久々に外に出てみたので。

mimisemi2009-08-18

アメリカに来てから一切、誰とも会ってないし喋ってないってことでやっぱあれなのかね、アリストテレスが言うように人間ってのは生来的に政治的な動物でさ、それが仮に政治的な意味を持つ連帯ではないにしても、所謂、デュルケルム的な意味でのソリダリテが無いとやってけねぇーっつーかダメになったりするのかもね。これだけアイソレーションが好きな俺にしたって人と会ってなかったり社会と接点が無いと寂しくなってるのかね?って思ったのがさ、今日はまぁ重過ぎる腰っつーか体を上げて学校に行ってきたっつーかまぁ書類関係のことなんだけどね、で、またスコットに会ったんだけどまた色々と話せてっつーか精神検査のことでちょっとどういうプロセスを踏んだらいいのか?とか結局、安くやれるところは無いわけ?とかさ、色んな意味でまぁちょっと困ってたっつーのを色々と喋ったら協力してくれるっつーかまぁ色々と教えてくれるらしいっつーかなんつったらいいのかな?まぁとにかくあれだよね、アメリカってやっぱ基本的なセーフティーネットとまではいかないけども、なんつーか障害ってことに関しては凄くセンシティブっつーか適切な配慮を社会がしなきゃいけないっつーデフォルト設定があるね。


日本の場合、「なにそれ?」とかさ、「頑張ってね」とかさ、「困ったもんだね」とかさ、なんつーか鬱とか言おうものなら誰も雇ってくれないみたいなのってあるじゃん?まぁ一般化は出来ないんだけどまぁメンヘラーに対して冷たい国だよね。それに比べてこっちではっつーかアメリカではちゃんとした診断書があれば学校から精神障害として認定されて、例えばテストを一人で受けさせてくれるとかさ、色々な配慮をしてくれるっつーんでようはさ、精神病が原因で登校拒否になってるやつとかも診断書出せばそれなりの学校の通い方っつーのを個別の症状に合わせて調整してくれるっつーのがあるんだよね。それがすげーなって思うわけ。


精神病って隠さなきゃいけないみたいな感じあるじゃん?でもアメリカではっていうとまた一般化のし過ぎかもしれないけど、だったら書類を提出して適切な処置を受けてくださいっつーデフォルト設定があるのが凄いよねって思うわけ。今日話したらさ、フルタイムがキツかったらパートタイムでもオッケーになるような処置も考えられるみたいなことを言われて凄いなって思ったね。まぁ無理だけどね。金に余裕が無いからとっとと卒業しないとダメなんだけどさ、でもそういう配慮がケースによっては出来なくもないって凄いよね。留学生は必ずフルタイムじゃなきゃいけなくてさ、12クレジットを必ず取らないといけないんだけど、ようはパートタイムでもいいならその半分とかね、ようは週2とか3とかでもいいよって言ってるわけよ。2クラスとか3クラスだけ取りながらゆっくり続けるって手もあるよみたいなさ、まだ出来るとは言われてないし、出来てもやれないけどね、でも金があるメンヘラーにとっては最高だよね。ゆっくりゆっくり学業を進められるんだからね。


で、まぁ何が言いたいのか?っていうとスコットと色々と喋れてなんつーかちょっと気分が晴れたんだよね。ふさぎ込んでた感じがまたちょっとオープンになったみたいな。やっぱ俺って人が嫌いとかいいながら人が必要なんだよね。喋れる友達とかアドバイザーとかカウンセラーが必要なんだと思うね。一人だと結局、まぁ思考が深くなるのはいいんだけど結局、いつも行き着く先はニヒリズムなんだよね。「何のために生きてるわけ?」っていうことになっちゃう。いや、そこで俺は能動的ニヒリズムを提唱してはいるけどさ、でもこの人生を覆い尽くすmeaninglessっつーのかな?生活のためにみんな必死で食料品が高く感じられて収入が少ないみたいなさ、まぁ社会のせいには出来ないんだけど、なんつーか普通に生きられないっつーのがキツいよね。まぁ簡単に仕事がある世の中なんてもう無理なのかもしれないけど、実存レベルでもやっぱ人生に対する虚無感ってあるじゃん?何のため?っていう。それプラス不安定な社会情勢ってなんかニヒリズムに追い打ちをかけるようだよね。俺はぬるま湯に浸かってるから甘ったれたことを言い続けることが出来るなんて言われそうっつーかまぁキャリさんとかは言うじゃない?でもさ、仮にさ、俺が派遣労働者っつーかあの切られたらもうホームレスになるしかないみたいな状況になったら完全に気が狂うと思うね。環境が変わったところで強くはなれないよ。やっぱそれは生来的な精神の弱さというよりかは繊細さがあるからさ、壊れやすさってあるじゃない?vulnerabilityね。割れ物注意シールを常に貼っておかないと中身がダメになるみたいなさ、でもまぁ繊細過ぎるっつーのもまぁどうなのかな?って気がするよね。


適度ならいいんだけど、過ぎると社会生活送れないじゃん?ずーっと本読んでていいよっつーかさ、勝手に研究してていいよみたいなさ、半ニート生活みたいな生活を送れるような職業って無いかね?研究者って半分ニートみたいなもんだって知り合いの知り合いが言ってたけどそれって学部によって違うじゃん?なんかさ、ひたすら本を読んで何か書くことだけが仕事っていう仕事無いのかな?これだったらまぁ俺は文章には問題があるけどまぁ天職だよね。小室直樹みたいな行動的禁欲でずーっと研究みたいなさ、まぁ小室直樹ってクソ貧乏だったらしいからね、まぁあれって頭が良過ぎるせいで貧乏になってる感じだけどさ、でも結局、あの人ってまさしく碩学の人じゃん?ああいう風になりたいね。まぁ貧乏である必要は無いんだけど、ずーっとひたすら研究って生活を死ぬまで続けたいな。それさえ許してくれれば俺はオッケーなのだよ。マジで。それをどうすればいいの?って話でさ。週3ぐらいでスペシャリティの部門のレクチャーをやったりしつつ、あとはずーっと研究とか無理なのかな?っつーか俺じゃ無理なのかな?エキセントリック過ぎる?でも学者とかってエキセントリックな人多いんでしょ?だとしたら俺は超一級だと思うけどなぁー。


でもアメリカって政治学とか哲学にしても研究のレベルが高いからなかなか大変そうだよね。最新の研究とかにキャッチアップしていくだけで大変そう。俺は俺で勝手にやりたいんだけど研究者とかになると一応、業界のことも知っておかないといけないみたいなんでさ、雑誌とかにも目を通さなかったりしなきゃいけなさそうじゃん?だとしたらキツいな。俺は他人の研究には興味が無いからさ、そういうのを強いられるのは嫌だなぁー。だから結局今みたいな感じで自宅で読書が一番いいんだよね。ただこれは職業じゃないじゃん?ベストなエデュケーションではあるんだけどなんつーか社会的にダメじゃん?そういうの。お金をなんとかしなきゃいけないからね、問題はそれなんだよな。マジで。で、今日はウォルツァーの政治理論系のエッセイを集めたThinking Politicallyって本とプラトンケンブリッジガイドを買ってきたんだけどさ、最近正直本って結構買うの無くなってきたんだよね。もう手元にあるやつで十分っつーかさ、結構やっぱ政治哲学にしてもそこそこ知識が溜まってきたからベーシックなやつとか全然読む気しなくなるよね。


知ってる事ばかりが書いてある本とか読んでもしょうがないじゃん?だからまぁ専門書みたいなのが多くなるんだけど、そうなると逆に量は少なくなるよね。一冊の本のボリュームは凄まじいものがあってさ、一ヶ月で1冊読めるの?ってぐらいの量があったりするけど、でもコストは安いんだよね。30ドルぐらいの本で500ページ活字がギッシリってさ、コストパフォーマンス良いよね。日本の場合、仮にこういう本の翻訳が出るとシュトラウスの僣主制についてじゃないけどさ、上下分かれてんで1冊5000円とかになっちゃうんだよね。全部で一万近いみたいな。そういう意味で洋書はコストパフォーマンスは最高なんだよね。読破が大変だけど。前にも書いたけどやっぱ洋書と日本の本の違いってやっぱ圧倒的な量とディティールだよね。日本語で出てるやつって中途半端だったりパンフレット的なものが多くてさ、まぁ新書とかそうだけど、でも洋書っとか英米系のはさ、新書ぐらいのノリでディティールギッシリで読むの大変みたいなのがすんげー出ててある意味で量買わなくて済むから安いんだよね。マジで。ルートレッジガイドとかさ、ケンブリッジガイドはもっと専門的だけど、でもケンブリッジとかあの量で30ドルとか安いよ。マジで。


本を買うピークは越した感じだからある意味でまぁちょっとは生活に余裕が出てくるかもな。今後は。でもやっぱさ、金が限られてても消費欲ってあるから怖いよね。1万ぐらいでも自由になる金があるとセーブしておけばいいのに使いたくなっちゃうんだよね。それがイカンのだけどさ。いや、でも色々と克服したよね。レコードとかCDを一切買わなくしたっつーのはやっぱ大きかったしさ、あと他にも無駄な出費ってのは徹底的にしないおかげで結構な量の本を買えたわけじゃん?で、その本とやらもある程度気になるやつは買えたんでさ、もうここ2年ぐらいで500冊とかいっちゃったけど、でもこんだけ買うともう結構無くなるのよね。カントとヘーゲルハイデガーフッサールとかの現象学系とかはもっとdig deeperにならんといけなくてまだちょっとは買うと思うけど、でもまぁ全然いけるっつーかそれこそ細かく買わなくてもまとまった分厚い研究本とか出てるから一冊で済むんだよね。なんかあれかもね、哲学とかって書物が膨大になるイメージがあったけど意外とそうでもないね。機能的に必要なものだけ読めば意外と本は多くならないかもしれないなと思ったね。


まぁあれだな、当面はプラトンシュトラウスは相変わらずであとはマキャベリハイデガーフッサールを含む現象学全般になりそうだな。どれもこれも簡単じゃないんで時間がある俺でも時間がかかるサブジェクトばっかだから、あんまもう乱読とかはやめて精読に入ろうかなと。あとはあれね、ルクレティウスとかエピクロスみたいなストイシズム系を読んでいこうと思ってるね。これはまぁ前者に比べたら相当楽だわな。あとはまぁ今回も名前が出てきたウォルツァーみたいなね、所謂、コミュニタリアンと呼ばれている人達の一連の著作を読もうかなと思ってるのね。マッケンタイアのAfter Virtueってのは持ってるんだけどちょっと難しくて後回しにしてる感じなんだけどね。あとはまぁサンデルかな。あと読もうと思ってまた読むべきやつが読み終わってないんで取り組めてないコノリーね。コノリーのやつも一連のやつは全部押さえたいね。


いやさ、自分でも凄いと思うよ。勝手にカリキュラム組んでやってるんだからさ、なんつーか勝手にやらせてくれって感じなんだよね。放っておけば俺は勝手に本を読むからさ、放置プレイでオッケーなんだよね。いやーそれにしても特にプラトンはすんげー時間かかりそう。スタンレー・ローゼンの本も読むのが大変そうだし、何よりまともにプラトニックダイアログは読んでないでしょ?俺。それを読むのにも相当時間がかかりそうなんだよね。あ、あと忘れてた。ホッブズはもうシュトラウス並にレパートリーに入ってるんでこれはコンスタントにやっていくよね。で、ルソーとかロックみたいなのはもう肌に合わないんでやらないのね。必要があれば読むけども。あとはスピノザの国家論とかもまともに読んでないんで読まなきゃな。あ、それで言えばドゥルーズスピノザ論とかは放置プレーになってたんで読まなきゃな。ドゥルーズは好きじゃないけど、彼は哲学研究者としては超一級なんでニーチェのやつも読みたいよね。あとはアルチュセールマキャベリのやつを再読したいのと、あとFor Marxをまともに読んでないからちゃんと読みたいのと、あとはVersoからアルチュセールの後期のライティングを集めたやつとかが出てるんでそれも読むね。いやさ、頭の中に読むリストみたいなのは常に入ってるのよね。家にツンデレになってる本も含めてさ、ただなんつーかやっぱ政治に偏りすぎてるから飽きるんだよね。ずーっと社会とか国家の話とかばっかだと飽きるじゃん?だからたまに精神分析系とか宗教系とかあとは愉快なエッセイとかさ、そういう脇道にも逸れたくなるんだよね。


でもなんか消費は一段落した感じだな。マジで。本もマジで前みたいに大量に買う必要は無くなったしさ、本当に良かったなって感じね。そう思うと俺って読むのとか吸収が早いよね。良い事だ。マジで。それにしてもウォルツァーのThinking Politicallyっつー本はさ、まだ最初のあたりしか読んでないけど凄くいい感じだよ。政治哲学とリアルポリティクスのバランスが絶妙っつーかね、でも政治哲学寄りで凄く俺の肌に合ってる感じね。俺って政治っつってもリアルな数字とかが出てくるようなさ、統計とかさ、外交がどうのとかね、地形がどうのとかさ、geopoliticalみたいなやつ?ああいうのには全然興味ないのね。経済がどうのとかもあんま興味無い。政治を考える上で必要なことなんだろうけど、でも興味が無いからしょうがないよね。なんつーかだからなんつーのかな?政治理論寄りなのね。俺。政治思想とか政治哲学寄りっつーか。だから4大に入れたらあれなのね、まぁ政治学を専攻するっつーのはもう書いたけど、メインでやりたいのは政治理論とか政治思想なのね。これはもう本当に俺のストライクゾーンだね。


まぁやりたいっつーかもうやってるし学校入ってもどうせ基礎からだろうしさ、たいした事やれないと思うけどリベラルアーツよりはマシじゃん?差別的な言い方になるけど4大のほうが可愛い子多いかもしれないし。学校でも政治理論の講義を聞いてプライベートでもさっき挙げたような本を読むってもう鬼に金棒だよね。気違いに本とはまさしくこのことだ。頭では完全にビジョンが出来てるんだけど、まぁあとは英語力だよね。いくら読めても書けなきゃ意味ないからね。どんだけ洗練された思想を持ってようがそれを英語でアウトプットできなきゃ学校でやってけないじゃん?だからホントこれに尽きるよね。ウォール伝みたいな感じで書いてもいいならいくらでも書けるけどさ、あ、英語では無理だけどね、でもね、英語ってまぁ身に付いてきたのかもしれないけど、なぜかさ、日本語じゃ絶対書けないようなまともなある意味でガチガチの堅いエッセイとか書けるんだよね。まぁそれはエッセイの書き方とかに沿ってやってるから当たり前なんだけど、でもなんつーかさ、メソッドってのがあってそれに沿えば書けるようになるってまぁシステマタイズじゃん?システマタイズの良いところってこれだよね。ルールをフォローすれば誰でも書けるようになるっつーのがやっぱいいね。システマティックライティングというかなんというか。


やっぱアルチュセールのさ、国家イデオロギー装置のエッセイでクラスでトップの点が取れたっつーは自信がついたよね。まぁコミカレレベルだからアレなんだけど、でもファーストステップとしてはナイスっつーかガチで政治系のエッセイを書いたのはあれが始めてだったからさ、それで高得点だったのが凄く嬉しかったな。ようはプライベートで趣味でやってる読書で仕入れた知識を学校のエッセイとかで活かすことが出来れば最高に機能的なんだよね。そうなると普段のダラダラしてるように見える趣味の時間も全部勉強になるじゃん?ある意味で。知的リソースの仕入れっつーかなんつーかさ、俺は仕入れのつもりでやってなくて単純な知識欲なんだけど、この趣味が学校の課題とか学科に活かせると趣味と実益の両立が可能になって最強になるんだよね。プランはバッチリだからあとは英語だけなんだよな。だからマジで英語頑張ろっと。


ってことで今日はこの辺で。なんか今日は本当に日記っつーかさ、いつにも増して個人的なモノローグになったね。今年の抱負を然るべき時期の半年後ぐらいにやったみたいな感じ?


あ、んでカントなんだけどさ、いや、カントじゃなくてもいいや。カント的な話になるけどね、今の自分の実存がさ、過去からの自分という時間軸とか過去の空間性みたいなのを想起して取り込むことが出来るということで成り立っているってなんかアインシュタイン的な構造じゃん?縦軸の周りをグルグル回ってる実存みたいな。でもさ、経験的な要素がある実存ではなくても存在自体は存在じゃん?統覚が介在していない実存というのもありえるよね?それは俺が俺であるというような自我からはほど遠いにしても、その人がそこに存在しているということの規定はさ、その人がそこにあるという事実から生まれてくるものであって、まぁちょっと唯物論的なのかもしれないけどさ、でもそれも実存というかまぁ存在だよね?ニーチェだったっけ?自我なんてものはイリュージョンだって言ってたの?


自我としての存在を信じるということから実体ということに関する信仰が生まれて、んでその信仰を全ての事物の中に投影して、んでその結果、事物という概念を作り出すみたいなさ、まぁ違うかもしれないけどちょっと付き合ってほしいのがマルクスの物象化とかもさ、ある種のイリュージョンじゃん?まぁね、商品と商品の関係性とか商品と人間の関係性とかもさ、人間で言えばさっきの繰り返しになるけどさ、自我を信じるということから実体という事に関する信仰を生んだ結果、その信仰を事物の中に投影して事物という概念を作り出すっていうイリュージョンから来たものが概念化されて、あたかもそれが実際にあるかのように感じているというのが人間で、マルクスの物象化も然りで人と人との関係性とかさ、ようは事物の関係化が物象化じゃん?言い直せば事物の関係化によって表れてくる現象だよね。


自我という価値があると教えられた人間が植え付けられるドグマは、自我信仰を事物の中に投影するということを無意識のうちに行ってしまうというダイナミズムを意識の介在無しに行わせるものであってさ、それプラス商品の物神性とかが関わってきて、自我投影によって行われる物神性を帯びた商品によって出てくる関係性という現象であったりさ、つまりは消費するってこういう現象だよね。全てがイリュージョン。その良い例が俺の昔のレコード買いね。「これはレアだ」みたいな価値観でひたすらレコードを掘り続けるっつーかさ、これもまぁ物象化の一種だよね。ようは商品と現状の価値判断によって生まれてくる関係性の中に巻き込まれることでレコード掘りをし続ける俺ってのはもろにその物神性とか物象化の関係性による現象に巻き込まれているわけだよね。


でも実際の価値というのはさ、まぁ考え方次第だけど俺がその音楽を聴きたいのかさ、好きなのか?ってことなわけで市場の価値とかレア度じゃないじゃん?でもレア度とかで競い合うヴァイナルジャンキーって物神性によって作られた関係性のイリュージョンに巻き込まれてるってことじゃん?恐らくね、自我とかは別としても実存レベルであるlikenessみたいなさ、好きの傾向性っつーか好きと思う事ってのには自分とやっぱり一番近い感覚なんだよね。そこで商品との関係が生まれてきてもそれはまぁある意味で自分のlikenessと商品との関係性でそれってまぁ恋愛みたいなもんで美しいものだよね。本当にそれが好きだから買うわけでさ、で、まぁ不健全っつーかアホな消費がさっき書いたような消費だよね。他にも流行とかさ、ブランドとかもまぁ全部物神性とか物象化の所産じゃない?そういうイリュージョナルな関係性によって生まれてくる消費者と商品との関係性における現象だよね。それが資本主義的消費だよね。


資本主義が基本的にこういうイリュージョナルな消費によって成り立っているのであればさ、消費をしなくなれば社会が回らなくなるのは当然だよね。つまりは人々が物象化とか物神性とかを理解しちゃえば景気がどうだろうが金なんて回らなくなるんだよね。消費なんてのは例外を除いて大抵がイリュージョンなわけでさ、だからこそ物欲塗れなモブ達によって消費が担われないと資本主義は成立しないからさ、だからこそ縦の力での消費への物語を作ったりさ、広告という名のプロパガンダとかをガンガン流すわけだよね。人々がprudenceとかtemprenceみたいなのを理解して実行し始めたらまぁどの道、社会は崩壊するんだよね。


今の景気の後退でさ、逆に消費が出来なくなったことで意外と消費なんてしなくても生活していけるんじゃん!ってのに気がついた人は多いと思うんだよね。別に実際、本当に必要なものなんてさ、それだけ買ってればそこまで金はかからないわけでさ。だからまぁ若者の車離れとかもまぁある意味で不景気による節制が生み出した物神性破壊だよね。買いたくても買えないっていうのがあったんだけど、今はどちらかと言うと買えてもいらないって感じじゃん?まぁそういう人ばかりではないと思うけどね。買いましょうって促されていたり買う事がステータスだと思っていた世代が上の景気が良い時に育ってきた世代の価値観なんだとすれば、状況的な要素によって現実主義的にならざるを得なかった若者達がその幻想を無意識的に打ち砕いたって感じだよね。元々そんなものはいらないし、ステータスだなんてのも大噓でただの幻想だったんだ!ってのが露呈してるよね。そういう人が増えたかどうか分からないけど、そういう人もいるわけで、どの道、今後今までみたいなペースで商品を売ろうとしても無理だね。節制を知って利口になった若者に無駄遣いを促すプロパガンダはもうワークしなくなったってことだよね。いや、そうだと信じたいよ。


いや、なんかマジで分け分からん。何が書きたかったのかさっぱり分からん。ってことで今日はこの辺で。


PS


ようはね、あ、実存なんだけど、実存というのは自分という存在を知るということから生まれてくる認識によって規定されるのか、客観的に廃人であろうが植物人間であろうが存在する俺は確かにそこにいるということで存在するのかさ、もちろん全ての存在とか実存という概念は内的経験によってでしか知覚不可能だけど、かといって実存というのは概念を越えたレベルで物質として空間に存在しているじゃない?他者によって知覚された自分も世界も知覚していない俺の存在ってまぁ死体みたいなもんだけど、死体もまぁ存在だよね。ただそれは他者によって死体とか廃人だと認識されることで生まれてくる存在性なんであって、客観性といえどもその客観性を担保する存在が必要なんだよね。で、それは常に個人の知覚によって行われるわけだよね。知るとか見るということで存在性が規定されるなら、例えば死人は存在しないことになるよね。でも墓の前に立つとその墓の主の現前性みたいなのがそこにあって、その人がいたという存在性が他者によって生み出されるよね。つまりは実体はなくても概念のレベルで存在というのは知覚可能なんだよね。


まぁ実存と自我は違うからごっちゃにするとアレなんだけど、やっぱ自我はそれがイリュージョンであれ存在している自分を認識している自分がいないと成立しない概念でさ、まぁだからそれが認識能力への関係へと還元されるんだよね。だからつまりは存在性ってあり方だよね。つまりはさ、精神的で抽象的な概念なんだよね。存在性とか実存って。客観的に自分は存在するということを主観でしか言えない時点ですでに自我ってのは抽象的な概念だよね。


なんかちょっとまとまらないからダメだ。やめるわ。


Thinking Politically: Essays in Political Theory

Thinking Politically: Essays in Political Theory