表現について。

mimisemi2009-07-13

もう寝るから寝る前に覚え書きをね。


あれなのね、また元相方とよーこと会ったんだけど、まぁ詳細は端折るとして、あれなのね、まぁ色々あって表現の話になったんだけど、俺ってドロドロの表現主義者なんだなって改めて確信したのがね、よーこさんはね、アリストテレスだったかプラトンのアレあるじゃん?イメージが本物で物体はシミュラクラムであるっつーあれ。机って概念が頭にあって、んで実際の机は概念の表出物でしかないみたいな。でさ、よーこさんはプロだから画家として表出物を飾れる絵っつーかさ、言葉忘れちゃったけど、ようは商品価値っつーかそれそのものとしての機能っつーかさ、表現とは別に機能する与えられた機能っつーのも付加価値というか付加機能としてもたせてるんだけど、俺としてはさ、まぁこれはこの会話の時に言ったことなんだけどね、頭にあるものをどう具現化させるか?っつー立脚点に立った表現ってのが表現で、表れ方を前提にしたらもうそれは迎合だっつーかさ、いや、それは極端なんだけど、すでに劣化してるって思っちゃうのね。


いや、実際はそんなことないんだが、俺としてはさ、モジュレーションのアンリじゃないけどさ、頭の中で鳴ってる音とか思いつきとかをいかに具現化させるか?ってことに力点を置くっつーかさ、表れた後の事は考えずに表すことだけを考えるんだよね。よーこさんの場合、両方考えているからこそプロだし、そういうクオリティの上げ方っつーかさ、出し方を考えながらやってるんだけど、これは実際、どうなんだろうな?彼女の頭の中では絵が完成してるんだけど、そのままじゃあれだから表現物っつーか絵画としてそのイメージを出力させるっつーさ、イメージそのままじゃないんだよね。いや、そのままなのかもしれないけど、絵画であるということにも意識的なんだよね。偉いなぁーって思うんだけど、俺の場合、成立しないアートなんだよねっつーかアートっつーと大げさだけどようは表現物ってことね。


アートのあり方が間主観的でさ、絵画という名の表現物であるというようは絵画としてのあり方が主観的に共有されてるんだよね。額縁に入っている絵画っつー共同主観性が成立してるっつーのかな?そこでの共同主観性のことまでも考えて絵を描いているというのは凄いなって思うんだけど、俺としてはっつーと変だけど、俺が考えてる表現ってさ、共同足り得ないものなんだよね。ようは完全にそれが出力者の主観に埋没していてね、同じ感覚を持っているものでもない限りその表現を受け止められないとかさ、分からないっつーものなのね。ただ限られた人達っつーかさ、分かる人は出力者と似たような感覚をその出力物に感じるので、そこでの狭い意味での共同主観性が成立するんだけど、それは共同というよりかは似たような感性を持った鑑賞者が表現者の領域を垣間みるっていう次元で、それは鑑賞者が表現者の主観に入っていくって感じなのね。


だからそもそもアートなんつー抽象物の最たるもんみたいなもんはさ、つまりはすんげークローズドってことなんだよ。オープンなわけがない。だって主観性に立脚した作者の感情とか何かの表れなんだから。それがある共同的なフォーマットをとるわけがないんだよね。それはフォーマットを取ることで成立するアートフォームがあるんだけど、それは主観というか表現には先立ってはいないのね。ようは後付けとしての結果としてのフォーマットね。つまりはそれがそれで出力されるという必然性はないんだけど、出力者というか表現者のやり方でそれは絵画が一番良いってことで絵画ってだけでさ、絵画というフォーマット自体にたいした意味は無いってことでね、つまりはこれが表現だよね。


だから俺はいつも言うように「これを見た人聞いた人がどう思うかな?」ってことを考えたらもうすでにそれは不純物なんだよね。それは純粋な表現というプロセスに社会的なものとか他者性みたいなのが介在しちゃってピュアなフォームとしての表現が劣化しちゃうんだよね。でもね、逆に共同主観性とかね、社会的なものとか表れ方ってのを意識する上で出てくる違った表現のあり方とかさ、ようは作家主義っつーか表現主義的な世界観に埋没しないことで生まれてくる表現の形ってのがあるんで、そういうあり方を否定は出来ないのね。ただなんつーかさ、なんとかその頭のイメージを劣化させずに表現できないかな?って思うんだけどさ、ようはこれの最たるものが電脳でさ、俺が感じているっつーか出したいと思うイメージとかをさ、誰かにそのイメージとか感覚のままデータとして脳を繋いだりして与える事ができればそれってもう表象の段階が相手にそのまま表象として受け入れられるわけでさ、これがつまりは一番ピュアなフォームなんだよね。まぁ無理だけど。


でも表現物として表れたものを表現者が意図しているものとは違った解釈とか違った感覚とか主観性で感じることで得られるまた違った感じってのもあるじゃない?まぁ散種的な概念ね。いったん放たれたらもう解釈は受け手次第みたいな世界ね。その中のシニフィアンの戯れっつーかさ、それがアートを規定するみたいなのもありっつーかまぁそういうもんだと思うけどね、それだからこそ表現物って面白いんだけどさ、でもそれは逆にこのシニフィアンの戯れ的な世界観ってフォームとかさ、見方とかの作法があると成立しなくなるんだよね。ようは表現物がスキゾに解釈されることで生まれる無限の解釈とか意味合いみたいなのがさ、フォームってことで壊されるのね。ようは「この絵はこうでこれを表現していて・・・」っつーようなお膳立てがあるようなやつはそこでもう意味合いが規定されててさ、表現物の表層しか解釈されないみたいな世界観になるじゃない?モダンアートとかってそうだよね。表層的なものの解釈としてしか成り立たないようなさ、下手すれば作家自身も何を表現したかったのか分からなかったようなね、まぁモダンアートっつーか現代アート系ね、あれはようはさ、表現物そのものが後付け的に表現を規定していてさ、表現者の表現を表現していないんだよね。表れたものが表現と化すっつーかさ、解釈によってアートとして規定されるみたいなね、ようは表現不在のオブジェクトとしての物体としてのアートね。まぁこれはこれでありなんだけどね、あまり共同主観性みたいなのを意識しすぎると表現物もつまりはこういうオブジェっつーかさ、物体としてのアートとの差があんま無くなっちゃうんじゃないか?とは思うんだよね。


だからこそ表現はそのまんま表象の表出物でいいと俺は思うわけね。それ以外がダメだとは言ってないんだけど、なんつーか俺はそういうほうが納得がいくっつーかさ、そういうもんなんだよなって勝手に思うのね。表出と共同主観性を両方劣化させることなしに出力できればそれは凄いのかもしれないけど、それがよーこさんの一連の表現物なのかもしれないね。ただすんげー邪魔なんだよな。人間という介在が。意志と意志で繋がれないものか?攻殻機動隊のキムみたいな話になるけど、アートとしてはさ、人間の認識ってのがすでに不純物なんだよね。これを取り去ったら芸術は成立しないんだけど、でも人間が介在しすぎるとそこで劣化が生まれて表現の純度が下がるんだよね。なるべく主観が主観のまま伝わるというのがいいんだよね。でもそれは散種という概念から言うと一元的でさ、多様性のある解釈とか理解ってのが出来なくなるじゃない?だからなんつーか表現物ってのがさ、「解釈されるものとしての何か」っていうさ、意味とかは宙づりの状態で提示されてるってのがまぁー鑑賞者に全てを委ねるっていう良い作品としての姿勢なんだけど、これを言うと本質的に表現物を理解出来る人なんてそんなに多くは無いんだよね。だからアートとかって形骸化しちゃうんだよね。


分かりやすさとかフォーマットとか業界の人間関係とかさ、話題性とかそんな低い次元のものに落ちるじゃん?誰々が批評して有名になった何々みたいなものとしての、くだらない情報の集積としてのアートね。その情報を見るためだけにギャラリーとかに見に来るんで、だからダリの有名な絵とかさ、モナリザとかにだけ人が群がって、他のダリの作品とかさ、マイナーなダビンチの作品とかが素通り作品みたいになっちゃうんだよね。そこにあるのは情報差で表現の密度とか純度とかではないんだよね。つまりはアートってアートとして出ている限りはメガネとかと一緒でさ、解釈者がいないと成立しないんだよね。メガネもかける人がいないと成立しないでしょ?それ自体としてはあるかもしれないけど、パーフェクションは人が介在して達成されるじゃない?というと必要なのは共同主観性のように思えるけど、それは一人一人と作品との関係性とか解釈とかでさ、それは共同ではなく作品と鑑賞者というクローズドで個人的な世界観によってのみ解釈の世界が生まれるんだよね。


それが解釈によるのかさ、表現者の主観に入ることでアートが成立するのかはまぁ微妙なところだけど、表現者は排出物みたいに表現物を出すべきだね。人によってはそれをうんこと呼ぶし、人によってはそれをアートと呼ぶみたいな、そのぐらいシニフィアンシニフィエの関係性がグラグラなアンバランスなものね。まぁ究極的だけど、恐らく純度の高い表現物ってのはそういう風に成立すると思うんだよね。だからやっぱアートって頑張るもんじゃないんだよね。美大とか行って学ぶもんじゃなくてさ、勝手に出てくるもんだよね。生活の中から。よーこさんは明らかにそういう画家だよね。だから純度が高い。まぁ俺はそういうものしか信じられないんだよね。まぁもしくはアート作品じゃなくても俺が勝手にアートだと思えるような物とかね、で、その最たるもんっつーか俺が最強の表現物で最高の芸術作品だと思うのが思想ね。思想は読む時にまさしくその書き手の頭の中を覗くようなもんじゃない?もしくはその思考プロセスとかさ、そういうのをバーチャルに体験するっつーのかな?中には思想と呼ばれるものでもただの思想史の要約みたいになってるのもあるけどさ、特に俺が敬愛するシュトラウスとかショーペンハウエルとかニーチェみたいなのってその脳を垣間みれるじゃない?脳っつーか思考とかプロセスとかをかなり生のまま見られるっつーか感じられるっつーのかな?


だから最終的に俺が音楽より思想が好きになったのってそれなんだよね。何よりも強烈で強力で純度の高い表現物だからね。人が介在しない脳と脳との電脳プラグみたいな感じじゃん?まぁ俺はそういうのを受け取る感受性とかがあるから知的刺激とかさ、思考とかをなぞれるね、官能小説風に言うとさ、まぁ俺は童貞だけどなんつーのかな?女性の体を優しく撫で回しながら愛撫しつつ感じるみたいな肉体的ながらもそれが皮膚と皮膚のふれあいとかっていう即物的なレベルの出来事ではなく、男の手と女性の体がふれあうことで生まれるプラトニックなレベルでの愛というかエロスね。自分がテーブルを触ってもそれってエロくないじゃん?でも女性を凄まじい官能的で愛情とか欲望とかはたまた同一化願望とかがさ、生み出すプラトニック・スパークって凄いじゃない?まぁ俺は経験したことないけど凄いんだろうなって思うんだよね。それを俺は思想に感じるのね。あれほどエロい激しいセックスみたいなもんって他に無いと思うんだよね。音楽より近いんだよね。物凄く近い。


だから俺が音楽に求めるのってもう表現とかじゃなくてさ、ただの快楽になるんだよね。だからクラブ音楽とかしか聞かなくなるわけ。ドロドロの表現主義的な音楽とかはもう思想があるからあんま興味無いっつーね、表現のエロスみたいなのを俺は様々なものに求めていたけど、行き着いた先が思想だったって感じだよね。まぁ音楽での表現と絵画での表現とインスタレーション作品での表現とってまぁ全部違ってさ、個々で固有性みたいなのがあって、んで個々の味わいがあるし比較はできないものなんだけど、でもなんつーか思想を感じる強度に比べるとどれもこれも生温いんだよね。生温いって言い方はまぁ卑下みたいになっちゃうけど、まぁそれだけ思想って半端じゃないってことなんだよね。データとしての思想とかね、イデオロギーとか理論としての思想じゃなくて表現物としての思想を脳で感じるっていうプロセスで生まれるプラトニック・スパークね。これこそが俺の求めていた表現物とそれを感じる鑑賞者との関係性なんだよね。一番電脳プラグの概念に近いのがこれね。


まぁいいや。寝るとか書いておいて長く書きすぎたんでもう寝るわ。まぁいいんだけどね。色んな表現が好きよ。俺は。比べられないんだけどね、でもやっぱ思想に勝るものって無いんだよね。俺にとっては。あの味って半端じゃない。思想を味わうっつー感じ?ジワジワと脳がエロい感じで煮えたぎるっつーかさ、頭がシュワーっとする感じ?頭ソーダみたいなね、これがヤヴァイんだよね。俺はその世界に埋没していたいんだよね。これこそが究極の俺にとっての快楽の形態だなってのが分かったのがここ一年ぐらいだよね。快楽はそれで感じつつ、でもプラクティカルにそれで得たものとかを社会的なものにも活かすことが出来るというコンパチビリティは、よーこの絵画における、絵画としての価値と表現物としての表れのコンパチビチティと凄く似ていると思うんだよねっつーかまぁ俺がそれだけ高いレベルでの表現が出来たら最高だなって思うわけね。ってことで今日はこの辺で。


科学者のための哲学講義 (1977年)

科学者のための哲学講義 (1977年)