抽象化される現実みたいな話。

mimisemi2010-09-04

いやさ、毎日が平凡でまぁ平和なんだけど、こうなってくるとさ、ゲシュタルトが崩壊してくるんだよね。いやさ、散歩行くじゃん?犬の。二宮スタイルかもしくは何か考えたいことがあったらまぁ何も持っていかないんだけどさ、散歩のコースとかも決まってるし、見える建物とかもまぁ一緒じゃん?建物っつーか家とか道路ね。


で、ゲシュタルト崩壊って言い方が正しいかは分からないけどさ、見慣れたものに脳は馴化して細部を見なくなるっつーか記憶に頼るようになって物を見なくなるっていうけどさ、まさしくそれなんだよねっつーかそれはもうなんていうかリアル感が無いんだよね。脳が作り出している記憶の残像の中に自分がいる感じっていうかなんていうか。まぁ衣食住整ってるっていうハングリーじゃない環境だからこそこんなノロマな馴化が起こるんだろうけどさ、まぁそれはともかく変な話、現実的なものに具体性が無くなるわけよね。変な話、抽象化されるわけ。メガテンアルカディアにいるような感じと同じかもね。結局、まぁこれがイデオロギー装置とかの洗脳になると完全にプラトンの洞窟になるわけだけど、いや、なんつーか生活費とか気にしないでいい分、考えられることは増えるよね。だからこそ数学とかに熱中できるわけで。


帰ってきたときは飯がうまいだの犬が可愛いだのっていうことを感じるけど、日常化するとさ、まぁそれすらも抽象化されるよね。かといってドライというわけではないんだが、例えば家族が見てる旅モノのテレビとかもさ、現実性ゼロなんだよね。いや、それこそまぁ作り物っていうと変だけど、まぁそれはリアルなんだけども感覚的にリアルじゃないっていうまぁ厭世的な感じだよね。だからといって何もかもがどうでもいいということではなくて、むしろ俺の場合、ニュースとかを見てたりするとさ、まぁ見ないんだけど家族が見ているのを聞いてたりするとさ、ニュースだけだとデフォルトで作り物って感じがするけどさ、その作り物の背後にリアルを感じるんだよね。言ってる意味分からないか。


リアルがリアルとして伝わっていないとか、リアルさが無いというところにリアルさを感じて、それを意識的に感じるっていうさ、それを介してアンリアルからリアルを感じ取るっていうのかな?そういう感覚がずーっと続いてるね。最近。こんな生活だとだからまぁ数学ってのは超リアルだよ。ハイパーリアルっていうかなんていうか、あれほどリアルなもんはないだろうっていうぐらいリアルだよね。リアル世界も座標とか軸とか三角形で観る癖がついたりしてさ、あとまぁこれは誰でもやるだろうけど、カレンダーをモジュラーとして読んだり、カレンダーほど明らかじゃないものにもモジュラーをかけてみるみたいなさ、これこそがまぁアンリアルからのハイパーリアルってことだと思うんだよね。


仏教的にも決してリアルではないアンリアルからハイパーリアルを抽出するっていうのかな?結局、本質ってそこだと思うんだよね。属性とかさ、思い込みとか所与の概念とかを抜き取った純粋な世界っていうのかな?それこそが実はリアルで、んでもリアル世界はそれを覆い隠すっていうよりかはまぁ色んな不純物によってリアルを覆い尽くすからどうもどれもこれも胡散臭くなって、んでまぁアンリアルになるわけだよね。で、そこにはもうリアルは無くなるっていう。その形骸化されたリアルから純粋なフォームとか超越的イデアを感じ取るみたいな。もしかしたらこういうやり方でしかリアルを感じ取ることってのはできないのかな?って思うよね。


全ては意識だのフッサールが言ってたような意識のawarenessだのっていう、まぁそれ自体を不純とするかは置いておいてさ、そういうもの自体がつまりは意識にリアルだと思わせる何かってのを投影することで意識がそれをリアルだと感じ取るんだよね。だから俺みたいに思い込みが強かったり被害妄想があったりするやつだとさ、それもまぁ本人にとってはリアルなんだよね。んでもそれはアンリアルでしょ。ただの妄想であったり意識の投影というか思い込みだったりするわけで。そういう意識っつーものを通した写像ってのがようは自分にとって現実だと思わせるものを形成しているんだけど、今日言いたいことってのはね、まぁすでに自明なことではあったけど、そんなもんはまぁリアルじゃないんだよね。少なくとも俺にとっては。んでもハイパーリアルってのを抽出するような意識ってのが自分に芽生えてきたんだよね。


それは全てを数学に還元するというようなことではなくて、フィルターにフィルターを通すような感じだよね。意識の写像をさらに写像してリアルにそれを映し出す。で、それをまた意識に写像する・・・という行為を永遠と繰り返すと、まぁ物事にもよるんだけど、無駄なものが削ぎ落とされていって、そこにリアルを感じ取ることができるっていう。でもそれは凄まじく即物的なものだけどね。でもそういうところに情緒とか美しさとかを感じることができるってのが人間とコンピューターの違いじゃん?俺が前から音楽の行き着く先っつーかまぁ究極的なフォームはサウンドスケープだって思うのもまぁつまりはそういうことだよね。自然の音に敵うものはないっていう、まぁこれは別に一般化できるような音に対する考え方ではないけどね。あとは耳栓とかして何も聞いてない自分というのを聞くという感じもあるよね。あれも実は何も聞いていないとかシャットアウトしているということではなくて、サイレンスってのをずーっと聞いてるんだなって思ったのね。これもまぁさっき書いたハイパーリアルな感覚で感じられたことなんだけども。


そういうのってケージ的に状況を作り出すのではなく知覚を作り出すんだよね。サイレンスに対する音の配慮だよね。もしくは無作為というところに作為を見いだすようなさ、無もまた有であるみたいなことだよねっていうかまぁそれもメッセージであったりアクションであったりするわけで。不作為って言うほうが正しいか。


無もまた有であるって使い尽くされたクリシェみたいな感じだけど、そういう陳腐なことではなくて、その無を有と感じるという感受性というか知覚というか配慮だよね。無という情報の重みというかなんていうか。無ってだからまぁ全然空虚でもなんでもなくて、凄まじい情報量なんだよね。空虚と無は全然違うことだよね。そもそも虚なんてのは何かを虚しいと感じる能動的な意志の行為なわけだから。そうではなくて無を感じるとか理解するように勤めるとかさ、つまりはそういうことが純粋な思考なんじゃないか?って思えるようになってきたのね。


一歩間違えるとこれはすぐにニヒリズムに陥るんだけど、まぁそれは今も書いたようにニヒリズムってのは虚を虚しいと感じてアイロニカルに生きるだとか考えるだとかさ、それを愚痴るだとかなんだとかっていうことだよね。いや、そうではないのよね。まぁまさしく仏教で言う空ってこういうことなのかもしれないけど、なんつーか今は俺なりの空とか無の定義ができた気がするんだよね。それは仏教のそれとは違うかもしれないんだけど。いや、凄まじい情報なんですよってことだよね。無ということは。そもそも無って字自体がマトリックスみたいでしょ?数学で言う行列みたいな形じゃん?俺にはこれがさっき書いたハイパーリアルを映し出す方眼紙に見えるんだよね。その方眼紙をフィルターで見ている俺ってのが無って字の下の部分の足みたいな四本の棒みたいなのを使って動いているって感じだよね。なんかまぁすげーゴーストを感じられる瞬間っていうかなんていうか。


んでもなんか普段からちょっと躁鬱っぽい俺としては無幸みたいな状態が最高の幸福の状態なのかもしれないなって思うよね。不幸ってまぁ幸があるから発生するabsenceなわけで。かといってまぁ足るを知るみたいな禅みたいな思想に俺は共感できないんだけどね。それとこれとは違うんだよね。なんつーか衣食住完璧にして経済的な不安とか一切取り除いて無を満喫するみたいな感じだよね。これこそが俺にとっての最大の幸福なのかもしれないなって散歩しながら思ったんでしたよ。absenceが発生しないということは凄いことだよね。そこには足るみたいな概念も介在しないわけで。そもそも足りることなんて無いよね。それは自分の物欲を見れば明らかだよね。なんか厭世的なこと書いてるけど俺ってすげー俗人っつーかまぁ欲が強いからさ、だからこそ欲に悩まさせるわけよね。んでも元々あんま欲が無いって人もいるからね。ウチの妹みたいな。彼女はすげーニヒルだと思うんだけど。だからこそあまり足るとか満たされるという感じに幸を感じることもあまり無いっていう。それってまぁつまりは不幸が介在しないっていうつまりはそのabsenceが介在しない感じだよね。


いや、妹はそこまでニヒルではないけど、俺みたいな情動的なやつとは正反対の人間なんだよね。マジ切れしたり叫んだところなんて見たことないもんな。子供の頃はあったかもしれないけど。でももしかしたら逆かもしれないんだよね。実はコアの部分は俺の上辺みたいな情動的なところを持っててさ、んでも上辺がニヒルっつーかまぁ達観してるっていうか。で、俺は実はコアの部分はかなりニヒルなんだけど、んでも上辺がすげー情動的っていう。なんかまぁこうなると何が感情なのかってのがさっぱり分からなくなるけどね。何が社会なのか?とか社会人なのか?と同じぐらい分からないもんだよね。感情って。まぁようは俺と俺の妹の感情は入れ子みたいになってるってことね。兄妹だからこそそもそもヤヌスみたいなもんなわけで。妹は激しく俺のこの例え話を否定すると思うけど。


まぁそんな感じかね。んじゃまた。


あ、んで抽象化される現実の一つとしてWolfram Alphaがあるよね。まぁ今日書いたことと同じではないんだけどまぁ同じ系統ってことで。


http://www.wolframalpha.com/


http://ja.wikipedia.org/wiki/Wolfram_Alpha



結局まぁこれ買ったんだけど、まぁ評判通りいいねっつーか俺は数学マニアというか数学書マニアになりつつあるなっていう。つまりはもう知っているトピックでもどんくらい面白い解説がなされているか?とか分かりやすいか?みたいなさ、あとは本の構成とかアプローチとかね、そういうのが気になるんで色々買ってるってのはあるね。同じ概念でも違った説明とかすんげー敷居が低い解説とかさ、まぁ色々あるじゃん?結局まぁ哲学も同じだと思うんだけどね。大体まぁ似てる概念とかってのがあって、んでそれの言い方だなっていうことだよね。まぁ数学の場合それがもう当たり前っつーか自明のこととしてあるわけだけど。まぁそんな感じですわね。良い本ですね。非常にってまだ最初のほうしか読んでないけど。数学っつってもなんで数論ってこんなに面白いんだろうね。