mossyaさんへの返信。

mossyaさんへの返信を1エントリーにするです。ちなみにこのやりとりのトピックはこれね。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20100904

mossya 2010/09/05 19:47


初めてコメントさせていただきます。知覚されたリアルみたいな話にすごく興味があります。宮台さんが以前ブログで「非日常を日常に登録する」とか「非自明性を自明性に登録する」とか言ってたんですが、今回の耳蝉さんの記事と根本的なところでは同じことを言っている気がしました。下のリンクは僕のブログで申し訳ないんですが、記事の中で宮台さんの元記事にリンクを貼っているのでもしよかったら。もう読んでるかもしれませんが。


http://d.hatena.ne.jp/take-sub/20100611/1276245076


“属性とかさ、思い込みとか所与の概念とかを抜き取った純粋な世界っていうのかな?それこそが実はリアルで、んでもリアル世界はそれを覆い隠すっていうよりかはまぁ色んな不純物によってリアルを覆い尽くすからどうもどれもこれも胡散臭くなって、んでまぁアンリアルになるわけだよね。で、そこにはもうリアルは無くなるっていう。”すごく共感しました。でそこからイデアのようなものを見出すことでリアル(ハイパーリアル?)を感じるっていうのは僕にとって新しい考え方でした。よく分からないんですが、世界を脳みその中の記憶とか常識で構造化するのではなくて、なんというか数学とか宇宙的で客観的(普遍的?)な概念で構造化していくって考え方なのですかね?



僕がリアルって何なのかなーと考えるときにいつも思い浮かべるのは、坂口安吾の「文学のふるさと」です。こちももう読んでらっしゃるかもですが。その中で書かれている「アモラル」という概念は、小説とか童話というアンリアルなものの中にありながら読み手に現実以上のリアルを提示するような、不思議な概念だと思います。アモラルな物語というのは多分記憶とか常識では“構造化できない”物語で、私たちはそういうものにむしろリアルを感じるのかなーと思うんです。



日常の中にありながら日常の向う側をいかに見るか、あるいは脳みそで考えながら脳みそが関与する前の世界をいかに見るか、といったことに本当に興味があって、僕は耳蝉さんがいうハイパーリアルというのをしっかりと理解も経験も出来てはいませんが、今回の記事は特にわくわくしながら読ませていただきました。長々と失礼しました。


あとmix毎回楽しみにしてます。このあいだのブレイクコアのmixはまじでかっこよかったです。


書き込みありがとうございます。


僕が宮台さんと同じようなことを言えてたらそれは凄まじく光栄な気がします。まぁでも恐らく大体のものは突き詰めると本質に辿り着いて、それはこの前に書いたようにそれが様々な言葉やパラダイムで説明されるだけで、どれもこれも根本的には似たようなことかもしれないというのはそれが人間の思考の産物である限り人間という枠組みの中でそれが生み出されたり、まぁもしくは色々なインプットの結果、アウトプットされるものであったりするので、なんというかまた数学の例えになってしまいますが、群の中の置換という気がするんですよね。combinatoricsですね。


ところで僕が曖昧に語っていたハイパーリアルなる概念ですが、相変わらず別に体系的に考えだされたものではなくて、散歩中とか夜中の思いつきの産物であったりするので、それに対して厳密な定義をするのは難しいのですが、基本的にmossyaさんが書いてくださった「客観的な概念で構造化していく」という感じが一番近い気がします。Wolfram Alphaを似たようなものだと言ってリンクを貼ったのも、つまりは僕にとってWolfram Alphaのようなアルゴリズムが悟りに近いものだと感じたからなんですね。まぁ悟りというとちょっと語弊があるかもしれませんが、つまりは僕が言いたいハイパーリアルです。


宮台さんとかも昔から言っているように社会って凄まじくデタラメですよね。噓だらけでくだらないことだらけです。「でもこれが現実なんですよね」っていうことはつまりはなんといいますかニヒリズムなんですよね。いや、それは確かに現実なんですが、噓とかくだらないことに立脚しているものでもそれがそういう風に出来上がっているものであるならそれは確かに現実ですよね。で、その現実を直視するということですよね。そこでつまりは「くだらないな」とか「現実は厳しいな」と感じることなのではなく、それらをなぜそれがそういう風なリアルを作り出しているのか?という分析的な観点のフィルターを何度も通して、臆見が無い真実というものを脳に写像するというのがつまりは僕が言っていた認識ということなんですよね。


そうなるとまぁ目の前にあるリアルもまたアンリアルですよね。色々なものに形成された現実と主観的な認識という意味でそれは作り物ですよね。まぁもちろん人間の認識が介在するとアルゴリズムが何かの入力を受けつけるようなコールドでドライなことにはならないんですけど、そこになるべく無駄な意志とか思い込みとか考えを介在させないということですね。「俺はそう思う」みたいな「俺」が凄く邪魔なわけですよね。そうじゃなくて客観的にある事実はなんなんだ?ということですよね。


で、恐らく人間が感じられるリアルって痛みとか吐き気とかそんなもんだと思うんですよね。認識が介在しないダイレクトな痛みというかなんというか、まぁ即物的な刺激とか入力ですよね。心が傷つくみたいなのはモロに主観が介在して心が傷ついているのでかなりアンリアルですよね。傷ついたという事実を作り出している自分がいるわけですよね。でも例えば怪我の痛みとかは客観的な痛みですよね。客観的というとおかしいんですけど、まぁ動物として当然の痛みというわけです。もちろん痛みを感じない障害を持ってる人とかもいると思いますが、まぁそういう話はとりあえず置いておくとして、つまりはそのぐらいダイレクトなことぐらいしかリアルが存在しないということですよね。


そういう意味で宮台さんが90年代後半に言っていた、ドラッグ推奨みたいな感じは凄く共感できるんですよね。まぁこれも僕が思っていたことを後追いで宮台さんの著書とか動画を見て知って「同じこと言ってるな」って思ったわけですが、つまりはリアルというのは脳で作り出されるアンリアルなものをリアルとして認識するということに他ならないので、あまりに現実がつまらなかったらその知覚自体をいじってしまえばいいじゃないかってことになるんですよね。まぁ僕はマリファナぐらいしか推奨しませんが、ジャンキーにならない程度だったらコカインも良いと思います。


そもそも本来的なリアルとは疎外されているというのがまぁモデルネみたいな感じだと思うんですよね。近代人というかモダン人というかなんというか。そのリアルとの疎外を生み出しているのがつまりは構造化された社会とか世界ということになると思うんですよね。原始的な世界だとそれこそプリミティブな民族はリアルをリアルのまま感じとっているような気が文明人側から見れば思ったりしますが、僕らは原始的な世界にいないので、それはつまりは現実だと思わされていることとか、色々な認識上のcombinatoricsの所産を現実だと認識しているみたいな、まぁつまりは汚れたフィルターだらけの主観の中に生きているということなんですよね。まぁ別に僕は社会批判とか国家批判はもうしないんですけどというのはまぁホッブズ主義みたいになったからなんですけど、まぁそれはともかくようは社会とか構造化されるってそういうことだと思うんですよね。リアルなんですけどヴァーチャルなんですよね。


でも僕が考えるリアルというのはそういうものとは違う一つ上のメタレベルに立って俯瞰して世界を見た時にもたらされる情報のストリームみたいなものをリアルだと感じ取る即物的な態度なんですよね。それがまぁつまりはハイパーリアルってことなんです。メタレベルとかっていうとまた陳腐なクリシェみたいになりますが、まぁつまりはそういうことなんでしょうけど、僕の言うメタレベルが世の中のメタレベルの定義と合致しているかは分からないので語弊があるかもしれません。まぁでもまさしくmossyaさんが書いてくださった「客観的な概念で構造化していく」という概念のシステムを作り出すための入力を作り出すフィルターとか認識ということなんですよね。もちろん経験的に学んだり記憶が役だって認識できたりすることもあるので、それを全て否定するのではなく、つまりはハイブリッドでいるということですよね。


僕はいつも攻殻機動隊草薙素子のような存在に凄く憧れるんですが、あれはつまりはその情報のストリームと一体化するというような、まぁつまりはある種の梵我一如を体現してしまったような存在が草薙素子のデータストリームとしての存在のあり方ですよね。でもその中にゴースト的な要素があったり、記憶とかもあったりして、つまりはそれが草薙素子という人格といいますか、自我を作り出している要素になっているんですよね。


僕がただハイパーリアルを知覚するだけのフィルターになってしまったら、まぁ生きる意味ってあまりありませんから生きててもしょうがないと思うんですけど、つまりはその生きる目的とか意味みたいなものをある種の凄まじく非合理的な考えとか人間臭過ぎる何かから得るというのが僕の存在を存在足らしめているものだと思うんですよね。それはつまりは人間ということで、僕は機械的なクールでドライなフィルターの感じと人間臭い感じを両方持っていたいんですよねってまぁそりゃー誰でもそう思うかもしれませんが、プライマリーな認識としてまずはハイパーリアルを知覚する自分と、それに基づいた構造をくみ上げていくという僕の認識がありますが、その副産物とかオマケとして僕の人間臭いフィルターや感情みたいなものも、システムには介在させませんが、生きる原動力としてそれを楽しんだりするということなんですよね。


それでしか僕は自分が生きているということを肯定できないんですよね。生きている意味が分からない感は今でもずーっとあるんですが、それはハイパーリアルを知覚しようとする僕の意志がそうさせているんだと思います。まぁ知覚しているだけなら別にリリースしちゃえばいいじゃないということですよね。入滅ってまぁこういうことなのかもしれませんが。


でもそれを止めるのが僕の人間臭さなんですよね。だからそれは僕のくみ上げていきたい構造にはなるべく介在とか鑑賞させないように人間らしいフィルターとして機能させていきたいと思うんですよね。それがないとまぁつまらないですし。でもハイパーリアルを知覚したいと思う気持ちもまぁ人間臭いんですよね。まさしくイデアに憧れるという純化された衝動ですし、まぁそれがエロスってことだと思うんですね。だから僕の生きるメインの動機はこれなんですよね。まぁかなり厭世的になってしまいますけど。


ところで僕は文学音痴で文学をさっぱり読めないんですよね。でも最近、例えば芥川龍之介羅生門とか三島由紀夫憂国とかを読んで凄まじく感銘を受けたりしたんですよね。まぁ意識のawarenessが文学的なものにも向かうようになったということだと思うんですけど、でもまぁ僕の昔の数学音痴ほど文学音痴は酷いものではないので、今後は色々と読んでいこうと思っていますが、坂口安吾堕落論を持っているだけで、読んだことありません。読んだのかもしれませんが覚えてないんですよね。「文学のふるさと」は早速チェックさせていただきます。


アンリアルなものの中にありながら現実以上のリアルを提示するとか、僕のこないだから書いている知覚とか認識から言えばアンリアルなものの中にありながらハイパーリアルを知覚するというのはつまりはある種の超越的構造という気がするんですけど、もしかしたらアモラルな物語と同じように、ハイパーリアルもまた完全に構造化はできないのでしょうし、まぁ逆にそれを構造化しているのが俗に言う神みたいなものなので、それは超越論的過ぎてなおかつ形而上学的過ぎるので、人間には無理がありそうですが、でもそれにトライするという感じですよね。


もちろんそれで自分が神になろうとしたりするのではなくて、ハイパーリアルを知覚しようという体験を自分にさせながら認識の純化を行っていくみたいなことなんだと思うんですね。僕は特にアメリカに行ってから割とかなり引き蘢るようになってから自分の脳で考えてないような感覚を覚えるようになったんですよね。まぁかなりそれは頭の調子が良い時なんですが、何かを介してまるで何かの情報がそのまま入ってきて、そこで何かが浮かんではまた消えていくみたいな、普段の脳の動きとか全然違う情報のストリームに身を委ねつつも僕の意識がそこには確かにあるし介在していることで認識が生まれているみたいに感じることがあるんですけど、まぁこれも一種の悟りなのかもしれませんけど、でもそれは「分かった」みたいな常にメタレベルの観点から現実を見ている感じではなく、自分そのものが情報の波になったような感覚を得ながら情報を得るとか情報を知るということなんですよね。なかなか言葉で表し辛い感覚なんですが。


で、そういう状態が続くと大抵頭の調子はいいし、無駄なことを考えなくなりますね。それはつまりは汚らしい僕の主観とか思い込みが現実の知覚に介在していないか、介在の比率が低いからこそ意識が純化されるみたいなことなんですよね。仏教的に言えば煩悩を取り除くみたいなことだと思うんですが、僕の場合、あまり意味が無い考えとか思い込みとか悩みとかは煩悩以上に汚らわしいものなんですよね。で、僕の経験で言うと所謂、社会みたいなのに出た時にこういう煩悩を想起させたり、意識を掻き乱されるような経験をすることが多かったりするので、だからまぁ僕は基本的に引き蘢りみたいになってるんだと思うんですよね。それでもまぁ学校とかには行けますけど、でもそれはあくまで気分転換程度のものですよね。まぁアメリカの生活がそうでしたけど。


一般的になんていいますか、社会に適応することって良いことだと言われるようなことが多いと思うんですが、僕にとってはそれは妥協とかaccommodationみたいなことが多いので、なんとか意識を掻き乱されないまま社会とやっていけないだろうか?というまぁつまりは僕の私生活と社会のインターセクションを探しているみたいな感じなんですけどね。でもそれもまぁ主な動機は恐らく収入みたいなことだと思うので、だったら不労所得とかが仮にあったらどうするんだ?ってことになると僕はインターセクションを見つけないかもしれないですね。まぁこういう生き方ってダメな生き方みたいな言い方をされると思うんですけど、僕にとってはそんなことはどうでもいいんですよね。家族もそれを理解しているので、だから今の僕があるわけなんですよね。これは素晴らしい縁起とかダイナミズムの所産だと思うんですが、その流れとか気脈みたいなものを感じるのもハイパーリアルを知覚する術の一つなんじゃないかと思います。もちろん安易なスピリチュアリズムとかとは違った意味ですけどね。


いや、凄まじく長くなっていますね。なんだかまぁ相変わらず凄まじくグチャグチャなことになってしまいましたが、もうちょっと再考してみることにしますね。また散歩に行った時にでも。自分では納得していてもうまく言語化できないというのは結構嫌なものですからね。こういうトピックに対してコメントが来たことに僕は凄く喜びを感じています。


あとリンク先のエントリーなんですが読ませていただきました。いや、確かに宮台さんは絶望ディスペンサーですから、まぁなんといいますかどうにもならないことを言いますよね。で、それが真実だというところに歯痒さというか、居心地の悪さを感じるわけですが、あとはまぁ僕がホッブズとかに目覚めてからもまさしくまぁ宮台さんの意見とは本当に重なるところがあるんですよね。「結局全ては権力の中」というのはまさしくその通りなんですよね。で、僕が僕の生き方で提示していきたいなーって思っているのが、そんな中での有限的な人間の悪あがきなんです。良い子でいたり立派な社会人であるということなんて僕にとってはクソみたいなことなので、そんな既成概念なんてどうでもいいどころか、ニーチェ的にダイナマイトな感じでどんどんそういうのをぶっ壊していくというのを実践してるんですよね。


まぁそれは社会運動としてやっているのではなくて、人生の中で自分のセオリーとして実践しているということです。で、恐らくまともな人ならやらなそうなこととか考えなさそうなことをやってしまうような大胆さですよね。端から見ると凄まじく非合理的な動きをしているように見えたとしても、それは僕にとっては見た目とか言動がバカそうでも、「全ては権力の中」という世界の中で人間臭さを最大に発揮しつつ、一切迎合したりしないみたいな、社会不適応者みたいな生き方をしていくということがつまりは僕なりのレジスタンスであったり、ただのループではない狂ったハレを永遠と続けていくというループというよりかは最高な状態を永遠に続けるみたいなブレイクビーツ的な発想の永劫回帰ですよね。それをもたらしてくれるのがつまりはハイパーリアルであったり数学であったりまぁ学問全般というわけなんですよね。


そういうわけで僕はアメリカで引き蘢り生活スタイルを確立してから、見た目は引き蘢りでも内面は常にハレみたいな感じです。まぁもちろんいつもそうではないのですが、そんなハレの感じが爆発するとエントリーが長くなったりするんですよね。それが永遠に続くんでまぁウォール伝って結構異様なんだと思うんですけど、つまりはこれは僕にとっての「全ては権力の中」というどうしようもない現状を打破するためのブレイクビーツ永劫回帰を続けるという、一見非合理的に見えたりすることも、僕の中ではかなり合理的にそれをやっているということですよね。超人的な意志を持ち続けて永劫回帰を実践するというのはなかなかのレジスタンス形態だと思います。



・・・・って感じの返信が今日のエントリーでした。