ。一人の死者も出す事無く、楽しいお祭りというのを開催するためには人々を暴れさせないという悪いダイナミズムを作らないための権力の行使が必要になるよね。ここでさ、「警備員うぜー!」とかっていうチンピラの意見には耳を傾けなくてもいいのね。それこそ喧嘩だのさ、何でもやりたい事ができるっつープリミティブな自由を求めるっつーのはつまりはさっき書いたような原初状態での自由を求める野獣的な自由なんであってさ、それは市民社会にあるべき自由ではないのね。もちろんまぁ祭りというのが本来ハレの場で、そういうのが治外法権的に許されていたのでハレとしての機能があったみたいな話は別としてね。


つまりは市民社会で人々がエンジョイするべき自由というのは原初的な自由を市民社会的な自由をエンジョイするために手放して、システマティックなプロセスによって生成された市民の自由というのをエンジョイするというのが市民社会にあるべき自由なんであって、それは例えば市民の自由を守る監視カメラに文句を言う自由とか、デパートの警備員に文句を言う自由とかではないのね。それは低レベルの自由なんであって、市民社会にあるべき自由というのは共通善が保全される、全てが適切に回るという環境下におけるダイナミズムとしての自由なのね。つまり共通善が保全されるというのは自分が他人に迷惑をかけず自分の自由をエンジョイするという高度な自由なんであって、この自由のためにはある程度のプリミティブな自由というのは破棄される必要があるのね。そのプリミティブな自由を行使することで失われる全体の秩序なり共通善というのがあったら、それはあるべき自由ではないのね。まぁまさしくそれは全体主義じゃないかっつーかさ自由の制限じゃないかって言われそうだけど、市民社会ってつまりはこういうことでしょ?


いやね、さっき左翼が書いた本とかによく書いてあることだけど・・・って書いたけど、昔の左翼が言ってたこととかってある程度説得力があったっつーのはさ、例えばリアルにナチスの台頭を目の当たりにしちゃった人とかさ、全体主義国家の恐ろしさというのを見せつけられた世代の人達ってのは必然的に全体主義とか権力者というのにアレルギー反応を示すようになるよね。それは分かるんだよね。そういったものが暴走して悪い方向に行ってしまった時代の人達が考えたことというのは必然的にそういったものを回避するための民主主義とか人々の自由というのが重要視されると思うんだけど、民主主義と民主的な生活の違いってのが上手くひかれていないとさ、民主主義に人々の自由というのが込められているみたいに思っちゃうじゃない?


でも民主主義と民主的な生活とか民主的な自由というのはイコールではないんだよっつーのは俺が常に言っていることだし、これはイデオロギー抜きに事実だよね。むしろ市民社会的な秩序ある自由をエンジョイするためには結局は縦軸としての権力者に頼るしかないんだよね。つまりはある権力者が行使する法なり権力によって保全される市民の生活というレイヤーが担保された中で初めて生まれる人々の人権なり自由といった概念ということだよね。これは権力者不在ではなし得ない話なんだよ。もしくはリバタリアン的な自由というのはね、様々なプロセスを経て市民が政府の力を頼る事なく自律した生活を送るという意味での政府の介入無しの自由主義というのが成立すればそれは最高で、そういった意味でのアナーキズムというのが成立すればそれは最高なんだよ。つまりは人々が政府から自立して自律した生活を送るっていうね、そこには恐らく中間団体的なコミュニティーや政府を頼る必要が無いような様々な機関があって、社会が政府とは違ったレイヤーで独立した有機体として活動するみたいなさ、これこそがまぁ真のアナーキズムだよね。


でもそのためには様々なプロセスを踏む必要があってさ、その一つとしてまず社会や人々の市民化というのが必要なんだよね。社会の市民社会化と人々の市民化っていうね。これは原初状態とは明らかに違った高度な社会や人々のあり方なんであってさ、それを育むのがリベラルエディケーションであったり経済基盤であったり治安維持であったりまぁ色々あるんだけどね、人々が自由を楽しむためにはそれ相応の努力と社会的プロセスが必要なんだよね。それをすっ飛ばしていきなり自由を叫ぶっつーのはただの頭の悪いパンクの連中とかが言うアナーキズムなんだよね。とりあえず政府をぶっ潰せっつってアホなプロテストとかをする連中ね。ああいうのは政治ってのを全く分かってないよね。ただひたすら呪文のように抵抗抵抗って唱えてその先のことを一切考えないのね。ひたすら権力者だの政府だのっていうのに意味も無く楯突いてさ、楯突く事で自己満足とかカタルシスを得るっていうね、最低な連中なんだけど、まぁ俺はこういう連中に嫌気が指したっつーか左翼の実体ってこうじゃんってのが分かっちゃったんでまぁ俺はもうある意味で全然左翼じゃないんだけど、でもまぁ政治ってのを考える上で考え方が性悪説的になりなおかつ権力志向になるのは必然なんだよね。


何しろこの両者というのは人々の市民社会レベルでの自由を保全するには不可欠な判断材料だからね。つまりは市民社会ってのは一見すると統治されきったファシズム的というか全体主義的国家でもあるってことなんだよね。人々のなんでもやっていいっつーアナーキックな低レベルでの自由をエンジョイする檻が無い動物園としての自由が蔓延している社会では自由よりもその低レベルな自由によってもたらされた不自由だの争いだののほうが多くなるわけで、ここで言うまでもなくまぁ万人の万人による闘争が始まるわけだよね。そんなカオスという名のベヒモスを倒す事が出来るのはリバイアサンしかいないってことでやっぱリバイアサンに登場してもらうしかないんだけど、リバイアサンは法という名の鎖によって暴走を防がれているんだよね。イメージとしてはリバイアサンベヒモスも野獣なんだけど、ベヒモスを倒したリバイアサンっつーのにさ、分厚い辞書みたいな本から魔法みたいに出てきている鎖にリバイアサンという名の野獣が繋がれているっていうイメージなわけでさ、そのリバイアサンは市民にはその鎖によって手出しは出来ないんだよね。出来るのは市民を守るための武力行使しか出来ないわけ。まぁ最悪なのがパワーエリートがリバイアサンを手なずけて人々を脅しながら世界を統治するっつー構造でまぁ陰謀論説を説く人達とか一部の左翼がこういう構図で物事を語ったりするけど、まぁこれは言い過ぎね。ありえなくもないけど、むしろリバイアサンを手なずけるような召還師みたいなのが存在するのであれば、その召還師達はステイツマンである必要があるんだよね。つまりはユウナみたいなちゃんとした召還師じゃないと召還師になっちゃいけないってことなのね。


なぜか?ってヤバいからね。リバイアサンを好きな時に召還して暴走させて世界をコントロールするとかってすげーヤバいじゃん?だからリバイアサンをコントロールする連中というのはユウナみたいなちゃんとした召還師じゃないといけないわけ。それこそ世界を救うためだったら自分の命も投げ出すというようなね、ああいうなんつーのかな?完全に民衆っつーか世界に身を捧げてる感じね。まさしくユウナなんだけども。ああいった姿勢こそがリバイアサンを召還するライセンスを持った召還師のあるべき姿なわけ。


リバイアサンってたって国民の総体でしょ?所謂、popular sovereigntyでしょ?って言われてもさ、実際、リバイアサンを召還しちゃう連中ってのがいるわけでさ、だからこそリバイアサンの暴走を許さないステイツマンとしての召還師が必要なわけ。権力というのはユウナのような召還師が持たないと危険だしダメなのよ。リバイアサンが暴走したらもうそれは原初状態以下のカオスだからね。そうなったら逆に人々の暴走という名のベヒモスリバイアサンを倒すしかないよね。これこそがまぁまさしく革命なんだけど、でも革命後も結局はリバイアサンを倒したベヒモスリバイアサンになるだけでまぁサイクルは変わらないから結局、良い召還師を市民が持つことでしか平和な社会のサイクルって保たれないのよ。だからこそ賢人統治ってのは当たり前なことなわけ。もう自明のことっていうかさ、極論でもなんでもないんだよね。常識っつーかなんつーか。そうなんだよね、我ながらこの比喩は思いつきの割には割と気に入ったんだけど、権力者ってマジでさ、召還師みたいなもんなんだよね。やりようによっちゃー召還獣を私的利用も出来るし、いくらでも暴走させることが出来るっていうね、まぁティピカルな言い方になるけど召還獣を暴走させ続けているのがまぁアメリカね。世界でも悪名高い召還師だらけなのがアメリカ。大衆を操ってリバイアサンを暴走させ続けているテロリスト国家がアメリカなんだよね。


そんな世界の悪の根源とも言えるべきアメリカの暴走を止めるにはもうアメリカの内部を内部から変えていくしかないよね。恐らくあれなんだよね、大げさな言い方になるかもしれないけど、既存の権力者に抵抗しつつ社会改革を目指す真の運動ってつまりはアメリカの暴走を止めるっていうことにイコールなわけでさ、それは直接権力に抗うことでもなければ、抵抗運動することでもなくて、内部に良い召還師を送り続けながら解毒をしていくっていう権力主義的なやり方でしか抵抗は出来ないんだよね。なぜそれが権力主義的なのか?っていうと権力そのものの性質を変えるっていう意味で権力主義的なんだよね。つまりは権力やリバイアサンという概念を踏襲しつつもその本来的な権力のあり方やリバイアサンのあり方というのを取り戻すといったような行動だからなんだよね。腐敗した権力に抗う方法ってのはもはやこれしか無いと思うんだよね。つまりはリバイアサンを飼い馴らす徳のある召還師になるか、そういう召還師達を育成して権力側に送り込むしかないわけ。リバイアサンベヒモスで倒すとかっつー発想はもうダメなのね。それはもうしつこいようだけどミヘルスの寡頭制の鉄則なわけでさ、ベヒモスもまたリバイアサンに変容しますよってことなのよね。これはもう人々が人々である限りずーっと変わらない普遍的な法則なんだよね。だから革命だなんだって今更騒いでも時代遅れもいいところなんだよね。真のユートピアは現実的な権力主義者にしか建設不可能なわけ。


いやーそれにしてもまぁ一人朝生凄いでしょ?割ともう一人朝生の内容は大体書けたんでまぁこの辺で終わるわ。

マキャヴェリの孤独

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