プラトンと哲学の読み方。

mimisemi2009-06-25

はい。また溜めからです。


佐々木毅という人の「プラトンの呪縛」というのを読んでいるんだけど、いかにプラトンが誤読されてきたのか?というのをよく表している本という意味で凄く評価出来る本だね。ディティールはともかくとして、古今東西の思想家や学者がプラトンは貴族主義者だとか全体主義者だとかっていう的外れな言い方をしているのが共通しているように思えるんだけど、今回書きたいのは俺なりのシュトラウス読みの理解っつーか定義ね。まぁいいや。「シュトラウス読み」っていうと学術的にちゃんと定義しなきゃいけないような気がするんで、誤解を招くとあれだからまぁ俺のシュトラウス読みとかアルチュセールの兆候的読解なんかにも影響を受けたっつーか下手すればただの受け売りな耳蝉読解っつー方法論を提示しようと思うね。


っつーかパクリとか言わないでほしいんだけど、これはある意味で別にシュトラウスとかアルチュセールみたいな類まれなる哲学者があえて言わなくても自明なことでさ、そのテキストを読むっていうことはさ、テキストの内容だけ読んでればいいってことじゃなくて、その当時の時代背景とかその人の実存とか社会・政治的コンテキストを理解した上で読解しなきゃいけないんだよね。書かれているからそうなのだみたいなバカな学生みたいな理解をしていたのでは特に哲学みたいなのはいつまで経っても理解できないか、ドクサが永遠と続くだけになっちゃう。時代背景については言うまでもないね。まぁリテラシーとしてぐらいのレベルでもいいから大まかな当時の時代背景というのを理解しながらテキストに挑まなきゃいけない。そのときは左翼が旋風を巻き起こしていたとか、王朝にみんな嫌気が指していたとか、農民が今にも革命を起こしそうな雰囲気だったとか、そんぐらいのレベルでいいから分かっておく必要があるのね。


次に実存についてだけど、思想家なり哲学者なりがどういう人間だったのか?どういう生活を送っていたのか?どういう思考方法や性格や学問のあり方をしていたのか?というのを理解するってことね。カントで言えば見た事も無いようなことを全部書物から得た知識で適当なことも結構書いていたとかさ、マルクスは反抗的な人間だったとか、逆に実は反抗的ではなかったのだが、物事を客観視した上で色々なことを書いていたら反抗的になってしまったとかね、そういう色々なことね。ショーペンハウエルヘーゲルが大嫌いだったので、ロジカルというよりかは実存的な理由で批判してたところも大いにあるので、ショーペンハウエルヘーゲル批判が完全に的を得てるかは分からないとかさ、ようはそこに感情的な実存があるんで、読んだ通りには理解してはいけないってことね。


それはなんつーのかな?怒ってるやつが怒っているやつに対して感情的になりながら言っている罵詈雑言をリテラルに理解しちゃうと危険ってことね。ようはそいつはそいつに対して怒ってるんで、どこまでが本当でどこまでが本当じゃないのかが分からないってことね。誇張やら噓もあるかもしれないし、攻撃するための事柄のねつ造とか過剰な一般化とかも大いにあるかもしれない。だから両者の意見を聞かないと物事は分からないとかさ、実際はどうであったか?っていうような客観的なその喧嘩に対する理解っつーのかな?これを読解に当てはめるんだよね。実存とかではなく事実やらこれが表すものは何だ?っていうことね。ショーペンハウエルヘーゲルにこういうことに対して怒っていたけど、これに対してはあまりに言い過ぎで的を得てないとかさ、ヘーゲルの言い分とか本を読んでみるとショーペンハウエルヘーゲルの誤読なり誤解をしていたとかっていうのが分かったりするかもしれないじゃない?そういうことね。


社会的コンテキストは言うまでもないよね。ウォール伝で言えば世界的に不況で、日本でも今までに無い日本基準で言えば酷い貧困やら不平等があって、なおかつ昭和的なあり方とかに兼ねてからイラついていたアウトサイダーがアメリカに渡ってコミカレに通いつつ、勝手に彼の研究を独自に進めている段階で思った事をとにかく書きまくっているというようなことね。これは社会背景があるでしょ?まず。で、俺が自称亡命者で色々書いているっつー実存的な要素もさ、もしかしたら日本の不況っつーか世界の不況も関係してるかもしれないよね?元々アウトサイダーなんだが、このご時世において余計にそれが増しているとかさ、逆にそういうご時世だからこそ過激なアウトサイダーになろうとしているのではないか?とかさ、そういう読みだよね。言っていることは支離滅裂に見える事もあるけど、事柄のスケルトンで言えばただの本人の思考プロセスが形になったものだとかさ、実際は啓蒙しようとしているとかさ、分かるものからの社会への警告なのだとかさ、それはまぁ個々に理解を委ねるとしても、解釈とか読解ってそういうことだよね。


狂った事を書いているというそれだけでは分からないエクリチュールのエッセンスというのがその背後にあるんだよね。だから眼光紙背に徹するというような態度をよりクリアな方法論として提示したのがシュトラウス読みであったりアルチュセールの兆候的読解であったりするのね。両者ともに微妙に違うところはあるけど、まぁ所謂、行間読み的なエッセンスとしては似ているところがあるよね。細部は違うんだけど。


シュトラウスの場合、俺の理解ではさ、例えばそれが中世に書かれたならね、これはまぁある意味で自明なことなんだけど、その中世の感覚で読むんだよね。ロバートいるじゃん?ロバートがさ、プラトンは悪魔の魂を持った男だって言ってたんだけど、これがようは全然読解が出来てない良い例でさ、ロバートの言い分ではさ、プラトンがこんなことを言っていてっつーのはね、女は子供を産むだけの道具みたいなもんで、国家を担う兵士の助力に尽くすべきだみたいなことをなんだけどね、まぁ実際、プラトンがそれを言っていたかはともかくとして、ソースが無いんで分からないんだけど、言ってたとしてもさ、当時の時代背景ってのを考えればフェミニズムなんてのは当然無いし、男尊女卑というのが常識だったわけでさ、プラトンはその当時なりの常識に沿って物事を語っていただけで、それを今のね、フェミニズムとかっていう観点から批判するのはお門違いなんだよね。あんな大量の奴隷使ってないでブルドーザー使えば良かったのにってエジプトのピラミッド建設に対して文句を言うようなもんなんだよね。だからといって奴隷制が容認されるというわけではないんだけどね、そういう意味ではないし、それはフェミニズム然りね。だからといってプラトンの女性に対する言い草が正当化されるか?っつったらそうじゃない。


それは女性に対して言えば当時の人よりかはもっと進歩的な考えを持っている我々のほうが明らかに優れているわけで、プラトンの女性観とかに同意する必要は無い。ただ批判するのはお門違いってことね。「当時は女性ってのはそんな扱いだったんだからしょうがない」って考えるしか無いのね。人種差別然り。ニグロと書いていたとか、黒人や有色人種に対して差別的であったからといって、今の感覚でそれを人種差別と言えるかどうかは分からないのね。当時の白人なら誰もが黒人とか有色人種のことを差別していたという背景があるのなら、その思想家なり哲学者もそうだったわけでさ、それは当時の風潮というか考えだったわけで、彼らが酷い差別主義者だったかどうか?ってのは分からないんだよね。


今みたいなアップデートされた人種観というのを彼らが理解したら、彼らがどう言うかは分からないってことね。東洋人を野蛮人扱いしているというのがあったとしてもさ、それは当時の理解の薄さとかね、情報レベルの低さとかに原因があったわけでさ、そういうのに騙されるっつーとアレだけど、そういうのを信じていたというのが仮に偉大な思想家とか哲学者にあったとしてもそれは彼らを「差別主義者だ」って批判出来る理由にはならないんだよね。彼らは凄かったかもしれないけど、我々と同じ人間なわけでさ、当時の情報レベルのあり方も考慮しないでテキストだけを見て「人種差別者だ!」って言い切るのはかなり間抜けな行為なのね。


人種差別者とはロバート・クラムみたいな人のことを言うわけ。公民権運動とかを見ているくせにまだ黒人を差別してるっていうね、これは明らかに人種差別ね。現代的な人種感覚とか人権感覚があるくせに差別主義者ってことはもうそれは差別主義者なんだよね。ただ差別主義が当たり前だった時期の人が本質的にそうだったかは分からないってことね。仮に彼らが今の時代に生きていたら違ったかもしれないっていう人達もいるわけでさ、だからまぁ書物だけで判断するのは早計なのね。


「そんな差別者が書いた本だからこんなえらそうなことが言えるのだ!」とかってよくバカが批判するやり方だけどさ、プラトンが貴族主義だとかっつー批判も大体この類だね。言いたい事は分かるけど、もっと彼らの時代のこととか彼らの当時のあり方ってのを考えなきゃいけないよね。彼らは本質的に大衆を見下してえらそうなことを書いていたのか?って俺は違うと思うのね。それはいつの時代にも通念する知識への愛とかさ、ヴァーチューを最高善の一つとして定律させる考え方っつーのかな?そこがコアなんであってさ、彼らのブルジョワチックなあり方とかね、奴隷制容認とかを批判するべきではないのね。奴隷制にしたって当時はそれが当たり前だったし、それで社会が回っていたわけで、その社会的コンテキストを考えればアリストテレス奴隷制容認で悪名が高いみたいな言い方をするのは相当的を得てないのね。むしろアリストテレス奴隷制の容認を理解するためにはさ、そういうポリティカルコレクトネスとかを省いて当時の時代背景とアリストテレスのような立場になって物事を考えて書いてあることを理解しないといけないよね。で、まぁ奴隷制については前に散々書いたからもう書かないね。


全てを現代的な観点で理解しようとするっつーのは相当野蛮で知的ではない行為だね。むしろ古代ギリシャなんてテクノロジーとかネットとかが無かった時代にアナログであれだけのことを考えたり書物を残したっつーんだから現代のどんな思想家っつーか知のあり方よりも凄いと思うんだよね。中には稚拙と思われるようなものもあるかもしれないけど、それを稚拙だと感じられるのは我々の時代が進歩したからなんだよね。例えば科学の発展によって分かったことでね、んで彼らの意見が憶測に過ぎなかったとしても、彼らがそれをどういうロジックで考えだしたのか?とかさ、それもようは彼らの立場になってみないと分からないのね。それだけを見て稚拙だとか間違ってるって言うのは本当に野蛮で配慮が無い読み方なんだよね。


これはシュトラウスが言っていたことだけど、現代ってのは科学に支配されてるじゃない?で、科学抜きには物事を語れないじゃない?で、簡単に言っちゃえばそれが科学の独裁でもあるっていうことなんだよね。もう決められたものには文句を言えないとか、証明されたものに関してはそれが当たり前だとされて常に何かが措定されてるっつー思想とか思考の自由が科学とか歴史の積み重ねによって失われているってことなんだよねっつーかまぁ俺のザックリとした理解だけどね。で、過去のテキストを読む時にはそういうのは取り除いて読まないといけないのね。中世ならバラの名前に出てくる教会みたいな場所を想像して、んでああいう場で徳の高い司祭がこういう環境と既存の知識で書いていたんだっつーのを想像しながら読むっつーのかな?それは当時に思いを馳せるという意味ではなくて、それがそのテキストを理解する上で必要条件となるからなんだよね。


そこを野蛮に現代の発展した科学とか様々な理論っつーので凝り固まった現代の脳で「甘い」とか「稚拙だ」とか「分かり切ったことだ」とかって言うのは大間違いなんだよね。まぁ逆にそんな理解しか出来ないやつは哲学の才能が無いんでまぁいいんだけどね。そういう理解をしてるやつが違う読み方を理解したところで認識の高みに達することが出来るとは思えないので。分かってる人はそういうのを感覚的に理解してるはずなんだよね。で、後で眼光紙背に徹するとかさ、シュトラウス読みだとか兆候的読解だとかっていうシステマタイズされた読み方の方法論を知る事でそれがよりクリアになるっていうね、そういうことだと思うね。読解に優れている人は元々そういう眼光を持っていると思うのね。これはまぁある意味での才能だと思うんだけど、俺はそれには完全に恵まれてるなと思うね。方法論的な理解をしなくても感覚的に分かっていたことだからね。


ってことなのね。これは何かを読む上で凄く重要なことだね。思想に限らずもっと当たり前のことで言えば新聞とか雑誌とかでもその新聞社の論調とか政治的派閥とかさ、そういうのを分かった上で読まないと洗脳されるじゃない?洗脳されるっつーのは言い過ぎだけどナイーヴだよね。コンサバのシンクタンクから来ているようなやつが現状のコンサバの政府を肯定する論文とかを書いたところで説得力に欠けるよね。それでも読んで納得することがあればそれはコアのある論文ってことになるけど、ただの御用達学者が書いたもんだっていうのがまぁ多いよね。これもシュトラウスだったっけな?何かのアジェンダっつーかさ、政体とか党派制に傾いちゃうともうそれだけで本質から遠ざかるんだよね。


そうなっちゃうともう本当のことは書けなくなっちゃうっつーか書いてるつもりでも党派制に影響されている可能性とかがあるわけでさ、だからどっかの派閥に所属しちゃうともうダメなんだよね。だから俺は派閥とか党派制が嫌いなのね。それは丸山真男が言うような蛸壺化を招くという意味でも嫌いだし、現状の膠着した蛸壺化した学問のあり方っつーかアカデミアのあり方を見てもそれは思うよね。なんつーガチガチの世界でやってるんだって逆に関心しちゃうもんね。彼らは縛られることが大好きなマゾなのかな?って思っちゃったりする。俺はそんなSMプレイには参加したいって思わないのね。


でさ、ポストモダン的な見解をポストモダン以前に簡単に論破しちゃってるなって思ったのが三木清ね。「人生論ノート」という本の中の「孤独について」っていう項目でさ、こう言ってるのね。"感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には誤謬がある。むしろその逆が一層真理に近い。感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたのもであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である。孤独は感情でなく知性に属するものでなければならぬ。"あと追加で"真理と客観性、従って非人格性と同一視する哲学的見解ほど有害なものはない。かような見解は真理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。"なんだけどようはさ、エクリチュールが死んでるみたいな議論って有害なんだよね。前にもそれは書いたかもしれないけど、俺の理解だとさ、書かれたのもってのは理解されることで体感されたり知覚されたり通じるものなんで、そのプロセスを経るということがすでにエクリチュールの不可能性を表してるっつーかさ、死骸としてのエクリチュールみたいな議論あるじゃん?デリダ発なのか分からんけど、フォロワーも多いんだろうけど俺基本的にこういう考え方大嫌いなんだよね。だってさ、「理解」って「感じる」ことで出来るものじゃん?


エクリチュール化すると何もかもが死ぬみたいな議論ってさ、この三木清が批判してるような誤謬そのものだよね。何かしらのあり方を客観的なものとして考えるからダメなんだよね。知性としての主体が客観的なエクリチュールというものを通すことで何かを感じるって行為はさ、そのプロセスにおいて「感じる」とか「読む」とか「理解する」ってことで生まれるヴィヴィッドな感覚だよね。それをクオリアのスパークとかって呼んでもいいだろうしさ、まぁなんとでも言えばいいんだけど、結局、完全に何かを客体化するとさ、ポストモダン的なニヒリズムに陥るじゃない?歴史とかは分からん、社会なんて人工的なものだ、全ては相対的だみたいな、絶対的な不可能性っつーのを提示してニヒルに振る舞うやり方っつーのかな?こういう考え方があってもいいけど何か「かっこいいものだ」とかさ、「スタイリッシュで現代的な観点だ」みたいなのが広まるとこれってのはもう有害になるよね。なぜなら真理って認識することで得られるもので客観足り得ないんだよね。哲学然りヴァーチュー然り。


ハイデガーじゃないけどさ、哲学って存在するっつーか生きることでしか存在しえなくてさ、定義とか名前とかってつけられるもんじゃないんだよね。書かれたものとかも歴史的な背景とかさ、コンテキストとかに依存したり、依存した解釈とかが恣意的に成されるけどさ、真髄ってのは違うんだよね。哲学とかに根本的に流れてる一本の筋っつーのかな?それが真理と呼ばれたりするものだけど、認識ってそういうもんじゃない?客体的に書かれたり説明されたりするものではなく認識するものじゃない?認識されて始めてエクリチュールは生きるし存在するわけでさ、エクリチュール自体が死んでるなんてお門違いもいいところなんだよね。マジでバカじゃねーの?って思っちゃう。ソフィストもいい加減にしろって言いたくなるね。


エクリチュールが死ぬっつー概念で言うとアートとかも全然成立しなくなるよね?絵とか映画も知覚されることでしか認識され得ないものだし、存在そのものは止まっている表現物じゃない?アーティストが動的であれば表現物は静的だよね。でもその静なる点を感じるっていうのがアートだったり表現の真髄だったりするわけじゃない?それが普遍的に認識されるものか、認識されうるものじゃなくてもあり方というのは受け手によって規定されるよね。


あり方そのものがあり方を規定するのではなく、受け取られかたがあり方を規定するんだよね。それが自己においては特に哲学者なんかだと三木清の話を出すまでもなく、孤独というのが知性に属するっつーのはさ、ようは知のあり方としての孤独なんだよね。自分に満足して自分に生きるっつーのかな?ただ三木清は「名誉心について」っつーやつでさ、ようは名誉心っつーのは抽象的な社会というのを相手にしているって話なんだよね。社会というか抽象的な外界というのを意識することで個人ってのが成立するっつーのはさ、ようはエクリチュールと読み手の関係と一緒なのね。これで言えばエクリチュールが個人で社会が読み手ね。エクリチュールそのものは何かを現象していたり表していたりするんだけど解釈者がいないと体系が成立しないんだよね。個人然りだよね。


あと三木清で言うと「成功について」というやつでシュトレーバーという概念を出してるんだけどっつーか概念っつーかドイツ語で「努力家」みたいなことを指すような言葉らしいんだけど、こういうやつらが俗物中の俗物だっつーのはさ、「あー三木清ぃー!!」って思ったんだけど、俺が勉強しまくる東大生をバカにしてたエントリーあるじゃない?あとノートを取りまくるバカとかさ、こういうのをシュトレーバーっつーんだね。ようはシステム側に迎合して頑張ろうとする努力家ね。俺に言わせれば三木清が言うようにこういう連中は俗ものだしバカだと思うのね。まぁそういう人達が社会を担ってるっつーまた凡人の遠吠えはいいとして、俺が一貫して主張してきたのはこれね。


このドイツ語のシュトレーバーに対応するような日本語が無いから俺は色々と散々書いてたわけだね。ドイツ語で「そういうのをシュトレーバーって言うんだよ」って教えてくれればもうそれで済んだのに。ようはさ、学校でもさ、グレードを全部だと思ってそれに向かって一心になるやつね。グレードが良いのは大いに結構だが、んじゃあキミは何やりたいの?っつーさ、学校とか教師から評価を得て何をやりたいの?っつーね、社会でやってくためっていう理由が一番多そうだけど、んじゃあその社会でやっていくってんじゃあ何なの?っつーね、そういうやつは会社に入ってもシステム側に迎合するだろうし、上司から好かれようとしたりとかさ、体制ベッタリのやつになるよね。


こういうやつがダメな社会を作っていくっつー俺の考えがあるからだから嫌いなのね。シュトレーバー。やつらは社会を担ってるように振る舞ってるけど実はただの体制に迎合する俗物どもなんだよね。体制側とか学校側とか教師に言われたことに従って高い点数とか評価を得るってことが良いことだって勘違いしてるアホね。それを良い事だと思いつつそれが人生の目的みたいになってるやつらね。俺はこういう俗ものが大嫌いなんだよね。本当に。今に始まったことじゃなくてさ、まぁ昔から散々書いているけど、まぁね、「シュトレーバー」っつードイツ語に帰結したね。かなりスッキリ。"想像力の欠乏がこの努力家型を特徴づけている。"ってまさしくその通りね。こういうやつらはなぜか想像力があるやつを批判したり攻撃したりするじゃない?あとは学校の成績が良いとか社会的地位が高いとか給料が高いとかっていうバカみたいな理由で自分の事を優れていると勘違いしていたり、それで他人を見下したりするじゃない?それが嫌なんだよね。ホントに。彼らは彼らで勝手にシステムを担ってくれれば文句無いんだが、やつらが想像型を罵ったりするのが嫌なんだよね。


まぁそれは彼らにとって想像型がただの無法者にしか見えないからなんだろうけどさ、自分が理解出来ないことを「理解できないこと」として片付けるのが彼らの特徴だよね。これはある意味で究極的な世界系だと思うんだよね。他者をすっ飛ばした一気に個人が社会っつー抽象的な概念と結びついてるっつーのかな?


あ、んで相変わらず書き方がバラバラだけど、少なくともプラトンについてはね、その枠組みだけを理解しても本質は理解出来ないっつー良い例なのね。プラトンの国家論というのはステイツマンシップやヴァーチューという概念を理解しないと理解できない。血盟団が実際はテロリスト集団ではなかったように、井上日召が言うような好ましい指導者とかさ、彼らが言う指導者のあり方というのを理解しないと枠組みが理解できないんだよねっつーのは枠組みだけ見ればただのファシズムになっちゃうっつーか、血盟団で言っても本質を理解しなければ彼らはただのテロリスト集団じゃない?宇宙一元論とは何なのか?一殺多生とは何なのか?っつーのを理解しないと血盟団井上日召は理解出来ない。血盟団をテロリスト集団と分けて考える必要があるというのはつまりはプラトンの国家論も同じで、プラトンの国家論もまた単純な全体主義とかファシズムとか非民主主義みたいなアイデアとは切り離して考える必要があるのね。


で、まぁ血盟団井上日召については別に書いたやつがあるんで近々貼るね。


プラトンの呪縛 (講談社学術文庫)

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人生論ノート

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