ニヒリズムの奈落へ。その1。

mimisemi2009-09-23

色々と考えてたことを一気に出力した感じで長くなったんで三回ぐらいに分けて貼ります。で、今日は第一部です。


最近ずーっと鬱が酷いんだけど、色々と考え過ぎなのが原因なのか、単純に脳の機能障害なのか分からないけど、こういう脳の状態で考えるから全てが悲観的になるのかな?とか思いつつ、気分が暗いときの考えのほうが正鵠を得たりしていることが多かったりして、まぁ最近もそうなんだけどね、数学の事で頭がいっぱいになってるか?っていうと、まぁ学術的には全くそうではなくて、意味的に全くそうだね。


っつーのはさ、結局、学問的なものって全ては「で?」に繋がるよね。まぁある意味俺が数学に情熱を燃やそうと思ったのもっつーと変だけど、志向を数学に向けてみようって思ったのもある意味でまぁニヒリズム回避ってところもあるんだよね。もちろん哲学の延長上としてやるつもりではいるんだけど、結局、なんつーか今はまぁ基礎とか飛ばして一気にゲーデルとかカオス理論の本とか読んでるんだけど、なんつーかさ、例えば哲学の場合、単純に学科としてやっても将来的に何の見込みも無いっつーかさ、インテリ先生にしてもフーコー先生にしても大学院とかで哲学の学位とっても全く意味ないって口を揃えて言ってたぐらいでさ、凄まじい天才でもない限りまぁ哲学科って微妙なんだけどさ、でもやっぱ学問としても主題としても一番好きなのって哲学なんだよね。それは間違いない。哲学科を出れば将来安泰ですよ!みたいな世の中のあり方があったとすれば俺は間違いなく哲学を選んでると思う。


なんでやらないのか?っつーとまぁフーコー先生とインテリ先生のこともあるんだけど、あとはまぁなんつーか最近散々書いてるように自分でできるってことじゃん?独学で基盤作りができたんでなんつーか後は読み続けるだけって感じなんだけどさ、それはまぁ政治学にしてもそうだけど、まぁ俺の場合、政治哲学だよね。なので政治学っつーさ、ポリティカルサイエンスって意味での現実的な政治理論とかについては疎いっつーかまぁそこまで疎いわけじゃないにしても、これまた前にも書いたように実践的な政治学とかには全く興味ないんだよね。まぁ生物学とか歴史学とかに比べればそりゃー興味あるけどさ、まぁゼロではないけど、でもまぁ100でも無いよなっていう。


で、まぁ哲学の場合さ、まぁ自分でやることが重要じゃん?っつーかまぁ俺は学術的な追求にはあんまり興味ないんだよね。政治学然り。だからまぁ極めるのは自分で勝手にやればいい話でさ、だから全然諦めたとかじゃないんだけどさ、例えば哲学の場合さって出だしに戻るけど、結局、まぁ実存って何?とか人生とは?とかさ、愛とは?とかね、知覚とは?とか認識とは?とかにしてもさ、追求しても何も無いじゃん?何も無いって言い方は変だけどさ、ある程度なんつーか自分が知りたかったこととか、単純に知識欲に任せて読んでいたものとかが一段落してみるとさ、まぁ俺の引き出しにはなってるっつーか知識は当然意味無くはないんだけど、なんつーか結局ニヒリズムに陥るよね。結局、人生って意味無いっつーか前にも書いたようにハイデガーの被投性に尽きるよねっていうさ、その被投性の中で意味を見つけていくとかさ、超人になるとかさ、いや、まぁ意味はその人次第っつーかまぁ生き方次第なんだけど、それ自体ではまぁやっぱ意味ないよね。ただの結果っつーのが常に瞬間的に連続的に生まれているだけで、まぁ客観的な価値って無いよね。それは「自分に価値が無い」みたいな悲観論ではなくて、事実ってことね。だから俺が社会的地位を得ようが何しようがまぁ客観的な価値は無いんだよね。


で、政治学だけどさ、プラクティカルな政治科学とかはともかくとして、純粋ななんつーかさ、政治哲学っつーのかな?エリック・フェーゲリンとか最近好きになったんだけど、なんつーか政治学っつーかさ、主権者とは?とかさ、社会的秩序とは?とかってやっぱ哲学っぽくなるんだよね。定義できたところで実際問題のなんつーか今の社会をどうするか?とかさ、そういうのに繋がらないっつーかまぁ別にそういうのを目的にしてるわけじゃないんで、大雑把に「政治」っつって政治哲学から貧困問題を繋げるっつーのはまぁ乱暴なんだけど、さっき書いたフェーゲリンにしてもあそこまで行くとなんつーかもうさ、浮世離れしてるよね。


あとまぁフェーゲリンとかシュトラウスにしたって現実の政治をやるのに別に必要ない知識だよね。現実の政治となるともっと生々しい知識とか技術が必要になるわけで、哲学的なものってそうでもないっつーかそこのなんつーか哲学の必要性を説くのがまぁ政治哲学者の役割なんだろうけど、まぁ絶望的だよね。プラトン的なさ、ステイツマンが哲学者かもしくは哲学に関心を向ける君主なのだとしたらさ、まぁ両方無理じゃん?哲学的なアジェンダ作りとかって提案したらバカバカしいじゃん?俺はマジで真剣にそれは必要だと思うけど、実際にそれが必要という事実と実現不可能という事実っつーのは同じ事実でも事実のあり方が違うじゃん?言うなればなんつーか「みんなが善人であれば社会的問題は解決される」みたいなことを言っててもダメじゃん?それは事実だけどそうじゃないっつー事実があるわけでさ、そういう理想はまぁ実現不可能性っていう意味でまぁオミットされるっつーかまぁ言っててもしょうがない理想論になるよね。


政治学っつーか政治哲学ってやればやるほど現実的な政治と離れていく感じがするのね。もちろん政治哲学的な観点から得られる分析っつーかさ、こうするのがいいみたいな処方箋が出るとしても、んでそういう分析なり言論が出たとして、それが認められるっつーかさ、広まらないと意味ないよね。売れない本とかさ、限られた人しか読まない論文でそれが終わるとかってちょー虚しいじゃん?で、それって内容が高度になればなるほどなんつーかクローズドになっていくんだよね。読むのに予備知識を必要としたりさ、まぁとにかく一般向けじゃ無くなるって意味でだからといって意味が無いというわけではないんだけど、現実の政治って一般の人達の中で動いてるものなわけで、そういう現実の政治から離れたところで展開される政治理論っつーのもなんだかなぁー?っていうかさ、特にラクラウみたいなモロに哲学的なやつとか読んでると凄く思うけど、本当に現実の政治と乖離してるよなっつーのは感じるよね。


結局、んで要点をまとめると希望が必要で熱意なり政治に対する能動的な態度が必要だみたいなさ、何百ページも何かに費やしておいてなんつーか結論は3行ぐらいで終わっちゃうみたいなね、まぁ要点だけ読むのと内容を理解して要点を理解するのって違うけど、かといってどこが違うの?と言われればなんつーかそこまで具体的には答えられないっつーかさ、あとはまぁなんつーか純学問的になると例えばマキャベリならマキャベリ研究になるんだよね。所謂、政治というよりかは政治学という枠組みの中で展開される研究ね。なのでまぁある意味でその研究態度というと変だけど、研究の雰囲気としては昔の錬金術師研究とかさ、天文学者研究とかとあんま変わらないんだよね。


天文学にしてもなんつーか取ってて改めて思ったけど、マジであってもなくてもいい感じだよね。実際はまぁ必要なんだけどさ、でもなんつーか地球とは全く関係無い第何番のなんたら星雲の何がどうたらみたいなのってすげーオタッキーじゃん?オタッキーって言葉久々に聞いた気がするけどさ、このギークな感じって結局、研究っつー分野だとどれもこれも似たようなもんなんだよね。まぁそういう意味だと生物学とかはダイレクトにオタクな研究結果とかが人類に貢献したりするんでプラクティカルと言えるけど、天文学とかって「天文学ニュース」みたいなのをチェックしてないと動向とかさっぱり分からないし、まぁ知ろうとも思わないじゃん?哲学で言うとフィロソフィカル・レビューとかなのかな?読んでる人口が超少なそうっつーかさ、そのなかで起きている研究の結果とかってマジでどうでもいいよね。結局まぁだからなんでもどうでもよくなっちゃう。


そういう意味で政治哲学の役に立たない感は哲学と一緒だね。俺の中では意味があるんだけど、それを出力したところで意味になるわけじゃないし、知識が何かの職に役に立つわけでもないっつーさ、まぁせいぜいやっぱり研究職に就くか教師になるぐらいでしか知識を利用できないみたいなね、結局まぁそういうことになるよね。これを考えるとマジで一般教養ってホント意味ないんだよね。小学校でやったものしても光合成がどうのとかさ、歴史がどうのとかさ、役に立つか立たないか?って意味だとあんま意味無いのばっかりだよね。まぁ意味なくても教養として持っておくべきなのが一般教養なんだけど、天文学とかにしてもさ、ある意味で学問として成り立っているのが不思議なぐらい重箱の隅な感じがするんだよね。でもまぁ天文学者とか天文学好きに言わせればそんなことはないんだけど、それ言い出すとさ、哲学なんて意味無いって言う人も多いじゃん?で、俺はそうは思わないけど、でもそう思う側の意見が分かるよね。っつーのは恐らく俺が天文学とかに感じてる意味の無さを哲学批判っつーかまぁ意味あるの?って言う人が思ってるんだろうなって思うからなんだよね。そういう意味で政治哲学なんかもまぁ同じ穴の狢って感じだね。


政治学がキツいところは一般社会と繋がっていたりしても誰も理解できなかったりっていうと変だけど、一般に普及するほどメジャーな理論にならなかったりするのが大半だしさ、まぁ専門的な分野の知識っつーので終わっちゃうじゃん?あとはまぁ実現不可能性だよね。さっき書いたね。ロールズへの批判ってまぁ現実的な観点からのが多いよね。俺のお気に入りはやっぱりRaymond Geussの批判なんだけどまぁ簡単に書くと「無知のヴェールなんつってそんなのが装置として機能するわけないだろ」って話ね。ようは自分が完全に客観的になってっつーかようは自分のジェンダーとか人種とか階級とかっつーのを全部取っ払って客観的に政治を考えるなんてことがまぁ実際問題まぁ無理だろうっていうさ、それは俺もいつも書いてるけど、無知のヴェールは概念装置としては最高だけど、できる人は多くないよなってことなんだよね。いつも書くようにそれがみんなできたらさ、もっと相手の立場になって物事を考えるとかさ、もっと優しくなれるじゃん?って思うわけよね。なんで優しくないっつーか嫌なやつが多いか?っていうとさ、まぁ無知のヴェールを被れない人が多いからだよね。特にこっちの白人とか見てると本当にそう思うな。


彼らが例えば黒人の立場とかになって物事なり政治を考えられるとは到底思えない。それができる人ってのはほんの一部でそういう一部ってのはプログレッシヴであったりラディカルであったり左翼的であったりっつーさ、まぁイデオロギー的な偏りがあるわけで、そういうのも抜かして利害関係無しに考えられる人なんて多くないよね。まぁ逆に黒人も白人の立場になって物事を考えるなんて無理だろうとは思うよね。当然必要とされているのは白人が被差別者側の立場になって物事を考えるってことだけど、まぁ無理そうなまぁ無知蒙昧で傲慢なやつらが本当に多いね。黒人にもバカは多いけど、白人にもバカは多いんだよ。黒人のバカは朴訥なやつっつーかさ、バカでも愉快で良いやつが多いのに対して、白人って俺のイメージっつーか経験だとさ、まぁバカなことによるレイシズムとかさ、ファナティックな宗教観とかさ、所謂、タチが悪くなるんだよね。


黒人が「愉快なブラザー」であるのに対して、白人は「キリスト原理主義的差別主義者」とかである可能性が高いっつーかタチが悪い質の悪さなんだよね。黒人でも白人でも頭が良い同士は分かり合えるだろうし、まともな政治の話とかできると思うけど、まぁそれは人種関係なしに頭が良い人って少ないわけだよね。黒人は馬鹿が多いっつーとレイシズムか!みたいに敏感になっちゃうっつーか逆に左翼とかだとさ、被差別者を庇うみたいなイデオロギーでそういうことは絶対言わないとかさ、日本の中国寄りの左翼とかと一緒だよね。何かと言えば太平洋戦争を出してきてさ、んでまぁ中国賞賛っつーかさ、韓国にしても日本がやってきたことだから反日はしょうがないみたいに言う感じっつーのがまぁアメリカで言えばとにかく黒人擁護みたいなね、そういうのって黒人にもあるからね。所謂、ブラックレフトっつーのかな?パブリックエネミー的な感じで言えば態度は左翼的だけど理念はブラックライトっていうね、黒人共和国の建国の夢を持ってたりさ、白人排除とかを考えてたりさ、まぁ俺はこういうのに共感しちゃうところはあるし、いつも書くように白人はタチが悪いバカが多いから本当にいなくなってほしいっていうか、どんどん移民が増えていってっつーかようは非白人がガンガン増えていって白人がマイノリティにでもなればいいとかって思ったりするしさ、実際、まぁ言わないけど白人が好きじゃないっつーヒスパニックとかブラックとかラティーノとかイースタン系の人とか多いからね。所謂、俺も黄色人種として感じる白人の傲慢さとか、独特のアメリカで特権階級的な立場にいるっていう雰囲気を感じるからさ、だからまぁ俺も非白人の一人として嫌な雰囲気を感じてるとは思うんだけどね。


だからまぁ結局、アンタゴニズムなのよ。ムフ的な闘技的民主主義っつーのかな?永遠と続くアンタゴニズムね。そういう意味でもまぁムフも普遍的な合意を求めるロールズの議論に「政治なき政治」みたいなことを言ってるけど、まぁようはロールズってよく言われるようにカント派の理想主義者なんだよね。理念は大好きだけどやっぱ非現実的過ぎて全然サポートできないっていうさ、「こういう態度が必要なんだよ」っていう政治的態度の規範としてはカント的倫理の模範性っつーのをまぁ示せるっつーか最良で最善の例として示せるんだけど、実際、やってくださいってなるとまぁ別問題になって、結局まぁ無理じゃん?ってことになるじゃん?やってくださいって言われてもできない人が多いですで終わっちゃうっつーかさ、だからまぁ結局、闘技的民主主義プラスコノリー的プルーラリズムデリダ流の来るべき民主主義論で話が終わるんだよね。これを永遠と続けていくしかないっていうある種の永劫回帰だよね。政治における一回性の連続ね。まぁ普遍的な合意が無理なんだったらまぁこういう政治のあり方しかないっつーのは論理的な帰結として分かることだよね。まぁ俺の場合、やっぱり哲人政治を求めるっつーか、エリート政治を求めるけどね、それと同時にまぁ市民社会のあり方としてはさっき書いたムフ・コノリー・デリダ的な感じしか考えられないっつーかさ、考えられてもどちらにせよこの3つが基軸になって動くダイナミズムになるよね。


まぁある意味でプラクティカルだけど、こんな研究なんていくらでもやってる人がいるだろうし、俺がやる必要性も感じないよね。まぁ俺の場合、「こう思う」って自分なりに思えるとそれで終わっちゃうからさ、だからまぁある意味で自己完結しているんだけど、そういう意味だとまぁ哲学も一緒だよね。色々と読んだおかげで出た見つかった答えとか色々な思考のパラダイムは得られたけど、結局、やっぱりニヒリズムになっちゃうっつーか、ニヒリズムを回避する態度としての哲学的態度とか哲学的エロスというのがあるんだけど、イマイチまぁ説得力に欠ける感じはあるよね。まぁ人を説得するつもりはないんだけど、俺の中でもその概念が曖昧っていうか、むしろニヒリズムを自覚しているからこそのニヒリズム否定としての哲学的エロスっていう妙な二項対立があるよね。放っておくとニヒリズムの奈落に落ちるんでエロスをキープしようじゃないか!っつーような積極的な態度っつーかまぁそれこそ能動的ニヒリズムだけどさ、ようはニヒリズムっていうパラダイムの中にいるんだよね。だから常にニヒリズムに脅かされている実存ってのが存在しちゃうし、結局、これが事実なんだよね。だからやっぱりいくら人生に意味を見いだせたとしても俺にとっての自殺ってやっぱ究極のオルタナティヴとしての生の自己完結なんであってまぁ否定できないよね。かといってまぁオカルト的な話になるけど自殺者って成仏できないっつって永遠と死を再現し続けるとか、死んだときの苦しみが霊体になって永遠と続くみたいなのがあるじゃん?そういうの考えるとヤヴァイな!とは思うけど、まぁこれが事実かどうかってまぁ立証不可能だからなんとも言えないよね。


まぁ今まで書いてきたことはなんつーかニヒリズムについてだよね。何にしても「で?」っていう問いはつきものじゃん!っていうさ、金稼いでる人でも目的が達成されたら「結局、俺がやりたかったことってこういうことだったのか?」とかって思う人もいるしさ、まぁある意味で幸せな人はその目的に常に向かえる人でまぁある意味でバカじゃないといけないんだよね。金を稼ぎまくってもまだそれが達成されない目的として永遠と措定され続けるっていうさ、まぁ所謂、その人の人生を保全する物語だよね。そういうのが持てる人はある意味で幸せだよねっつーかまぁ生きるためには物語が必要っつーのもいつも書いてることだけど、哲学的と言うとあれだけど、やっぱり意味とかを求めちゃうと結局、人生自体が意味無いんで意味無いじゃん?全部。意味にしてもさ、例えばなんかの学科を勉強する意味にしても何かとの繋がりで意味が生まれるんだよね。それがビジネスに役に立つとかさ、ようはビジネスってのは金を稼ぐ手段なわけでさ、ようは生きるとか金を稼ぐということに直結する技術なり知識はそういう意味で意味があるんだけど、それだけやる人生って俺は到底意味があるものだと思えないんだよね。やりたくないようなこともビジネスといってやってさ、んでまぁ生活費とかは得られるかもしれないけど、生きている意味がないっつーようはハイデガー的な被投性が永遠と残ったままビジネスを続けるっつーさ、そこでまぁ儲かってるとかさ、収入を得てるっつー感覚を得て、んで良い家を買ったり良い車を買ったりして満足するのもいいけど、それってまぁ物質的な満足感とさ、あとは他者に見せつけるためのヴェブレン的な見せつけの消費じゃん?


「あーあの人リッチなんだな」ってその生活圏では思われるだけでさ、着ている良い服も車も例えば違う文明に行ったら意味なくなるじゃん?それはそれ自体がたいした意味が無いし、現世においてのアイコン的な消費物としてのまぁボードリヤール風に言えば記号的な意味を持つ消費物ってことなわけでさ、その虚しさたるや凄まじいものがあるじゃない?だから諦めてるっつーかね、自分にビジネスの才能が無いから哲学とかに逃げて、んで惨めな自分を自己正当化してるとかってことじゃなくて、それはもう事実なんだよね。強烈な事実だよね。だから裕福な生活とかさ、ようはほとんど自由が無い裕福な生活なんて求められても断りたいぐらい嫌だよね。消費の虚しさとかってのが分かっちゃえばなんつーかもうさ、生活するのに必要なものだけでようは事足りることになるじゃん?そうなるとまぁ必要以上の金ってマジで必要ないからねっつっても今はすげー必要だけどさ、でも金より必要というか、価値があるものってやっぱ自由だよね。生活に困らなくて、んでなおかつ自分の時間がいっぱいあるっつーのがまぁ最高の贅沢だよね。ビジネスで時間が無いんだけどリッチになってる人よりまぁリッチだよね。ただそれもリッチという感覚の感じ方なんであってさ、裕福というか、良い家に住むとかさ、高い車に乗るってことがリッチというか理想だと思ってる人ならまぁ永遠とそれを理想だと思ってんでそれを信じるよね。実際、自分がそうなってみるとそうでもないってのに気がつくんだけど、大抵の人はそうなれないんでだからそれを理想的な夢として思い描き続けることができるんだよね。ようは実現できない人達にとってはそれって壊せない夢じゃん?


達成不可能だから永遠と破壊不可能なんだよね。言い換えれば夢を破壊できるのってようは達成によってか認識によってかなんだよね。夢を達成したけど実際は思ってたのと違ったってまぁ通販とか期待してた映画とかと一緒でさ、まぁ自分が思い描いていた商品の像とか映画の像と現実が違ったわけじゃん?それによって夢というのは壊されるよね。ようはそれがただのイデアだったということに気がつく事で夢が壊れるんだよね。もう一つは達成されてもまぁ大体こんなもんで虚しいだけだろうっていうまぁ思考実験をしてみてヴァーチャルに夢を達成した自分というのを思い描いて、んで別に幸せでもないなってことをヴァーチャルに体感することだよね。で、俺にとってはなんつーか俗っぽいリッチになるみたいな夢って全然夢じゃないんだよね。むしろ今みたいな生活が永遠と続くのが夢なんであってさ、ようはこれだけ金が無くてもこれだけ時間があって、んで一日中束縛される時間が無いっていうね、今ぐらいの週5感覚だよね。所謂、半日はそれによって潰されるけど、そこまで過酷なもんでもなくて、んで自分の時間はいくらでもあるっていうこういう生活ね。超地味で夢が無いと言われそうだけど、これは夢があるリッチな生活より夢がある世界だよねっつーのはまぁ自由を得てるからね。旅行とかしない限り金はかからないっつーか俺の場合、今やれてることがやりたいことだから今である意味で理想的な生活ってのが叶ってるんだよね。当然、まぁ生活のランクはもうちょっと上がってもいいし、完全な一人暮らしがいいけどね。ようはキッチンがシェアとかじゃない完全に一人の生活ね。


それはまぁ叶ったら明らかに嬉しい夢だよね。所謂、壊されない夢だよね。達成可能であるし達成したら最高だなって思える夢だよね。もちろんアメリカンドリーム的なデカイ夢ってのは別腹で持っておくべきなんだけど、原寸大の夢ってのもまぁあってもいいわけね。それは両方とも叶ったら最高な夢である必要があるわけでまぁ現実的でなおかつ今の自分にとっては実現不可能なぐらい大変なことがいいわけだね。だからまぁなんとかしてそれを叶えるために頑張らなきゃってことになるじゃん?でもさ、今の俺で言えばやっぱ生きる事の虚しさって例えば将来の心配が無くてさ、今みたいな生活をもうちょっと高いグレードでできたとしてもさ、やっぱ残るのは分かるよね。今は生活のグレードが低いだけでさ、条件的には夢は叶ってるっつーか、こうありたいっつー生活は叶ってるわけでさ、だって変な話さ、比べてもしょうがないけど、やっぱ俺みたいに呑気に留学とかって言ってられるやつってやっぱ呑気じゃん?それこそ派遣とかで死ぬ程働いても生活費すらもままならないとかさ、生活費はなんとかなってるけど私生活なんてあったもんじゃないみたいな生活を送ってる人にしてもまぁ呑気っつーかさ、気楽だなーって感じになるじゃん?そんな気楽な俺ですら実存的な葛藤を抱え続けるわけだよ。これによって分かるのはようは人ってのは生きる目的なり動機が無いと自由があってもただひたすら虚しいだけになるってことだよね。


例えば先月とかさ、一ヶ月ぐらいずーっと休みだったけど幸せだったか?っていうとそうじゃないからね。もちろんショーペンハウエル的な意味での苦痛の回避という意味では最高に幸せだけど、「ハッピー!」って感じではないよね。だからまぁあれなんだよね、ノリピーじゃないけど、そういうハッピーさを求めるようになるとようは多幸感とかっていうようなハピネスに変わるんだよねっつーかのりぴーぐらい金があって生活が安定しててもやっぱ毎日退屈なんだよね。だからクラブでドラッグやりながら騒いでるのが一番楽しいってことになる。で、その気持ちは分からなくもないって意味で俺はドラッグを使う人達を責められないんだよね。彼らはある意味で至って普通のことをしているに過ぎないからって思うからね。


金があっても私生活がどうしようもない例で言うと小室哲哉だよね。金があったときでもなんか自分の時間ではずーっとゲームやってたっつーし、食生活もコンビニ弁当とか宅配ピザばっかだったってなんかで読んだんだけど、それが没落後だったから金が無くてそういう生活をしていたということじゃなくて、ようは金があったときでもまぁそんな感じだったらしいっつーのはなんかで読んだよね。だからまぁ金を使うとなるとまぁロスとかに別荘を買ったりさ、すんげーデカイビジネスプロジェクトを立ち上げたりさ、飛行機をチャーターしたりさ、そういうことになるよね。金を使うところが無さ過ぎるからさ、そういう意味でマイコーとかも分かるよね。マイコーの金使いの荒さもすんげー分かる。小室もマイコーも成功はしたし億万長者になったけどさっぱり幸せじゃなかったっつー良い例だろう。ああいうの見てると本当に金って無駄にあってもしょうがないなって思うよね。


芸人とかの場合、まぁある意味で理想的なんだよね。ようは大抵のお笑い芸人って人間のレベルが低いやつらばっかだからさ、風俗行ったりとか、消費したりとかさ、車とか買ったりさ、旅行とか行ったり姉ちゃん引っ掛けたりするっていう低次元の欲求を満たすっていうだけのサイクルで満足するじゃん?で、そういう充足があるのにも関わらずそれに飽き足らずになんつーか名声とか人気とかを求めるようになるから落ち目になったりすると落ち込むんだよね。派遣社員とかと比べて明らかに金があるのにも関わらずすんげー悩んだりするわけじゃん?だからなんつーかああいう浮き沈みが激しいものに関してもさ、なんつーかさっぱり羨ましいと思わないよね。下手に顔が有名だから外にも出られなくなるしっつってもまぁ俺は外にでないけどさ、なんつーかまぁだからあれなんだよね、ハリウッドのセレブにしてもセレブな生活っていう生活の感じのレベルが低いじゃん?


パーティーに行ったりとかさ、良い車に乗ったりとかさ、高価な服を着たりとかさ、そんなのばっかじゃん?そういうので本人達が満足してるならまぁいいんだけど、満足できるぐらいの低次元のレベルでいれるならまぁそれはそれで幸せなんだよね。その辺のバランスが微妙なセレブも多いじゃん?多分ああいうのもまぁ虚しさだと思うよね。だからドラッグ中毒になったりさ、華やかに見せておいて実はトイレで吐きながら泣いてるとかさ、実は寂しいとかさ、まぁそういうのってあるだろうなーって思うよね。だからなんつーか一山当てて、んで山奥とかに家立てて優雅に生活してる俳優とかもいるじゃん?ああいう人達はレベルが高い隠居暮らしをしてるよね。社会でも成功してんで隠居してるっていうさ、社会からの逃げじゃなくて幸せとか平穏を求めるために私生活のレベルでは隠居みたいなのってレベル高いよね。そういう生活をしてる俳優なり作家なり映画監督でもなんでもいいんだけどまぁ大体頭が良いっつーかさ、地頭が良いっつーか所謂、俗っぽい生活とかで満足したりしないような人達が多い気がするよね。


ってことで続きはまた明日。


自伝的省察

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政治の新科学―地中海的伝統からの光

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