kazさんへの私信。

mimisemi2009-07-23

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>kazさん


ニューヨークでの生活ですが、ちょっと補足をしておきたいことがあります。というのは学校のことなんですが、正直、僕は写真のことに関してはさっぱり分からないのですが、予想で言うと絵画とかデザインとか音楽のようなアート全般ということに関して学校で学べることは恐らくたいした事が無いと思うんです。


というか、なんというか、僕が思想というと大げさですが、哲学とか政治学なんかを読んでいても思うのですが、基本的に学問は独学でやることが出来るのであれば学校なんていらないわけです。むしろアートとか哲学とか思想などは独学の人達のほうが恐らくその分野に関しての可能性があると思います。


何が言いたいのか?というと、恐らく写真とかに関しても学校でやれることってたいしたことじゃないと思うんですね。というよりかは自分で文献なんかを集めて実践しながら勉強していったほうがよっぽど良いし、kazさんの雰囲気だとそっちのほうがあっているような気がするのと、恐らく学校に行っても失望するだけだと思うんですね。


ここにも度々出てきている「よーこ」と呼ばれている画家の人がいますが、彼女は完全に独学で絵をやっています。独学というよりかは表現が絵画に先立っている感じなんですね。表現の方法としての絵画があり、技法や表現方法としての絵を描くという行為があるわけです。僕の音楽とは言えない音楽も一緒ですし、波形編集やらシーケンサーの使い方やらなんやらは全部いじりながら覚えました。こういう一連のものを「デジタルミュージック」などという名前で学科として提供しているような学校もありますが、はっきり言って全て独学でやれるレベルのものばかりです。


こうなると恐らく学校というものが果たす機能というのはカッコ付きの「キャリア」でしか無いと思うんです。つまりは学歴ですね。「何々大学の何科を出ている」ということが社会的なアイコンとして機能するというわけですね。MBA然りです。ビジネスをやるのに学歴なんていりませんよね。思想をやるのにも学問をやるのにも学歴なんていりません。


ではなぜ彼らが高い金を払ったり労力を払ってまで学校に行くのか?というとやはり社会的なものと対峙するときに便利なツールとしての学歴というのが機能するからだと思うんです。頭が良いから研究室に入れるのではなく、博士号があるから研究室に入れるみたいな例っていくらでもあると思うんですね。あとは学会での発言権を得られるだとかなんだとかっていうようなまぁくだらない世俗のシステムとの折り合いですね。


「学歴社会なんておかしい」と言ったところで社会がそういったダイナミズムで動いているのであれば、結局、社会でやっていくためにはそういった学歴のようなものが必要になったりするわけですね。で、ここでちょっと考えてみてほしいのですが、写真の専門学校のようなところに行って得られる学歴って社会に対して有効だと思いますか?僕は一年ぐらい前までは哲学を専攻しようと思っていましたが、モスクワ大学とニュースクールの2つ博士号を持っている所謂、哲学博士の先生から「哲学の学歴なんて意味無い」と言われましたし、それ以前にも大学院でモダニズムとヴィトケンシュタインを研究して哲学のマスターを取った先生からも「なんであんなに高いお金を払って哲学の学位なんて取ったのか自分でも分からないわ」と言っていました。はっきり言ってヴィトケンシュタイン研究なんて特別な機材や材料などを必要としませんから、まぁはっきり言って自宅で出来るわけですね。もちろんアカデミックにやるかどうかは別にしても、例えばアカデミズムと折り合いをつけながらやるにしても、独自にアカデミックな線でのヴィトケンシュタイン研究というのを意識しつつ、独自に研究を進めるというのも可能なわけです。


たぶんこのヴィトケンシュタイン研究の先生が大学院で何をやっていたか?というと恐らく読書とか文献あさりだとか論文提出とかだったと思うんですね。所謂、研究における表層的なものも含んだ研究活動です。しかしながら研究のエッセンスというのを考えた時に果たして論文を書くだとか、アカデミズムを意識するということが必要なことなのか?というと相当怪しいものです。何の為の研究なのか?というのを考えた時に、それが例えばアカデミズムの中でヴィトケンシュタイン研究者として名を馳せることが目的であれば、アカデミズムの中にいながらシステムとの折り合いをつけて研究を続けることが有効でしょう。しかし研究の動機が例えば「ただやりたいから」ということであれば別にアカデミックな世界の中でやる必然性はあまりありませんね。僕はよく書くような夜間警備員をやりながら研究を続けるということだって可能ですし、学問というのは本来、そういった地味な知的生活の中で育まれるものだと思うのです。


その辺の動機がごちゃごちゃのまま大学院とかに行ってしまうと残るのは意味の無い学歴と借金だけになるわけですね。恐らく音楽とかアート関係も哲学の学歴と同じぐらいあまり意味が無いような気がします。研究だって思想だって極めれば学外からでもアカデミズムに挑む事は可能ですし、アカデミズムとは離れたところからずいぶんと高尚な哲学書の研究や翻訳をしている人なんかもいるわけです。音楽やアートなどは哲学や思想以上にこういった面が顕著だと思うんです。つまりは音楽の学校を出ているというようなファクターはどうでもいいことで、評価される基準は楽曲の善し悪しなわけですね。学歴とかキャリアは関係ありません。恐らく写真も絵画も同じだと思うんですね。


もちろん学校でお金になるような、例えばビジネス的なアートをやるにはどうしたらよいのか?だとか、ビジネス的な写真をやるにはどうしたらいいのか?というようなことは学べるかもしれませんが、これもまぁある意味で独自に習得可能なことでしょうし、何より学校を出るということがキャリアにならないのであれば、独学で何かを習得できる人にとって学校というものはあまり意味が無いものだと思うんですね。


kazさんの地頭は相当なものでしょうから、恐らく英語なんかも僕とは違って「ササっ」とマスターしてしまうのでしょうし、フランス語のような他の言語然りだと思います。ちょっと踏み込んだことを言わせてもらえば、その類まれなる頭脳を利用して学校に行くのであれば何らかのアメリカでやっていけるようなアメリカに対応したような手堅い職にダイレクトに繋がるような学科を専攻してキャリアとしての学歴を作るのがいいと思うんですね。時間があるかどうかはともかくとして、写真はライフワークとして一生やれるわけですから、今あえて急いで学校に行って習得する何かというわけではないと思うんですね。


アメリカで地盤を築こうと思うのなら変な話、一番手堅いのは他と差がつくような学歴なりキャリアを作る事だと思います。ようは変な学歴社会を逆手に利用してしまおうというような発想です。逆に音楽とかアートで勝負しようと思うのならモラトリアム的に学校に行っても仕方がないし、時間の無駄としか言いようがないと思います。社会科学や科学や化学などと違って、研究機関などを頼らなくても出来るのがアートであったり哲学であったりするので、こういったある意味で表現的なものに関しては学校を頼る必要は無いと思うんですね。それと比例するかの如く、表現系における学歴というのは社会的にあまり価値がないみたいですし。


僕の勝手なイメージで全てを語っていますが、アート系の学校なんてワナビーのモラトリアムの巣窟だと思うんです。表現に命をかけている人間なんてほぼ皆無だと思っていいと思いますし、美大を卒業した人などの話を聞いてもまぁ大体そんな感じみたいです。kazさんの求める何かが写真とかアート系の学校にあるのなら話は別ですが、滞在理由としての「学生でいる」という身分を作る為に学校に通うのなら、ついでに学歴がキャリアになる学校に通った方が賢明だと思います。ましてやアート系の学校は学費が高いですからリスクが大きくなると思います。アート系の学校に行く人が勘違いをしているのは、アート的なデザイン感覚とか色彩感覚とか音にしても音感だとかリズム感のようなものを学校で学んだり得られたりすると思ったりしていることですね。画家のよーこも僕も感性が鋭いのは恐らく生まれつきでしょうし、僕もよーこも表現に関わる部分では学校のようなものとは全く関わりがない関係のないところでやっています。で、よーこの場合、彼女の表現が日本の美術界で評価されたりしているわけです。といってもまぁ日本の美術界の腐りっぷりと言ったら半端じゃないんで、まぁ微妙なところですが、そういう話はさておき、やはり僕の意見としては地盤を築くに十分なキャリアをつめるような学校に通って高度な技術を学ぶなり、高度な学問的知識を学ぶなりして、個人的な知的ヘゲモニーを立ち上げることだと思います。


話は逸れますが、うちの妹は舞台美術が好きなので舞台美術を学ぶ為に美大に通って卒業しましたが、彼女が何を得たか?というと「私は舞台美術の演出には向いていない」という認識だけでした。だけというとちょっと言い過ぎですが、アートのような元々抽象度が高く個人的なものに関して学校で学べることなど所詮は少ないという事です。


リアルな話になりますが、資金無しでアメリカでやっていくには教育機関に寄生するやり方がベストだと思います。相当レベルの高いところになりますが、入学してしまえば学費免除のようなところもありますし、大学院とかのレベルになると生活費まで出るところもあります。あとは持ち前の誤学力と地頭を利用して奨学金を得るというようなことも可能かと思います。そういう教育機関に入ってキャリアになる学歴の為に学業をやりつつ、プライベートな時間は写真に専念するということは全然可能だと思います。


「写真をやる!」という目的論的なあり方に行動を左右され過ぎずに、「写真をやりながらアメリカでどう生活基盤を作っていくのか?」ということを考えながら行動をしたほうが賢明かと思います。「写真をやる!」ということだけで言えば写真の学校に通いつつ写真をやりまくるというような行動に結びつきますが、「地盤を作る」ということを考えると考え方も変わって来ると思います。それは夢を諦めるということではなく、夢を実現するためにはどういう行動ややり方が必要なのか?ということを考えながら行動するというリアルなコミットメントのことです。


僕の場合、哲学を続けるために恐らく哲学で学位を取るよりかはまだマシな政治学での学歴を取ろうと思っているんです。それはやることを政治学に鞍替えするということではなく、現実的に哲学的なものを続けるにあたってベストなものは何か?と考えた時に出てくるのが政治学というわけなんですね。哲学との相性やコンパチビリティはバッチリですし、学歴的にも哲学よりかはよっぽどキャリアになります。


しかしながらこれも哲学を続けるという方法論の一つなのであって、目的そのものではありません。変な話、目的で言えば今の僕は完全に僕がやりたいことを実行できているので大満足ですし、だからこそ状況がどうあれ自分の人生がかつてないほど充実しているわけです。まぁただの読書と思索なんですけどね。僕が今直面している問題は、どうこれを永遠に続けていくのか?ということですね。そこで経済的な自立とか市民権とかなんとかまぁリアルな事柄が浮上してくるわけですが、とりあえず学校に行くというのはオーディナリーなやり方ですが、僕の場合は有効なんですね。ではkazさんの場合、ニューヨークで写真の学校に通うということが方法論的に有効なのでしょうか?写真の学校を出れば就職に有利であるとか仕事の幅が増えるとかだったら「写真をやる」ということ以外の現実的な方法として有効だと思うのですが、卒業しても何のメリットも無いのであれば、それは独学でやったほうがいいと思うというのが僕の意見です。


なんか色々と繰り返しになっているのでそろそろやめますが、何かコメントがありましたらまた書き込みをしてくださるとありがたいです。なんで僕がここまでkazさんのことに干渉するのか?というと僕が勝手にkazさんのことを見込んでいるからです。どうでもいい人間ではないからこそなんとしてでも成功してほしいと思うので、あえて色々と書かせていただきました。留学生で大体失敗しているのは、計画が甘くて計画倒れになったり、計画が雑な為に資金が無くなったりして諦めざるを得ないというような人達です。そういう風にはなってほしくないと思うんですね。だからこそ手堅い道を進んでほしいと思うんですね。手堅さと保守性は関係ありませんからね。ラディカルなことを安全な道を歩みながらやっていくことは可能ですからね。壮絶な生活の中から出てくる極限の表現のようなものがあるので、あえて自分を逆境に追い込むみたいなやり方もありかもしれませんが、とりあえず僕の意見としては生活基盤は安定しているに越した事は無いと思うんです。生活の安定というのは根幹を支えることですので、やりたい事と同じぐらいの重要性でこれも考えてほしいと思います。まぁもうお考えになっているとは思いますが、なんというか僕が言いたいのは狡猾なやり方ですね。いかに国に侵入しつつそこでやっていくか?と言うようなことですね。


どこかの国ではアメリカの市民権を得る為にアメリカで子供を作って産むというようなこともしているみたいですし、ようはやってほしいのはこういうことですね。夢の実現の為の方法なら多少汚くてもやり尽くすみたいな精神ですね。どこの国でもナイーヴな人間は大抵失敗します。なのでkazさんには狡猾なやり方も含むアメリカでいかに永住権を獲得するのか?というような目的を定立させてほしいと思うんですね。それがあるのとないのとでは現実的な意識が全然変わってきますからね。それは僕の経験が立証してると思います。で、別にこれはアメリカである必要はありません。日本以外の国でやっていくなら必要なマインドということですね。「とにかく日本じゃないんだ」ということは確実みたいなので、このマインドは今の時点で持っていて損は無いと思います。まぁアメリカ的なフロンティア・スピリットってつまりはこういうことですね。


・・・・とまぁこんな感じです。コメントがあれば書き込みをお願いします。



PS


あとkazさんのブログなんですが、かなり前からずーっと定期購読者でした。で、僕が何気に結構尊敬されているというのは知っていましたが、変ななれ合いみたいなのが生まれるのが嫌だったので、あえてコンタクトを取るようなことはしていませんでした。で、まぁ結果的に良い感じでコミュニケーションが出来たので良かったと思うのですが、だからこそ改めてまた言わせてほしいことがあるのですがというかまぁ私信に対する補足なのですが、日本の学歴がアメリカで有効かどうかはともかくとして、無いよりかはマシなので、ここは安全パイを取るという意味でも日本の大学を卒業してからアメリカに来てもいいかと思います。ましてやあと2年とかで卒業で、しかも持ち前の地頭でやっつけ仕事みたいなのは適当にこなせるなら大学に在籍しながら短期滞在でニューヨークに来た後にアメリカ沈没を決めると良いかと思います。


で、勝手に色々とプランを植え付けてしまうようであれなのですが、万が一、どうにもならなくなったときでもやはり4大の学歴があるというのは無いよりかは全然いいわけです。僕は学歴が無い人間なんでそれがよく分かりますが、例えば学歴を積んで手堅く地盤を固めるというプランで行くと、例えば大学院留学という手もありますよね。写真の大学院科があるかどうかは分かりませんが、にっちもさっちもいかなくなったときにとりあえず学歴を利用して何らかの仕事につくというセーフティーネットを作るという意味で、日本の大学を卒業という地盤と、アメリカで高い学歴を作るという地盤を作っておいていいかと思います。


欧米などではというと知ったような口の利き方になりますが、生涯学習というのはかなりメジャーな考え方で、何も若い時に全てを決める必要はないんですね。リーマンを10年やってその後、経済的基盤を軸に写真を始めてみるだとか、ビジネスを始めてみるだとか、まぁ別に歳をとっても色々なことはモチベーション次第では可能なわけですね。というわけでまぁ写真の学校にしてもニューヨークで基盤を作ってから通うという長期的な作戦もありだと思うんですね。それこそ仕事をして市民になってから仕事やめて写真の学校に通うとかってのも可能だと思うんです。まぁ何十年単位のプランですが、それこそアメリカや外国で沈没をしようと思っているのなら、人生単位での巧みな人生設計が不可欠です。


「とりあえず行ってやれ!」というような放下的なやり方もありですが、はっきり言ってギャンブルです。僕の場合、前にも書きましたが、「とりあえず行きたい」みたいな青二才丸出しな願望は親の経済的基盤により可能でした。で、長期留学を決めたときも、まぁ経済的に無理だとは言われていましたが、ゴリ押しでオッケーになりましたが、支度金などは全て親に払ってもらいました。なかなかありえないサポートっぷりです。今はこっちに3年いることになりますが、総額で500万ぐらいはもう使っています。


こんな裕福なバックグラウンドがあって、やっと今の僕みたいな境地です。金を使い果たしてようやく腹を括る覚悟が出来たというか、ようはここまで色々と決めるのに時間がかかったわけですね。つまりはこっちに来てから色々と経験して何かを決断するまでにずーっと親のサポートがあったということです。で、今はというと、ようやく自分で道を歩き始めたという感じです。


kazさんの場合、親のサポートが期待出来ないということなので、プランは慎重に決めるべきだと思うんです。少なくとも僕みたいな呑気なプランは経済的に許されないと思います。だからこそヤバくなってもなんとか現地で立ち回れる何かを持っていったほうがいいと思うのです。それがまぁ無いよりかはあったほうがマシな日本の4大の学歴ですね。なのでとりあえずまぁ日本の大学は出た方がいいと思うんです。


kazさんの才能・地頭プラス安全な社会的バックグランドというのを全て兼ね備えてから沈没というリスキーな手段に出ると良いと思います。日本の学歴が何の役に立つのか?という具体的な質問には答えられませんが、少なくとも今の僕が言えるのは「無いよりあったほうがいい」ということです。


あとやはり忘れてほしくないのはというかまぁ忘れる事は無いでしょうが、なんだかんだ言っても僕がこっちでやっていけているのは親の支援があるからなんです。これを完全に自立してやってたらマジでかっこいいなって自分でも思いますが、引き蘢って読書に没頭だとか、四六時中何かを考えているだとか、学校で起こる恋愛に一喜一憂しているだとか、こういうのが全部親のサポートによって可能になっているというのを念頭においてほしいんですね。ようは僕の今の生活は親のサポートが無くなれば実行不可能になるわけです。


親の支援が得られないkazさんは僕のようなゆったりプランを実行することが不可能なのは目に見えています。まぁゆったりプランと言ってもそろそろヤバくなってきているので、借金をしないといけなくなってきていますが、借金にせよ親名義で借金をするので、これまた親の支援ということになるわけです。何もかもが親だらけですね。なにも自分でやっていない。やっているのは自分の生活ぐらいです。


そういった甘ったるいサポートを期待出来ないkazさんには本当に慎重に海外沈没を検討してほしいと思うんです。つまりは一過性の「日本をとにかく出たかった」というような衝動的な行動ではなく、その衝動も日本への不信感も全てを海外生活という目的に昇華して動いてほしいと思うんです。衝動的な行動を行えるのは甘ったるい親のサポートがあるプチブル出身の子供達だけです。親のサポート無しで若者の突っ走りをしてしまうと面倒なことにもなりかねないので、徹底的に石橋を叩いて渡ってほしいと思うんですね。まぁ変な話なんですけどね。リスキーというか先行きが分からないものに対して慎重に行くというのは。でも前にも書いたかと思いますが、ラディカルで向こう見ずなことを安定した生活基盤の中で行うことも可能というか、そっちのほうが結果的に結果に結びつきやすいと思うんですね。生活が苦しくて先行きが分からないからどうにでもなれというような精神でわけのわからないことをやるのと、わけのわからないことを計算し尽くされたプランで実行することは全然可能なんですね。


ラディカルさとか激しさというか強度みたいなのは苦しい生活とか崖っぷちの状況でしか生まれないというのも分かります。というか僕の場合、親の経済サポートがあっても、元々まぁ精神病院とかにいなきゃいけないぐらい精神的にダメな人間なのでまぁ常に崖っぷちなので常に崖っぷち精神が発揮出来ているというのはありますが、これは精神的な面での話で、物理的な面ではまだまだ崖っぷちではないんです。まぁ結構崖っぷちになってきましたが、物理的な要素が崖っぷちになってくると精神面が崩壊する可能性があります。つまりは僕の背水の陣というのは、僕の崖っぷちなメンタル面での葛藤を親のサポートを元に実行しているという感じなんですね。なので経済サポートがあっても崖っぷちでいられるんです。


つまりはある程度安定した基盤で危ない人生を送るということですね。安定していないから安定していない生活を送るのではないということです。で、何をやるにしてもまずは衣食住が必要ですから、長期戦を考えた戦いに挑んでほしいと思うんですね。「行ったけどダメだった」というような一瞬の出来事ではなく、決断や行動の結実に相当時間がかかるかもしれないながらも、着実に目的に進んでいけるような地盤を築いてほしいと思うんです。今、僕が築こうとしている基盤もまぁこういうものです。


なんというか人事だとは思えないので、色々と干渉させてもらっていますが、とりあえず大学を辞める事に関してはちょっと思いとどまってほしいと思います。思いつきですが、例えばニューヨークやパリで写真を続けるために結局生活基盤を作らなきゃいけないんで結果的にどっかに勤めないと話にならないということになったとしましょう。で、日系の企業とかに求人があったときに日本の学歴が有効になるということはまぁ考えられなくもない話ですよね。懐刀を持っていくぐらいの感覚ですが、僕が言いたい無いよりマシというのはつまりはそういうことです。


買いかぶり過ぎかもしれませんが、kazさんの地頭ならどこでも通用すると思うんです。だからこそ無駄なところで失敗してほしくないと思うんですね。成功出来る海外沈没だからこそ、慎重にやってほしいと思うんです。


というのがまぁ補足でした。