ロジックの矛盾ってつまりはこういうこと?

mimisemi2009-09-18

There is no proof of Pっつーかゲーデルのアレについて先生に聞いてみたんだけど、まぁ俺の理解の大筋はあってるようで、ロジックではP∧~Pになるらしいんだけど、Pが正しかった場合、つまりステイトメントのプルーフが無いということが本当の場合、それ自体が無いことを表すので、Pのステイトメントが本当ということはつまりはそれは無いということなわけで、だからまぁそのエッセンスがP∧~Pに集約されるんだけど、ここでまぁ思いついたのがさ、合ってるか分からないけどとりあえずまぁ書いてみるけどね、先生の前では無知を装わないと失礼にあたるっつーステイトメントが本当だった場合、Pが本当の場合、無知を装うということ自体がある種の失礼にあたるわけで、Pが本当の場合、それは失礼になるし、逆に「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で挑んでもそれは失礼になるじゃない?


基本的なことを説明されても「なるほど!」って関心しないといけないみたいなのってある意味で相手に失礼じゃん?ただ生徒としては「そんなことは知ってるんだけど」みたいな感じで先生に接してもそれは失礼というか、教師のプライドを傷つけることになるでしょ?だからまぁ結局これもP∧~Pになるよね。Pが本当ということが実は失礼ということを包括していて、その反対もまた失礼なのね。だからまぁどの道、先生よりinformativeな生徒が先生に接するともうそれは大抵は教師に対して失礼になるんだよね。あるのは虚構のリスペクトだけね。表面的なリスペクトというかなんというか。ところで銀行残高が2年以来のことだけどマイナスになっちゃった。マイナスになるとマイナスになったなんかのチャージを取られるんで余計にマイナスになるんだよね。些細な計算間違いだったけど、かといって残高がありすぎてもなんつーか使っちゃうっつーかさ、あるものを使わないってまぁ難しいよね。まぁ今は余裕あるからいいかみたいな気の弛みが浪費に繋がるみたいなね。


いきなり話が逸れたけどまぁそういうことだわ。ヒエラルキーの中で必要とされる上辺だけのリスペクトってどうなんだろうね?decisiveというか、虚構を作り上げているという意味で失礼というと変だけど、人間性みたいなのからどんどん乖離していくよね。そういう虚構がふくれあがったのが日本って感じだね。それは日本語が包括している要素や文化的な要素も然りだけど、日本語って頭が良い人が使うと最高に機智に富んでいるというか、上品でありユーモラスであり知的であるみたいなものになるって意味で凄くexpressiveなんだよね。英語とかだと単純な表現になりがちなのが、今中国語やってても思うけど、中国語にしても日本語にしても言葉が持つ多角的な意味がまた他の意味を生み出すっていうまぁシニフィアンの連鎖みたいなのが常に文字上で起こる感じじゃん?まぁある意味でそれは抽象的ではっきりしないんで曖昧と言われればそれまでなんだけど、ドイツ語とかもまぁそういう要素があるみたいね。でもアヴェレージがバカだとコンテキスト外の意味の乱用ってのが蔓延するんだよね。それが所謂空気読めっていう話ね。


山本七平が言ってた空気の支配を敷衍するとっつーかまぁそこの言語的な要素に注目すると、言葉自体が持つ威圧的な感じとか、コンテキスト外で意味している意味が本当の意味をなすみたいなのが乱用されるとつまりはさ、言う側の権力が強くなるんだよね。空気を読むというパッシヴながらもアクティヴな言語への取り組みを言葉が理解する側がしなきゃいけなくて、んでそれができないとようは受け取り側がKYになるってことじゃん?説明がヘタクソとかさ、それだけじゃ分からないみたいなのが通用しないでしょ?これがようはあれなんだよね、日本の場合、全然喋らない人が威圧感だけで場を支配するみたいなさ、一番寡黙な人が実は一番立場が上みたいな感じでさ、ある意味でまぁ不気味なんだよね。その威圧感っつーのはまぁ空気でもあるんだけど、それと同時にコンテキスト外での意味論ということにもなるわけね。つまりは言語というものがあるというなかで喋らないというか、無言でいるというある種の「無」そのものに色々な意味があるわけよ。それは拒否かもしれないし認証かもしれないし威圧かもしれないんだけど、この無を操れる人ってのがようは日本的な言語とカルチャーの中で権威的な人間になれるんだよね。つまりはそれは無の乱用ね。攻撃してないんだけどそれ自体が攻撃になってるみたいなさ、それは言語と言うよりかは解釈なんだよね。そういう威圧的なものの解釈とかを求められるんでだからまぁコミュニケーションがストレスフルでんでまぁ疑心暗鬼が耐えないようなdishonestな感じになっちゃうんだよね。


日本的な世界の中で他者と関わるってことはこの空気の鎖みたいなのに巻き込まれるってことなわけでさ、逆を言えばすんげーアメリカンマインドな人が操る日本語の場合はその日本語が包括しているキャラクターという要素を考慮してもアメリカ的な日本語になるんだよね。で、こういう人は多分無を使いこなせないし、無を使うという概念が無いだろう。多分。俺はこれが昔からダメでだからまぁある意味で自閉症的なさ、social cueが全く分からないってところがあったりするんで、だからまぁ自閉症なのか?とか思ったりもすることが多々あるんだけど、social cueだらけのシニフィアンが常に浮遊しながら交錯しているのがようは空気の支配だよね。それは行動としてのcueというよりかは日本語の場合というか日本の場合、その行動すらももはや言語的なんだよね。そこが怖い。凄く。言ってる意味分かるでしょ?こんなものが世の中を支配してるなんて完全に不健全な社会だよね。俺みたいなスキゾにありがちな「もしかしたらあんなことを考えているのかもな」みたいな勝手な妄想が余計に膨らむじゃん?健常な人でもスキゾになっちゃうっつーかさ、言葉の外の意味を把握するってことはスキゾになりやすいってことだよね。スキゾと言葉の境界線が曖昧だからさ、だから元々スキゾな人はそういうのが余計に酷くなるし、健常者でもある種のパラノイア的になっちゃったりするわけ。まぁようはこれは言葉のファシズムだよね。空気を読むってのはそういうことだよね。常に自己検閲を課される状態で、それが社会のデフォルトっていうね、それをなぜかデフォルト設定として認めてる日本人が問題なんだけど、それがカルチャーだと言われたらまぁそれまでだよね。


最近は日本批判が少なかった気がするけど、まぁ久々の日本批判が出たね。俺が言いたいのは日本文化とか日本語批判じゃなくてその乱用なのね。コンテキスト外に意味を求めるというのはもっとリリカルで知的なもので、所謂、俳句の世界とか侘び寂びの世界の話なんだよね。言葉のリダクショニズムっつーのかな?少ない言葉の組み合わせで多くのものが表現できているとそれは美しくて知的ですばらしいっつーそういう意味での日本語は最高だし、そういう意味で俺はさっき知的な人が使えば最高の言語だって書いたんだけど、コンテキスト外というものがバカによって乱用されていることで、ようはその言語が持っている構造自体がファシズム化するってことなんだよね。そういうのを小学校とかで学ぶわけじゃん?顔色を伺う的な人間関係っつーの?まぁ俺はフランクじゃないけどね。モロに日本人的なコミュニケーションをするとは思うけど、コンテキスト外の意味合いとかに頼ったりしないんで、まぁある意味で失礼になりがちっつーかはっきり言い過ぎとかっていうのはよく言われるけど、まぁそれを全然俺は悪い事だと思わないんだけどね。英語でもI prefer not to doみたいなさ遠回しな言い方はあるけど、日本語の場合、こういうのだらけで、それが交錯しすぎてるんだよね。「いいです」「そうですか」みたいなやり取りの中でさ、「客がいいです」って言ったんで「左様でございますか」と解釈して、それを「yes」と言う意味での「いいです」に解釈して詐欺をやるみたいなのが一時期あったと思うんだけど、言葉尻とか揚げ足も取りやすいよねっつーか取るやつが多いよね。


大意をつかめとか大雑把なことを言うくせに、都合の良い時にはちゃんと言葉を的確に使いこなせみたいなことを言うじゃない?困ったときの神頼みみたいなさ、受験シーズンに神社が混むみたいな国民性を表している恣意性だよね。なんかホントあれなんだけど、こういうのもう俺全部嫌いなのね。だから日本が死ぬほど嫌いなの。アメリカがベストとは言わないけど、アメリカってコントラクトの概念とかさ、そういうのがすんげーはっきりしてるじゃん?yesはもうyesっつーかさ、まぁただマルホランドドライヴの序盤っつーか表の裏面の世界でマフィアに監督が脅されるシーンがあるじゃん?この女優を使えみたいなことを威圧的に直接的には言わずに言うじゃない?で、アダムは「オーディションには何万っつー子達が押し掛けてるんだぞ!」みたいなこと言うでしょ?でも空気読めよみたいな事を強要されてキレるみたいなさ、あのシーンでは空気の支配っつーのが凄く効果的に使われてるけど、あれは英語圏というかアメリカというコンテキストの中で使われる特異なものとしての空気なんでそれがエフェクティヴになるんだけど、日本の場合、ある意味でああいうのがデフォルトじゃん?あそこまで張り詰めた空気とは言わないけど、ようはああいう感じが常に求められる感じだよね。


だから最終的に「Ok. I understood」みたいな感じにならないで「This is the girl」みたいなさ、映画見てない人はなんのこっちゃ分からないかもしれないけど、yes以上にyesの要素を含んだ言葉としての「This is the girl」なのね。カウボーイに言えと言われている言葉は持つ意味の多義性だよね。こういうのが張り巡らされるとそれが空気の支配になったりするわけ。だから俺は日本って一回文化的に解体されればいいと思ってるんだけどね。どんどん多国籍化してきて空気の支配とかが通用しない連中とかが活躍するようになれば社会も変わると思うし、それが結局、活性化に繋がると思うんだよね。ようはアメリカみたいにadaptationというよりかはaccommodationが求められる社会のほうがいいわけね。ようは何が言いたいかっつーと物理的な破壊ではなく、負の面に自覚的になって積極的にそういうのに乗らないということを選択するということね。


「やってられねぇーよ。年長世代見ても全然幸せそうじゃねーよ」っていうさ、まぁ若いやつがラディカルじゃなきゃいけない理由ってのがまぁつまりは文化とか社会の活性化を担う連中だからってことなんだけど、そういう意味でまぁラディカルに構成要素を上手くずらしていくとか、もしくは既存の在り方に反発するとかさ、そういうのを自覚的にやっていかなきゃダメだよね。adaptationばかりが求められるからずーっと全体主義が続くわけで、そういう意味でまぁ日本って北朝鮮とかとあんま変わらないんだよね。日本がたちが悪いのは日本人って自由をむしろ何かに捧げることが美徳みたいなところがあるじゃん?自由っつーか束縛されているんだけど耐えながら頑張ってるのが「偉い」とかって言われるじゃん?すんげー奴隷マインドだよね。


まぁいいや。日本批判は散々やったし、また同じようなことになるからやめるけど、なんつーかね、数学って所謂、似非数学みたいなものも結構あるっつーか、所謂、小学校レベルの算数とか理解で高度な数学の難問を解こうとしたり解いた気になってるっていうね、つまりは学問的な基礎が無いと取り組めないのが数学なわけだよね。似非科学とかはなんつーかあれじゃん?世界中にいるじゃん?なんたら研究所みたいな名前を自宅につけて、んで勝手なセオリーで研究を続けてるみたいな。数学もまぁ結構あるらしいんだよね。そういうの。なんつーか気をつけないといけないっつーとあれだけど、俺ってオカルトとかが元々好きな人だから数秘術的なものにも惹かれるんだけど、これはまぁ外道っつーかサブカルとして認識しないとダメだね。まぁ当たり前なんだけどさ、でも学術的というか正統な数学より数秘術のほうが好きだったらまぁそれで終わりって感じだね。適当にやってくださいって感じ。そこはまだディグってないから、俺が数学のどういう分野が好きなのか?っつーのは分からないんだよね。だからこそ準備期間に色々とディグる必要が出てきたわけ。つまらないものもあるだろうからね。


まぁいいや。そんな感じで。