埋まらない勘違い。第二章。

mimisemi2009-06-11

まぁまた続きだけどね、今日からは第二章ね。でさ、関係ないんだけど、野口悠紀夫の「「超」文章法」という本を読んだんだけど、この人はある意味で凄くアメリカチックっつーかさ、いや、良い意味でね、クリアな文章を書く事への飽くなき欲求があるっつーかさ、「いかにクリアに書くか?」ということを重視すると共になんつーのかな?知的欺瞞的な晦渋な言い回しとかをただのはぐらかしだとかってバッサリ言い切る姿勢っつーのかな?意味のあるレトリックとそうじゃないやつの差とかさ、なんつーかまぁとにかくあれだ、良心的ってことだ。ダメ学者とかダメ哲学学者とかに読ませてやりたい本っつーのかな?凄く良い本ね。まぁ違った意味で分かりづらい文を書いている俺が推薦するのもなんだけど。



あと関係ないけど造語を思いついたんで。忙しそうにしているのを見せつける人を「ビジブル」って呼ぶっつーか思う事にするわ。全く視線の注意がいかないぐらいまったりしている人を「インビジブル」って呼ぶっつーか思うと同時に俺はインビジブルな人間でありたいなって思ったりしたよねっつーかまぁいつも思っていることだけども。


はい。じゃあ続きね。


・・・・・ってのをメールをやった後に書いて、んで後日談がね、まぁ和解っていうよりかはね、またお互い笑顔で会える日が来るのを楽しみにしてるみたいな話になってさ、んで俺は「見ていてください。お互い楽しみですね」って書いたのね。ようは勝利宣言だよね。俺の辞書に不可能の文字は無いっていう態度かな。それもウォール伝読んで来てる人なら分かるでしょ?なぜ俺が失敗とかについて考えなくなったのかを。で、まぁまた会うことになったんだけどね、やっぱりあっちは俺が理解していないという態度なんだよね。言いたい事が今、分からなくても分かるときが来るっていう考え方かな?でも俺はその言いたい事を理解しつつ、それは勘違いだっていう風に言っているんだけど、まぁ色々と書いたように根本の相違があるともう無理なんだよね。完全にそれを信じ込んでいる人に違うと言っても理解されないのはさ、何かの信じ込みなり根本的な枠組みの違いがあるからだよね。箱があれば何かは入れられるけど、無いところには何も入れられないでしょ?それを感じたね。


言葉の限界っていうかなんていうかさ、俺も言語の明確化に努力をしないといけないんだけど、相手が聞き耳を持ってないとやはり無理だよね。いや、もうキャリアウーマンの人の話はやめようっていうか個人的な攻撃をしているつもりはなくてさ、事柄の分析なんだよね。だからもういいや。いざこざがあったとかって無しね。そういうのは関係なく事柄のみを書くからっつーかまぁ最初からそうだけどね。これがまぁあれなんだけどね、ようは事柄の対象化ね。こういうやつがいたんですよぉーなにぃぃ!ではなくて、こういう人間がいて、こういう話をしていたということを分析するのね。だからその人はもう関係ない。あった事や起こった事のみがそこに存在するって感じ?


ようはさ、なんつーのかな?俺が感じたのはね、何も知らない青年に諭すつもりが逆に諭されている感じにイライラして俺の言っていることを認められなくなっちゃうっつーのかな?反論と認めないということは違うよね。沸点は80度だと信じている人に100度だと分かっている人が説明なり80度だと思っている人間への反論は出来る。ただ逆は出来ないか、勘違いによる反論でさ、結果的に穴だらけになっちゃうんだよね。でも言い方ってのがあってさ、間違っていることも正しい事のように見せたり言うことって可能じゃない?まさしくプラトンの言うソフィストなんだけどさ、詭弁ってやつね。で、俺が今回感じた詭弁はさ、上の人がね、「キミは若いし世の中に出ていないから」という命題という名の杓子定規を元に全部をそれに還元させようとする考え方なんだよね。それは歳の差もあるし立場の差もある。いつも書くように教師の無知が生徒にバレたら嫌だから教師が知ったかぶりをするのと一緒ね。もしくは教師より物知りか、頭の良い生徒がいたらそいつのことをよく思わないということと一緒ね。


で、恐らく今回の件も一緒なんだよね。結構な歳の差があるのにも関わらず、年下に論破されるとか、自分が今まで信じて来たことを否定されるというのは認めたくないんだよね。俺は相手に「だからダメなんです」とは言っていないけど、結局、さっき書いたこの人を見よ!的にさ、言っていることをまとめると俺の言っていることは傲慢にも捉えられかねないというのと一緒でさ、つまりは俺が言っていることを要約してしまえば、俺が逆に諭しちゃっているような感じになっちゃうんだよね。それを相手が分かっているかはともかくとして、それが認められないというのは凄く分かる。逆の立場で例えばこのウォール伝なりさ、俺の生き方なりをさ、「そんなことは当然でしょ?何頑張って必死に色々考えたり書いたりしているんですか?そんなことは自明のことですよ」みたいなのを18ぐらいのやつに言われたら凄く嫌だと思うってことね。


いや、まぁ自明だったら逆に嬉しいけどね。狂ってないってことだから。でもさ、俺がその18の青年に感じるのは恐らく嫉妬だよね。俺が色々と時間をかけて考えたり色々と読んだ末に行き着いた結論とかさ、思考なりがさ、18ぐらいのやつに追い越されていたら悔しいって思うよね。いや、これは十分ありえることなんだけど、ようはさ、俺の読書量とかを遥かに上回るような読書をしている18歳とかさ、思考力がありえないぐらい凄い18歳とかがいたら、そいつに俺は「こんなガキに・・・」って思うと思うんだよね。でもそれは思うと同時にそいつが本当に凄かったらそれは逆に感嘆に変わると思うんだよね。もうこいつには完全に敵わないっていうような諦めとリスペクトね。


「あんたは凄い」「俺は情けない。いい歳して。正直悔しい」みたいな思いになると思うんだよね。なんで感嘆に変わるか?っつーとそいつの言うさ、俺の言っていることや考えていることがたいした事ないっつーかさ、たいしたことあるないは別としてなんつーのかな?そんなに熟考してひねり出すほど深いものではないみたいな言い方をされてもさ、仮にそいつがササっと考えればそんなの感嘆に分かることだっつって本当にそれを証明してみせたりね、そいつの話とか書いたものとかを見たら俺は悔しいけど認めざるを得なくなると思うんだよね。そいつが俺への批判とか軽蔑っていう意味ではなくて、実際、そいつが凄いんで俺みたいなのがたいしたことないって思われちゃうのもしょうがないなっていう感じ?


ただ何回も書くように俺は俺の事を凄いとは思わないんだよ。ただ今のところ自分の経験で自分より物知りだったり頭の回転が速いやつに会ったことがないんで、相対的にそう思っちゃうのね。これを傲慢だとか言われたりするんだけどさ、傲慢と事実は違うのはさ、例えばね、豪鬼みたいな無双のストリートファイターがいてさ、んで「俺より強いやつはいない」って思っちゃうのはさ、ストリートファイトを色々とやった結果じゃない?それは豪鬼の傲慢ではなく豪鬼の経験なんだよね。でもさ、その豪鬼だってまだ知らない強いヤツがいるかもしれないじゃん?だから井の中の蛙にならず大海を知れって話になるよね。でも豪鬼が仮に大海に出てもそういう結論しか出なかったらそいつは強いんだよ。やっぱ。いや、俺がそこまで凄いっつーんじゃなくてね、強い言い方をすればさ、ソクラテスが自分の事が頭がいいっつってるんじゃなくて、なんでソクラテスが自分の事が頭が良いか?って結論に達したのは周りがバカだからなんだよね。


また誤解が多くなるような言い方になるけどさ、だからといって俺がソクラテスレベルってわけじゃないのね。ただ井の中ではこういう経験をしてしまいやすいってことなんだよね。だから俺は大海に出たいわけ。でも歴史的に俺がどう足掻いても敵わない人達ってのがいるわけでさ、そういう人達を見れば、俺が一番頭が良いとかさ、人より賢いなんて思えなくなるんだよね。上を見ればキリが無いから。そういうのも説明しているのに理解されないっつーかまだ傲慢だって言われるんだよね。これは傲慢なのかな?ゲーセンで対戦者に負けた事ないやつがさ、俺は強いって思うのは自然だよね。それは傲慢ではなく勝ち続けているという結果からくる結論じゃない?でも例えばストリートファイターでもさ、KOFでもさ、全国大会とか出ればもっと強いやつっているかもしれないじゃん?だから一カ所のゲーセン程度で自分を強いって思うなっつーのはさ、それは分かるし、俺もそう思ってるよね。ゲーセンで言えば全国大会に行きたいと思う強者なんだよ。


でもさ、その全国大会に行きたいっていう野望を「お前じゃ無理だ」って言われる筋合いって無いよね?いや、無理かもしれないけどさ、でもそれって全国大会に出てみないと分からないじゃん?少なくとも今のところKOFで無敗を誇っているならさ、全国大会に出るべきじゃん?だからまずは予選からだよね。でもさ、予選に出る前から「そんなの一カ所で勝ち続けているだけだから予選突破すらもできないよ」なんて言われる筋合い無いよね?これってもう悪口の領域だよね。ビリヤードで言うところの心理戦っつーのかな?テーブルゲーム全般っつーかさ、なんかの言葉を言って戸惑わせてミスを誘うとか戸惑わせて弱気にさせるっつーのかな?ゲームならいいよ。狡いけどそれもまぁ勝つためには仕方ないのかもしれない。ただ人生っつーゲームでそれを他人にやられる必要性はないよね。


何しろそいつの人生じゃなくて自分の人生っていうゲームなんだしさ、それに口出しされる筋合いないよね?これが俺が一貫して感じていることなんだけど、なぜこれが理解されないのかよく分からないんだよね。確かにさ、比喩とかさ、書き方とか下手かもしれないよ。でも比喩とかにしても伝われば十分じゃん?むしろ比喩って分かりやすく説明するためのもんでさ、分かりづらかったら意味が無いんだよね。それを例えが幼稚とかって言われてもね、どうかと思うよね。だからそれはもうさ、俺の判断ではね、相手はもう言い返せないんで、そういう言い方でしか反論出来ないんだっつー結論に達したんだよね。


あとこうやって細かい事を説明すると「ベラベラ煩い」とかっていうような批判もあるじゃん?ああ言えば上祐っつーの?隠者に対して外に出ることの重要性を語ることが当たり前だと思っている杓子定規な人達の考えはさ、二次元最高!って思っている人に「リアルな女性と付き合え!」とかって無理強いしているようなもんなんだよね。二次元萌えの人達の中には三次元で嫌な思いをしてもうリアルな女性には愛想が尽きたっつー人もいるかもしれないじゃない?もしくは最初から三次元にしか興味が無いっていう人もいるよね?そういう人に「キミは間違っている」って言う言い方ってその「間違っている」って言う人のそいつへの語り方とか考え方そのものが間違ってるんだよね。


ただ見た目ではもっともらしく見えるし、支持されやすいような意見なんだよねっつーのはさ、「二次元に萌えていないで、実際の恋愛を経験してみなさい。考え方が変わるよ」みたいなのって正論に見えるじゃない?でも二次元萌えにとっては正論じゃない場合もあるよね?でもそれに対する反論をしてもさ、キモオタの遠吠えとかさ、キモオタの言い訳とかさ、現実逃避とかって言われるんだよね。でもさ、キモオタで二次元に萌えているというようなさ、物理的なファクターを取り除いて構造だけ見ればさ、キモオタが言っていることのほうが筋が通っている場合もあるわけだよね?少なくともそのキモオタの経験で言えばそうなのだったらそれはもう説得される云々の話じゃないじゃん?でも二次元に萌えることは良くないみたいな風潮っつーかさ、それは現実逃避だみたいな風潮があるからさ、キモオタが胸はってオタクでいられないっつーのかな?枠組みとしては同じなんだよね。キャリアウーマンの人が哲学なんて弱いやつの現実逃避だって言うのはさ、二次元萌え批判をする人達と同じロジックなんだよね。


二次元の良さというか、キモオタ達が二次元にどう癒されて何を感じているのか?ということを理解せずに事柄だけを見て偏見で物事を語るっつーのかな?いや、哲学と二次元萌えを同次元では俺も語りたくないけど、でもつまりはさ、脱構築するとこういうことになるじゃない?フレームワークは一緒なんだよね。キモオタも俺も結局まぁ引き蘢りがちだしさ、ましてやね、例えばこのキモオタが「リアルな女性ってのは本当に汚くて卑しい存在だ」って文句を言うことがさ、キャリアウーマンの人に言わせれば「実際の付き合いもしてないくせに文句を言うな!」ってことになるんだよね。もしくは「お前には女性に対して文句を言える筋合いが無い!」みたいな言い方ね。


なぜなら恋愛を経験していないからっつー話になるんだけど、これはおかしいよね。付き合わなくても分かる事ってあるじゃん?それは女性への偏見なんだって言ってもさ、だとすれば逆に二次元側に文句を言っている人のほうがよっぽど二次元やオタクに対しての偏見があるよね。もうそれはよくないものだという決めつけがある。でも俺に言わせれば二次元萌えしている連中のほうが危ない道を渡ってないっつーかさ、リアルな女性に対しての幻想ってのをそのまま二次元にすり替えたわけでさ、幻想が三次元には存在しないって分かっているなら損をするだけだからコミットをしないってある意味賢い選択だよね。いやね、世の中には素晴らしい女性がいっぱいいるんだ!っていう言い方は分かるよ。


俺で言うとキャリアウーマンの人が社会にも出てないくせに政治とか社会を語るな!っつーさ、戦ってないくせに文句を言うなっていう言い草だよね。でもさ、仮にだよ、社会人の定義にもよるけどさ、仮に俺が社会に出てない人間だと措定してもさ、外側から分かることってあるよね?それはニュースなりさ、他の社会に出た人の経験だとか話だとかさ、ドキュメンタリーを見るだとかさ、まぁそういうのは作り出されたものだっていう言い方もあるけど、派遣社員になって首切られてネカフェ住民になってるっつー実体を暴くドキュメンタリーがあったとして、そんなの噓だ!っていうのはおかしいよね。


それはドキュメンタリーが現実を暴いて、批判してる人は現実を知らないってことになるよね?そういう事柄に無知だから「彼らは自己責任だ」みたいな言い方も出来るのね。彼らの状況や社会的背景などを分かってないので、ネカフェ住民になっているという事実からでしか物事を判断しない。これは凄く表面的な理解だよね。でもこういう上辺だけの理解をする人が多くてさ、いや、多いからこそネカフェ住民とかさ、ホームレス自己責任論って強いんだよねっつーかさ、社会で一定のプレゼンスを確保してるのねっつーのはそういう一次元的な考え方をする人が大勢いるから。その論調の強さは単純にしか物事を理解しようとしない人達の多さを物語っているよね。


キャリアウーマンの人が俺を甘えん坊の青二才だ!と言い切るのもこれと一緒ね。俺の生い立ちとか俺と家族の関係とか俺の精神病とか俺の葛藤とかプロセスなどを全く理解せず、俺の言動とアクションだけで俺を判断しようとする。だから俺は哲学に耽溺している誇大妄想狂だと思われるんだよね。で、さっきの二次元の話に戻るけどさ、「社会に出てみなよ」って言われたところでその社会の価値って何なの?って話でしょ?こんな不正がまかり通っている社会って何?って話じゃん?二次元オタクで言えばさ、普通の女の薄汚さって何なの?って話だよね。俺も二次元オタクもさ、俺で言えばさ、社会に出ていなくても社会を知れるきっかけとかさ、触れるきっかけっていっぱいあるよね。それは何かを見るとか読むだけではなくてさ、実際に例えば人と関わるとかさ、学校に行くとかさ、バイトをするだとかさ、そういうのでおぼろげながら見えてくる社会像ってあるじゃない?社会に出るっつっても結局、大半の人が意味してるのって会社に入ることだよね。でも会社なんてちょー狭い組織じゃん?バイトとどう違うの?って話だよね。バイトで会社に入ったやつは社会に出ていないという扱いをされて、正社員なら社会に出て自立しているっていう扱いを受けるのか?これまた相当おかしいね。


・・・ってことでまだまだ続くのでヨロシク。あと今日オススメに入れておいた本じゃないけどね、文章が分かりづらいっつーかさ、ごちゃごちゃしてるからせいぜいパラグラフは短くしようかな?とかって思ったよね。それが俺の出来る唯一の配慮だね。昔はあえてぐちゃぐちゃにしたりしてたけど、ブログっつーある意味で公開を前提とした場でやるのはあんま意味無いって思ったんでねっつーかだいぶ前に指摘を受けて反省したんだよね。誰だったか忘れたけど、凄くありがたいことを言ってくれた人がいてさ、それってのが「せっかく良いことを書いているのに読みづらい」ってことだったのね。俺は俺の文に価値があると思ってなかったんでヤフオクじゃないけどさ、ジャンク扱いでアップしてたんだけど、客観的な評価があるとそれによって自分の評価も変わるんだよね。ようはそこまでジャンクじゃないってことね。それは自分のセルフエスティームも一緒ね。俺が俺の書くウォール伝に対する考え方が結構変わったのは、俺のセルフエスティームにも全く同じ事が言えるわけ。他者の認証や評価により「自分はそこまでクズじゃない」ということが分かるってことね。


ただかといって迎合っつーかさ、ウォール伝的なあり方は保ちたいんだよねっつーのはさ、読者に優しくさ、「これを読んでくれている人がいる!」みたいなナイーヴな感じでいるっつーのかな?そういう感じは嫌なのね。それは俺が心で思っていればいい話で、やっぱ俺としてはっつーかウォール伝としては他者を突き放したようなあり方がいいって思ってるのね。そうじゃないと自分で書いてて面白くないからね。特に最近さ、「こう思われたら嫌なんだけどっていう記述が目立つじゃない?ようはさ、ある程度の狭い中でもウォール伝の評価があったりするとさ、自分が自分の事をジャンク扱いしなくなるじゃない?そうなるとまともな自分という前提が出来るんだよね。だから「俺は狂っていない」ということを言いたくなる。でもそうじゃないんだよな。ウォール伝ってデフォルトで狂っててさ、俺のプライベートと一緒でさ、色々なことが支離滅裂に聞こえるけど、分かる人は理解してくれたりするっていうそういうあり方じゃない?だからそれでいいんだよね。勘違いされないために丁寧に書くとかさ、そういう目的に対するエラボレーションをするとかってもうやめにするね。


正論か正論じゃないかなんてさ、読み手が判断すればいい話なわけで、俺がもっともらしく勘違いされないように書くって少なくとも俺がやることじゃないんだよね。そういうのを最近失ってた気がするな。まともなあり方というのをちょっと追求しすぎててさ、本来のウォール伝のテイストが薄れてるっつーのかな?薄れてないけど、なんか妥協っつーか優しくなった感じがあって凄く嫌なんだよね。自分で読んでて嫌になる。「いや、そういう意味ではなくて、こういうことなんです」っつーのを俺なりに丁寧に解説してる感じっつーのが凄く嫌なのね。だからもうそういうのやめるね。あとこれは野口悠紀夫の本にも書いてあったことだけどさ、「だと思うんだけど」みたいに言い切らないではぐらかす感じっつーの?その逃げ道を造ってる感じっつーのもさ、最近感じるんだよね。俺の書き方に。それがまた相当マズい。つまりはさ、見え方は前と同じで「勝手に自分の事を天才と勘違いしている気違い」で良いいわけだよね。「いや、俺は自分の事は天才だと思っていないけど」っつー言い方をもうやめるっつーの?そう思ってるか思ってないかなんてテメーで判断しろって話ね。いちいち俺に説明させるなって話だわ。だからこの厭らしい謙虚さっつーかさ、そういうのもやめるねっつーか本来の厚かましいウォール伝のテイストを取り戻そうと思うのね。


最近の俺は凄くダメだな。色々と書いているのはいいんだけど、まともになろうとしているのが凄くダメだ。俺には凄くそれが嫌。ちょっとした社会批評とか評論とかをやってるつもりになったりしているのも凄く嫌だしね。俺は俺が思った事を書くだけでいいんだっつー根本的なあり方を忘れてたっつーのかな?見え方を良くしようだとかさ、説得力を自分の言っていることにつけようとかってするその態度とかも嫌なのね。それが自然に出ればいいけど、「伝えたい」という思いでやるのは少なくともウォール伝ではやめようと思うのね。そんなの学校とかでやらされるエッセイとかでやってりゃーいいだけなんでさ、俺がウォール伝でやる必要性は全く無いんだよね。


ってことでした。あとね、関係ないけどさ、ノコギリヤシを育毛で飲んでいるんだけど、ここ2週間ぐらいっつーかさ、他のサプリに入ってるんで別個にそれだけで飲むのはやめたらさっつーか逆なんだけどね、顔が脂っぽくなったりさ、ヒゲが伸びるのが早くなったっつーのかな?逆を言えばノコヤシを飲み始めて「ニキビとかが減った」って感じるじゃない?それを一般的に言われていることのプラシーボだとも言えなくもないじゃない?でも今回は逆でその効果を理解出来たねっつーのがね、飲まなくなって元に戻ったからなんだよね。ニキビとか顔の脂が増えたりあとヒゲが伸びるのが早くなったっつーね、これはもう明らかだね。ようはそれが効いてるって分かるのはさ、むしろそれを飲まなくなって失われたっていうさ、それこそ大切なものとか人とかを無くした喪失感でその人の重要さを知るっつーのかな?そういう感じ?ノコヤシにはそれを感じたね。育毛に効果があるかはともかくとして、とりあえず顔の脂とかが減るのは俺にとっては良い事だから従来通り飲み続けることにしよう。ニキビってさ、あの過去の事もあってさっつーか昔酷かったじゃない?ストレスで。まぁこっちに来たばっかの時ね。あれがあって以来、凄く嫌になったのね。もうオブセッシヴに回避しようっつーアレがあるよね。アレといえば学校の入り口に使用済みのコンドームが捨ててあったんだけど、あれって学校の玄関でヤッたってことなのかな?


んじゃあまたね。本編はまだまだしばらく続くからヨロシクね。