最近の感じで仏教とか空の概念を説明してみる。

mimisemi2009-09-12

細かい解説無しで最近お気に入りの記号とかを使って仏教を説明してみる試みを今から展開してみようと思うけど、どういう結果になるか分からん。


まずは縁起。雑だがx=yで。


構成要素が存在しないものとしての空としての主体やオブジェクトに関して。


x={φ}


{φ}の構成要素はゼロとしての1であるってことでこれが全てね。


世界の相はこれらの関係性とか繋がりによって成り立っていると。


x=y

q=e

w=r

 =U

f=h

t=c

b=g


縦の二つの線は上手く書けなかったんだけど、x=yでそのxもqとイコールであるってことが言いたかっただけで、んでy=qというような斜め繋がりもあるという前提ね。これらの間に生じるリージョンが出来事であり基本的なまぁ相ね。これは基本的に大きくしても小さくしても同じね。社会とか国際関係の場合、この間に生じる利害関係という名の構成要素に中に均衡点を見つけるみたいな話ね。まぁ適当な解説だけども。まぁ基本的にこれは仮諦ね。一切の構成要素そのものが空であるということがつまりは空諦だよね。で、そんな一面的な理解は出来ない絶対的なものが全ての存在であると考えるのが中諦ね。たぶんまぁアートマンブラフマン的な感じは中諦の一種なんじゃないのかな?


で、まぁこれの全体そのものがまぁユニバースってことなんだけど、まぁ所謂、上の図が曼荼羅なわけだけど、個々の構成要素はφなんで基本的にエンプティー(空)なんだね。ちなみにアルチュセールの主体とはStateのプロダクトであるというようなね、Stateによって作り出されるものが主体なんで基本的にそれはStateの所産であるみたいなさ、あとはまぁobject=S(/)みたいなね、括弧はあれなのね、そうじゃないですっていう違いますっつーのを表す/ね。バツマーク。主体はStateの機能であるっつーね、まぁ政治の不可能性みたいな話なんだが、アルチュセールが書いたあれだと"object = a mirror reflection of subject"ね。対象ってのはただの観念であるみたいな話ね。これはまぁ空諦と同じなんじゃない?って話ね。アルチュセール仏教っぽいっつーよりかはラカン仏教っぽいからなんだけどね。


あ、んで構成に関してはx=y=q=eみたいなマトリックスだけどこれね。


N φ(a1, …, an) if M φ(a1, …, an).


この繋がりが永遠と繋がって構成されてるのが相ね。縁起による世界。で、主体の構成要素を考えていくとキリが無いっつーかつまりは φ(a1, …, an)が永遠と続くって意味で構成要素の全ての理解は不可知であるっつーのがまぁ中諦ね。


で、こないだのユニバースの在り方に繋げるとU=φになるわけ。空集合としてのユニバースね。で、Cartesian productとかでφ(a1, …, an)みたいな要素を持ちつつも微妙にa2とかa5が抜けてるみたいな他の要素の集合体自体が交わったりすると分けが分からないカオスになるんだけど、普通はまぁそこまで考えないから人は正気を保てるみたいな話ね。世の中のカオスっぷりを考えると要素がカオス過ぎて凄いことになるよね。だから経済とか世の中とか社会ってセオリー通りには行かなかったりするわけじゃん?でもまぁその色んなものも交わり自体の所産が今であり過去であり未来であるわけで、それが同じ時間軸の中で回ってるかもしれないし、まぁ違う時間軸が存在するかもしれないんだけど、まぁそれはこないだ書いたことだからいいね。


あとあれ、A x B ≠ B x Aに見えるけど実際は例えばn(A)=3っつーかようはAの構成要素の数が3で、Bが2だった時に例えばB x Aで出る答えはエレメンツの順番が変わって完全に同じとは言えないじゃん?ただまぁ事実上同じであるっつーのがまぁ客観的事実ってやつだね。(1,6)も(6,1)も基本的には同じって話ね。ようは3 x 2も2 x 3も順番は違うけどまぁ答えは一緒ってことね。これが例えばまぁ俺が勝手に思ったのがS x O=somethingみたいなもんでさ、Sってのが主体でOがオブジェクトね。あとはまぁ客体とか第三者でもいいんだけど、S x Oで見たときは観点が主観側ってことね。O x Sで計算するとOからの主観なんだけど、基本的に出る答えは一緒なんで客観的事実は変わらないけど構成要素の順番が違うっていうのがさっきの(1,6)と(6,1)みたいなもんね。例えるなら極左と極右が実質同じようなことを言っていても違う概念装置と主観性で物事を語ってるんで答えが一緒でも構成要素は違うってことね。まぁ色即是空と空即是色の違いみたいなもんで、(色,空)と(空,色)ってことね。


で、まぁ縁起っつーか何かの関わり合い自体で何かが健在しているっていうのがようはA x B = {a,b) | a ∈ A and b ∈ B}なんだけど、ここにAとBの間は無いじゃん?A x B自体がそのものなので、ようは隣り合う数字同士に行間ならぬ数間が無いのと一緒で、A x Bが一つの構成要素であるときにAそのもの自体の存在というのは存在しないんだよね。というのはそれはx BによってAが成り立ってるわけで、だから「a ∈ A and b ∈ B」が必要なのね。ちなみに映画のパイのマックスは最後のほうで数字同士の連関ではなく、意味は数字の間にあるみたいなことをユダヤ大司教みたいなのに言ってたじゃん?これってのはまぁ今日の俺の話でいくとまぁ勝手にマックスの概念を使わせてもらうとさ、A x B自体の組み合わせとか結果を見ても何も答えは無いし何もないんだよね。A自体の存在そのものとB自体の存在の間を見るんだよね。


それによってA x Bの成り立ちが分かるわけ。つまりは連関した関係性の中でのみ成り立つものの中にある単一的な要素を見るということね。これはproductの答えではなくプロセスでもなくその間に絶対的に生じているはずであるsingularityなんだよね。ただそれは65の刹那があっても知覚不可能なぐらいランダムで複雑なものなのね。法華経の数詞で言えば微塵数(ミジンジュ)がその間にある単一的なものの存在性で、まぁ微塵数ってのは全世界を砕いて粉にした塵の数ってことなんだけど、その塵を墨として点を書いた時に、その墨がなくなるほどの数ってのを塵点劫(ジンテンゴウ)って言うんだけど、これ自体は今の軸というか次元で考えられる想像がつかないほど長いというかデカいというか把握不可能な時間単位というか質量とかなんだけど、まぁ無限も同じような感じだよね。既存の存在全ての最小単位による墨でもその像を書くのが不可能なのがまぁ神みたいな存在だよね。


あ、んで中道の構成って縁起→空性→仮説→中道なんだけど、縁起が最初に書いたx=yの因果の世界でまぁcausalityが世界観を支配しているんだけど、空性はそこにエンプティーセットの概念を出してくるわけじゃん?で、仮説というか仮諦になるとアルチュセール的な一切宗義みたいな"object = a mirror reflection of subject"になるわけだけど、そこに φ(a1, …, an)とか塵点劫の概念を持ってくると中道になるわけね。まぁぜーーーんぶ俺の勝手な解釈だけどね。また色々と知れば全然変わる可能性があるんだけど、まぁ万物は流転するからね。ただヘラクレイトスが信じたロゴスも仮説というか仮諦で言えばロゴスもコミュニケーションのアイコンとしての仮のものなんであって、まぁだからロゴスって絶対的なものではないんだよね。ロゴスが絶対的なものだとしたら例えばまぁ時事的に俺が今取ってる中国語で言うとto beは是(shi)なんで、「自分は学生です」って言うなら我是学生になるわけだけど、これがI'm a studentと完全に同じ概念かは分からないよね。英語の場合、我が主体的であるのに対して中国語ではパッシヴだよね。


もちろん俺が言いたい違いってのは能動態/受動態の違いという単純な違いではなく、to beを表す是が完全にto beに対応してるか?っていうと恐らくそうじゃないだろうってことなんだよね。こうなるとなんつーかハイデガー的なオントロジーになるけど、ようはハイデガーが言ってたように人間って言語の奴隷じゃん?これ自体がもう監獄だし、ウィトケンシュタインで言っても言語の限界自体が世界の限界を規定してるようなもんだけど、こういう言語世界という概念に捕われない実存の概念がまぁ仏教的なオントロジーで、ハイデガーも頑張ってこのびみょーな感覚を必死に説明してたような気がするね。まだ完全に読んでないけど。


こういうのを考えると全てのオントロジカルな概念ってのは仏教概念の脚注でしかないような気がする。ホワイトヘッドの「全ての哲学はプラトンの脚注である」みたいなのがオントロジーでは仏教に言える気がするね。根本は無であるがそれ自体はエンプティーセットとしての、ようは{φ}としての実体(概念としての1という意味での実体)はあるんだけど、その無と有(如)の存在性の矛盾を矛盾としてではなく、概念として包括しているのがつまりは「中」「空」「仮」の三位一体のオントロジーだよね。ただまぁ仏教にも色んな学派があるんで解釈は色々あるんだけど、まぁ根本はまぁ仏教的なオントロジーってことでそこはやっぱ揺るぎないよね。


ってことでした。まぁまぁかな。仏教の概念よりも数式の使い方とか概念の使い方のほうが心配だな。初心者もいいところだからね。で、思ったのがさ、完全に思いつきだけど、哲学とか政治学とかってさ、学校入る前に準備をしておこうっつって読み始めたっつーのもあるけど、結構一通り読んじゃった感があるんだよね。正直、学校でそんな高度なことをやるとは思えないし、なにより哲学とか政治学とか社会学ってもう感覚掴んでるっつーと変だけど、元々感覚があるから教わらなくても理解できるだよねっつーかまぁなんでもそうだけどさ、そういう意味で学校に期待できることはないどころか、政治学とかの場合、下手したら変な教師とかバカな教師にあたっちゃって、すんげーアホらしい政府の概念とか権力の概念とか説明されてもイライラするじゃん?それに反論しつつ「おぬし、やるな」みたいな関係性を先生と保ちつつ知識を磨くみたいなことを期待してたけど、正直、これって学校側に過度な期待をしすぎてるんだよね。他の学生も政治意識が高いやつばっかりみたいな勝手な想定があって、なんつーか凄くアンリアリスティックな期待をしているなと思ったわけ。


で、結局、俺がまだ全然未開拓でなおかつ若干バカな教師に当たっても何か学べそうなのって数学なんだよね。数学には高度な数学理論とかになると解釈の違いとか出てくるのかもしれないけど、基本的なやつとかまぁ抽象的なやつにしても概念があるやつだともう公式があるわけだから正直、教師がそれを分かりやすく説明してくれればいいわけじゃん?政治学とか哲学にこういう解説は求めてないどころか、たいした解説は得られないだろうっていう想定があるからさ、だからもう数学でいいんじゃないか?とか思っちゃったんだよね。学校が行くのが楽しみで毎回授業が楽しくてしょうがない感じになるのってもう数学しかないだろうなとかって思ったのね。この最近の数学の楽しさと、哲学とか政治学にある程度の限界というと変だけど、端っこまで見えた感じがあるとあとはもう時間だけじゃん?研究を進めるだけっていうかさ、歴史をなぞるだけになるよね。まぁ哲学は勝手にやればいいわけだし。読むというよりかは色々なもののフィロソファイズね。でもこんなの日常的にやってるからっつーかだからこそまぁ日常生活に支障をきたすこともあるんだけど、数学なら割と無害だなと思ったのね。


数学の場合、純粋に概念に立ち向かえて、んでそれを考えるにいたって例えば人生とか被投性とか実存的な問いとか不平等とかっつー色々なことを考えなくていいじゃん?っつーかまぁこれが俺の思考の限界でもあるのかもしれないけど、結局、政治とかってもう民がダメだからダメじゃんってことになっちゃうんだよね。そういう意味だともう自分なりの答えは去年ぐらいに出ててさ、んではまぁ好きなものとしてまぁシュトラウスとかプラトンの読み込みを丁寧にやっていこうかなってもう他から学ぶことないじゃん?哲学とかって哲学者から直接学べる人なんてさ、恐らく概念の劣化が起こってるであろう大学なんてものを通さなくても直接哲学者と対話すればいいんだよね。書物に直に触れちゃえばいい。


ってことでもう学校いらないじゃん?学校いらない宣言はだいぶ前からしてるけど、「政治学を専攻するんだ」とかって思ってる自分に満足してるっつーところもあったのかな?「政治学」という響きに敷かれていてさ、ソーシャルサイエンスのデパートメントとかいいなぁーとかってイメージで考えてたようなところもあるんだけど、色々と考えると別にもう自分でやってるしさ、入る前に基礎をやるどころかもう大枠っつーか大意はつかめちゃったんだよね。だからなんつーかいちいちまた政治理論とか政治学の歴史みたいなコースを取る必要ないなっつーかさ、全部頭に入ってるわけじゃないけど、多分あれなんだよね、自惚れじゃないんだけど、結局また「物知り」みたいになるのが目に見えてるんだよね。フィロソフィカルなトレーニングをどこかで受けてきたやつみたいな扱いを受けるっつーかさ、そういう風にチヤホヤされてる自分に満足してるようなところもあったりさ、みんな信じてるロールズの正義論に文句を言っちゃう俺ってかっこいい!とかって絶対思うと思うのね。そういう自分が許せないし、ちょっと物知りっつーのがデフォルトで学部に入るのはつまんねぇーなって思っててさ、そこで学べることとかなかったら今みたいなのがまた何年も続く事になるじゃん?


こんなことやんなくてもいいよーっつーような宿題とかエッセイを書かされたりさ、そんなの時間の無駄だけど、数学だったら証明問題を解くとかさ、自分で何か組み立てて証明しろとかさ、そういうのやらされる分には意味無い政治学のエッセイとか書かされるよりマシじゃん?何しろ今の数学の授業が面白過ぎるのと、マゾキスティックなぐらい数学的なものを頭が求めているという今の状態があるんで、今みたいなのが一年ぐらい続くようだったら4大転入後の専攻は数学にしようと思うんだよね。もちろんそれまでに全部やるつもりだけどさ、でも政治学とか哲学ほどの猶予はないんだよね。哲学とか政治学はまぁザックリ言えば1年半ぐらいは丸々読む時間があったわけでさ、ある程度制覇できたのも納得なんだけど、4大転入ってまぁ恐らく一年先ぐらいでもうそんな先の話でもないんだよね。だから今からやり始めてもさ、あー追いつくかな?


それだけになったら追いつきそうだけど、全部が全部好きになるとは限らないしさ、極端に不得意なセクションとかあるかもしれないしさ、そうなったら安全パイとして政治学を取ることになるとは思うけど、これって保険バリバリでつまらないんだよね。いや、だからといって政治学のコースで優秀な成績を修めるという保証は一切無いよ。グレードとかってコースとか先生によるしさ、気が向かなかったら結局やらないしさ、特にアメリカンガバメントのコースあるじゃん?ムーア先生の。アメリカの歴史とかあんま興味ないし、特に政府がどうなってるのか?っていうさ、ああいうの全然興味ないのね。あくまで思想とか理論とか概念にしか興味ないからさ、司法がどうのだとかさ、政府のシステムがどうとかって全く興味ないんだけど、政治学のコースだったら多分やらされるじゃん?政治思想だけなんてやれそうにないしさ、まぁやれたら楽しいとは思うけど、楽しいっつーかもうやってるからね。自分で。やってるっつーか研究ってほどかっこいいものではなくて、いつも書くようにゲームとかと同じ感覚の趣味感覚なんだよね。読むのが楽しいんで読むっていうそれだけっていうそれがあるだけでもう十分で学校いらないじゃん?


自問したときにさ、んじゃあ入ってどういうこと勉強したいの?っていうとなかなか自分だと隅々までやれないっつーか膨大で難解なんで取り組むのが面倒っていうようなさ、まぁアルチュセールグラムシだけどね、それに加えてフーコーなんかもやりたいと思うけどフーコーはいつか読む気がするんだよね。ただアルチュセールグラムシは手元にあるけど、なっかなか取っ付きにくいテキストでさ、最近、バリバールとの共著のreading capitalっつーのがversoから再発されたけど、これまたfor marx並の取り組み辛さというかさ、for marxはでも断片的なエッセイみたいな感じだからまだいいけど、reading capitalは資本論ガッチリな感じでさ、シュトラウスで言うthoughts on machiavelliみたいなもんなんだよね。まぁシュトラウスのは読めるっつーかあの独特の魅惑の文体があるじゃん?真似したくなるような独自の文体っつーの?あれのおかげで読めるけどまぁ量が膨大だけど、グラムシアルチュセールはねえー、完全制覇はなかなかだよね。グラムシとかプリズンノートブックがもう量が膨大過ぎてもうそれだけでプレッシャーだよね。2年前ぐらいに買ってから全然読んでないや。グラムシについての本とかさ、平凡社ライブラリーから出てる抜粋のやつなら色々読んでるけど、原著は行ってない感じなんだよね。


あとなんつーかアルチュセールとかグラムシとかが結局プラクティカルなの?っていうかさ、今の政治にどう使えるわけ?とかになるとまた微妙だよね。ガッツリ研究でやるならいいけど、学科として大学でやるみたいな感じになると相当微妙だよね。それに対して金を払ってまで学ぶものってあるの?って感じでさ、だったらちょっとずつ自分で読み進めればいいじゃん!って思っちゃうんだよね。あとまぁラクラウかな。分かりづらいと言えば。ただこれもムフとラクラウの思想を解説してる本が出てるんでっつーかこれまた去年ぐらいに買って読んでないけど、まぁなんつーか出版物が充実してるじゃない?特に今はアメリカなんかは思想のルネッサンスと言われてるらしいからね。ようは過去の思想とかの解説書とかにしても凄い量が出版されてるらしいんだよね。それこそフランス近代思想からさ、政治思想にしても色々あるわけ。ようはやる気次第で世界制覇できるんだよね。そのぐらいアバイラビリティが凄い。だから別に自分で読み続ければいいぢゃん!ってことになっちゃって、んで結局、あの哲学のね、本物じゃないあだ名のフーコー先生いるでしょ?俺が取ってた哲学の。あの先生が俺に「とにかく今まで通り読み続けることだよ」っていうさ、もうあの言葉に全てのエッセンスが凝縮されてる感じがしたよね。


ってことでなんつーか思想とか理論系って自分でなんとかできるし、アホな教師のレクチャーとか聞いてると生半可知識があるだけにイライラしそうだからさ、だからなんつーかある意味でドライながらも俺の中で今熱い数学を学校でやろうかなって思ってるのね。全く分からないどころか今の大学入ってからエレメンタリーコースから始めたわけじゃん?「数字って何?」から始めたわけでさ、ちょー初心者だよね。小学校の授業から中学から高校1年ぐらいのレベルの数学を通してやってたわけでさ、んで今はカレッジレベルだけど、カレッジレベルになってからちょー面白いわけじゃん?まぁあの抽象的な数学理論ね。数学ってさ、大学レベルとかになると今まで所謂、数学というよりかは計算が出来てた人達がさ、抽象思考とかが出来なくて一気に分からなくなるとかって言うじゃん?そうなんだよね。ただの計算と理論って同じ数学でも違うからね。数数えてればいいのと頭で抽象的に考えながら概念を理解するのって違うじゃん?で、ちょっと高度な数学になると逆に俺みたいな元々哲学とか好きだったようなやつがそういうのに興味を示しだすことはあるだうなっつーのは感じたよね。俺の場合、数学への苦手意識が凄まじかったっつーか数学さえ終わらせちゃえば後はもう大丈夫だ!ぐらいに思ってたけど、今は一番好きな学科が数学じゃない?凄いよね。これって。凄い発見だよ。あんなに数学が面白いなんて!


思想とかやりだす前に思想とかに感じてたさ、膨大な量の書物がある図書館を前にして圧倒されてる感じってあったよね。始める前って大体そうじゃん?で、ずーっと本ばっか読んでるとさ、ある程度自分が好きそうなのは読み尽くすじゃん?詳しい感じの解説書とかさ、まぁね、ケンブリッジガイドとかはカントとかウィトケンシュタインとかヘーゲルとかアキナスとかマイモニデスとかスピノザとか読むのはいっぱいあるんだけど、カリキュラムが出来てるじゃん?自分の中で。読まなきゃいけないリストっつーのがもう頭の中にあるからさ、もう自分でコース勝手にやってる感じなんだよね。だから下手にそれを邪魔されたくないっつーかさ、今はプラトンやってるのになんでトクヴィルやらなきゃいけないの?っていうやらされる感が下手に政治学とかであったりすると逆にそれは嫌だなっつーのがあるよね。


それに比べて数学は全くの無知だから来るものを拒まずになるじゃん?教師とのぶつかり合いとかも無さそうだしさ、かといってまぁリスキーだけどね。自分が向いてるかどうかは分からないから。ただとりあえず今のところ楽しいからさ、なんつーかこれが学校で続けられれば最高だなって思ったよね。このギャンブル感もたまらないしね。未知の領域に足を踏み入れるって結構ドキドキするじゃん?社会科学系は結構もう知ってるからさ、そういうドキドキはもう無いよね。あとはもう続けるだけっていう感じになってるから。


ただ問題は数学を専攻にして将来何をするか?だよね。政治学だったらまぁ研究者になるのがベストだと思ってたけど、今もある意味でインディーズの研究者じゃん?勝手に自分でやってるわけだから。論文とかは書かないけど、まぁウォール伝を論文だと思えばまぁこれは論文だよ。考え方次第だよね。っつーかああいうフォーマルでバカバカしい文体の論文書かなきゃいけないっつーのがすんげー苦痛なんだよね。「我々はこういった問題に直面した時に、来るべき民主主義への足がかりとしての第一歩はどう踏み込めるのだろうか?」みたいなさ、明らかにあっきらかに自分の言葉じゃない言葉で何かを書かなきゃいけなくなるじゃん?ウォール伝口調は絶対ダメじゃん?フリーライティングも無理じゃん?そうなるとガチガチのものを書くしかないわけでさ、自由度低いよね。でも数学って公式でガチガチなイメージがあったけど、抽象的な数学理論とかになるとちょー自由なんだよね。勝手に頭の中で色々やれるじゃん?で、別に変な言葉使って何か書かなくていいわけでさ、証明したり計算すればいいだけじゃん?これは究極的な知的快楽を刺激するものして最高ってことでMasmaticianにはなれそうな気がしたよね。マス違いのマスマティシャンね。


こういう知的快楽としてのマスってのは今までの考えでは一切浮かばなかったし考えられなかったことだけど、今では宿題すら面白いんだよ。解くのが楽しくてしょうがないっつってもまぁ解くってほどたいしたもんやってないけどね。全部一瞬で解けるようなのばっかで、まぁ基礎だからしょうがないんだけど、もっと高度で抽象度が高いものになったりしたらすんげー面白そうだなっていう予感はあるよね。ただ自慰者としてのマスマティシャンを誰が雇ってくれるのか?ってことだよね。理系だと文系に比べれば奨学金とか色々なもんが充実してるとは聞くけどね、まぁ何はともあれ政治思想研究とか哲学系よりかはまだマシな感じはあるよね。完全な文系ってなぜかバジェットが少ないらしいんだわ。そういうのもあって大学に寄生するって意味でも数学はいいかもなとは思ったね。それこそマスだけにマスターすればさ、それだけで強みじゃん?ただ中途半端なのは嫌なんだよね。高度なのは分からないみたいなレベルで適当に数学専攻とかやってるレベルになったらまぁ人生終わりなわけでさ、そうならないっていう保証は無い分、ギャンブルなんでまぁこの1年ぐらいは専攻についてよく考えてみることにしよう。真剣っつーか趣味的に数学をやり始めて、んで向いてると思ったらもうこれだね。で、パイのマックスぐらいになるのを目標にすればあとはオッケーだろう。


哲学とか政治学を読んでて「あー!!それそれ!!」ってビリビリする感じが数学にもあるとは思わなかったんだよね。そのビリビリが哲学とか政治学とかより強い気がしてさ、ちょっとこの感覚を信じたいっつーのはあるんだよね。小室直樹が言ってた数覚ってのが俺にあればさ、ようは哲学とか思想系においてデフォルトで持ってたようなものが数学にあればもう大丈夫じゃん?あとは取り組んで伸ばすだけって感じになるから、それこそマストレーニング施設としての大学という意味では大学の有用性はあるのかな?という気はしたし、少なくともそれは大学で哲学とか政治学やるよりかはあるかなって気がしてるんだよね。


俺はこの直感を信じたいな。それは政治学を諦めるってことじゃなくて、わざわざ分かってることの復習をするために大学に行くんだったらまだ未知の領域のものに足を踏み入れたほうがドキドキ感があって良いんじゃないかな?って思ったってさっきも書いたね。この先が保証されてない感が怖くもありドキドキするよね。政治学の場合、つまらんエッセイとか読まされそうなのが怖いっつーのもあってさ、ドキドキ感が求められなさそうなんだよね。あと最近、プラトンの長い講義っつーか合計10時間以上のレクチャーのやつを手に入れたんで、こういうのを聞いたほうがいいじゃん?バカな教師の話を聞くよりYaleとかハーバードぐらいで教えてる先生の講義を聞いたほうがいい。でも数学ならバカでも公式ぐらいは教えられるだろうから、そういう意味で俺ぐらいの学力っつーかGPAとか学費で入れそうなところの大学でも、まぁまともな授業は受けれるだろうなってのはあるよね。


ってことでした。ようは自分でやれないものはないけど、数学だけは今のところ完全にビギナーだからビギナーがドキドキしながら新しい何かに向かっていく感じってのを味わえればいいかなとか思ったりね、まぁんで結局1年ぐらいで全部やっちゃったらまた結局、政治学とか哲学と同じようなことになっちゃうんだけど、まだ分からないよね。さっきも書いたけどすんげー面白いと感じる数学の分野とそうじゃない分野があったりするわけだからさ、あ、でもそれだったら好きな分野だけ取ればいいのか。そういう意味だとアメリカの大学の専攻ってすげー細分化されてるっつーかさ、コースが色々あるからね、そういう意味だと楽しいかもな。数学。


PS


数覚ってのでググったんだけどね、


http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/50562866.html


まぁこれは簡単過ぎるとは思うけど、ようはこういうのが楽しいのね。ノーヒントですぐに答えが分かるし、これで数覚が優れてると言えるとしたら絶対俺は数覚あるな。間違いない。それを信じてとりあえず取り組んでみよう。熟考するんじゃなくて感覚的にすぐに理解できるってところがポイントだね。数にセンスって概念があるってなんか素敵な世界だよね。凄く。


あとこれね


http://blog.livedoor.jp/enjoy_math/archives/50513896.html


集合論ってのが凄まじいぐらい面白くてすでに本を買ってきたんだよね。集合論に関する本。ちゃんとやってないんで全部は理解できないかもしれないけど、でも読んでて楽しいっつーか公式云々ってよりかは読みながら覚えられるってあるじゃん?だから集合論とかにしても、集合論をテキストでやるというよりかは、それに関する本とかを読んだほうがいいんだよね。ってことでここ2ヶ月ぐらいで買って読んだりしている面白そうな(面白かった)数学本のリストを貼っておくね。まだ未読のやつも多いけど。


Logical Dilemmas: The Life and Work of Kurt Goedel

Logical Dilemmas: The Life and Work of Kurt Goedel

The Loom of God: Tapestries of Mathematics and Mysticism

The Loom of God: Tapestries of Mathematics and Mysticism

Goedel's Theorem: An Incomplete Guide to Its Use and Abuse

Goedel's Theorem: An Incomplete Guide to Its Use and Abuse

Group Theory in the Bedroom, and Other Mathematical Diversions

Group Theory in the Bedroom, and Other Mathematical Diversions

The Philosophy of Mathematics: An Introductory Essay (Dover Books on Mathematics)

The Philosophy of Mathematics: An Introductory Essay (Dover Books on Mathematics)

Does God Play Dice?: The New Mathematics of Chaos

Does God Play Dice?: The New Mathematics of Chaos

The Man Who Loved Only Numbers: The Story of Paul Erdos and the Search for Mathematical Truth

The Man Who Loved Only Numbers: The Story of Paul Erdos and the Search for Mathematical Truth

Numbers at Work: A Cultural Perspective

Numbers at Work: A Cultural Perspective


あと面白かったのがこれねっつーか物理学になると思うんだけど


How to Build a Time Machine

How to Build a Time Machine


A Briefer History of Time: A Special Edition of the Science Classic

A Briefer History of Time: A Special Edition of the Science Classic


ホーキング博士のやつはベストセラーになっただけあってちょー分かりやすいね。物理学も面白いけど、やっぱ数学には敵わないな。