埋まらない勘違い。第二章。その3。

mimisemi2009-06-13

で、まぁ続きなんだけどさ、溜めがすげー増えてきた。小出しにしている間にも溜まっているのがあってさ、それを書いてたらまた膨大な量になってさ、ようは今書いてるのっつーのがアップされる頃にはもう帰国してるかもしれん。そんぐらい量が膨大。でもなんか貯金が増えてる感じがしていいね。書く気が無いときも溜めから放出出来るというのがありがたいっつーかそういう意味で一気だしはもうやめようと思ってるのね。少なくとも自分ですら読むのがゲンナリするぐらいの量を一度にアップするのはやめるってことね。で、21日には帰りますので。


ってことで昨日からの続きです。


話を戻すとここがさ、世間知らずと隠者の違いだよね。高貴な生まれの方っつーか貴族みたいなのはさ、ただ世俗を知らないだけじゃない?で、実際、高貴かどうかは分からない。実際はただのスノッブなんだけど、階級とか生まれの高さからくる気品というか品格は持っている。でも本当に高貴な人ってのはさ、ふつーの家庭に生まれて、んで世俗が嫌になって隠者になったりするんだよね。俺がその隠者だと言うつもりはないけど、俺の言う隠者的態度はこれなんだよ。だから昔から言っていることは変わらない。このブログのタイトルがウォール伝なのもさ、ソローの森の生活だからだよね山の中に隠匿するのが昔からの夢だったっつーかまぁ7年ぐらい前からだけどね。だから長いんだってば。俺の隠者歴。


昔も今も引き蘢りみたいな生活はしているけど、今は俺は没落をしようとしてるわけじゃない?いや、ツァラツゥストラ的な意味での没落ねっつーよりかは没落しないといきてけないっつーアレね。サリンジャーが告訴したっつーんで驚いたっつーか生きてたのに驚いたんだけどさ、サリンジャーってココリコ田中に似てると思うんだけど、サリンジャーって誰からも文句言われないもんね。ライ麦畑がヒットしたんで作家と言われて引き蘢りだとは言われない。だから俺も一発当てて・・・っていうと何で?って話だけど、サリンジャーみたいな生活に憧れるんだよね。


サリンジャーみたいなのって絶対社会不適応者じゃない?だからこそ社会不適応者のバイブルみたいな感じになってて、んで確か若き日のレジテンツはメンバー同士でサリンジャーの話とかをしていたらしいんだけど、でもさ、レッテルもあるよね。文学の名作だとか言われているから読むっつーかさ、コンセプトもロクに理解せずレッテルだけで読むっつーの?レジデンツみたいな連中が読んでるなら納得いくけどさ、ここで次はキャリアウーマンの人と同じようなことを俺に言う叔母さんにシフトするけどさ、伯母さんはキャリアウーマンの人みたいなことを言うくせに「中学生になったらライ麦畑を読むものなのよ」って言うんだよね。ようはそれってしきたりなんだよね。そう言われているから読むだけっつーの?なぜ中学生になったら読むのかがさっぱり理解されていない。まぁベタな言い方すると中学生になったらなぜ読むか?って中学生って反抗期だからじゃん?だからその精神性とライ麦畑ってちょうど一致するんだよね。ただ大人になってもあれに感動しているようじゃまぁダメだけどね。


でも伯母さんもさ「読むものなのよ」って言っている割にある意味でライ麦畑の反抗心を体現したかのような俺に説教をするしさ、ライ麦症候群になってる俺を助けようとするんだよね。「キミはお花畑で遊んでいる子供達が崖に落ちそうになったら助けられるような、そんな人間になりたいって言ってるようだけど、実はキミはそのお花畑で遊んでいる子供の一人なんだよ」っつーようはありがちな諭し方をするっつーのかな?で、俺が違うんだってどんだけ理由を重ねても、彼らには俺の言葉はお花畑で夢を見る子供の言い訳にしか聞こえないの。でも俺にしてみれば彼らのほうはマトリックスという場所で夢を見ている人間の戯言にしか聞こえないんだよね。考えの違いというよりかはもう認識の次元の違いがあるんで言葉じゃ越えられないんだよね。そういう言葉の不可能性みたいなのを今回のキャリアウーマンの人とのやり取りで凄く感じたね。


かといって俺は達観しているというわけじゃなくて、言われることには傷ついてるっつーかさ、的を得てなくてしかも俺が口答えするように見えるから怒られてるっつーさ、相手は怒っているつもりでもただの個人攻撃になってるんだけど、本人達は気がついてないんだよね。で、俺にそれは付き合わなきゃいけなくて、なおかつ一個一個の矛盾点なりなんなりを感情的にならずに答えなければいけない。結構な労力だよね。ましてや伯母さんにしてもキャリアウーマンの人にしても、人間的にダメだとかって思ってた人じゃないしさ、ましてやthe last manだとは思ってなかったっつーかまぁそれは言い過ぎにしても、攻撃を食らうような相手だとは思ってなかったっつー予測出来ない感じが俺にダメージを与えるんだよね。どうでもいいやつが言ってたらそれはどうでもいいんだけど、伯母さんもキャリアウーマンの人も的を得てなくても俺を思って言ってくれているんだっつーのが分かってるからさ、こないだの恋愛の話じゃないけど、その思いには答えてあげたいって思うんだよね。だから「お前バカか?」って見放したり相手にしないんじゃなくて対話をするんだけど、まぁそこでの言葉の限界というか認識の次元の差を感じたのね。レベルの差があればそれは言葉で埋まるかもしれないが、次元が違うと物質同士はふれあうことができないんだよね。


こういう言い方も全部彼らにしたら引き蘢りの誇大妄想に聞こえるんだろうな。だからもう無理なのね。こういうことを書いたところで言ったところで彼らには通じないんだよね。同じ言語システムを使っていても通じないんだよね。それはまさしくシニフィアンシニフィエみたいな関係性でさ、言葉ってのは解釈されないと意味は生まれないんだよね。言葉というのは何かを意味するものとして存在するわけだけど、その意味のあり方は大いに解釈者によって規定されるっつーね、だから俺が俺なりに正と思っている言葉の分節化を行っても、彼らには違うように聞こえてしまうので彼らには俺の言っていることが理解できないんだよね。


で、彼らが思うのはさ、「言っても聞かない子だったか。まぁしょうがないや。分かるときがくるでしょう」とかってことなんだよね。俺には彼らの考えていることが大体分かる。だからこそ俺が言っていることが気に食わないっつーのも分かる気がするんだよな。彼らは論破されてるからね。俺に。それはソフィスト的に論法で論破されているということではなく、彼らの言う辻褄の合わなさとか勘違いを俺が指摘してしまっているので、だから怒るんだよね。で、一語一句に脊髄反射的に反応してメールなり言葉を返してくる。こうなるともう手がつけられないんだよね。その後に何を言っても以前よりも酷い文章やら俺の言っていることに対する解釈の返事が戻ってくる。俺が喋れば喋るほど彼らの反感を買う。大げさな言い方になるけど、the conflict between the one and othersってまさしくこういう感じだよね。哲学と街との対立っていうのはこういうことなんだよな。で、補足するとね、それはあり方の類似性なんであって、俺がソクラテスとかニーチェレベルの哲学者だって言うことを言いたいんじゃなくて、敵対関係にある関係性の形が同じってことね。だから俺にとって哲学は凄く理解しやすいんだよ。何しろ俺の身辺で起こっていることが多かったり身に覚えのあることばっかだからね。


だからいつも書くようにさ、哲学とかを読んでいるときにあるのはさ、知らなかったことに対する感嘆というよりかは、おぼろげに思っていたことがシステマタイズに誰かの手によって表されていたりしてさ、で、そこにあるのは「そうそう!それそれ!俺が言いたかった事!」っていうそれね。だからそれはゼロからの理解ではないんだよね。10代後半に出会ったケージの音楽思想も全く一緒だったからね。ミュージックコンクレートもね。まぁいいよ。「また自分を天才扱いして」とかって思うのはいいよ。中学の頃に相対性理論とか量子論の本に知的刺激を覚えてっつーかまぁニュートンだけどね、必死になって取り組んでたっつーのもさ、早熟な感じがするじゃない?でも世の中には小6でマルクスを理解して共感を覚えているような人もいるわけでね、だから別に対した事ないし、それ自体で俺が傲慢になることはないのね。


でもなぜか「また天才ぶって」って言いたくなる人が多いんだよね。10代の半ばぐらいでケージの思想に共感を覚えたりさ、中2ぐらいで登校拒否になってニュートン読んでたとかさ、事実なんだからしょうがないよね。ぶっているんじゃなくて事実なんだからしょうがない。でもそれを言うと天才ぶっているとか頭が良いと思わせようにしているとかさ、わけのわからない批判を受けたりするんだよね。今回のメール然り伯母さん然りそういうことばっか言ってくる連中然り。だから俺は大衆に憎悪を覚えるわけ。彼らは彼らの生活があるんだしそれはそれで良いって散々言ってるじゃん?でも彼らが俺を攻撃してくるんだよね。俺は争うつもりが無いのになぜか競おうとしたり変なゲームを俺とやろうとする連中がいる。それは日本でもアメリカでも変わらないんでだからまぁある意味で俺の大衆への軽蔑ってのは増したんだけどね。


そういうことを言うと「社会に出てないお前にそんなことを言える権利は無い」とかって言われるのね。「それは傲慢だ」とかね。傲慢か?これはただ俺が感じていることだよ。中二で相対性理論に夢中になっていたことを凄いこととして誇るつもりはないけど、でも事実は事実なんだからしょうがない。今思えば物理学というよりかは目に見えないものを理解するとか存在を知るとか理論で存在するあり方のレベルについて思いを馳せるっつーようなさ、それこそ哲学的態度の芽生えだったんだよね。それが今でも続いてるわけ。それを中二病だとかさ、ライ麦病だとかさ、現実逃避だとかって言われるのは心外だよね。それをアインシュタイン並の人が「お前では無理だ」って言うなら分かる。ちょーショックだけどね。いや、でも俺はそれでも自分の限界を突き破ろうと思うだろうけどね、今の俺の力への意志があればね、たださ、そういうレベルじゃない人が勘違いして俺の批判してくるってどうなのよ?って感じなんだよね。「は?」っていうレベル。


で、それが友達とか親戚っていうレベルでもあったりするんでだから辛いんだよね。悪い人じゃない人が悪意無しに悪意丸出しにしか見えないことを平気で言ってのけるんだよね。これこそ無知が成せる技なんだよ。無知の知ではなくただの無知ね。だから俺は無知である大衆が嫌いだと言っているわけだ。そこに傲慢な態度など無い。ただの俺の実存的な実感だよね。


「俺は中二で相対性理論に夢中だったからね」って言葉だけを取ればそれはただのアホの自慢にしか見えないかもしれないし、俺の文章とかを断片的に見ればニートの遠吠えを越した気違いの妄想にしか見えないのは分かるよ。でもそれって断片的で表面的な理解じゃない?全体を理解している人がどれくらいいるかはともかくとして、俺が書いていることが気違いの妄想じゃないんだなって分かるのがおべっかを使うつもりはないけど読者の存在だよね。著者が言う読者にはほど遠い量の読者だけどさ、俺の読者はね、でもさ、ましてや読んでる人の知的水準が高いとさ、それってあれじゃん?ミードだったか忘れたけど、鏡を見て自分を知るっつーさ、他者を通じて自分が分かるっていう良い例だよね。ミラーセオリーね。ウォール伝を読んでる人は恐らく類友的な人しかいないと思う。じゃないとこんな長ったらしいのを読むわけが無い。でもこんな長ったらしいのを読んでる人達っつーのを見てみると大半が頭の良い人達だらけなんだよね。「えー!こんな人が読んでるの!」って人がたまにいたりするんでマジで驚く事がかなりある。


誰とは言わないし、彼らに直接的なコンタクトを取ろうとは思わないけどねっつーのはね、俺はこうやって一人で色々と書いているからこれを書けるんであって、誰かに見られてるとかさ、まぁ読者がいるっつー感覚は前よりかはあるにしても、具体的な誰かっつー意識があるとそれを意識しちゃうからダメなんだよね。仮のその読者の人のことが好きでさ、好きって友達的な意味でね、んでその人は誰々が好きっつってさ、それが分かっちゃったら俺ってその人が好きだと言っている作家とか思想家とかをなんつーか良心っつーとあれだけどその人が見てると思うと大っぴらに批判出来なくなるんだよね。それが嫌なの。リミテーションを作るでしょ?そういうのって。


俺は思ったこととか感じたことをそのまんか書きたいっつーか書かないと色々と書けないっつーかそうじゃないとこんだけ書けないっつーのもあるしそういう状態で書いているから書いてて気持ちがいいっつーかさ、頭だけで思ってるとパンクするから脳の膿を出すっつーのは俺がよく使う比喩だけどまさしくそうなんだよね。一旦出しちゃうとスッキリするのはオナニーと一緒。もしくはカウンセリングでカウンセラーが「うんうん」って聞いてくれるだけで楽になるのと一緒ね。喋れば楽になるというのと一緒よ。で、こんなことを喋れる人っていないんだよね。キャリアウーマンの人がそうだと思っていたんだけど違ったというのが大きなショックを俺にあたえたのは言うまでもない。俺は軽蔑しているんじゃなくて失望してるんだよ。絶望してるの。だから人間関係が嫌になるのね。当選率が不当に低いコストが高い宝くじみたいなのが人間関係なんだよね。それでも数人いるけどね。親友は。ちょー少ないけど。


その中に元相方もいれたいと思ったのはさ、散々彼の事をソフィストだとか言って大っぴらに批判しててもさ、前にも書いたように彼ぐらいのレベルっつーか頭脳レベルの人って滅多にいないんだよね。それは彼の人間レベルが高いということではなくて頭脳レベルが高いんで深い話とかややこしい話も解説とか言葉を選ぶ事無しにジャーゴンだらけでも喋れるっつー相手なのね。で、まぁ俺が経験している人間関係ってのは限られたものだというのは分かるけど、でもまぁ少なくとも俺の実存レベルではさ、彼ぐらいのレベルの人って多くはないんだなって実感してるわけでさ、だから若干人格に問題があっても大目に見てやろうって思うんだよね。そのぐらい彼の頭脳には価値がある。ソフィストだけど、フィロソファーがソフィストの友人を持ってはいけないというルールは無いでしょ?まぁ彼は散々俺に批判されて俺を恨んでるかもしれないけど、彼の頭脳だとそんな表面的な理解はせず、俺が彼に多大なる彼の頭脳へのリスペクトをしてるんだなんてあえて書かなくても彼が理解しているはずだし理解していると思っているから批判も出来るんだよね。


ってことでこのトピックですらあとまだ数日は続きます。で、溜め自体は恐らくまた何週間分ぐらいあるんで、スランプになったりしない限りっつーかスランプになっても溜めからの放出は精液のように永遠と続きますのでヨロシク。


公共哲学とは何か (ちくま新書)

公共哲学とは何か (ちくま新書)


"理想主義的現実主義 - 理想社会(べき)の追求→現実社会(ある)の分析→理想の実現可能性(できる)の熟慮"


"現実主義的理想主義 - 現実社会(ある)の分析→理想社会(べき)の実現可能性(できる)の熟慮"


人生然りです。ちなみに俺の理解のシュトラウスは断然後者です。


PS


August Underground's Mordumで検索してくる人が多いっつーかさ、これがようは情報の希少性だよね。これについての言及が少ないと、俺みたいな重箱の隅を突き続けているようなブログでもそれしかないっつーんで文章が支離滅裂でも読むんだよね。これしかインフォが無いっつーね、笑っちゃうよね。自分で検索しててもウォール伝が引っかかることが多いんだよ。ウォール伝以外の検索結果は全部英語とかさ、ようはその検索ワードに対しての日本語による情報が無いのね。ちょっと特権気分だよね。こういうのって。この類で超一流なのがきっこのブログだろうね。きっこでしか読めない裏情報がありつつ、文章が面白かったり上手いんで凄まじいアクセス数を保ち続けてるっつーね、俺が一生なれないようなプロフェッショナルな感じっつーの?いや、妬んでるわけじゃなくてさ、他のブログを読んだりする事は稀なんだけど、はてなとかでもランキングの上位にあったりするブログとかって「へぇー」って感嘆するしか無いよね。彼らの情報の質の高さっつーよりかはやっぱ文章力が凄いのが多いね。ちゃんと書けているから読む人も多いんだろう。


いや、だからといってウォール伝がちゃんと書けていないからランキングが低いのだとかっていうつもりは全く無いよ。何しろ俺がちゃんとした文章を書くってことがありえるわけないからね、だからよく書けてるブログとかって全然僻の対象にならないのね。あまりに違いすぎて感心するしかない。ランキングとかには全く興味ないし、究極的に言っちゃえば他のブログにも興味は無いんだが、仮に興味があったとしても彼らと競えるとはとても思えないんで全然妬めないのね。違いすぎるってことはある意味で楽かもしれん。普段は辛いことばかりだって言ってるけど、似た者同士とか同レベルだからこそ来る競争心とか嫉妬心とかそういうのから来る自己顕示欲とかってあるじゃない?そういうのにある意味で違いすぎると悩まされないっつーのはあるかもね。あまりに固有過ぎて誰とも比べられないっつーの?比べるってことは俺は良いことだと思ってないけど、本質的な性質からそういうのに悩まされないっつーのはある意味で俺のアドバンテージかもね。だからこそ我流の道を突き進めるっつーのかな?進みやすいんだろうね。進む事に対しての観念的な障害物はむしろ少ないので。


あ、んで何を書こうとしたんだっけ?あ、あれだ、August Underground's Mordumね。DVDの特典に撮影風景みたいな写真が入ってることあるじゃん?それをまぁそういう人向けにサービスで近々気が向いたらアップするわ。サービスでっつーのもまぁえらそうな言い方なんだけどね。アナログな特殊メイクとかクローネンバーグ的なアナログな意味でのリアルな死体作成とかね、凄まじいアートだからまぁとりあえず楽しみにしてて。あ、でもキモい画像ってダメかのかな?見たくない人がアクシデンタルに見ちゃうとか?俺が「たいしたことない」って思ってるやつでもたいしたことある人のほうが多いだろうからね。だからまぁあれだ、「グロ注意!」とかって2ちゃん風のリンクを貼ることにするね。まぁ気が向いたらだけどね。気が向かなかったらやらないかもしれないってことね。