「で、なんで数学に目覚めたの?」っていうことに対する内省。

mimisemi2009-09-15

数学に目覚めたって書いたけど、まぁいつもさ、俺の場合だけど、哲学にしろ学問全般がまぁある種の現実逃避じゃん?ずーっと色々考えてるっつーのもまぁある意味でイデアに逃げてるわけでさ、妄想が高次化していくとそれが哲学になったり理論になったりするんだと思うよね。だからまぁ基本妄想なんだよね。だからレベルが低いものだと誇大妄想だとかって言われるわけ。で、凄いものになると哲学の新次元とか理論の高次元とかになるわけね。学術的なものに立脚した妄想ならそれが全部哲学か?というとそうではなくて、学術的な知識に立脚したオカルトとかだっていっぱいあるじゃん?イエスの奇跡を物理学で説明するとかあるじゃん?


逆に電波から哲学になったりもするじゃん?恐らく高次元の思想家とか理論家とかってこの電波との距離が凄く近いと思うんだよね。だから誰も思いつかないようなことを思いついたりするわけ。逆に常識を踏まえてればさ、「こんなのありえるわけない」って理性が働くじゃん?それによって妄想的なものが合理性によって取り除かれるじゃん?そこのあれだよね、妄想と理性の境界線が曖昧なのが所謂天才なんだろうね。秀才と天才の違いは秀才は理性が働くんで、どれだけ知能指数が高くても大抵のことは常識を踏まえた上で出来るわけだよね。だから中世ぐらいに生きた秀才達はたぶん魔女狩りとかを合法的なものだとかって考えたりすると思うわけって言ってる意味分かる?「魔女という考え自体がそもそもおかしい」って言えないのが秀才なわけよ。


まぁいいや。でさ、俺にとっての哲学も数学も結局一緒なんだなって思ったね。所謂、俺が天才かどうかは置いておいて、その電波と理論の間の境界線が曖昧なぐらい抽象度が高いって意味では同じだよね。だから抽象度が低い数学というのが算数なんだよね。ただの計算。で、抽象的な概念の利用なり理解が必要になるのが数学なんだろうね。多分。哲学も同じで哲学学者的なものは抽象度が低い哲学だよね。所謂、歴史としての哲学っつーのかな?誰々がこうしましたっつーことをひたすらやるのが哲学学者で、哲学ってのはそれを抽象的な概念として捉えることで、まぁ概念の理解をするわけだよね。それは「誰々がこう言った」という事実ではなく、概念の理解なんで他にも応用が効いたりするわけね。「これで言えば今のアレで言えばこれだな」みたいな置き換えとか概念の発展とかをすることが出来るわけ。だからなんつーかただの学者の限界って既存の物を深く掘り下げるということだけで、既存のものをディグするっていう掘り師という意味ではもう限界が規定されてるんだよね。既存のものを深く掘り下げるだけだから。


それに比べてというか比べてもしょうがないんだけど、科学とかは概念で常に勝負してるじゃん?物理学を教えるだけの教師と物理学を研究している人の違いってのが哲学とかに比べて明確だよね。哲学は両方とも似たようなもんだし、逆にアカデミアにいなくても哲学って出来るからある意味で自由度が高いんだけど、でも勝手にやる哲学はまぁ今までの歴史と一緒で伝統性が無いとかさ、ようはahistoricalという意味でまぁ学術的な価値は無かったりするよね。だからこそっつーとアレだけど、哲学とかって広いよね。概念が。経営哲学とか人生哲学とかさ、「哲学を持っている」っつーのが直にオピニオンを持っているっていう理由になったりするじゃない?でもオピニオンとその学術的な価値って全然違うよね。


でも科学系はまず基礎からというか、何かを知ったり考えるための基盤が必要じゃん?哲学もそうだけど、哲学の場合、過去の人達が考えた事を参照することで余計な回り道をしなくて済むっつーようなショートカット的な要素もあるじゃん?同じような疑問を持って考え続けたやつが過去にもいたよっつーとその考え抜いた人の本を読んだほうがさ、自分がそれについてだけ死ぬまで考え抜くよりいいじゃん?所謂、過去の哲学を参照することでメタ哲学が出来るようになるというかなんというか。今の俺に必要なのはこれなんだなって思ったからこそ政治学にしても哲学にしても学校から学ぶことなんて無いだろうなって思ったわけ。基礎が完璧とは言えないけど、自分なりのメタレベルの哲学なり政治学をやるにはもう独学しかないよね。まぁ数学も一緒だけどさ、恐らく科学もね、ただ数学の場合、知識が無いんで単純に基礎を学ぶ段階での発見が面白いっつーのは前にも書いたよね。


哲学の場合、勝手にやるとそれ自体が電波だと言われたり学術的な価値が無いとか言われるって意味で職業的ではないんだけど、科学全般の場合、やる上で最低限学術的なものに立脚しなきゃいけないんで、学術性みたいなのが最初から担保されている学問だと言えるかもしれないなってことなんだよね。勝手に数学理論とかやるにしてもアプリオリなさ、当たり前な理論ってあるじゃん?自然数って概念とかさ、2-1=1っていうアプリオリな事実ね。まぁこれをアプリオリだとどう規定するのか?っつー話はまぁ置いておいてさ、まぁ取り組む上での条件が明確というと変だけど、学術的というか理論的なものに立脚するしかないって意味で勝手にやって何か発見したら結果が学術的である可能性が高いっつーのはあるよね。アイデアは完全に電波で気が狂ってるけど、それが数式で証明されたとかさ、そういう証明をしちゃえばそれが正当性のあるものだって主張できるのが強いよね。哲学の場合、オピニオンの違いになるじゃん?俺はこう思う、キミはそう思うの違いになっちゃう。でも数学って公理系とかを駆使した上で電波的なものを展開してもそれが公理に沿っているという意味で学術上は電波にならないんだよね。完全にクレイジーでも公理系の要件を満たしているとクレイジーじゃないんでそれが凄いなって思ったのね。


あと「オピニオンの違い」だけど、これってのがようはサイコロジーとかと一緒でさ、例えばフロイト派ならフロイト派のフォーミュラがあるじゃん?ユング派ならユング派のそれがあって、認知科学とか脳科学ならそれのフォーミュラがあるよね。まぁクロスオーバーする事もあるけど、結局はその違いっつーかさ、正解が無いじゃん?で、結局鬱に良いのは薬ですみたいなリアルな話になるじゃん?費用が半端じゃない精神分析を依頼するとかもうバカバカしくなるよね。政治学もようは一緒で、まずはまぁマルクス系のフォーミュラで考えるとかさ、新自由主義的考え方をするかとかさ、立脚したセオリーの違いの話になるんだよね。これがつまりはイデオロギーの違いというか争いになるわけね。マルクス系のフォーミュラが絶対って人はまぁ一生左翼だしさ、それがまぁ党派性じゃん?


そういう違いの中でのせめぎ合いというかやり取りが行われてるだけっつーんでさ、逆にプラクティカルな政治学って比較政治学とか国際関係学とかっていう所謂、理論的というよりかは科学的なさ、精神系で言えば精神分析ではなくて、精神医学になるんだよね。こういう薬で治しましょうとか、脳のこの辺が原因だからこれをいじろうみたいなね、かといってスキナー的なbehaviorismというわけではないんだけど、対症療法的になるっつーかさ、根本の話をし始めるとそれが党派性という名のイデオロギーの違いになるっていうね、グローバリズムがもたらす貧困vsグローバリゼーションがもたらす可能性みたいなさ、見る角度とか社会を捉える理論とか政治の力学の考え方の違いになるっていうかさ、で、その舵を握るのは主権者だと言われているけど、実際はまぁ政治家か、もっと後ろで世界を操ってる凄まじいエスタブリッシュメントとかさ、そういうのじゃん?


所謂、特権階級とかさ、支配する側しか知らないような事実ってあるじゃん?やっぱ。具体的にどうとは言えないけどまぁそりゃーあるよね。凡人には分からないことが。そういうものが完全に不可知な状態で行われている政治論争とかって全部とは言わないけど、まぁ結構ナンセンスだよね。こういう言い合いがあるけど実際は後ろにこういう権力の流れがあってお金がこう動いている結果、こんな風になっているんで、この論争は両者ともに的外れだみたいなことは多々ありそうだし、あったとしてもまぁ知れないんじゃしょうがないよね。それを知った上だったとしたら結局はその背後にある金の流れとか権力の流れとか国際関係を調整するしかないってことになって、結局それってもう市民がどうにか出来る問題じゃなくなるんだよね。だからといってあれだよ、政治的シニシズムに陥るしかないとは言わないけどさ、だからと言って権力に屈するな!みたいなさ、ちょっと過激なことを言う人達でも過激な行動には出ないじゃん?だからずーっとそれがただのオピニオンになっちゃうんだよね。だから結局まぁオピニオンリーダーという名の大衆を煽動しつつ先導する人が必要になるわけでさ、そうなるとまぁ結局はパワーポリティクスじゃん?ポピュリズムを利用するしかないしさ、ある一定の政治的視点に立った観点から物事を進めたいならレーニン的な前衛になるしかないよね。・・・・とまぁ色々と考えを進めていくとまぁ結局は過激派みたいになるんだよね。


マジで政治を変えようとか思ったら相当ヤヴァイ人になるよね。でも自分は無力でさ、考えはあるんだけど実行っつっても一人じゃどうにもならないとかって葛藤しながら政治的なものを自分の生活の中で結実させたいっつーんでまぁ運動に参加したりしてもさ、結局その運動自体も大きな組織的な力によって動かされているものだったりさ、結局、マズローの話みたいなもんで、政治にしてもさ、政治的な人がその政治的なものを社会の一員として集団の中で結実させよとしても、その個人が本当に望んでいるようなことが大衆運動とかによって完全に繋がるか?っていうとそうじゃないんだよね。会社員然りね。「俺はこう思うし、こうありたい」ってことは会社の一員として完全に達成するのってほぼ無理じゃん?集団の中の利害関係で動くしかないというのが最初から決められているわけでさ、だとしたらもう集団に属することということ自体に疎外が埋め込まれてるんだよね。


だから何にもしなくていいやーってニヒリズムとかシニシズムに陥っちゃいけないんだけど、やっぱ人ってさ、特にマルクス的な疎外を理解した時に感じる「個」の無力さを知ると何も出来なくなるんだよね。理論的にではないけど、感覚的にそれを知ってたよね。俺は。あ、またアレになるけど、俺は凄い論じゃなくてね、ちょっとぐらい頭の働くやつだとこれってすぐ分かっちゃうっつーかもう生きてるだけで感覚的に分かっちゃうってことね。俺はまぁ16ぐらいの時だったけどね。そこまで早くはないかもしれないけど。


まぁ政治を諦めるという話ではないんだけど、専攻を変えようかな?という話を続けるとさ、数学が持ってる社会的なコンパチビリティって学問の中でも恐らくトップレベルでさ、所謂、単純に計算っつーよりかは概念をいじるのが大好きなやつはさ、それをやってるだけでまぁそれが「数学」っていう括弧付きの「学問」という中に包摂されるわけでさ、特に今の俺みたいな感じだとなんつーのかな?ゲームボーイっつーと古いから任天堂DSって言うけど、携帯ゲームが頭に内蔵されてる感じになるのね。で、時間があれば場所とかに関わらずどこでも実行可能でさ、極端な話、ペンと紙が無くても出来るんだよね。郵便局で並んでいる時とかに頭の中で色々と出来たりするわけじゃん?


で、言わばなんつーかそれが今までの俺の場合、人生の虚しさとかさ、政治の事とか実存とは何か?とかさ、ロクでもないやつがなんでああいう行動をとるのか?とかさ、ロクでもないやつの頭の中とかを想像してたりしたっつーかまぁその中に哲学的な思考も社会的か政治的なものもあったんだけど、ここに数学が入るって感じになるんだけど、今書いたやつってもう長くやってるから飽きちゃってる感じがあるんだよね。大体考えつくようなことは考え尽くしちゃって、んで自分なりの答えが出てきてたりしてさ、で、まぁ理論的というか学術的な正当性を求めるためにまぁ文献を掘ったりさ、裏付けを取るっていうと変だけど、まぁ俺は俺がソースだ!って思う人だからさ、だからまぁ「我、お多福となりて」なわけだけど、結局虚しいのは俺みたいなもんが考えつくようなことはもう過去に散々考え尽くされたことばっかりなんだよね。「あー同じようなことを考えてた人が過去にもいたんだな」で終わっちゃうっつーかまぁそういう哲学者とかを見つければ感嘆してディグるけどまぁ読み終えちゃうとさ、まぁ興奮度は下がるよね。それ自体はまだまだ研究の価値があるにしてもまぁジェットコースターの最初みたいな感覚は無くなるじゃん?


で、数学の場合、まさしく今がジェットコースターの一番最初って感じなんだよね。で、基礎的なもんでも色々な概念とかに応用して考えたり思考実験をしたりするとさ、すげー面白いんだよね。結局はまぁ結論が同じでも例えば哲学的な思考が数式でも表せたりする場合があったりするとまぁそれだけで面白いっつーか、俺には無かった知識じゃん?そういうのって。音楽を知らなかった時に知らない音楽をどんどん聴くのが楽しくてしょうがないみたいな、まぁ無知故の感動だよね。そういうのが今は凄いあるな。で、数学はパズル的というかゲーム的な要素が哲学的思考とかより高かったりするからさ、だからこそ脳内DS感覚が哲学とかより凄いんだよね。


それは優れているという意味ではなく、純粋にゲームとして出来るっつーかさ、単純に楽しめるんだよね。哲学でもなんでも結局は「で?どうするの?」ってことになるじゃん?まぁ物知りになったねで終わるっつーかまぁ終わるつもりはないけどさ、でもまぁ自己内で完結することも多いじゃん?「まぁでもそんなことを考えたところで・・・」って言い方は好きじゃないけど、でも言われたりしたら言い返せない妙な説得力ってあるよね。問いがあまりに浮世離れしすぎてると「あんた何考えてんの?」とか言われても言い返せないっつーかまぁそんなのどうでもいいって開き直りとかの話は前に書いたからいいんだけど、でもまぁ妙に虚しくなるときがあるよね。プラトンにしてもプラトン研究をありえないぐらい深くやってる人達がいっぱいいて、んで文献も豊富にあるんでさ、俺が出来ることってなんつーかその後追いだよね。必死に色々読むしかないっつーか多分哲学とかって自分の哲学とかちゃんと構築できるようになるのって相当な下準備が必要なんだよね。まず膨大な文献の読み込みが必要とされるっつーかさ、その量が物理的に半端じゃないっつーのはあるよね。


で、まぁ俺は半端じゃない量を読んではいるけど、でも結局は自分が引っ付くサブジェクトってある程度決まっててさ、それが身定まるとあとはもう深さだけになるんだよね。そうなるとまぁ先が見えちゃうわけよね。それがつまらんのだよね。人生長いのに結構もう満足してたりする部分があったりするとそれが妙に虚しいっつーかなんつーか。で、数学は無知故に知らないことだらけなんでまぁ純粋に知る事が面白いっつーのはあるよね。差がそれだけだったら悲しいけど、数学はなんつーかニヒリズムを超越できる何かがあるよね。それ自体が持ってる美学とか快楽があってさ、で、恐らく高度な次元になると仮説とか立てて自分で立証するとかって勝手にできるじゃん?政治ではそれは出来ないよね。だから地団駄踏むっつー葛藤で政治的葛藤が終わっちゃうっつーのが多い。もしくは運動とかなんとかっつーのでまぁ解消するしかない。実際は何も達成されないんだけどね。


そういう達成とかも数学とかの場合、勝手に自分で展開して勝手にできるんで気楽だし、それ自体がまぁ目的化しているのでニヒリスティックな世界観の中でもやっていける強さがあるよね。何やっても無駄だからゲームばっかやって自己満足している引き蘢りとかとまぁレベルは変わらないんだけど、そこでまぁ前にも書いたように数学って一応学問だから一応社会性みたいなのもあるじゃん?キングオブファイターズの大会で一位になるのと数学のなんとか大会で一位になるのとでは価値が違うじゃん?価値っつーか両者とも似たようなオタク趣味にしても後者の場合、学問という要素において社会的だよね。ゲームはゲームっつーかKOFならKOFにしか適用出来ないっつーかまぁ2D型のゲーム全般の感覚が掴めるっつーのはあるにしてもまぁゲームじゃん?実社会では何の役にも立たないっつーか。


数学もまぁそうっつーかこないだ見たポアンカレ予想とかってすげーどうでもいい話じゃん?ロケットに無限ロープみたいなのをつけて発射させて、んで戻ってきた時にそのロープの長さを測れば宇宙の大きさが分かるとか、戻ってきて計れれば地球は丸いと言えるのか?みたいなさ、こんなくだらない妄想が学問的な難問として100年ぐらい存在していたってすげーアホらしい話だよね。まさしくKOFの大会ぐらい意味がないっつーか。ただその抽象性とか学問性においてまぁ数学とか物理学とかトポロジーみたいな意味で価値がある妄想なんだよね。だからそれについて妄想していても頭の中でKOFのコンボとかを考えたりするよりかはポアンカレ予想について考えてるほうが高度っつーかまぁ同じ妄想でも社会的サンクションが働くよね。「数学の難題」というだけで妄想のエクスキューズが出来ちゃうわけだよね。で、名前忘れたけど天才数学者みたいなのがさ、宇宙の構成要素は8個の幾何構造みたいなので成り立っているみたいなのを立ててさ、幾何化予想だったかな?んであの引き蘢りロシア人がそれを解いたっていうね、ただ統計学とか物理学を駆使して解いたんで数学畑の人達は証明が理解できなかったとかいって落胆してるんだけど、そんなのが世界的なニュースになってたりさ、世界的な問題として扱われてるってこと自体が凄いよね。


んでピューリッツァー賞だかなんだか知らないけどさ、まぁフィールズ賞のことだけどもね、妄想を解いたとかそんな理由で受賞できるんだもんね。もちろん社会的に有用な数学理論もあるけど、ただの観念レベルのものも多分あるわけじゃん?でも社会的に有用かそうじゃないか?なんてのはまぁ人間の価値判断でさ、学問的な価値ってのはまぁある意味で遺跡とか世界遺産みたいなもんでさ、その遺跡がそこにある事自体は社会的に何の役にも立ってないんだけど、建造物として価値があるんで保存しましょうっつーかまぁ保護しましょうっつーか金をかけてまで守りましょうっていうね、まぁ観光で金が取れるってアレはあるけど、でもまぁ一応名目上は遺跡の保存じゃん?遺跡をディグる考古学者もまぁ同じだよね。新しいミイラが見つかろうが実社会には何の影響も無いという意味で「それやってどうするの?」って言われたら何も言い返せないって意味で学問の多くはKOFレベルのものが多いと言えなくもないよね。価値の置き方はあくまで置く人の価値観に委ねられるっていうか。


でもやっぱ学問って必要じゃん?古代遺跡をディグることに人生を賭けている考古学者とかかっこいいじゃん?まぁそれをかっこいいとするかはこれまた価値判断によるんだけどさ、でもまぁいらなくはないよね。そうなると哲学も数学もそうなんだよね。過去の物をディグるということだけかもしれないけど、でもそれは人類にとっては発見だったりするわけで、やっぱそれって必要なことだよね。ちなみに哲学はまぁ考古学的というか、特にシュトラウス的な取り組み方とかすると図書館を掘る考古学者みたいになるけど、数学の場合、未知の物を発見するっていう意味でなんつーかいつでも新しい感じはあるよね。ディグる=古くさいってことはないんだけど、数学はまだ人類が知らないことについて挑んでいるみたいなところがあってさ、んでやってる人達はまぁ楽しくてしょうがないみたいなね、まぁある意味で才能さえあれば最高に趣味的な分野だよね。


そういう意味でまぁ哲学は死んだって言われるのもまぁーなんつーかもうこれ以上無いだろうっつーかさ、未知のものは少ない感じはあるよね。あとはもう掘るだけっていうことに終始しかねない感じがあるし、スポンヴィルのGreat VirtuesとかノージックのExamined Lifeみたいになんつーか役に立つ哲学みたいになるとこういう感じの哲学的エッセイになっちゃってさ、ようは哲学者っつーよりかは哲学的エッセイストになっちゃうんだよね。学問的総括とかは誰かがやってたりするんであえて自分がやる必要もないし、あとはやることと言ったら「自分が考える愛」とかさ、そういう感じになるよね。あとはまぁ専門的なもんだよね。専門的なものになると物理学も数学も哲学も素人にはさっぱり分からない代物でさ、だからまぁ象牙の塔的ではあるんだよね。だからといって素人に基準を置く必要も無いわけでさ、かといって高度に専門的過ぎるっつーか凄まじく細分化されたものの最先端の研究とかしてると例えばその論文の正当性なりを確認できる第三者がいないとかさ、そんぐらいマニアックな世界になるよね。


でも誰でも書けそうなものなんてとっくに書かれてたりするしさ、んじゃあそうじゃないものは?っつーと重箱の隅みたいな話になっちゃうわけでさ、まぁそれはしょうがないよね。そうなると学問って高度化すればするほど抽象度が高くなって扱い辛くなったりするわけだしさ、かといって学問の有用性というのを所謂、実社会で役に立つか立たないか?っていう基準に置くのも微妙なわけでさ、だからまぁ微妙なところではあるよね。ただそれをまぁ意味無いかもしれないけど学問という必要なものとしてそのフィールドがあるっていうことはやっぱ重要でさ、だから学問って殺しちゃいけないんだよね。そういう殺しを行うからまぁ学校が職業訓練施設になるわけで。


で、何を書こうと思ったか?っつーとまぁバカの一つ覚えの集合論の基礎みたいなので現象学を説明するとまぁこんなんだろうっつーのを書きたかっただけなんだけど、まぁやたら長くなったわな。まぁ最近のあれね、数式とかを使って概念を説明してみようのコーナーみたいな感じね。


意識=C
対象=O
想像的な主体=S


にしてね、んでまぁ世界像の高次化っつーのを行うと


C→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......


になるわけね。意識が認識する対象との関係性というか枠組みの中に対象を見る意識の中にある対象を意識が見る事で見えてくる対象を見る意識があり・・・・・の繰り返しがまぁ世界像の高次化ね。客観的に物事を見る私がそれをさらに客観的に見るみたいな感じね。で、これを無限に続く集合として仮定してっつーかまぁ結構適当っつーかまだあれなんだけどね、使いこなしてるか分からないんで合ってるか分からないんだけど、


{c : c ∈ {C→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......}}


みたいなね、人間の意識というのを無限に続く認識の連続体として仮定した時に、現象学的なエポケーを使ってC→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......を括弧に入れてしまうということをまぁ書きたかったんだけど、意識の多様性は個体差があるにしても連続する意識体を元素とした同位体と考えた時にエポケーの概念が分かりやすくなるっつーかまぁ適用しやすくなるっつーのかな?現象学的還元にしても基本的に人間の意識は大体において同じであるっていう前提に立っているから概念装置としての機能を果たすわけでさ、そういった意味においてはまぁ上の数式って割と合ってるんじゃないの?とは思うんだけどね。現象学的な見地に立つための独我論的主体という意味でのcで、それがエポケーすることでまぁ純粋意識にたどり着くことができるみたいなね、で、まぁ俺の勝手な認識論みたいなのを展開すると意識ってのはまぁ外界からの刺激というか情報によって成り立ってるんで、独我論的主体をcにするってのは変わらないとして、


生活圏=L

情報レベルの世界=I

神話とか宗教などのフィクションの世界=F

にした時に

c=(L ∩ I ∩ F)


になるわけね。かなり雑だけどまぁ適当に説明すると生活圏や伝聞などによって知る情報世界やイデオロギーとか宗教とか迷信みたいなフィクションの世界が交差する場所というのが独我論的主体(c)なのね。


ってことでエポケーを書き直すと


{c=(L ∩ I ∩ F) : c ∈ {C→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......}}


になるわけね。ヌルCの後に括弧を使えるのか?とか数式的な妥当性は全く分からんけど、まぁ大枠は分かるでしょ?生活圏、情報レベルの世界、フィクションの世界が交差した場所にある独我論的主体の意識が補集合である意識→対象 ∩ 想像的主体 ∩ 対象2..... をエポケーするっていう図式ね。ちなみに独我論的主体は(L,I,F)の交差を前提としたものね。だからまぁ超越的主観の概念ってことだね。意識に与えられる対象的与件が(L ∩ I ∩ F)で、これに対する意識の働きが {C→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......}というセットで、これによって超越論的主観における世界の構造を理解することができるっていう話ね。だからまぁあれだ、超越論的主観をTとしたときに


T={c=(L ∩ I ∩ F) : c ∈ {C→O ∩ S ∩ O2 ∩ S2 ∩ O3 ∩ S3 ......}}


ってことになるね。その主観にはエポケーは存在しないというか、もう内在されたものとしてあるというかそれが前提になっているので、T自体はヌルの要素を持たない純粋な自我として規定されるわけね。なのでこれは完全に独立した主体であると。還元してしまえばややこしい括弧付きの数式なんていらなくなるわけだね。まぁ超越的主観を持つが故に無邪気に物語を楽しんだりすることができなくなるので、まぁニヒリズムに陥りやすくなるというのはあるけど、まぁ今の俺はTが数学に惹かれているって感じだね。で、それは「T故」になんだよね。エポケーやら様々な哲学的熟考を前提とした数学ね。だからこそ抽象概念としての数学という観点がTから見えるようになるわけ。それ以前の俺だとまぁ数学ってまぁイメージの悪いややこしいものっていうかつまらないものっていうか意味が無いものっていうかね、まぁそういう風になるわけだね。


・・・・とまぁ思いつきだけど数学的概念を知るとまぁ他の事を数学的な概念で考えたり再考したり理解し直したりってことも出来るんでまぁ余計に面白いなっつーのはあるよね。抽象的な数学理論はマジで哲学みたいなもんだからさ、まぁプラクティカルな哲学としての数学は何気に俺に合ってるのかもな?とは思ったね。まぁ最近のゲーデル以来の論理学とか数式の使い方が合ってるかどうかはともかくとして、まぁ大体大意は書けてるだろうなとは思うんで細かい間違えは気にしないでね。最後にまぁなんで俺が数学に興味を持ったのか?っつーのを説明できたんで良かったな。仮に今後も飽きずにマス書き続けられれば多分、もっとちゃんとした数式とかを使って概念を説明できるようになるかもしれない。最後にライプニッツの言葉を引用して締めるとするか。

数学なしに哲学を深く究めることはできない。哲学なしに数学を深く究めることはできない。数学も哲学もなしに何事であれ深く究めることはできない。


PS


で、ポアンカレ予想だけど、単純化して言えばロープの話になるわけで、実際はもっと複雑なのね。分からんけど。で、引き蘢りロシア人の証明はロープじゃなくて風船みたいな感じでやってみよう!みたいな感じ?なんとなくだけど。