デイジーさんへの私信。

mimisemi2009-05-21

デイジーさんへの私信が相変わらず長くなったので1エントリーとしまする。

デイジー 2009/05/22 00:19


耳蝉さんは、まさに現実を現実としてそのまま向き合ってきたという事が改めて分かりました。自分の感性を裏切らず、それに沿って深く掘り下げながら。耳蝉さんの感性で。その上で建設的な人生をきりひらいてるのですね。僕なんかはいつかを境に現実を受け止めきれなくなってしまいました。目を逸らしているうち、人間に備わる『意志』というものが自分の中からどんどん消えてしまいました。まるで苔のようです。何にへばついてるかも認識出来ていない、ただただ湿った苔なような人間になってしまいました。人間らしい人間の『意志』がある耳蝉さんのような人がいる事は僕の糧になっています。  言いたい事が全然書けないのでやめます。あなたと同じように、人間として生きているあらゆる人に感謝したいです。  なぜ『意志』を放棄したかといえば、ただたんに、怒りの感情をどうしていいか分からなかったからです。あの頃に『音楽』を知っていればちがっていたかもしれません。商業的なものの器がない、純粋な音の世界を。


今思えば、あの頃はある種の人間たちの都合で自然に作り上げられたシステムの中で、あたかもそれが全てでそれこそが現実なんだと思っていくようになっていました。一人になるのが怖いので、自分をさらけ出して生きる事ができずにいました。そんな調子で物心ついたときから違和感を感じながらも、言葉を借りるなら、言うなられば『ペルソナ』を常装備してきました。だけど本当に楽しい音楽や耳蝉さんのような人の存在を知って、世間的な常識ではなく、生まれもって備わっていた自分の感性そのものが正しいのだと確信しました。つまりは自分にとって、自分が自分のままいる事以上に正しい事は無いんだと。


耳蝉さんと僕とは歳はかなり近いと思います。とゆーか同い年だと思います。ちょうど耳蝉さんが病院通いで口から泡を吹いている頃、僕は葛藤のすえに、自分を押し殺す事を選んでしまっていた訳です。その罪の結果、行く末がこの苔なような人間ってわけです。この文面から感じてるかは分かりませんが、自分は耳蝉さんが言うような 悪魔的な 関わりたくない 負のヴァイブスの持ち主なんだと思う事があります。いつからそうなってしまったのか、生まれついてからなのかは、正直に生きてこなかった故にわかりかねますが...。


20歳頃に実の母親に対して『ある特殊な人間についての殺人という行為は正しいものなんだよ!』(実は今でもそう思う事があります。だけどその正当性を実際他人に正確に説明するには僕には到底無理でした。引きこもっている間考えてた事を他人に伝えたかったのですが。真理について僕なりに考ていて、頭ン中にあるその溜まりにたまっものを他人に説明しようとした時、上に書いてある事を切り口にして話そうとしたけれど、一番説明できそうな事だと思ったけどダメでした。)なんて事細かく発作的に熱弁なんかしてしまうような人間なのです。
音楽に出会えてよかったです。いろんな事が見えてきたんだと思います。自分が自分で生きようとした時、音楽があれば人や自分を殺さずにすみそうです。それ以上に『意志』を持たずに生きる事は重罪だとおもいます


文面からでも 嫌な感じ というのは感じているのでしょうか?いきなりこんなIQ低い人間の文をここまで読んでもらいありがとうね。返信をいただければすごい嬉しいですが、スルーでも構いません。それも耳蝉さんの素直な意見として解釈します。自分でいようという方向でいきてみたいと思います。自分である事が真の善の始まりでそれこそがあらるゆ意味で全てなんだと思います。自分勝手な文章、読みにくい文章すいません。ところどころ電波文ですね


書き込みありがとうございます。


なんというかデイジーさんが言う苔のような人間だったこともあるわけです。僕自身も。もちろん昔から徴候的な爆発はしていましたが、やはり特に日本みたいな社会は適切に振る舞うことを過度に要求されるので、意志を通すということと、現状の社会でやっていくということの両立が出来ないわけですね。で、色々なことを端折って書いてしまうと、システムに迎合すること、つまりは妥協しながら意志を捨てて生きるということがつまりは日々の糧を得る手段の処世術となるわけですね。処世術的に考えると強い意志を持つということは相当アウトです。


僕も恐らくデイジーさんと同じぐらいの怒りが様々なものにありました。で、それは浄化できない怒りでした。そういった怒りや不満などをぶちまけることなく、なんとかペルソナを装備しながらやってきたわけですが、その結果というとあれですけど、このペルソナ装備は物凄い労力というか精神力を必要とするわけですよね。自分を欺き他者に迎合しながら空気を読んで振る舞うということは自我や意志を持つということとは完全に両立しません。言わばシステムの一部たれというのをシステム的に強制するのが日本社会みたいな社会の特徴ですね。その点、アメリカではやはりベースは個人主義ですので、極端な同調圧力や空気を読むというようなことは過度には要求されません。とは言いつつも個人主義にもそれなりに問題があるので肯定はしきれないんですけどね。


作られたシステムの中にいればそれが全てで現実だと思うのは必然です。それはプラトンの洞窟の比喩にもあるように、洞窟で育った人間は外の世界のことを知りません。パペットマスター達による影絵に満足し、外界から来た様々な像の反射を見て、その影を真実だと認識します。仮にそれが噓だと気がついても外に出ることは容易ではありません。というのは僕がいつも書くように全てのシステムは洞窟の中で回っていますし、変な話、このプラトンの洞窟の比喩を知っていたり教えている人すらもまだ洞窟の中にいるということに気がついてなかったりするわけです。そういう先生がいたんですが、まぁ本当に絶望しました。概念をリテラルには理解しているんですが、あくまでアレゴリー的な理解で、それが実践に繋がっていないというか、あくまで知識レベルなんですよね。哲学なんてものは過去に誰かが考えた何かとか概念に魂のレベルで自分を繋げるという行為なわけで、つまりはそもそも哲学と繋がることが出来る人間なんて限られているわけですね。だからまぁ正直「あぁやっぱり無理だな」って思いましたね。


プラトンみたいな分かりやすい哲学すらも本質的には理解されていない。哲学がただの学科の一つに成り下がっているわけですね。つまりは形骸化です。で、この形骸化された哲学を哲学学者とかが学校で教えたりするので、エッセンスが無くなった哲学はどんどん受け継がれて広まりますね。そうではない深遠なレベルでの理解というのが哲学の本質的な理解であるのはシュトラウスを出すまでもなく言うまでもありませんが、それを考えると、そもそも哲学なんて人々にオープンなものじゃないんですよね。情報レベルではオープンですが、感性のレベルでは感受出来る人が限られています。僕みたいな泡を吹くような人間じゃないと本質的な理解が出来ないのが哲学なんであれば、哲学というのは狂人のための学問という感じになりますね。実際、歴史上の人物というか哲学者とかには変人とかメンヘラーみたいなのが多いですからね。メンヘラーズメンヘラーというかなんというか。


その感性を突き通しそれを信じながらそれに則った行動や思考原理を構築しながら生きていくというのが哲学的な生き方の一つであると思います。それはマキャベリから学ぶ経営術みたいな表面的なレベルではなく、もっとディープでスピリチュアルなレベルでの感性とか魂っていう次元の話です。で、恐らく様々な宗教でも言われているように、元々穢れた魂というのは存在しないんですね。全ての魂は後天的に穢れるわけです。それは環境によるものかもしれませんし教育によるものかもしれませんし、その人間自身の意識かもしれないわけですね。嫉妬や妬みや嫉みや自己欺瞞などという人間という動物が本来持っている感情をコントロール出来ずにそれに溺れれば魂は穢れていくわけですね。で、一旦穢れた魂というのは、その人の中でのコペ転が起こらない限り変わらないでしょうね。穢れた魂を浄化することは可能ですが、穢れた魂を持った人間が改心するという行動そのものがすでに穢れた魂を持った人間にとってはありえないことなんですね。


で、お言葉ですが、デイジーさんは僕の言う「悪魔の魂」という定義をちょっと勘違いしています。というのはこの悪魔の魂を持った人間というのは人知を越えたような悪魔的な行為をします。例えば僕がウォール伝にも書いている悪魔のクラスメートですが、こいつはレイシストの癖に黒人や被差別人種に理解があるような振る舞いをしたり、陰では散々な悪口を言っていたりするくせに、本人に前では欺瞞的な態度で善人ぶるというか、敵意を剥き出しにはしないんですね。陰では「クソだよな。あいつ」とか言ってるくせに、そいつの前ではそういう態度は出さずにむしろちゃんとした人間関係を築くというか、そういう振る舞いをするわけです。で、僕にとってはそれが欺瞞であるのは明らかなんですが、残念ながらこういう悪魔に騙される人ってのは多いんですよね。本質を理解せずにそいつの表面的な態度だけでそいつを理解してしまう。この次元で言えばこいつは社会的には良いヤツってことになるでしょうね。先生からの評価も高いし人望も若干はあるように見えます。ただ僕から言わせれば小学校の頃の親友だと思っていた悪魔と同じレベルの悪魔です。今まで関わってきた人間で最低だったのがある小学校の同級生なんですが、こいつと良い勝負というぐらいこいつは悪魔です。


ちょっと言ってることが意味不明かもしれませんが、つまりはこれが彼らの本性です。彼らの本質は悪魔で、上辺は「良いヤツ」というペルソナを用意して社会に挑んでいます。ちなみに僕はこいつの悪魔性を見抜いていますし、彼とは正反対の人間なんで彼からの些細な嫌がらせとか挑発みたいなのをしょっちゅう受けます。僕は全くそれに答えませんけどね。悪魔と会話してはいけないわけです。で、デイジーさんは逆で良い魂を持っているのに葛藤の末に自分を押し殺すことを選んだ結果、表面上が悪魔に見えてしまう人間のようになってしまっている可能性もあるっていうことなわけで、処方箋は凄くシンプルで、デイジーさんがデイジーさんの意志に忠実でいれば、デイジーさん自身の良い魂という名の表象が処世術だの迎合だの感情の押し殺しというような反人間的なプロセスを経る事なくそのまま表出されることになるわけで、そういった意味でデイジーさんは悪魔足り得ません。本当の悪魔は魂をそのまま表象してしまうと悪辣過ぎでやっていけないので善の仮面を被るっていうことなわけで、デイジーさんは全くその反対ってことですね。


で、その殺人の正当性ですが、僕は全くその意見に同意します。これは社会的に見れば受け入れがたいことですが、これは道徳とは関係が無い問題です。むしろ道徳とは人々によって作られた社会のルールみたいなものではなくて、もっと普遍的な概念です。で、人を殺すということが当たり前の人間にとって殺人という行為は正しいことになります。ゲテモノを食べる部族ではゲテモノを食べるのが正しいことですが、市民社会ではゲテモノを食うことは正しいことではありません。まぁB級グルメとかっていう話は置いておいて、つまりはここで言う「正しい事」というのはあくまで相対的な概念でしかないということです。普通の人間が作り出す概念としての道徳は異常者の道徳を包括することはできません。道徳とは異常者なり異端者の感性を排除した上で成り立っています。なので異常者も異端者も一般的に悪とされていることにコミットさせることなく社会がそういったマイノリティも包括するというのが僕は本当の道徳だと思っているんですが、まぁなかなか理解しづらいことではありますね。「殺人=悪」という図式は揺るぎないですから。でもそれが悪の図式とは考えない人間のことも配慮することが必要なんですが、これはなかなか難しい事ですね。仮に誰かが僕の家族を殺したら僕はそいつを殺したいって思いますからね。脳が溶けるぐらいになるまでの酷い拷問を与えて死に至らしめるということをさせたいって思うと思います。


これは人間の感情が考えを作っているという良い例ですが、こういった主観的な感情という概念を超越した上での自分の感情という概念のレベルで感情を捉えて表出させるということが出来れば個々の魂は清いままでいられると思います。まぁそれが社会的に受け入れられるかどうかは分かりませんけどね。今の学校の先生というとアレなんですけど、ふつーのちょっと頭が良い人ってのはこういう次元のレベルの人間を恐れますからね。面白いことに。それは彼らの嫉妬というのが受け入れるということを許さないんでしょうね。知的障害者に対しては寛大で、知能が高過ぎる気違いに対しては排除的という態度は例えばこのアクセプタンスの良い例です。自分より下で惨めなものには手を差し伸べることができますが、上のレベルの人間には仮にその人間が苦しんでいても手を差し伸べないんですよね。レベル5の人間は4321の人間のことを可愛がりますが、それ以上の人間に対しては恐れるか排除するか敵対心を剥き出しにすると思いますね。これってプリミティブというか幼稚園児のレベルの感情だと思うんですが、三つ子の魂百までではないですけど、基本的なこの感情のダイナミクスというのは大人になっても変わらないんだなって皮肉的な意味で関心をしてしまうわけです。


良い歳した大人が僕みたいな若造に嫉妬心を剥き出しにするなんてみっともない行為だとは思いませんか?僕はさっき書いたように主観的な感情のレベルを超えた概念レベルで自分の感情というのを捉えた上で様々なものを理解したり自分の考えを表出させたりということをしているので、まぁこういった嫉妬に関しては個人的な感情はありません。まぁ鬱にはなりますけど怒りはないですね。それは相手にしないというような傲慢なレベルでもなく、まぁ吸収しちゃうっていう感じでしょうかね?合気道のような相手の力を利用してスルーさせるようなことと同じです。相手の僕に対する感情が強ければ強いほど僕は受け流しやすくなりますし、相手の力を利用してスルー出来るわけですね。で、まぁ結果的に相手は自分の低いレベルの感情によって転んで痛い思いをしますから、これは直接的に相手を攻撃するより威力があります。まぁ僕は護身術としてこれをやっているだけで攻撃する意図はさっぱり無いんですけどね。でも結果的にそれが相手の感情を余計に逆撫でして相手を激昂させるということもあるんですが、まぁ彼らはそういった負のレベルに取り込まれている浅ましい人間なのでしょうがないですね。僕はそういった人間すらも受容しようとか受け入れようというほどの精神性は持ち合わせていないので。


意志を持たずに感情だけで生きている人間の生のあり方も、デイジーさんがおっしゃるような意志を持たずに生きる人間と同じぐらいの重罪だと僕は思っています。彼らは浮かび上がったものだけに生きるただの浮遊物で、なおかつ他者を攻撃するという厄介な攻撃性も持ち合わせたりしているので、重罪っぷりが半端じゃありませんね。海に浮かぶ死骸の浮遊物と、大地に根を張っている樹木の差って凄いですよね。生のあり方が違いすぎます。世の中は浮遊物だらけですが、僕は樹木でありたいと思うわけです。まぁかなりクリシェっぽい言い方ですが、恐らくデイジーさんが僕のような人間の存在に対して「糧になっている」と表現してくださるのも恐らくまともな人間が自然に感動したり、力強い樹木や森の香りや雰囲気やあり方や音などに半ばDNAレベルで喜びと安らぎを感じるということと同じことだと思います。自然であることをいいことに好きなように振る舞うあり方としての自然と、寡黙ながらも大地に根ざした根を持った、太陽の光という名の善を糧に光合成を繰り返しながら育っていく樹木としての自然のあり方は同じ自然でも大きく違います。で、僕は後者でいたいと思うわけです。辛くても大変でも人から好かれなくてもこれが僕の生き方だと思っていますし、これが本来の人間のあり方だと僕は信じているので、これを日々のプラクティカルなレベルでも揺るがないように常に実践して行くというのが僕のポリシーです。で、結果的にこういったあり方が割と受け入れられたり理解されたりすることもあるというのを最近経験しているので、結局、単純な言い方になりますか、善であるということは結局、幸福と直に繋がっているんだなって認識したわけですね。この善のダイナミズムというのが僕が最近しつこく書いている黄金律や黄金比の話とまぁ繋がったりするわけです。


相変わらず長くなりましたが、書き込みありがとうございました。意志を破棄したという感覚が残っているなら、それを取り戻すことは可能だと思います。その道はいばらの道ですが、そもそも意志を放棄するということがデフォルトになっているようなこの世の中が腐っているわけで、その腐敗にデイジーさんや僕までもが付き合う必要は無いわけです。なので是非、デイジーさんの意志を取り戻してほしいと僕は思います。


・・・・ってのがデイジーさんへの私信でした。ってことで今日はこの辺で。


PS


spokさんへ


岡本太郎の「自分の中に毒を持て」がようやく届きました。で、これまたいつも通り僕と同じようなことを考えていたり言っていたり(あと経験したり)する人間が過去にいたんだな!っていう驚きと感動と共に読書を進めています。彼が中学の頃にショーペンハウエルを読んで感動していたという件に感動したりもしました。というか似たような感性なんでしょうね。恐らく。パリのカフェに入り浸って読書をしていたというのもなんだか思い入れ深いというか、まぁ僕は一人ですけど、岡本太郎は名だたる歴史上の人物となる人間と普通に会話してたってのがなんだか凄いなって思っちゃいましたね。まぁもっとも今の僕の周りにいる強度のある会話が出来る人間達も将来凄くなるような人達がいるのかもしれませんけどね。そう思うと将来が色んな意味で楽しみです。

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