奴隷制とか階級闘争とか理想郷とか自殺とか多様性とか全体主義とか。

mimisemi2009-05-01

相変わらず風邪が治らない。辛くはないんだが、鼻水とくしゃみが酷い。で、夜中になると微熱が出てくる。でもまぁ学校休んでるから考える時間が出来てなにより。ってことでね、書こうと思って書き忘れてたことを色々と書こうと思うんだけど、アリストテレス奴隷制の容認はね、俺は特にアリストテレスの理論に依拠しているつもりはないんだが、まぁ前に俺が書いた事と一緒で、つまりは生まれながらにして奴隷的キャラクターを持ってるやつは下手な自由を与えられるよりも、誰かに仕えていたりしたほうがハッピーってことなのね。それこそ放っておけば暴れかねないっつーかさ、犯罪者になりかねないとかね、アル中になって駅のホームで叫んでるとかね、こういう知能のレベルの低い人間逆に最下層の職場なりそういう人間でも使ってくれる企業なりオーナーに使えていたほうがにもオッケーだし、そういうやつらにとっても良いことであるってことなのね。


ポリティカルコレクトネスはゼロだけど、俺は全くそう思うわけね。アリストテレス云々はおいておいてもね。こういうことをロバートみたいなやつに言うと「人々は平等に生まれてきてるんだ」って理念を語るけど、それってジェファーソン的な建国の理念なんであって事実とは違うよね。事実ってのがさ、元々ね、事実というのは例えば自然という意味でね、元々奴隷ぐらいいしかなれないっつーレベルの人間がいれば、むしろそういった人間が担えるような奴隷階級というか最下層の社会というのがあってもいいし、それは保証されてるべきなのね。で、その最下層の人間達はようは路頭に迷う事がなくね、誰かに仕えるとか底辺の仕事をするとかで生活を保てるわけでね、それは奴隷制の容認というよりかは、奴隷ぐらいのレベルの人間でも救われる寛容な社会ってことなのよ。つまりはね、今みたいな社会っつーかアメリカ的な建国理念だけ抜かして、んで奴隷レベルの能力の人間を奴隷以下の扱いをして切り捨てているなんていう社会は許されるべきじゃないのね。奴隷レベルの人間にも奴隷レベルの生活があるし仕事があるべきだし、彼らが能力の無さからはみ出しもの扱い受けたりね、社会不適応者扱いされて使い捨てられるっつーのは奴隷制以下の制度なのね。それを容認してるのが今の社会だよ。アメリカ然り日本然り。


奴隷階級の存在を認めつつ、彼らの仕事や生活を保障する社会システムの何がいけないんだ?って話でしょ。だからポリティカルコレクトネスがアウトなのはグッドウィルみたいな会社とかさ、アメリカとか日本的なっつーか世界的に見られる失業者の増加を促すような社会力学にあるわけでね、奴隷が救われる社会のほうが現状の社会より全然マシなのよ。それにはまず自然に奴隷ぐらいの能力を持ってしか生まれてこない連中もいるっていう自然の摂理を認めないとダメね。これを認めないで「みんな平等だ」とかってぬかすとさ、全部自己責任論に転化しちゃうんだよね。無職なのは努力が足りないからだとかさ、そういう風になっちゃう。本来的に言えば富の不平等も能力の不平等もあるわけだから、そういったことを前提にして全ての人の人権が平等に尊重される世の中じゃないといけないのね。だからね、ビルゲイツの人間としての価値も奴隷の人間としての価値も社会的価値の上では平等なんだよね。奴隷のように人間を扱う社会と奴隷も人間のように扱う社会とではタチの悪さが全然違うんだよ。前者が現代的な資本主義社会で後者がアリストテレス的社会ね。アリストテレス的って言うとアレだけど、まぁ奴隷の存在を認めつつも人間として扱う寛大な社会ってことね。ようはあれなんだよなぁー、贔屓目に見れば古代ギリシャ哲学ってファシズム的っつーかポリティカルコレクトネスゼロに見えてかなりリベラルなんだよね。それこそ現状の社会よりかは全然リベラル。少なくとも人間達がどういう営みをしながらベストに生きていけるのか?というのを中心に考えてたという意味では全てが利益とか金で回っている現代社会よりかはポリティカルコレクトネスはマシだよね。全然。


奴隷レベルの人間もいますっつってさ、そういう能力やヴァーチューの低い人間も救われるっつーか居場所がある社会とかさ、そういう人間は役に立たないっつーか努力が足りないとかって言われて切り捨てられる社会とだったらさ、前者の方がいいと思わない?俺は絶対前者の方がいいと思うんだよな。奴隷っつったってさ、人身売買とかされるわけじゃないし、まぁあれだよね、ブルジョワに仕える奴隷っつーかサーバントみたいなもんでさ、一定の扱いとか衣食住の保証はオーナーによって保証されてるっつーね、逆にオーナーがいなかったら奴隷達ってのたれ死ぬしかないわけで、奴隷という身分が成立しているというか認められている社会のほうがね、奴隷制を覆い隠してその存在を認めない社会よりかはよっぽどマシなんだよね。


なんでみんなこれを認めようとしないんだろうか?これがやっぱりポリティカルコレクトネスの罠だと思うね。民主主義然り。「人々はみな平等」という理念に立ちすぎて現実からガンガン乖離していくっていうね、その理念が人々の生活を脅かすこともあるんだよってことだよね。繰り返しになるけどね、奴隷制は認めないながらも人々を奴隷のように扱う社会とね、奴隷制を認めながらも奴隷の身分なり生活が保障されてる社会だったら絶対後者のほうがいいんだってば。後者の方がよっぽど人権が保障されてるわけだよ。何しろ奴隷達がのたれ死ぬことはないんだから。もちろんあれね、人権を持っている奴隷ってことで、ようは奴隷への暴力っつーのは当然罰せられるし性行為の強要とかね、そんなのは全部アウトね。でもまぁ扱いとしてはやっぱ彼らの能力と同等でまぁ道具程度っていうね、でもまぁ社会的身分なり生活は保障されているわけだよね。これだったら道具ってレッテル貼りをされてもさ、死なないだけマシだって思わない?努力が足りないダメ人間扱いされてさ、衣食住の保証もされない社会って奴隷制以下だと思わない?だから俺は奴隷制を積極的に容認したいんだよね。ようは奴隷レベルの人間の価値も道具として認めようっていうね、全ての人間は平等だなんて考えは馬鹿げてるよ。


だからこそ努力不足とかっていう考えが出てくるわけでさ、こういう理念は百害あって一利無しだね。もちろん奴隷だってさ、金貯めて事業とか始められれば勝手にやればいいし、勉強して這い上がるのもいいしさ、奴隷だからって出来ない事が無いってことじゃないんだよ。ただ奴隷ってレベルだから仕事も生活の質も限られてるよってことなんだよね。それが嫌なら脱出する方法を考えればいいし、無理だったらその場にいて、まぁ奴隷なりの生活をすればいいし、それはそれで奴隷なりの幸福な生活ってのがあってもいいわけ。掃除とか雑用ぐらいしか仕事がなくて給料はしけてるけど、オーナーにはちゃんとリスペクトされていてさ、身分も保障されてるっていうね、俺はこれ全然ありだと思うんだよなー。まぁ別に大っぴらに奴隷制の容認って言わなくても、ようは奴隷レベルの人間も救うっつーか身分がある社会っつーことだよね。アリストテレスが言ってたのはこういうことだと思うよ。道具レベルの人間は道具レベルでしかないって自明なことを言っていただけでさ、かといって道具レベルだからっつって人権が保障されないとかね、何をしてもいいっていうそういうわけじゃないんだよね。アリストテレスがそこまで言ってたかどうかはともかくとして、別にまぁこういう解釈をしてもいいし修正をしたっていいよね。ただまぁーこういうことを認めるのが嫌なんだろうなぁー。人々が平等っつー理念を信じたい側としては認めなくないんだよね。こういう能力の不平等っつーの?でもこれを認めないと社会って始まらないと思うし、真の平等っつーかさ、ちゃんと全ての人々の人権が守られるって社会は到達不可能だと思うんだよね。


平等の理念の名の下に様々な悪徳が隠されてるっつー上辺だけの社会って最低だと思うし危険だと思うんだよね。原則のレベルとしては理想的な社会ってなってるから、みんな文句を言えないっつーさ、だからまぁね、社会や理念はちゃんとしてるんだからあとはもうお前の責任だろうみたいな話になっちゃうんだよね。これがヤバいっつーわけよ。奴隷のように人を扱うということと奴隷というある種の自然階級を認めることって似ているようで違う事だよね。奴隷を生み出す社会と生み出された奴隷を人として扱う社会とでは同じ奴隷を扱う社会でも社会なりが違うわけね。


でさ、ではね、人間の能力って何に規定されるの?って話になるけどさ、一昔前は栄養状態とかって言えたと思うんだけど、近年だとそうでもないよね。まぁ少なくとも過去ほどではない。でもこれだけ能力に差があるってさ、やっぱこれって自然的な能力差があるってことだよね。バリバリ栄養取っててもバカはバカだしさ、だからまぁ古い言い方にもあるようにバカは死んでも治らないってそういうことだよね。固定格差が更なる格差を生むっつーのには大賛成だけど、でも能力的な格差は修正のしようがないよね。奴隷レベルの人間が奴隷レベルの子を産んでもそれはもうしょうがないでしょ。その子もどうせまぁバカだろうしさ、奴隷になるしかないんだよね。まぁたまに突然変異的なことがおこるかもしれないけど、別にそれだったらさ、奴隷の子供でも何かに能力を発揮して奴隷以外の何かになるよね。でもやっぱ奴隷レベルの人間が更なる奴隷を生んで単純労働により社会の根底を支えるっつー枠組みは残念ながら変わらないよね。まぁ俺は明らかな差別主義者だけど、差別にもポジティブな差別とネガティブな差別があるよね。差があることを認めつつアファーマティヴに対応していくという差別主義者と完全にそういう人間は人間として認めないみたいな差別とでは全然違うわけね。で、俺は前者のポジティブな意味での差別主義者なのね。まぁ自然的摂理に立脚した差別主義者っつーか能力差を認めるって立場の差別主義者ね。で、その能力を平等にしようとかとは考えないのね。能力差はあって然るべきだししょうがない。だからといって能力が低い者達がのたれ死ぬという社会は容認出来ないという立場ね。


差別ってのは難しい問題だけど、やっぱ学校でもさ、成績によってクラスが変わるとかって制度はやっぱあるべきだと思うんだよね。バカと優等生が同等に扱われるというのはやっぱりおかしい。バカのおかげで優等生の勉強がはかどらないというのはおかしな話だし、優等生のおかげでバカが理解出来ないまま授業が進むというのもおかしい。だから個々の能力に合ったクラスってのにフィットすれば一番いいんだよね。そこで生まれる似た能力もの同士の競争はまぁ半ば市場主義的に良い事かもしれないしね。


みんな平等っつー理念で覆い隠されたり失われるものって多いよね。マジで。差を認めることは政治的にアウトだといっても、差を認めることで人々の生活が向上すればそれって善い事と見なされるべきだと思わない?俺はこのみんな気がついているんだけど認めないっつー上辺だけの平等主義が大嫌いなんだよね。死ぬほど嫌い。理念と事実は違うんだからやっぱ事実に立脚して問題を考えなきゃいけないよね。人々はみな平等であるという理念が作り出してきた社会問題ってマジで多いと思うよ。それによって人間と見なされなくなる連中ってのが少なからずいるわけでさ、それって差別主義者よりある意味で差別的だよね。人間として認めないっていう立場が平等の名の下に容認されているわけだからね、こりゃー酷いよね。


ポリティカルコレクトネスとかによってシェイプされていたり封殺されていることって多いと思うんだよね。この政治的価値観を元に考えるってことがいかに問題の本質を覆い隠してるかっつーのをね、もっと自覚的になるべきだね。極端な話、「そんなことは考え得られない」ということではなく、考えられないことの先に善い社会が見えるならその考えられないことも考えたり実行しなきゃいけないかもしれないっていうことだよね。それは一線を越えるということとは似て非なる事なのね。他国なり自国に損害を与える事無く、社会の向上が認められるかもしれないことだけど、でもポリティカルコレクトネスや現在の価値観から言うと反対を受けそうなことっつーのはさ、民主的に選択されるべきではなく、それを分かった人間が決断して実行していくしかないよね。どうせ民主的なプロセスをとれば「そんなことは間違っている!」とかって表面的なことだけで批判を受けて終わっちゃうんだからさ、だから民主主義って限界があるんだよね。民主主義ってのは本当に社会の限界を作っていると思うんだよね。で、それがもう監獄レベルになっちゃってるっていうね、まぁある意味で最低の社会だよね。これぞまぁ衆愚政治によるダメな社会の典型って気がするんだけども。かといってエリート統治を全面的に容認することもできないんだけど、民主主義的な価値観っつーのにたいしたメリットも無いって分かっちゃえばさ、特に取り立てて民主主義的なものを擁護する必要性もなくなるよね。ってのがまぁ俺のここ1年ぐらいの一貫した立場っつーか意見だね。シュトラウスとかアリストテレスとかプラトンとかはおいておいて、俺の純粋な意見としてそう思うわけね。


虎穴に入らずんば虎児を得ずっていうでしょ?危険な事を避けてばかりいては本質的なものや重要なものって得られないんだよね。だからようは政治にしても社会にしてもアウトなイデオロギーを含めたアウトなものも検討しながら現代的な道徳や倫理と照らし合わせて考えないといけないよね。最初から消去法で様々なものを思考材料とし入れないっつーのはダメなのね。よくさ、まぁロバートとかにだけど、「それの何がいけないの?」ってよく色んな事で聞くことがあるんだけど、これにスパッ!と答えられる人っていないんだよね。一般的にダメとかアウトだって言われているからダメっていう理由だけで、なんでダメなのか?っつー理由を知っている人は少ないっていうさ、少ないっつーかいないんだよね。で、あまり追求しすぎると変人とかダメなやつとか社会不適応者扱いを受けるっていうね、だから俺あんま普通の人と付き合いたくないんだけどね。普通の感覚を作るのが面倒だし合わせるのが面倒だしつまらないし自分がダメになっていくような気がするから、傲慢とかではなくてね、合わせるっていうペルソナを作る行為に労力やリソースを必要としすぎるってことなんだよね。それは俺が優れているとかっていうことではなくてね、別に普通に合わせなくてもいいじゃん!っつー立場があってもいいし、普通と違うからっつって意見が封殺されるのは言論弾圧っつーかさ、政治的自由の原則に反してるだろうって思っちゃうんだよね。所謂、長い物に巻かれろ的な発想って相当アウトなんだよね。違うからこそ議論の余地があるわけでさ、違う意見を持つ事自体は別に悪い事ではないんだよ。まぁ日本的な横並びの社会だと自動的に悪い事として見なされる傾向にあるけどね。


まぁ民主的言論弾圧って感じだね。政府が率先してやってるわけではないのに民衆が自発的に言論弾圧をやっちゃってるっていうね、自主規制とかもその一種だよね。こういうのってマジでさ、真実と物事との乖離をどんどん生んでいく原因になるからマジでヤバいって思うんだよね。違う事を言うとメシが食えなくなるとかさ、村八分に合うとかさ、やっぱ違う意見は意見で尊重されないといけないよね。これが日本の悪しき共同体的特徴なんだよな。みんな阿吽の呼吸で考えたり動いたりするんで結局、リバイアサン的なさ、大衆が合わさって一つみたいな人間が出来上がっていて、その人間はというと盲目っていうね、「日本国民の意見」というのに埋没しすぎると結局、それって沈没するんだよね。だからこそムフというかさ、コノリー的な、闘技的社会ってのが必要なんだよね。民主主義かどうかはともかくとして、常に様々な利害関係や意見を持った連中がお互いを尊重しつつ、妥協し合わずに共生していくっていうようなね、ただそこにあるのは常に闘いで、普遍的な合意ではないっていうね、日本人ってそういう意味で普遍的な合意が大好きなんだよね。横並びながらみんなこうだよねみたいな不気味な横並びの普遍的な合意を元に行動したり考えたりするわけ。それが意見なり行動の画一化を生んで盲目的になっちゃうっていうね、いつのまにか奈落への道を歩いていても盲目だし誰も声をかけてくれる人がいないんでずーっとその道を進んじゃうみたいなね、これってマズいよね。意見の単一性よりもやっぱ当然のことながら多様性ってのが容認されるべきだし重要視されるべきだと思うね。で、この低レベルな次元の意見の単一性ってのはさ、結局、日本ってのが島国っつーか鎖国してる国だからさ、だからこそね、在日の人達とかも含めた移民全般の受け入れとかね、彼らを日本国民として扱う文化的寛大さってのが必要だと思うのね。そこで在日としての彼らのアイデンティティというのを認めつつも意義を唱えるみたいな立場があってもいいと思うしね、まずは彼らを日本人っつーか人間として扱う事が重要なんだよね。


日本ってアメリカで言うところのテキサスみたいなもんだよね。みんな田舎モノでさ、外の世界の事全然知らなくて自分の国中心で全部物事を考えててしかも人種が違う連中の事は認めないどころか差別するっつーね、相当レベルの低い次元ね。そんなテキサス的田舎状況の中で多様性みたいなのを育むのってなかなか難しいからやっぱ国際化しかないと思うんだよね。移民を受け入れつつ日本人もガンガン外に出て行くっつーね、で、他国での研究成果とか文化のあり方とかさ、そういうのを日本にもって帰ってきて、んでまたそれについて考察したりそれをベースに何かを育んだりするっていうね、そういうまぁ外部性っつーのが必要だよね。常に外も向いている状態っつーのかな?今はそういう意味で最悪な時期なんだよね。社会が不安定だからみんな内面的になっちゃって、それがバカな対応のナショナリズムを生んだりね、排他的態度を生んだりね、まぁこれって日本に限らずどこの国でも社会情勢ってのが悪化するとこういう傾向ってのが生まれるんだけど、マジでこういうのに危惧したほうがいいっつーのがさ、ようは全体主義とかファシズムってこういう社会不安っつーか不安定な社会情勢から生まれやすいんだってことだよね。アーレントは読んでないけど、まぁ恐らくアーレントも似たようなことを言っていたと思うんだけど。まぁそのうち読んでみるけどね。911以降アーレントが注目を集めたっつーのも恐らくそういう理由でしょ?


で、多様性ってのは寛大さとかではなく、こないだの霊界の話でも書いたようなね、リサ・ランドールの5次元の話みたいなもんでね、自分は日本人だけど他の次元もあるっていう風に認めるっつーか常に念頭に置くっつー考え方なんだよね。それはヴォルテールじゃないけどね、スピノザが言っていたように人の考えまでも権力者やルールってのは変えられないし罰せられないからね、ルールというかあり方のレベルとしては尊重するってことなんだよ。実存レベルでゲイは大嫌いだけど、彼がゲイとして生きられるという権利は自分は何があっても守るっていうことなんだよね。人種差別然り。実存レベルで黒人や有色人種が大嫌いでも市民としての権利は死んででも守るっつーのがあるべき市民の姿ね。難しいのは分かるし、まぁ啓蒙主義的なのも分かるんだけど、つまりは多次元的社会っていうのはこういったような市民性が無いと成立しないのね。実存レベルでの好き嫌いを大っぴらに言いつつそれを元に差別や嫌がらせをするっていうような連中が多いと市民社会ってのは成立しないわけ。まぁ世の中バカが多いからそりゃー無理だろうって言っちゃえばそれまでだけど、でもね、まぁ傾向としてさ、昨日の風邪の話じゃないけど、「風邪なのに出社してくるなんてバカなやつだ!」って思う事が重要っていうことはさ、つまりはね、「実存レベルで他者を差別するなんて卑しい奴だ!」って思える事がつまりは市民性を規定するわけ。そういう風に思われてしまうし、そういう風に思われるということは社会的にもウェルカムなものではないっていうようなモラルのダイナミズムを生み出す事が重要なのね。それは「いじめかっこ悪い」みたいなプロパガンダのやり方と一緒ね。


いじめに勤しんでるやつはダサいんだっつープロパガンダを出す事でいじめを抑制しようという考えね。これは個々の学生のモラリティに訴えかけているのではなく、社会的なあり方に訴えかけているわけだよね。つまりいじめをやるとかっこわるいと見なされてしまうという風潮を作り出すということがまぁいじめ防止に繋がるっていうね、だからまぁCMとかにも正直で人が良さそうなモラルのアイコンとしての誰かってのを起用して流すわけだよね。いじめ防止のCMって世界中にあるからYou tubeとかでチェックしてみるといいよ。プロパガンダのやり方の良い例っつーかさ、ゲッペルスプロパガンダってのも善い方向に働けばいいんだっていうね、一概に印象操作なりメディア操作ってのを責められないっつーのがまぁ各国のいじめCMだよね。ちなみにシュトラウス的な大衆操作っつーのはこういうことね。例えばいじめ防止みたいなことを達成するためにはいくらでも印象操作をしていいし、嘘をついてもいいし、騙してもいいわけね。それがいじめという根源的な悪を断つものとして機能すれば噓は許されるっていうね、これこそがまぁ高貴な噓の白眉なわけね。はっきりいって反論の余地がないっつーかさ、自明の事過ぎるよね。「騙す」とか「噓」って言葉が空虚なシニフィアンとして宙づりになって人々の先見性を支配しているような気がするけど、まぁ言葉のシニフィアンに騙されちゃいけないってことなんだよね。重要なのはシニフィエだってことで。


俺はね、極端な話、アメリカでも人種差別を告発するようなCMを嫌というほど流せばいいと思うし、日本でもいじめ防止キャンペーンみたいなプロパガンダCMを死ぬほど流せばいいと思うんだよね。気分が悪くなると言われてもそれは市民が最低限守るべき道徳として常に半ば洗脳的に流されていいと思うのね。セクハラとかパワハラ防止みたいなプロパガンダもオッケーね。それはもう独占的に流しちゃっていいと思う。各局も義務的に流さなきゃいけないっつーね。道徳のレベルで守れないバカなやつらがいるからこそメディアを使って洗脳しなきゃいけないんだよね。シュトラウスの場合、このモラル的ヴァーチューのドクトリンとしての宗教っつーのをまぁ洗脳装置として容認していたけど、まぁ俺の言ういじめ防止CMを流しまくるっつーのはシュトラウスで言うところの洗脳装置としての宗教と同じようなもんね。何もそれが宗教じゃなくても当然市民が守るべきルールってのを守らせるために洗脳を使ってもいいってことなんだよ。それは守れないバカが多いっていう理由からなんだけど、まぁそれはシュトラウスも俺もプラトンも一緒だね。別にシュトラウスとかプラトンを出すまでもなく自然にそう思える事ね。だからまぁいつも書くように俺はドグマティックにシュトラウジアンであるというよりかは、似たような考えっつーか共感出来る考えを持った哲学者としてシュトラウスを崇拝しているわけね。シュトラウス派ってつまりはそういうことだと思うんだけどね。盲目的に崇拝しているわけではなく支持しているという意味での党派制みたいなのね。


人々が縦の力が無ければ崩壊するってのはさ、人々が自律してないってことだよね。だからね、アナーキックな性善説に立った自由ってのは成熟した市民社会じゃないと味わえない自由なのね。そんな時代が来るのか?って俺はすんげー懐疑的だけどね。俺は来ないだろうって思ってるからこそ道徳的な独裁制を政府は貫くべきだって思うわけでね、だからこそまぁ道徳とかさ、物事をちゃんと分かってる連中って意味での哲人政治を望むわけね。それは哲学者っつーよりかは徳の高い人間って意味ね。そんなやつらが存在するのか?っつー意見がありそうだけど、いなくてもその理想的な人物に誓いやつを政治家にしないとダメだよね。それはそんなプラトンが言うようなステイツマンが存在するのか?というよりかは、それを雛形として、それに近い人物を選ばなきゃいけないっていうね、そういうことだよね。いるかいないかなんて問題じゃない。重要なのはそういうような望ましい人間が政治を担うべきであるっていうコンセプトなのね。哲人政治に関する批判によくこういうのがあるよねっつーのがさ、そんなやついないだろって話なんだけど、それは完全に論点を見失ってるよね。繰り返しになるけど、そういうやつがいるかいないか?じゃなくて、そういうようなやつを政治家として置くってことが重要ってことなんだよね。そんなのはもう言うまでもなく当たり前のことだよね。


あとあれ、教育が平等に行き渡った事と、ボルシェビキだのなんだのっていうエリートによる独裁制ってのが結局は腐敗したっつーんでエリーティズムにも過去にあったような説得力は無くなったって話があるけどさ、これもおかしな話でさ、エリートっつってさ、プラトン的なエリートって腐敗しないんだってば。腐敗したってことはただのパワーエリートだったりさ、財力がある俗人が政治をやっていたってだけでさ、彼らはエリートじゃなかったってことが実証されただけで、そのコラプション自体はさっぱりエリーティズムへの批判の条件を満たしていないわけね。エリートってのは頭の良さというよりかは人徳で計られるものなんだよ。自分にオイシイ選択肢があっても「いんや、そりゃダメだろ」っつって社会のために役に立つ選択をするっていうのがエリートね。ようは人徳ってことで狡猾さとか財力とかIQとかとは本質的に関係ないのね。エリートっつーとやっぱもうイメージ悪いんだよね。東大出の腐敗した官僚とかさ、ハーバード出の特権的白人達とかさ、そういうイメージがあるよね。まぁさっき書いた空虚なシニフィアンと同じだわ。だからまぁあれだ、プラトン的というかシュトラウス的というかさ、俺が言い続けているエリートという言葉をエリートという言葉を使わずに表すならあれだね「頭が回る正直者」ってところじゃないかな?


笑っちゃうけどまぁそういうことだよ。ハニートラップとかにも引っかからない社会のために全力を尽くせるような慈愛の精神を持った善人っつーのかな?まぁ既存のエリート像とはほど遠いよね。あとはそこまで行かなくても最善の選択を出来るようなね、あとはまぁ命令に忠実で私利私欲を出さず何もかもこなすみたいなさ、例えが悪いけどアイヒマンの善人バージョンみたいなね、徳のある指導者の言うことを聞きつつ、私利私欲を出さずにひたすら仕事に励むっつーさ、そういう担い手ね。いやさ、ナチスの話を出してくるのはおかしいって思われるかもしれないけど、でも理想的な政府って割とナチスと近いところがあったりするんだよ。あの統制力とかさ、大衆操作とかさ、国防としての軍備とかがさ、全て善なるものに向かってたとしたらナチスってある意味で最強だったんだよ。あれが悪だったからもうそれはもう最悪の政党だったわけだけどね、でもあれが善になれば一気に善いっていうね、面白い極端なパラドックを孕んでるんだよね。ヒトラーの大衆の心をつかむカリスマ性は言う事無かったし、側近達の仕事っぷりも言う事無しだった。後期はともかくとして全盛期のあのバランスってのはヤバいぐらい凄かったんだよ。でもそれが悪だったんで最低だったっていうね、全体主義的であっても、あれが善人によるものだったらさ、それこそマザーテレサとかガンジーみたいなのがああいう立場で政治をやってたらそれって理想的じゃない?まぁある意味で不気味かもしれないけど、でも道徳とか徳とか善に支配された社会って少なくとも今みたいな民主主義の名の下に金が中心となっているカオスが展開されている社会よりよっぽど善いものだと思うんだよね。あとはやっぱ革命権とチェックアンドバランスだよね。いつでも民衆が嫌になったら政府をぶっ壊せるっつー革命権さえなんとかすれば、善による統治って可能だと思うよ。民衆が嫌に見えても実はそれは社会のために嫌に見えるようなことをやっているんだっつーような難しいパラドックスがまた出てきちゃうんだけど、これは難しいね。労働組合に力を持たせすぎると労働者達による権力が暴走するみたいな、そういう関係性だよね。だから権力って難しいんだよなぁー。だから色んな哲学者達が熟考してきたんだよね。


あ、んで不気味かと思われるかもしれないけど、俺ってやっぱ理想主義者だからさ、まぁ現実主義的なね、現実主義的なやり方でメガテン2のギメルによるアルカディアみたいなのが建設されたらそれって最高のユートピアなんだよね。あれの問題はあれがイデアの世界にしか存在しないってことだったんだけど、あれって当時マジで衝撃を受けたんだよね。マトリックス以前にマトリックス的なパラダイムの感化を受けたっつーかさ、でも俺って昔から理想主義的な傾向があったからギメルみたいな存在っつーかアルカディアみたいな理想郷に憧れを持っていたんだよね。まぁ今も持っているけども。で、行き着いた先が限られた人間達による電脳世界だったらまぁ俺もギメルと同じってことになっちゃうんだけど、そうじゃないんだよっつーのをまぁなんか達成したいっつーかまぁ俺がやるかはともかくとして、ああいうのを善なる社会の理想郷として措定しつつ、まぁ色々と考えていきたいなって思うよね。アルカディアは俺にとっての理想郷なんだよね。あれがリアルだったらマジで最高だ。あれ以上のものはない。ギメルみたいな指導者も理想的だね。まぁギメルの場合、恐らく現世に絶望した善なる人達を電脳世界に理想郷を作る事で救ったって感じなんだろうけど、主人公にさ、ギメルを倒すか倒さないか?っつー選択肢が与えられるじゃない?で、当時、中学生ぐらいだった俺は足りない頭を利用して本当に悩んだよね。あれには本当に考えさせられたと同時にギメルの存在が羨ましく思えたっていうかさ、ああいう完全なる善みたいな存在に俺は憧れてるんだよね。だからまぁ理想主義者なんだけどね。


でもさ、こないだの自殺の話と直結するけどさ、現実世界でもう絶望しかなくてさ、ただそこにイデアの世界があって、そこにはアルカディアみたいな理想郷があるっつってさ、そこの住人になるって決めるってことはつまりはもう肉体を手放すっていうことになるっつーさ、まぁマトリックスで言うところのまぁずーっと培養液に入ってるっつー立場ね。ただアルカディアは理想郷だから苦痛とかが無いんだよね。そういう世界でも生きる権利があるってなったときにさ、それって自殺になるのかな?っていうね、身体的な自殺だよね。ある意味。ただ脳はアルカディアに直結して生きているっていうね、死ぬまでそこを出られないっつーさ、まぁあとは統治者がシステムをオフにしたりしない限り彼らは目覚めることが無くなるっていうね、仮にそんな世界があったとしたら俺は積極的に肯定しちゃいそうだな。自殺を伴わない現世からの安楽死っていうさ、実際はまぁ肉体は残っているけど使い道が無くなるっつーね、ずーっとコンピューターに脳が繋がったままっつー状態になるんだけど、でもそこでの幸福ってのは約束されているっていうね、逆に俺は進んでそういうイデアの世界の統治者とかになりたいって思うな。まぁ本当にギメル的なんだよね。現世で絶望しか無いのならイデアの世界での理想郷だっていいじゃないかっていう考え方ね。それは俺自身が凄まじい絶望を味わってきたから救いたいっつーと傲慢な言い方になるけど、どん底の苦しみを知っているものとしてはなんつーか積極的にコミットしちゃいそうな気がするんだよね。地獄を経験したものにしか分からないイデアの世界の理想郷での幸福っていうね、脳が幸福を感じるというのもまた権利として扱われなければいけないんじゃないか?っていうね、そのアルカディアで必要となる統治の技術は明らかにプラトン的だろうね。だからこそアルカディアってなんかビジュアルでも古代ギリシャっぽいんだよね。あれすげー分かるな。あの感覚。


ところで前に書いた鬱病の治療の話だけどさ、俺が比喩的に出したさ、快楽を伴うか、もしくは苦痛を軽減出来る電波みたいなのが労働環境で流されていたらさ、本来、苦痛を感じるはずの労働にも苦痛無く対応できるってあのファクトリーのセイレーンと一緒だよね。昨日の風邪の話で書いたさ、風邪でも解熱剤と鎮痛剤飲んで頑張るってファクトリーの労働者的だよね。完全にセイレーン的バイオポリティクスに操作されてるっつーかさ、異常なことだよね。体は発熱しているのにそれを抑えて誤摩化しながら仕事するなんてさ、完全に奴隷だよね。ただセンターであるメシア教もさ、分かってやってる感じがあるよね。あの宗教的ヒエラルキーってまさしく先祖帰りっていうかさ、東京崩壊後の日本が中世ヨーロッパみたいな世界に逆戻りしちゃったっていうような感じだよね。あの階級社会っつーか階層社会は凄いよね。本当に示唆的というかなんというか。その中にアルカディアもセンター公認の世界として存在しているのがアイロニカルだよね。古来の日本的なものは地底に沈んでるっつーのも本当にアイロニカルだけど、アトラスのゲームっつーかメガテンシリーズって一貫して右翼的ではないさ、伝統主義的なところがあるよね。ロマン主義っつーとあれだけど、日本の伝統的なものを守るっていうかさ、良いものだとする立場ね。それがヘタクソなナショナリズムとかではなく日本神話とか、そういったフィフュアティブな存在として出てくるのがいいよね。押し付けがましくなくて、んで日本人だったら自動的に受け取ってしまうような日本性みたいなのがあるよね。


ところでさ、センター市民になるにはコロシアムで優勝しなきゃいけないみたいなさ、あれも凄まじい階級闘争を表しているよね。それはcapital vs laborというような二項対立ではなく、labor側がcapitai側に結びつきたいっていうようなね、マルクス的ではない階級闘争ね。それはプロレタリア間での階級闘争っつーかさ、capital側が敵ではなく上り詰めるべき憧れの対象になっているっていうアイロニーね。マルクス主義階級闘争の終焉っつーかさ、新たな資本主義における革命なき階級闘争ね。それはさ、日本に帰った時におじさんと話した時にね、蟹工船みたいなのが日本で流行っているのは良いことだって俺が言ったわけ。ようは階級意識の芽生えだって。そしたらおじさんがさ、まぁおじさんは昔は雇われ社長だったり森ビルにいたりして割とエリート組なんだけど、色んなit業界を渡り歩いてきて思ったのがね、it業界における奴隷達ってのはね、ようは横の繋がりがないってことなんだよね。奴隷だって分かっていて、んで資本家と闘うために連帯するとかじゃなくて、早く奴隷から逃れたいっつってね、自分だけ逃れればいいやっつー、そういう意識なんだって。いやーこれは言えてるだろうなって思ったね。マジで。これは日本の若者に限った話じゃなく世界的にそうだろうなって思うよ。


自分は一抜けして楽なcapital側に回りたいってそれこそメガテン2のコロシアム的発想だよね。コロシアムの連中が連帯してセンターをぶっ壊すとかじゃなくて、個々が頑張ってセンター市民になるっつーのを仲間を蹴倒しながら達成するっていうさ、仲間と闘うっつーのが仲間同士で闘うって意味になってるんだよね。ようは縦軸の戦いではなく戦いが横軸なの。これがまぁ終末的なポストマルクス的というかポストモダン階級闘争なんだろうなって思ったよね。ダイレクトにIT業界の上にいて若者と接しているおじさんのような人物が言う言葉は説得力があるっていうか、悲しいながら認めるしかないっつーか、おじさんもitバブル初期からずーっとit業界にいるからもう芸歴10年以上にもなるんだけどさ、まぁ生々しいことだよね。本当に。まぁすんげーガッカリしたっつーかさ、何にがっかりしたかってやっぱまだマルクス主義的なものを信じている俺がガッカリしたんだろうね。まぁもうダメだなって思ったけどね。完全に資本主義が勝ってるっつーかオルタナティブがねぇーなっつーね、労働者ですらcapital側に回りたくなるってもう世も末だよね。まさしくポストモダン社会っつーかね、世界的にこうなるのは目に見えてるから、先にあるのはやっぱ貧富の差だよね。これはもう不可避なことかもしれないね。資本主義以外の社会形態っつーか経済形体がありえないんじゃー富の偏在は免れないなっていうね、富が中心なんでみんなが富を求めるようになるのは必然的だよね。民族とか宗教とか国とか文化に関わらずね。マルチチュード的連帯は左翼の空虚なシニフィアンと成り果ててさっつーか最初からそうなんだけどね、で、そこにあるのは連帯っつーよりかは左翼イデオロギーに洗脳された労働者やパンピーや知識人達っていうね、ハートによれば左翼運動ってのは二種類あって、一つは特権階級的な階層に生まれた知識人が「恵まれない人々のためになにかやらねば!」っつー傲慢なタイプの運動家でっつーかまぁ傲慢なって形容詞は俺がつけたものだけどね、で、もう一つはまぁ当事者達っていうね、つまりはパンピーとか労働者ね。


で、パンピー側ってのはアンチインテリみたいな気風があるらしくて、理論云々より自分たちの生活のために運動をするらしいんだけど、結局、ここに大きな落とし穴があるよね。労働者達の連帯を促す労働者達の権利とか生活ってのもさ、あまりに主唱しすぎると資本主義的なるものとか市場主義的なるものとバランスが取れなくなるんだよね。つまりはそれが労働者の権利主張止まりならともかくとして、行き過ぎるとさ、例えばマルチチュードみたいになるとさ、もう社会形態への批判になっちゃうんだよね。もうこうなると手の施しようがないっつーかさ、彼らがいくら主張しようとも社会形態がそうなんだから変わるわけないんだよね。むしろ彼らに必要なことは資本主義化でワークする社会主義的なものというオルタナティブの一種を提唱することなわけだけど、結局、アンチインテリみたいな風潮があるのもあるしさ、所謂、理論構築とかはしないんだよね。まぁできないっつーか時間無いっつーかなんつーか。それを代行しているのがネグリやハートみたいな感じでさ、彼らもまぁ帝国がベストセラーになった理由ってのを「新しいものを書いたのではなくて、既に人々の心にあるものを書いたからだ」って言ってたけど、これが示唆するのはようは彼らはエージェンシーとしてのインテレクチュアルなんだってことだよね。民の声を代弁するオラクル的存在っつーかさ、それが現実への不満や憤りにベースをおいているので、なかなかオルタナティブを提唱できていないっつーね、ついつい労働者達中心の政治なき政治になっちゃうっつーかさ、これはまぁマルクス主義の負の伝統でもあるよね。何かを変えるには現状のシステムの上からの新たなシステム設計なりシステム構築が必要なのに、システムをぶっ壊すっつーところにしか立脚出来ないっつーさ、まぁ哲学の貧困っつーか政治的なものの貧困っつーかね、そこがマルクス主義の弱みだよね。


まぁもっともこれはラディカルの属するものでさ、単純にまぁ派遣切りに反対する運動とかは基本的な人権保障っていう立場からもイデオロギーを越えて肯定されなきゃいけないんだけどね。こういうレベルでの運動や主張なら分かるけど、やっぱマルチチュードレベルになるとダメだよね。彼らの連帯の感覚ってあくまで彼らの実存における連帯の感覚でさ、それって普遍的じゃないからさ、嫌がる人とか興味が無い人を巻き込めないんだよね。だから強制的なオルグが必要になったりするんだよね。こうなるともうマルクス主義って宗教に成り果てるんだよね。ある程度理論なり教義に説得力があるのはどの宗教においてもマルクス主義においてもそうなんだけど、それが半ば原理主義的な様相を帯びてきちゃって、狂信的になっちゃうともうダメね。教義に説得力を認めるのとドグマティクになるのは全然意味が違うからね。ネグリ・ハートを読めば分かるけど、結局、「愛の政治学」みたいな話になっちゃうから、なんつーかキリスト教が世界を救いますみたいなそういう世界観との差が無くなっちゃってるんだよね。だからあれも一種の宗教なのね。隣人愛が世界を救わないようにマルチチュード的連帯も世界を救わないのね。政治ってのはもっと血なまぐさくて残酷で汚いものなんだよね。理念だけでなんとかなるってもんじゃない。結局さ、最終的に人のあり方とかさ、隣人に対する態度とかっていう風な実存レベルのものに話が還元されちゃうとそれってもう政治じゃなくてただの啓蒙なのね。政治ってのはカオティックな有機体の統治なわけでさ、有機体のあり方そのものを有機体に教えながら変えていくものではなくて、カオティックな有機体に対応するフレームのあり方ってのを研究していくものなんだよね。だから俺は一切啓蒙を信じないわけね。カオスの中でそんなものはワークしないわけ。そんなものがカオスを統治出来ると思ったら大間違いね。むしろ必要なのはそのカオスを出来る限り暴走させずにコントロールするっていうような統治なんであって、有機体のあり方ではないのね。


いやー長くなったな。それにしてもさ、なぜかね、テキストで日本語入力ができなくなっちゃってさ、ワードでこれを書いているんだけど、ページがもう16ページとかになってるのね。16ページ分も色々と書いたのか!って唖然としちゃうよね。仮にウォール伝を紙におこしたらさ、それこそ辞書みたいになるだろうね。まぁ問題は紙にするほどの価値がないってことなんだけども。


ってことで今日はこの辺で。