聖さんへの私信を1エントリーにしてみる。

mimisemi2009-07-24

また1エントリー私信系をやりますです。今日は昨日書いたkazさんへの私信に対しての聖さんからのツッコミがあったので貼っておくと同時に私信を書いてみたりしますです。


はい。ではまず昨日のエントリーに対する聖さんのツッコミから。


聖 2009/07/24 10:55

間違いです。
独学でも、吸収する部分の選択は個人に委ねられますので、
ジャンルはどうであれ正しい教育は必要です。
もっとも学習者に適した教育機関が選択できるかは別の話ですが。。


で、以下は俺の返信ね。

>聖さん


反論するつもりはありませんが、少しだけ質問があるのでよろしかったら答えてください。


聖さんがおっしゃる「正しい教育」とはどういう教育を指すのでしょうか?僕は聖さんの意見をこのように解釈しました。というのは「正しい教育機関に入れば正しい教育が受けられる」というようなテーゼです。


教育機関といっても教えているのは人間ですから、恐らく完璧で正しい教育など存在しないでしょう。各教師のバイアスがあると思いますし、何より僕が思うのは教師は基本的に教科書に沿って物事を教えますから、バイアスという意味で言えば教科書の著者達のバイアスもありますし、それを解釈し、限られた時間で教える教師のバイアスもかかるでしょう。そういった不安定な中から得られるものというのが「生徒」という解釈者に委ねられて理解されていくので、結果的に吸収する部分の選択は個人に委ねられますし、そこに教師と生徒という二つの主観性が介在する限り普遍的な「正しさ」などは恐らく存在しないでしょう。


ところで僕が言う独学というのは、ある程度の素質を持った人間がやる独学を指します。僕はkazさんを見込んで勝手に独学が可能な人間だと思って薦めています。ところで僕の友人というか、ウォール伝で言う元相方は教育機関無しに独学で社会学や思想史や政治学などを勉強してある程度マスターした人間です。で、結果的にその辺のアヴェレージな学生よりかは知識や見識があり、評論なんかもしていたりします。


聖さんがご存知かどうか知りませんが、ウォール伝に出てくるアスペルガーのロバートも独学の人です。僕の経験で言うと自分も含めた独学の人達はなぜか卓越した知識量や思考力を携えていたりするので、独学は然るべき人にとっては結局最強だと思うのです。


ただ聖さんのアイロニカルな物言いを真似させていただくと、独学に適した学習者というのがどのくらいいるのか?というのは別の話です。まぁある程度の地頭と知識欲が無いと無理ですね。逆を言えば地頭と知識欲があれば教育機関なんていらないわけです。有名思想家などのレクチャーなどはネットでいくらでも見れますし、ポッドキャストなどでもどこかの大学教師によるレクチャーを何時間でも聞く事が出来ます。


つまりは重要なのは能動的な学習の態度と情報を取捨選択するリテラシー能力です。これが無いまま学校に行くと学生はバカになりますね。僕に言わせれば受動的な態度の人達が学校に何かを求めてしまうのであって、自分で出来る人達は最初から教育機関など当てにしないのです。レベルが低いと思えば学校に行かなくなりますね。で、自分で図書館に籠って独自に研究をしていたりするわけです。これがつまりは独学の態度ですね。


今は昔と違って学校で得られるような知識がネットや膨大な出版物から得られるわけです。もちろん先ほども書いたように情報を選択する能力というのが必要とされますが、それがあれば学校なんていりません。テクニカルなものを教える学校や技術的なものを教える学校などは別かもしれませんが、少なくとも知識系に関しては、少なくとも僕の意見では必要ないと思います。まぁ存在としてあるのは別に良いのですが、情報レベルで言えば、自分で得られる情報レベルと大学で得られる情報レベルの差なんて無いわけです。


なので大学に期待出来ることと言えば、凄い先生に会うだとか、凄いクラスメートに会うだとか、凄い可愛い子に会うだとかっていうことになってきますね。こればかりは一人で勉強していても得られないので、学術的なコミュニティとしての大学という価値はあるかと思いますが、日本の有名大学を出た何人かの知り合いの話を聞いていると、こういったコミュニティとしての大学のあり方は崩壊しているようです。ある人の話だと「合コンやりたい人間の巣窟」だそうです。


というわけで僕が知りたいと思うのは聖さんがおっしゃる「正しい教育」の定義です。どういった教育が正しい教育なのでしょうか?


・・・・って感じで今日のエントリーがこれなんだけどね、俺は聖さんの言っていることは分かるな。「やっぱフォーマルな教育って必要でしょー」っていう意見ね。でもさ、大学って考えてみると結局、先生って教科書に沿ったことしかやらないじゃん?で、専門的になるとその先生の何かに対するその先生のなんたら論になってそれはその先生の著作を読んでいるようなのと同じようになっちゃってさ、中立性もクソも無いんだよね。高度になればなるほどその先生の独自性が増してきて、んでレベルが低ければ基礎としての当たり前のことしかやらないっつーんでようは情報レベルがその辺で手に入る「なんたら入門」とかと同じレベルになるのね。んじゃあ果たして大学の役割って何なの?って話になるよね。


まぁ俺に言わせればさ、レベルの高い大学はともかく、中途半端な大学ってもう時代遅れなんだよね。勉強したい人は自分で勉強出来る時代じゃん?今って。自分で本を買ってさ、それこそアマゾンとかですぐ買えるわけじゃない?ましてやマーケットプレイスとかで破格で本を買えたりするわけじゃない?それは文化的なものに関しても同じね。これはまぁ社会学者とかが昔から言っていることだけど、ネット世代ってさ、こっちが求めれば全てがヘヴンなんだよね。映画から文学から思想から芸術からさ、ネットってのがある種のリゾーム的な文化資本のアーカイヴになっててさ、ようはそこから情報を引き出すリテラシーレベルがあればいくらでもどんな情報でも享受可能なんだよね。それは学術論文とかでもアクセス可能なんだからさ、強烈だよね。


ブログにしたってレベルが高いところではさ、ふつーの教師がふつーに喋っていることよりよっぽどためになるっつーかレベルの高いことを言ってたりするじゃない?すんげー簡単だよね。ブログ開けばさ、自分が行ってる2流大学の教師のレクチャーよりもよっぽど良い情報が得られるってさ、もう学校行く必要ないよね。最近の俺で言えばさ、まぁ半信半疑だけど速聴っつーのをやっててさ、ポッドキャストとかユーチューブとかに上がっているレクチャーを2倍速とか1.5倍速にしてウォークマンで聞くのね。で、2倍速が遅く感じられるようになったら次は2.5倍速とかさ、で、そのレクチャーってのがシュトラウスのやつなのね。前に貼ったでしょ?あれを落として、んでmp3に変換してシーケンスソフトで繋げてピッチを保ったままスピードを上げたやつをcdrに焼いて聴いてるのね。あとはアランブルームのインフォーマルな雑談チックな講義とかね、ようはさ、これってシカゴ大学のさ、名教授の講義をタダっつーとあれだけど、ウォークマンで聴いてるわけじゃん?


ユーチューブで言えばEuropean Graduate Schoolだったかでさ、ジジェクとかバトラーとかのさ、ポストモダン系の人達の講義とかさ、討論とかも見れるじゃん?で、俺と同じ手法でさ、別に速聴をしなくてもさ、mp3にしてI-podとかで聴いてればいいわけじゃん?少なくともコミカレの授業よりかはマシなのレクチャーを聴けるよね。でもね、ジジェクとかバトラーとかデリダとかじゃないさ、基礎が必要ぢゃん?って話になるけど、そんなもんさ、自分でやればいいんだよね。いやね、このEuropeanのやつとかはある程度やっぱ哲学の知識とかが無いと分からないよね。英語力とか語彙とかもある程度必要だよね。で、俺がどう勉強したか?っつーと独学だよね。まぁ勉強なんつー意識は無くてさ、別に知りたい事を知るということにコミットしていたら結果的に知識が増えて、んで割と高度なレクチャーも理解できるようになったってことなんだけどさ、別にこれってレクチャーに限らず本とかだって同じじゃん?ある程度知識が無いと理解出来ない本ってのがあるけど、それってのはさ、難しいわけじゃなくてただ予備知識が必要なだけなんだよね。


で、俺はそういう本を自分で読んでるし、学校から学んだことなんて何も無いしさ、まぁコミカレのリベラルアーツじゃ学べることなんて何も無いけど、でもね、自分が学びたいことが学べそうな学校を探したい!なんて気持ちは微塵も無いのね。それは例の哲学の先生に言われたさ、「知りたかったら今みたいに読み続けることだよ」ってことなんだけどさ、ようはこれだよね。先生もそうやって哲学をやってきたんだろうし、哲学なんて大体そんなもんなんだろう。逆に自分で読むということが出来ないやつなんて学問の才能なんて無いわけだよ。そういうやつがさ、「哲学科」っていう名前だけに憧れて大学に入るとかさ、所謂カッコ付きの「美大」とかも同じような気がするんだよね。全部の生徒がそうとは言わないけど、でもまぁそんな気がするし、そういうやつが実際いるのも間接的な情報から知ってるよね。


あとさ、学校の授業で何かの本の原典をみんなで読むみたいなバカバカしいやつがあるらしいじゃん?原典を1年かけて読むみたいなやつね。「は?」って感じだよね。そんなの自分で読めばいいじゃんって話だよ。なんで先生と他の生徒と仲良く一緒に読書しなきゃいけないわけ?自分で辞書片手に読めばいいぢゃん。なんで学校の授業でそれをやる?しかも一年かけて一冊?ウェーバーの原典を一年かけて一冊ってどんだけ生産性低いんだ!って話じゃん?だったら自分でやったほうがよっぽど早いわけ。何しろソースは一緒じゃん?ウェーバーなわけでさ、それ以上でも以下でもないよね。そこで先生の解説とかが必要なぐらい頭が弱かったらまぁお気の毒としか言いようがないよね。だからといって諦める必要は無いけど、まぁ難しいと感じたならさ、それこそまた腐るほどあるウェーバーの入門書とかを買ってきて読めばいいんだよね。


昔はラジオで流れてた曲が気になるっつーんで一日かけてその曲が入っているCDを買いにバスに乗って駅までいって、んで電車に乗ってタワレコにいってさ、んで夕方とか夜になって帰ってきてからそのCDを聴いてんでそのラジオで流れてた以外の曲はクソだったとかさ、一日潰してるじゃん?でも今ってさ、マイナー盤はともかくさ、メジャー盤ならいくらでもネットで試聴できるしさ、それこそmp3をワンクリックで買えるじゃん?その曲以外がクソだったっつーのもさ、試聴すれば分かる話だよね。買うのに一分もかからないわけだ。今は。前はCDだったらさ、そのために一日が潰れてたわけだよね?まぁそれがCDを買う楽しみでもあったと思うから、別に昔のあり方に批判的である必要は無いんだけどね。


で、それを学校の話にするとさ、今はネットでいくらでも質の高いレクチャーが見れるしさ、ワンクリックでちょい難しめの思想とか社会学の入門書なんていくらでも買えるし、ものによっちゃーイントロダクション的なものがネットのレクチャーで見れたりさ、あとは読めたりするんだよね。わざわざ交通費払ってさ、朝早く起きて学校に行ってんでウェーバーの原典をちょースローペースで読んでさ、んで終わったらまた膨大な時間をかけて家に帰るとかさ、その無駄な時間をウェーバー研究に捧げればいいんだよね。今はそれが自主的に出来る時代なんだよ。それは出版物の充実もあるし、散々書いたようなネットの発達もあるよね。通学時間3時間をさ、語学とか原典精読に費やしたほうがよっぽど良くない?ましてや外に出てさ、満員電車に揺られるだとかさ、バカなクラスメートとか教師の顔を見なきゃいけないとかさ、そういうのって機会費用という名の労力を必要とするじゃない?ようはそれで体力を使うんだよね。それで疲れてどーすんの?っていうところに体力とか労力を使っちゃう。だったら家から一歩も出ないか、近所の図書館に通いながら勉強を続けたほうが効率的で合理的で建設的だよね。分からないところがあればネットで調べればいいし、しつこいようだけど入門書の類なんていくらでも出てるんだからアマゾンで買うなり図書館で借りるなりすればいいわけだ。


もうさ、ウェーバーを仲良く読む会とかって必要ないよね。昔はそれなりに必要性があったと思うんだよね。竹田青磁西研がさ、ヘーゲルを読む会だったかさ、難解な哲学書を読むサークルみたいなのをやってたっつーじゃない?どっかのボロアパートの一室で。それって今より情報が少なくてさ、少しでもそれについて語れる人とか解釈出来る人がいればいいっつーようなさ、ある意味でのギリギリな状態で生み出されたコミュニティじゃない?でも今ってそういうのっていくらでもネットとかで代替可能だしさ、ネットなら家賃もかからないし、臭い部屋にむさ苦しい男達何人で集まって読みづらい本を読む必要はないわけだよね。


ってことで今はさ、大学なんつーのはもう教育機関としては時代遅れもいいところなんだよ。大学側もこういうネットの発展により大学の存在自体が危ぶまれてるみたいなことに意識的じゃないところが多いみたいだしさ、すんげーオールドスクールなままやってるよね。学校。でも生徒は気づいてるんだよね。「あんま意味ねぇーな」って。んじゃあ何が意味あるのか?っつーと俺が大学にわざわざ行く動機と一緒でさ、学歴だよね。コミュニティカレッジ卒は地下鉄へのトークンで、4年生大学でやっとチケットになるみたいな言い方があるんだけど、ようは教育機関の役割っつーかさ、機能ってようはチケット屋だよね。最近は大黒屋的なさ、ネットで簡単に学歴がとれますみたいなのもあるみたいだけど、別にさ、社会にしてもライブにしても入っちゃえば同じじゃない?そこにあるのは今は亡きマイケル・ジャクソンの生の姿だったりさ、会社だったりするわけじゃない?で、それを見るためにはチケットが必要ってことでさ、だから高くても買うんだよね。大学もそれと一緒だよね。


今回、聖さんがいうようなさ、学習者が自分に見合ったレベルの教育機関を選択出来るかは分からないみたいなことだけどさ、自分で選択出来るぐらいの能力があればもうそれはすでに大学なんて必要としてないんだよね。だって自分でやればいいじゃんって話だからね。だって学問って大学にいかなきゃできないことじゃないじゃん?写真とか芸術も同じだよね。絵なんてのも別に自分で描こうと思えば描けるし、書き方の本なんていくらでも売ってるでしょ。こういう環境でもさ、「学校に行かなきゃ」って思うのはもう甘えだよね。自分じゃやる気がしないっつーかモチベーションが続かないから、学校っつー機関に身を置いて、んで出される課題とかを受動的にこなしながらスキルを身につけたいみたいなさ、そういう構造だよね。俺はこういうのはどうかと思うし、前にチャイナタウンであったジュリアードだかバークリーで教えてたさ、引退した日本人の教授に一喝されたのがこれだよね。つまりはさ、俺がね、どっかの大学にとりあえず入りたいっていうようなさ、受動的な態度でいたからさ、「キミがなんのために勉強するのか考えてごらん」とかって言われたんだよね。こんな優しい言い方じゃなくてさ、かなり説教されたけどね。いつも書くけどその後に一度も会った事はないんだけど、この先生に言われたことっつーかこの先生に喝を食らったのは本当に良い転機になったよね。


ダサイ英語力でさ、新聞すらもロクに読めない俺に「あんたなんてその辺にいるペルー人とかと一緒だよ!情けない!」とかってすんげー怒られたんだよね。中途半端な英語力でフラフラしながら英語学校とかに惰性で通ってるように見えたんだろうな。そこまで俺は酷くなかったけど、でも今ほどシリアスじゃなかったからさ、そう見られてもしょうがなかったよねって気はするよね。「あんたもういい歳でしょ?ここで何やってんの?」「僕なんてキミと同じぐらいの歳の時にバークリーで教えてたんだよ」「40歳にもなって著書が一冊も無いなんていう人生考えられますか?」とかさ、凄まじいアジテーションだったよね。ドリームキラーとは真逆なさ、強烈に良いダメージを与えるドリーム生成アジテーションだったよね。俺はこの説教を肯定的に捉えててさ、ようはこの先生が俺を見込んでたんだよね。「あんたはこんなレベルにいる人間じゃない。なのにあんたは目的を作らずにただフラフラしている」っていうようなね、俺を見込んでいてくれたからこそしてくれた説教なんだよね。俺がエンプティーな本当のバカだったらこの先生は俺と最初から話さなかっただろうしね、わざわざ説教なんてしてくれなかったと思うんだよね。で、この先生は読む事の重要さとかさ、学校なんつーのは手段であって目的じゃないとかさ、重要なことを色々と教えてくれたんだよね。まぁ自明なことばかりだったかもしれないけど、当時の俺には突き刺さったんだよね。当たり前のようで意外に盲点になっている事っつーのかな?


で、その急所が今考えても思うようにさ、独学の精神だったと思うんだよね。学校とかはともかく自主的に図書館にでも通って英語に慣れる為にとにかく洋書を読みまくれっつーようなアジテーションはさ、つまりは英語学校なんかで学べることなんて全然なくてさ、結局、自分でやらなきゃダメなのよっつーような当たり前の事を言ってたんだけどさ、でもなんつーのかな?やっぱ英語学校に行けば英語が上達するだろうみたいな幻想ってあるじゃない?実際大噓なんだよね。学校もそうだけど英語学校もサプリメントだよね。自主的な学習があり、んでそれを補強してくれるのが学校だったりするわけでさ、学校に行けば何かのフレームワークを丸々学べるって思うなんて甘えもいいところなんだよね。


まぁそういうところもあると思うけどね。何かのコースを取れば必然的に知識が身に付いちゃうみたいな徹底してるところね。でもそういうところって限られてると思うんだよね。それこそレベルの高い良い大学でしかありえないと思うわけ。で、そういうところにみんな行けるか?っつーとそうじゃないじゃん?大体学費が高かったりさ、SATとかの点数がやけに高かったりさ、入学が大変なんだよね。まぁこれが聖さんの言う学習者が適切な場所を選べるかどうかは分からないってところなんだろうけど、でもさ、SATとか頑張るんだったらそのSATに命と時間と労力をすり減らす時間をさ、大学に入った後にやる学問に費やせばいいんだよね。ウェーバー研究したかったら自分でやればいいんだよね。学校に入らなきゃ出来ないような特権的なことってあんま無いと思うんだよ。マジで。大抵は自分で出来るはずなんだよね。そういう意味で昔は大学に入る意味があったかもしれないけど、今は自分でお手軽に出来るようになっちゃったからさ、昔ほどの大学の価値って無くなってると思うんだよね。


それはまぁ情報を売る場としての大学ってのを考えた時にね、その情報ってのがさ、大学が特権的に持っているような情報ってのがネットにもあるっつーかさ、流失してるっつーよりかはもっとオープンに流通してるわけだよね。だから専門的なさ、すんげークローズドな分野の研究に関してもアクセスしようと思えばいくらでもアクセスできるわけね。俺は実際、それをやってるしね、そういう本とかも自分で探して買ってるしさ、だから学校いらずなんだよね。だってさ、ハーバード大学政治学を教えてる先生の本とかが読めるわけじゃん?仮にその先生がさ、自分の本とかをテキストに授業とかやってたらさ、俺はそのテキストを学外で買って独自に読んでるってことになるじゃん?で、内容理解出来てたらさ、先生いらないよね。あと俺の愛読書ではさ、シカゴ大学から出てるシュトラウス編纂の政治哲学の歴史みたいな本があるけど、ああいうのもまぁ時間かかるけど自分で勉強出来るからね。それこそ学校のテキストとかで使われそうなぐらい分厚い本でさ、内容が充実してる本なんだけど、そういうのを買えてさ、いくらでも自分で勉強出来るんだよね。それ考えるとまぁ少なくとも文献という意味だと今も昔も変わらないね。他者の手を借りずに自分で理解出来るだけの地頭があれば学校や先生はいらない。


そこで疑問になるのがさ、例えば今回、聖さんが言ってたようなさ「正しい教育」なるものの存在だよね。テキスト通りにフォーマルに勉強するのが正しい教育なのかさ、ドグマティックに学問を理解することが正しい教育のあり方なのかさ、正しい教育機関っつーお墨付きをもらっている場所で行われている教育なので信憑性が高いだろうっつーようなさ、ただの教育におけるサンクション的な役割を果たすのが正しい教育なのかさ、分からないよね。俺の先生はレオ・シュトラウスであったりショーペンハウエルだったりニーチェだったりしますっつったらさ、恐らくこれらを越えることが出来る先生ってあんまいないよね。恐らく。元相方で言えば中江兆民であったりウェーバーであったり安部公房だったりするんだけどさ、なかなかこういうメンツに敵う人達に会える率って高くないよね。書物を通じて直に思想家なりなんなりと繋がることが出来るぐらいの感性と地頭の持ち主だったらさ、既存の教育機関なんてただの知識のブローカーっつーかさ、劣化した学問をディストリビュートするような俗悪なプッシャーでしか無いよね。純度の高いヘロインならぬ学問を売りさばいてる教育機関がどれだけあるのか?って相当疑問だね。学問の純度が高過ぎて昇天しちゃうぐらいのものを提供している教育機関がどれだけあるのか?って相当少ないと思うね。


だったら本屋とかで売ってる純度の高い学問を劣化無しに吸っちゃったほうが早いよね。吸い方とか打ち方が分かりませんっつーならさ、打ち方とか吸い方のガイド本なんていくらでも売ってるからそれを読んでから吸えばいいわけでさ、別に学校行かなくても純度が高い粉は手に入るわけだよね。元相方は大学の惨状を見て「学問がフニャチンにレイプされているのに我慢できなかった」って言ってたけどさ、有名大学でもこれなんだからさ、たぶん他もダメだよね。元相方は東大の大学院の研究室だか学会だかなんだかに出てきたっつーかさ、院生とかと話したっつってたけどまぁ全然ダメだったらしいからね。まぁそんなもんだろうって思うよね。別に何々大学にいるからって凄いってわけじゃないじゃん?まぁ普通の大学に行くよりかはマシかもしれないけど、最高学府だからとかさ、有名大学とかだからっつって神格化するのは間違ってるよね。アメリカでも有名大学っつってもunder graduateのレベルはさっぱりで金さえ払えればいくらでも卒業出来るってもっぱらの話だしさ、まぁそんなもんだよね。多分。学問に命を捧げてるやつなんてある意味で変態だからさ、学校なんかに行かないと思うんだよね。アウトサイダーだもんね。だって。


あとさ、思想的なことでも教師がさ、なぜ自殺はいけないのか?とかさ、生き甲斐とは何か?とかさ、人生とは何か?とかって教えられないじゃん?そういうのを学ぶには先人達のエクリチュールに直にアクセスして自分で思考するしかないんだよね。もちろん凄い先生に会えればそれは結構なことだけど、それって教育機関と自分という関係性よりかは、その先生と自分って言う個人的な関係性でさ、教育機関っつーのはただの媒介でしかないよね。んじゃあ教育機関が生徒に与えられるものは?っていうとパッケージされたカリキュラムとかさ、教師とかじゃん?で、カリキュラムは外でも独自に習得可能なものであったりさ、教師にしてもエクリチュールを介して直に繋がる事が出来るような凄い先人達に出会えばさ、あんま媒介としての教育機関ってワークしないよね。まぁ化学とかなら別だと思うんだけどそれは表層的なものね。つまりは研究機材とかさ、研究費とかっていうような物理的なものね。あとは技術的なものも同じね。肉体的なものを通してしか学べないものに関してはやっぱ学校って必要だよね。でも少なくとも知識を提供する場としてはどうかな?って気がするよね。ようは現代の教育機関のあり方ってさ、前にも書いたけど職業訓練施設的っつーかさ、エピステーメーよりかはテクネー寄りなんだよね。


で、国家イデオロギー装置みたいな話になるとさ、教育機関っつーのはそのテクネーの提供を介して大量の奴隷を作り出してるとかさ、まぁ俺はそう思うけどね。仕事をするのが良いことだみたいなさ、盲目的に労働は素晴らしいものだ!っつーようなイデオロギーを植え付けたりさ、就職することが何よりも重要だとかさ、大学2年目からもう就職活動とか就職準備をするとかさ、ハローワークとどう違うの?って話だよね。面接で面接官に良い印象を与えるっつーような意味での世俗的なテクネーを大学が提供したりさ、社会での立ち回り方とかさ、クビにならない人間関係の行い方とかさ、なんつーかそれって大学で教えることなの?っつーことが大学で教えられてる気がするね。「将来会社に入ったら・・・」みたいな前提で話が進んだりするとゲンナリするよね。就職へのステップとしての大学なの?ってゲンナリしちゃう。ってことは大学って就職準備機関だよね。もしくはモラトリアム機関ね。


正しい教育って何だと思う?ドクトリンの植え付け?従順さを学ぶということ?社会での立ち回り方?学校でしか得られないものってなんだろうね?俺は少なくとも成人しちゃえば最強なのって独学だとやっぱ思うのね。教育らしい教育が有効なのって恐らく小学校とか中学校だよね。ああいう発達時期に必要とされるのが教育ね。ようは教育らしい教育が必要とされるのは幼少期から青年期にかけてなんだよね。それ以上になるともう自分でやってくださいって感じになると思うんだよね。ならない人が多いのは分かるけどさ、ならない人が多いんだったら恐らく学問をやる場としての大学なんてもう無いよね。アメリカもそれは一緒だけど、社会へ入るためのステップっつーかさ、チケットを買う場所だよね。テクネーを教える場所なんだとしたらさ、それはまぁ大学っつーか専門学校だよね。養成所とかね。そういうのは必要だと思うっつーのはまぁさっきも書いたからいいね。でもなんか俺の印象だと美大とかにしてもさ、専門学校にしても学校があったから未来が開けた!みたいな話って聞いた事ないんだよね。大体専門学校とか大学に入ってさ、自分がそれに向いてないということを何年かかけて気づく事ができたとかさ、自分がやりたいと思う事に社会の受容が無いとかさ、まぁそれも学習なのかもしれないけど、なんだかなぁーって感じだよね。


くだらない受験文化無しのギムナジウムみたいな文化が形成されれば話は別だしさ、そこでまぁ俺が普段から言うエリート養成機関みたいなのも可能になると思うんだけど、俺の従姉妹が受験戦争に巻き込まれてるけどさ、まぁーすんげーナンセンスだよね。学校終わってから塾でさ、週末すらも塾ね。夏は夏期講習とかで、とにかく悲惨なぐらい金がかかる。で、その富と努力によって受験戦争に勝ち残るか否かが決まるんだよね。ようはリソースをつぎ込むことの差なんだよね。必要なのは。だからすんげーエンプティーになるのね。学問の本質とか楽しみなんて一切学べないし、なぜ学問が必要なのか?なんてのを垣間みる瞬間なんて一瞬すらもない。むしろそれに気がついてしまえばドロップアウトするしか無くなるよね。


そういう本質に目覚めたドロップアウター達がダメ扱いされるのが日本社会でさ、ましてやドロップアウトから挑戦するのって大変じゃない?正道はずれちゃったらもう外道みたいな文化っつーのかな?実際はドロップアウターとかのほうが正道を行ってたりするんだけどね。俺然り。俺みたいな健全過ぎるやつは汚らしいね、学問がレイプされまくってる大学みたいなのは不向きなのね。行っても不満しか残らない。まぁあとは俺に残された道はちゃんとした大学に行くってことなんだけど、ちゃんとした大学に行った人達が「酷かった」とか言っているのを聞くとちょっと唖然としちゃうよね。俺の中にかすかでもあったような大学神話が崩壊するっつーかさ、凄い人達とかさ、燃えてる人達がバリバリ勉強してる場とかさ、名物先生がいる場とかさ、まぁ幻想だけどあるじゃない?大学幻想って。そういうのが徹底的に打ちのめされるっつーのかな。まぁ現実はそんなもんだと思うけどね。学問を愛してるやつが変態扱いされるのが今の大学なわけでさ、俺に言わせれば大学のほうが変態なんだよね。でも変態のほうが多いから普通の人が変態扱いされちゃう。


こっちの大学っつーかまぁゴミカレでも感じることはさ、いつも書くようにただのリクワイアメントの充足なんだよね。これでこれでこれをやればこのコースにパスできて単位がもらえますっつーようなドライな感じ?学問の熱さとかさ、そういうのが一切無いのね。重点がリクワイアメントの充足に置かれてるんで、教師もさ「これをやってこないとグレードが下がるぞ」みたいなことばっか言ってるしさ、生徒もそればっか気にすんのね。なぜそれがそうなってるのか?とかを問わずに言われたことをやるだけになっちゃう。ようは暗記とかさ、言われた事を先生が望むように出来るようにすることがそのコースをやっていく中でベストなことという風になっちゃってるからさ、まぁそうなるんだよね。こういうあり方ってのが結果的にシステムに迎合するっつーか従属するような奴隷マインドを生み出すんだよね。直接的に教育機関なり教師が「奴隷たれ!凡人ども!」とは言っていなくてもシステム自体がそういうマインドを生み出すような機関になっちゃってるわけね。


言われた事をやって良いグレードを得るのが良い事なのだ!っつーイデオロギーだよね。俺みたいに「くだらん!」っつってボイコットするのとかがもう逸脱になっちゃう。でも俺のボイコットはいつでも健全なんだよね。だって明らかに無駄で意味が無いのって分かるじゃん?そんなものに時間を費やさないっつーのは生徒以前に人間として健全な態度じゃん?でもそれをやるとアウトになるんだよね。不条理なこともやらされるっつーリアル社会を生きていく上では学校ってその準備機関としては最高かもしれないけどさ、俺にはああいうのって奴隷作成プログラムにしか見えないんだよね。ただ俺はクラスとかでそういうのをアジるのはやめようって思ったね。冗談半分で言ってもさ、そこにやり甲斐とか目的を見いだしてる人の幻想を打ち砕くことになるじゃん?「はっ!」とさせるのは俺の役目じゃないからね。彼らのリアリティが従属にあるのならさ、彼らのリアリティを壊したらリアルそのものが壊れちゃって彼らの居場所が無くなるもんね。つまりは「なんで学校なんかに行ってるの?」って感じでアノミーになっちゃう。洞窟を出た後のケアとか立ち回りとかが分からない人をさ、むやみに洞窟の外に連れ出すのって良くないとまでは言わないけど、下手すればおせっかいになるからあんまやろうとは思わないんだよね。洞窟の中でやり甲斐とかさ、生き甲斐とかさ、全部がパペットマスターによる影絵によって作られた幻想だったとしても、それを信じて生きている人達がいるのなら俺はそれはそれでいいと思うんだよね。気がついた人達だけ洞窟を出ればいいわけでさ、無理に連れ出す必要は無い。


で、俺に言わせるとその「正しい教育」なるものは洞窟内でしか行われてない気がするんだよね。むしろ囚人達をパノプティコンで管理するためのbehaviorを植え付けるための奴隷作成機関っつーかさ、本質的な意味での「正しい教育」なんてものがあるとすればそれは相当反社会的なものだよね。そんなのがあるとしたらみんな俺みたいにすんげー反体制で反逆児になると思うんだよね。でもそういうのって既存の体制なりシステムは好かないじゃん?そういうやつは排除したいじゃん?だからアウトサイダーのレッテル貼りをしてさ、受け入れないんだよね。実は一番健全な人だったりするんだけど、社会的なラベリングとしては逸脱者なのね。社会学で言うところのdeviateっつーのがティピカルにアウトサイダーへのラベリングだってことがよく分かるよね。


既存の体制からもイデオロギーからも自由に教育を進めるためにはそういった穢れたものから身を引いて自分で自分の魂への配慮をしていくしかないんだよね。つまりは自分が自分自身のために魂を磨いていくしかないということで、それはまぁ一般的に言えば反社会的な行為であったりするわけ。まぁ見た目はニートであったり厭世的な怠け者に見えたりするからね。俺の場合、メンヘラーの引き蘢りの親の脛かじりのモラトリアムのニートの現実逃避のダメなやつみたいに見えるけどまぁしょうがないなって気はするよね。既存の概念から見ればそうにしか見えないからね。


ただまぁただのニートっつーかさ、ボイコットとアイデアっつーか哲学があるボイコットは違うからね。だから前にも書いたように引き蘢りはみんな繊細な人達なんだ!みたいな擁護論には賛成できないわけね。中にはそういうやつもいるだろうけど、中にはただの怠け者もいるわけでさ、ただ見た目は怠け者も俺も両者とも同じような感じに見えるってことでさ、まぁなかなか見た目とかでは判断できないのね。


もういいや。書きたい事書いたし。んじゃあまた。

「生きがい」とは何か 自己実現へのみち (NHKブックス)

「生きがい」とは何か 自己実現へのみち (NHKブックス)