埋まらない勘違い。第二章。その2。

mimisemi2009-06-12

マッシュアップのね、既存のやつをアップするって書いてたけどね、新作が出来たんでアップするね。


http://mushroom.cage.to/mix/tear_da_pussy_up.mp3


元ネタ知ってる人がどれだけいるのか分からんけど、まぁとりあえず面白いと思うのでオススメであります。


はい。では昨日の続きね。


世界を知っているバックパッカーのフリーターの兄ちゃんと、大学からストレートで中小企業に入った兄ちゃんとどっちか世の中を知っているんだろう?世の中の定義にもよるが、俺はバックパッカーのほうが視野が広いと思うんだよね。でもバックパッカーは社会に出ていないとか戦っていないだとか自立してない子供だっていう扱いを受けるよね?まぁ少なくともキャリアウーマンの人の定義ではそうなるかな。でもさ、生まれた地区の学校に入って卒業して隣町の会社に入ったやつってさ、そいつってんじゃあ社会知ってるの?って話じゃん?地元の事しか知らないんじゃない?って話だよね。俺が世の中をよく知っているとは言わないけどさ、でも構造は知っているつもりだよ。だからこそバカバカしいゲームを始めるつもりはないって言ってるわけでさ、そのゲームに参加せず、自分の事だけをやってなんとか生きていけないか?という生き方のオルタナティヴを模索しているわけでさ、それを現実逃避扱いされる筋合いは無いよね。二次元で言えばさ、街に出てもろくな女がいないっつー実感と、色々な話を聞いても大抵の可愛い子は自分勝手でヤリマンだとかさ、そういう事実があったとしてさ、そういうのをその二次元オタクが知ってたらさ、付き合わなくてもそいつらの価値って大体予想つくよね?


それでも「いや、付き合ってみないと分からないよ」っていう人のセオリーをなんなら俺は聞きたいな。付き合って何が分かるんだ?と。結局、分かるのはヤリマン女の実体なんであってさ、女性の素晴らしさではないよね。社会然り。両方とも試しにやってみるとか入ってみるってほど簡単なことじゃないわけでさ、だからこそそういうリスクを回避するんじゃんね。賢ければ賢いほどバカな女とは付き合わないか、セフレだけを持つようなことをするよね。卵もそうだけどね。あいつはアメリカに来てから女性とは一回も付き合ったことなくて、セックスばっかしてんの。俺はそれは頭が良いなって思うんだよね。「付き合った女性は?」って聞くと「いるわけないじゃん」みたいな言い方をするのね。バカバカしくてやってられねぇーぜって立場?


そういう卵の女性との付き合い方はいけないのかな?いや、女性を傷つけているかもしれないけどさ、そんなの俺の知ったこっちゃないよねっつーか俺は知らないしなんとも言えないし興味も無いよね。社会然り。バカバカしくてやってられねぇーぜっつってやることだけやって後は自分の事だけをやるという態度の何がいけないのか?卵のほうが見た目っつーか態度としてはプレイボーイでカッコいいっつーか誇れるもんだけどさ、俺が卵の女性関係みたいにさ、必要なだけ社会と付き合うってなんでダメなのかね?隠者っつっても俺は経済的に自立してないから洞窟に戻って洞窟内で経済基盤を確保しなきゃいけないわけだ。そのための学校だし留学だし亡命なんだよね。それの何がいけないんだろうか?目標が立っていないキャリアウーマンの人よりかはよっぽどリアリスティックなビジョンだと思うんだが、これって現実逃避?


むしろ現実を見据えているからこそ来る社会との付き合い方なんじゃないのかな?卵の女性関係と一緒だよ。身を滅ぼすようなリスキーなゲームはせず、得るものだけ得るんだよね。卵で言えば性欲を女性で発散させること。俺で言えば金を稼ぐこと。あとまぁそこそこの社会認証ね。これの何がいけないんだろう?「そんなのキミには出来ないよ」って言われてもさ、これが俺のやり方だし思っていることだからやるしかないじゃんね?それしか俺には見えないし考えられないし最善だと思うからそう思うんであってさ、卵にしたってそうだよね。


それが彼の女性との付き合い方なんだから他人が口出しする話じゃない。むしろ俺は卵の狡猾なやり方のマキャベリズムを見るよね。見た目はただのおっさんなんだけど何十人とヤリまくってるんだよね。これって文字通りヤリ手じゃん?こういうやり方を社会にも流用して何が悪いんだ?って話だよね。まぁ女性ほど楽じゃないかもしれないけどさ、そこで俺がいつも書くようにさ、学歴っつー印籠だとかさ、アカデミックに見える書き方とかやり方とかさ、圧倒的な知識量とかさ、自分の世界ではなく現実っつー尺度で勝負出来る素材っつーのを洞窟の外に出て耕すってさ、引き蘢りどころか社会的行為だよね。社会でもやっていけるように、そこそこ洞窟の中でも通用するようなやり方を模索していたり磨いているわけでさ、まぁ今の俺で言えば読書と英語だけどね、俺って元々ありえないぐらい喋るっつーかまぁADDだからだけどね、でもさ、あの日本語での喋りを英語で出来ればさ、ソフィストになるって意味ではなくね、賢者は黙っているっていうのは世の中では通用しないわけだからさ、見せたりさ、自己防衛のためにも喋らなきゃいけないわけじゃない?それがまぁソクラテスの弁明の話だよね。good oratorである必要というのはこういう理由なんだよ。


俺の深みを分かってくれとかって言うんじゃなくてさ、自分はこう思っているとかっていう中身を出せればそれでオッケーだよね。で、戦う必要がある敵がいればロジカルに論破するしかない。だから俺にとっての言語って凄く重要なんだよね。あ、英語って意味ね。武器が無いと始まらないでしょ?ベラベラ喋ってるだけで中身が無いようなやつらも喋っているとかいうだけでトークショーに出て喋ったりさ、何かの評論をしていたりさ、的外れなコメントとかテレビでしてるわけじゃない?ああいう連中がテレビとかトークショーに出れる世の中だったらさ、逆に内容があるベラベラを出来るやつが活躍出来ない理由は無いよね。いや、俺がコメンテーターになるとかっていうことではなくてね、それは単純な分析なんであって「あんなの俺にでもできる」っていうことが言いたいわけではないのね。まぁ俺にでも務まりそうな仕事多いけどね。喋るってことだけで言うとだけどね。それをまたキャリアウーマンの人みたいな人は引き蘢りの誇大妄想だと言うんだよね。社会に出ずに外で「俺は凄いんだ!俺は出来るんだ!」と言っているだけの負け犬という考え方ね。それはあり方だけ見ればそうかもしれないけどさ、俺が言っていることを理解すればそうじゃないかもしれないっていう理由も生まれてくるじゃん?実際、通用するかはやってみるしかないし、だから今こうやって俺は頑張ってるわけでさ、その頑張りを「無理だ」って否定される筋合いは無いよね。


それは「筋合いは無い!」って言うような怒りではなく当然のことを言ってるだけね。当然のことだと思わない?俺って狂ってる?ちょっと狂ってるのは分かるけど正論だと思うんだよね。正しいっつーよりかはある程度通りが通ってるんで、それを信じるならそれでやっていけばいいんじゃない?って言えるレベルね。あと俺のメールが支離滅裂だと解釈されたんだけど、それはさ、例えば2ちゃんスレッドの「あたまがおかしい人のブログ」に選ばれたことのある俺だからさ、飛び具合とか支離滅裂っぷりは理解出来るよ。話がポンポン色々飛ぶのは分かる。ただ話が飛んでいるということと、話の道理が通っていないということは違うことだよね。話は飛んでいても最後まで聞けば一貫しているかもしれないわけでさ、支離滅裂とかさ、普通の人が喋ったり例えたりするようなやり方で喋ったり書いたりしていないということでそれはもう支離滅裂だとは言い切れないよね。そこにあるのはさ、理解の浅さなんだよね。自分が理解できないので、それを支離滅裂と決めることで、自分の読解力の無さを正当化するっつーのかな?それで言えばラカンは完全に支離滅裂だね。ただのキチガイになるね。


ただ俺はラカンほど難しい文章を書いたりしていないし、ラカンよりかは理解しやすいと思うっつーか難しさの質が違うのは一億も承知だけどね。まぁ時とともに考えが変わるんで、過去との一貫性は無いかもしれないけど、その時々では一応、道理は通っているはずだよね。通っていなかったらら矛盾点を指摘してほしいもんだ。ありがたいことにたまに鋭いツッコミをしてくれる人がいるよね。ウォール伝で。で、俺はそれに答えてさ、で、ツッコミをしてくれた人は納得してくれるじゃない?そこにあるのは俺の文章力の無さとかさ、矛盾するように見えてしまうような書き方のミスなんであって、俺のアイデアの道理の無さではないんだよね。矛盾点を指摘されてソフィスト的にではなく、ちゃんと答えられるというのは道理が無ければ出来ない事だよね?あーまたここであれだ。「俺は凄いんだ」って思われる勘違いっつーのかな?俺は凄い文章を書くとかさ、頭が良いんだって言ってるように見えるっつーの?もうそういう話やめてほしいんだけどね。そんなこと俺は言ってないのにさ、なんでそう解釈されるのかな?「道理が無ければ矛盾点への回答は出来ない。だから俺はえらいのだ。賢いのだ」なんて一言も言ってないじゃん?なんでそう解釈する?んじゃあその解釈防止に謙遜した深遠な書き方をしなきゃいけないのかね?そんな技術は俺には無いし、やったところで理解されない人にはもっと理解されないような気がするな。


まぁ概念としてのね、シュトラウス的なesoteric teachingは好きっつーか研究しようとは思うけどね、俺がやろうとは思わないし、やる必要性も感じないよね。esoteric writingなりteachingの必要性はさ、迫害防止なんだよね。直で書くと捕まったり発禁になったり追放されたりするんで、遠回しに分かる人にだけ分かるようにするっつーのかな?後期ゴダールが乱用してクズ映画を作りまくる結果になったけどね。あんま頭の良くないソフィストが哲学者ぶるとゴダールみたいな映画が出来上がるんだよね。あ、復帰後の80年代ね。「マルクスとコカコーラの子供達、分かる人になら分かる」とかさ、「自分は馬鹿です」って言っちゃってるようなもんだよね。


分かる人には分かることをなぜあえて文字で言い表すのか?それはゴダールがバカだからだよね。知的スノビズムなんだよ。彼の。だから過去の俺のような若いアートフィルム好きのマルクス青年はダマせても、ちゃんとした知を持った人は騙せないんだよね。ちゃんとした知を持った人は本当のesoteric teachingなりwritingを哲学なりなんなりから受け取るんだよね。大人になってもああいうことを続けている連中の気がしれないんだよね。ポストモダン思想とかもゴダール臭がするんだよね。態度がダメだからといって映画がクズってわけじゃないんだけど、やる必要の無い知的スノビズムを出しすぎてるっつーのかな?で、なぜか大陸系に多いんだよね。そういうの。フランスが本拠地ね。ゴダールの80年代の映画見るぐらいだったらさ、ビジュアル的に面白くて哲学的なマトリックスみたいな映画を高度なって言い方をするとあれだけど、ちゃんと理解した方がいいよね。


ポストモダン思想とかあの辺の哲学はさ、難解な映画と一緒なんだよね。ゴダールの80年代の映画とか、パゾリーニの映画とかと一緒。まぁパゾリーニは俺は評価するけどね。でももっとナラティブじゃないとダメだよね。理解に何か他のリソースを必要とするってどうかと思う。パゾリーニの映画はそういうのが多過ぎる。あとつまんない。普通に。見てて面白いと思うのはソドムの市ぐらいだよね。まぁあとモチーフが好きって意味で豚小屋ね。でも中国女の影響受け過ぎだけどね。あれにパゾリーニへの失望を覚えたね。「なんだ、ゴダールとかから影響受けてんのか」ってすんげー失望した。シュトラウスとかフッサールとかハイデガーとかニーチェは通好みっつーとアレだけどさ、いや、偉ぶるってわけじゃなくてね、映画で言うと黒沢清とかデヴィット・リンチとかね。深いんだけどまぁ映画としても見れるみたいなね、読めなくはないってレベル。ただ本当に「面白い!これ凄い!」って思うには本質的な理解が必要ってことね。


ようは理解出来るぐらいの知的キャパシティーが必要ってことね。まぁあと例えていいかどうか分からないけど攻殻機動隊とかもそうなんじゃないかな?分からない人にはさっぱり分からないけど、まぁとりあえず爆破シーンとか戦闘シーンあるんで楽しめるみたいなレベル?で、マトリックスレベルになるとさ、ヤバいんだよ。無いんだよね。哲学とか本ではあのぐらいの深さとか広さとかビジュアルとかの面白さを両立させているっていうのが無いよね。バカでも絵ヅラだけ見て楽しめる。同じサングラスを買ったりしてそれぶることが出来るし、弾丸をかわす真似とかも出来る。で、分かる人とかSFとかアクションが嫌いな人でも哲学に通じている人なら繰り返しになるけどSFとかアクションが嫌いでも楽しめるどころか感嘆しちゃうんだよね。なにしろああいうフォーマットで哲学的なものの布置の成功をしたのって滅多に無いんだよね。だってさ、タルコフスキーとかさ、バカは見ないでしょ?バカっつーとあれだけど「わかんなーい」とかさ、そういう声が聞こえてきそうだよね。あとは寝ちゃうとかね。9時とかに放送出来る感じじゃないでしょ?


タルコフスキーとかはあれかもな、あとルーカスのTHX 1138とかね、あとあれだ、ハネケとかもまぁさっき書いたシュトラウスとかハイデガーとかのドイツ系の哲学と似てるかもしれないな。デビット・リンチはちょっと言い過ぎた。リンチのは映画として楽し過ぎるからな。タルコフスキーとかハネケがドイツ哲学ぐらいかもしれない。まぁあと古さってのを考慮しないで古さからくる退屈さとかを考えなければやっぱ同じ国で断然ラングね。そう思うと黒沢清も除外だな。暗い雰囲気は似てるけど映画として楽しめるからね。あーでもびみょーに入るかなぁー?黒沢清。いや、認定しておこう。んじゃあギリシャ哲学はチャップリンとかになるのかな?でもオリジンってことでオリジン同士をくっつけるのは浅はかかもね。ほとんどの映画はチャップリンの脚注であるって言えるかしら?まぁいいや。映画の例えはもう。


ハリウッド映画っつーか薄っぺらい商業映画はタレント本とかと同じレベルね。知名度とか派手さとか分かりやすさでなぜか売れるっつーね、やはり世の中バカが多いんだと思ってしまう理由はここにあるよね。こういうのがベストセラーになる理由って?って考えちゃう。音楽然り映画然り。マトリックスソフィーの世界ぐらいかもしれないね。ソフィーの世界マトリックスほどの深さを持っているかはともかくとして、哲学のダイジェスト版みたいな体裁を持っていてなおかつ一般受けが良くてベストセラーになったって意味だとこの2者は共通してるかもしれん。ただ単純にふつーの小説として読んだ人も多いって意味でもマトリックスと一緒ね。ただのSF映画として見た人も多いっつー理由で。ベストセラーだっていうことだけで読んだりね、ヒットしてるって理由でマトリックスを見にいった人も多いだろう。


俺は典型的なバカだったからマトリックスなんて理解せずに当時、中原昌也じゃないけど、アート好きなシネフィルを自称してた俺はさ、「ケっ!くだらん」とかって言ってたし思ってたよね。あのぐらいの頃はちょうどゴダールとかデレク・ジャーマンとかタルコフスキーみたいなのを見ていた時期だったからね。こういうスノッブなアート気取りが一生続く人っているんだよね。つまりは中二病みたいなのが死ぬまで続く人ね。俺はそういう意味で洞窟という名のマトリックスを出られて本当に良かったと思うね。俺も住人だったんだよね。洞窟の。まぁみんなそうだけどね。でもそれってマキャベリで言うさ、君主ってのはパンピーの感覚を理解してないといけないっていうさ、君主の条件っつーと言い過ぎだけど、政治的なものを考える条件ってのは俺は満たしているよね。


典型的なちょっと頭が良くてセンスの良いパンピーが考えそうなことをしていたり思っていたりしたから彼らの気持ちが分かるんだよね。でもあまりに頭が良さ過ぎるとさ、それこそ中二ぐらいでもうグラムシとかマルクスとか読み始めちゃったりさ、廣松渉は確か小6でマルクスに目覚めたっつってたっけな?ヤバいよね。そこまでだと逆にパンピーの頭の中が分からないんだよね。そうなっちゃうとパンピーに分かるように説明するっていうやり方を一生理解出来なかったりさ、つまりはパンピー感覚って結構重要なんだよね。すんげー高貴なところに生まれて来ちゃった人は世俗のことを知らないしそういう感覚が無いんでそれが弱点になることもある。ただ元パンピーが高貴になった場合、それがマキャベリの言う君主の条件的な高貴さなんだよね。パンピー感覚を理解しているという上での高貴さね。最初から生まれが高貴だったんじゃなくて認識や知識によって高貴になったということね。


ってことでまだまだ続くよ!というかさ、まとまったエントリーとしては至上最長かもしれぬね。質はともかくとして総量としては文庫本ぐらいかもね。


ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)

ヘーゲル・大人のなりかた (NHKブックス)


これは今日のオススメね。で、これとは別に前にオススメしたやつのコメントがあるんで書くねっつーのが以下のやつね。


若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)


この本に関する追記なんだけどね、前に書くの忘れてたから。この良い意味での暴露本がさ、市場に放たれてるわけ。「暴露本」という言い方はあれかもしれないけど、俺は最高にこの本を褒めてるのね。で、こういう事実があってさ、んで若者が俺みたいにという言い方はあれだけど、俺と違った意味でも「くだらないゲームはやらない」って思うのはある意味で自然なことだと思わない?年功序列という保証があったからこそ、くだらなくてもやれていたゲームがさ、今はそれが崩壊してるっつーあがりがないすごろくみたいなのを一方的にやらされるわけじゃない?その凄まじい苦痛を伴うあがりがないすごろくの実体というのがさ、この本では鮮明に描かれているよね。俺はこの本を読んでさ、まぁちまたの評価が高いのは知ってたからね、いつか読もうと思ってようやく最近読んだなんだけど、内容としては「やっぱりか」って感じだったよね。思った通りっつーか「やっぱそうなんじゃん!」って思うと同時に、思っていたよりも悲惨な実体が描かれていたりもしていたよね。まぁとにかく今の若者の処世術のバイブルと言っても過言ではないのがこの本ね。俺が先生だったら生徒に絶対読ませる本だね。これは。



PS


あとこれなんだけどオススメじゃないんだけどね、


デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)


久々に唖然とするような悪書に出会ったって感じ。空いた口が塞がらないっつーか、こんなゴミがパブリケーションとして成立しているのが本当に不思議でしょうがない。これならそのうちウォール伝も書籍化されるに違いないね。典型的なダメ学者、ダメ哲学学者とかを知る上では良いかもしれない。読んでないから分からないけどゲーム脳とかと同じレベルね。あと三浦なんたらの下流社会とかっていうああいうレベルね。捨てたいけどなんか気が引けるから今回は日本に帰るので日本に持って帰ってゴミとして部屋にしまっておこうと思ったね。こんな悪書が俺の聖なる地下室に存在するっつー事自体が許せない。なんで俺はこんなものを買ってしまったんだろうか?こんな人が大学教授になって若い連中に哲学教えてるんだと思うともう凄い絶望だよね。中島義道が「カントの人間学」という本で言っていたように大学のポストって実力とかと関係ないんだよね。あ、お口直しとしてちゃんとした哲学者が書いた本をオススメしておくね。


カントの人間学 (講談社現代新書)

カントの人間学 (講談社現代新書)


ちなみに学者というか知の追求者として純粋にその膨大な知識量と知者としてのあり方に敬意を払えるのは仲正昌樹中島義道だけどっつーかまぁこの二人だけじゃないんだけど、この二人に共通しているのはさ、学者としては尊敬出来るんだけど人間的にはさっぱり尊敬出来ないってことね。友達になろうとかって絶対思わないタイプっつーの?いや、まぁ褒めてるんだけどね。実存的なシンパシーがないのにも関わらず、その知のあり方にはやはり敬意を払わなきゃいけないっつーような認めざるを得ないような実力があるんだよね。この二人。これこそまぁある意味で純粋なリスペクトかもしれないよね。だって感情的じゃないんだもん。人が好きで本も好きだとさ、その人の論調が好きでついでにその人も好きになったのかさ、その人が好きっていう前提があると判断力も鈍るよね。それは所謂、好きな人だから贔屓目に見ちゃうんじゃない?ってことね。それがこの二人には俺にとっては全く無いんで、だから凄いなって思うのね。人間的に全然好きじゃないのに著書はある程度信用して読めるっつーの?それはある意味で凄いことだよね。


で、例の小泉という人だけどググって見たら完全にダメな人だったっつーのが明らかになった。哲学界におけるゲーム脳理論の人って感じの位置づけなのかな?肝心の本人達が下手に学問やりすぎてゲーム脳になってるって気がするんだけど。


http://d.hatena.ne.jp/desdel/20071017


ただただ唖然とするばかりだね。いつも言うようにこういう人がいるのは許せる。ただ俺はこういう人が大学教授になってたり著書を出してたりするのが許せないんだよね。それは政治家然りね。ダメな人間っつーか明らかに政治が務まらないような人間が政治家になっているという現実が許せないっつーの?まぁいいや。ちょっとあまりに書かずにはいられないぐらい酷いやつだったので書かせていただきました。間違ってもこの人の著書は買わないようにね。まぁモンドとしてはアリかもしれないね。ネタ本としてゲーム脳理論の本とかを読むっていうような趣味はあるみたいだし。


あ、んで悪書に対してはね、腐った牛乳とかと一緒で「臭っ!」って思ったら捨てるのね。ちゃんと読んで反論とかをしている人もいるみたいだけど、そういう人もいてもいいんだけどね、俺としては腐った牛乳を分析してもしょうがないっていう気がするのね。分析して批判している人達のあり方を批判したいんじゃなくてね、俺は単純にそう思うってことね。つまりは腐ってたら飲まなきゃいいって思うわけ。で、それについては忘れると。それに対して時間を費やすのって勿体ないじゃない?なぜ牛乳は腐るか?とかなぜ飲んだら腹を壊すのか?っつーのを分析的に理解をするのもいいけどね、あ、あくまで比喩のレベルでね。ただ「うんこだ」って思ったらそれはうんこでいいんじゃないかと俺は思うんだよね。うんこの分析をしてもしょうがないって思っちゃう。医学的な目的とか研究っていう意味だと違うけどね。うんことしての本の分析をしてもしょうがないってことね。ダメ芸人の漫才を分析して「ここがダメだ」って批判に時間を費やしてもしょうがないってことね。その漫才は見なきゃいいっつーのが一番いいと思うわけ。あ、んで小泉のデカルトに関する本は読んでないんだけどね。南京あたりでもう限界だったんで。まぁ最初の20ページぐらいってところかな。最初から文体に嫌悪感を感じたけど、それって腐った牛乳でシリアル食べちゃったみたいな感じだよね。「ダメだ。腐ってる」ってそれは捨てるのが一番良い。