狸さんへの返信。その2。

狸 2010/10/29 23:57
返信ありがとうございます。


実は僕も実家暮らしなんでそのへんは凄くよくわかるんですよね。ただ、僕の場合「生存」を糧に取られたとしても、祖母の家にお世話になるとか、祖父の家に行くとか、叔父の家に転がるとか、とくに心配してないんですよ。兄弟も多くて、姉はもう社会人だし、妹は2人いるんですけど、いざとなればみんなでリスクヘッジはするだろうなっていう。だから、こんなこと真剣に考えてるのかな。


もちろん、今大学の、文系のデマンドを要求するなんてステレオもいいとこだと思います。でも、東浩紀が「at プラス」って雑誌の3号くらいで、興味深いこといってるんですよ。大学論の対談なんですけど、0年代批評でさんざん文系の大学なんて意義ないって言っていた東が、一方では純粋なまでに社会において哲学が大学にあることの重要性を信じているんですよ。で、今後の活動として0年代批評的なものとかをいかにして、日本の伝統的な文化と接続していくかが大事だみたいなことをね。文系の大学がどれだけ不要だといわれても、五重の塔が壊されたり、京都のお寺が壊されることは決してないっていう。まぁ、日本文化の分裂は今までもさんざん言われてきたことですから、そんな簡単なことじゃないとは思いますが。今のところ、京都学派の再考くらいしか思い浮かばない・・・。


話しが変わってしまうんですけど、僕は耳蝉さんの思考は学問的だと思うんですよ。で、悲しいのがこんだけ学問に対する好奇心ある人が「道楽」といわれることに対して甘んじなきゃいけない現状っていうのがね・・。確かにデマンドはないと思いますけど、そのデマンドっていうのが消費社会オンリーの市場のデマンドじゃないですか。これって凄く視野の狭いことですよ。1年周期くらいのデマンド。自転車操業でやりくりしている人からしたら何いってんのって言われるとは思いますが、例えば最近のノーベル賞だって、何十年の前の学問に対する先行投資がこうやってでてきた結果じゃないですか。(まぁ、これは理系なんですけど・・)。このノーベル賞の効果って社会にとって凄い有益ですよ。
 

それで、戻るんですけど、耳蝉さんの思考が「道楽」として受け取られるかと、大学の人間として受け取られるかで、全く社会的な物語としての機能が違うと思います。僕は中島義道って人と耳蝉さんがどうしても重なってしまうとこがあって(僕の勝手な仮定なんで全く気にしないで下さい)、で彼の物語に救われた部分がけっこうあるんですよ。で重要なのは、彼が哲学で飯を食ってるっていうね。最近の著作はあまり好きじゃありませんが。


ちょっと脱線するんですけど、僕は浪人したため同級生はみんな就活終えてるんですよ。で意外とみんなこうゆう実用性がない学問談義みたいなのを愉しく聞いてくれる。僕は西洋美術史や美学を専攻しているので基本、芸術とかアートとか文化の話になるんですけど。で、よくよく考えると、話しを愉しむというより、僕が大学での膨大な時間をそうゆう実用に関係ないことに使っている物語を愉しんでいる気がしてならない。そこで感じるのは、彼らも就活の強迫観念的物語に対しておかしいとは感じている。だから、僕の話を聞いて相対化して満足する。ただ、彼らは僕より順応性があるっていうか、欺瞞に目をつぶれるっていうか。意外と自覚した上での人もたくさんいる。驚くべきことに、「就職か院に進学するか迷ってる」っていうと、「絶対、院に進みなよ」っていう人がいるんですよ。これは単純に物語を継続してほしいっていう。すると、潜在的なデマンドとして耳蝉さんのこのブログの記事も僕は大事な社会財産の一つに思うんですよ。これだけ、物事の事象に対してアンテナをはって、そこに全力で労力を惜しまず注ぐっていう。


結局、いいたいことは、耳蝉さんしかり学問の面白さに否応なく惹かれてしまう人はいるわけで、そういった人を「道楽」としてくくるんじゃなくて社会財産として世間一般に表示する機関がどうしても必要だと思います。それが今の大学が担えばいいとは思いませんが・・・。こう、社会の中で位置づける模索は絶対に必要だと。それもスポーツや芸能みたいな成功物語というは違う文脈として。マスコミの物語はただの消費促進広告でしかないですからね。・・・あぁ、話しが何かまとまんないですね。


う〜〜ん・・。少しでもリスクヘッジを共有する考えを共有していくことくらいしか、今は思い浮かばないです。僕もこのジレンマはジレンマといて思考停止にならないように頑張ります。駄文、長文失礼しました。もうちょっと推敲してから投稿したかったんですが、なんだか早く返信したくて・・。


Ps。ふと今、有吉を思い浮かべてしまいました。有吉って一度干されていた間、食費のほとんどを同じ芸人仲間の飲み会で工面していたらしいんですよ。これって凄くシステムとしていいなって。たぶん、今有吉も干されている芸人に工面していると思うし。こうゆう循環を社会システムとして機能させることがまず第一なのかな・。


お返事ありがとうございます。


学問に関してなのですが、結局はなんといいますか、実学以外のものは全て文化なのかなぁーって気がするんですよね。前の議論の繰り返しになってしまいますが、結局、例えば美大などで彫刻科とかが仮にあっても彫刻家ってそもそも職業ではないし、まぁ成り立っている人もいるかもしれませんが、まぁなんていいますか大学で専攻としてあっても社会では求められてないものですよね。ある意味での剰余なのかもしれませんが、この剰余みたいなものを完全に無くしてしまって、言わば需要と供給のみで成り立っている世の中みたいにしてしまうとつまりは文化みたいなものが消えてしまうみたいなことですよね。東浩紀が哲学が大学にあることの重要性を信じるのも分かる気がします。いくら意味が無いと言っても社会的なデマンドによってのみ学部やら学問の存在意義みたいなのが規定されてしまっていいのか?ってことですよね。東浩紀がどういう意図で大学に哲学があることの重要性があるのを信じているのかは分かりませんが、僕の考えではつまりはそれはダイレクトに大学も文化を担う一端である必要があるということだと思うんですよね。


僕がやっていることは「道楽」ってドリームキラー系の人達からはよく言われるんですが、まぁこれは僕も本当に視野の狭い意見だなと思うんですね。結局、こういう人達にとってはsomething usefulな感じのものではないと存在意義が認められないということで、例えばノーベル賞の先行投資の話もそうなんですが、結局、人類に貢献することって短期的な視野ではさっぱり先が見えないこともあると思うんですよね。もしくは見えていても貢献するか分からないとか、貢献しなさそうな結果ですらも出るかが分からないとか・・・。そういうものの中でたまたま世の中に貢献するようなものもあるわけですが、そういうのが生まれる余地があるということがつまりは学問ですよね。いや、それだけではないんですけど、ただ何が社会にとって有益なのか?って結局は目先のことだけ見ていても分からないと思うんですよね。


僕の思考が「道楽」なのか「大学の人間」なのかで社会的な物語の機能が違うというのはおっしゃる通りだと思うんですよね。いや、正直、狸さんにそこまで言っていただけると凄く嬉しいんですが、僕がなんとなく大学というフィールドに感じているものは僕の思考の社会的な機能をtransformできる可能性なんですよね。もちろんまぁ仕事なんてさっぱり無いというのは分かっているんですが、それでもやはり「社会」というものを考えた時に物語としての大学が社会に機能している部分って抽象的ながらも色々あるので、そのフレームワークをちょっとでも使えないものか?とは思っているんですよね。


で、まさしく狸さんがおっしゃる「食えている」ってなぜか社会的に凄く意味のあることなんですよね。中島義道が哲学で食っていることの意義って著作の善し悪しはともかくとして本当にあると思いますね。まぁ皮肉なところは彼がある種の純学問で食っているわけではないってところですかね。カントの研究者というよりかは哲学エッセイストになることで食えているみたいな、結局は彼もフリーランスって気がするんですが、そこにバックグラウンドとしての「哲学研究者」とか「大学教授」というものがあるので、ただのフリーランスとは物語的な機能が違うということだと思うんですよね。彼の物語に救われるって凄く分かります。彼みたいな人がそこそこ著作で成功しているということや、それこそあそこまでの奇人が食えているということは僕にとっても凄い励みなわけですね。まぁ逆にあそこまで奇人だから食えるのかもしれないですけどね。


狸さんが「院に進みなよ」って言われることがつまりはそれが物語の継続を意味するって凄く分かる気がします。つまりは僕の今のまぁ全然受験らしい受験対策はしていないんですが、大学に行こうとしているのも物語の継続であるし、自分の機能のtransformみたいなものができないものか?と試してみるみたいなところもあるんですよね。あとはいつも書いているように「やりたいこと」という観点からも消極的な「自分にできること」という観点からもそれしか選択肢が無いというのはありますね。まぁそれが恐らく自分にとって最善であるだろうし、それ以外はあまり無いだろうということですね。


まぁ他の可能性を閉じるわけではないのですが、つまりは物語の継続というのが自分にとって一番合理的な選択ということなんですね。そういう姿勢が「そこに全力で労力を惜しまず注ぐ」という評価になるとやはり僕としては当然嬉しいわけですし、仮にそういう記録が大事な社会財産になるのであれば、ある意味で僕は僕が望んでいるような機能の一つを満たすことができているということになるんですよね。でもその一方でまぁ当然「道楽である」という評価もあるわけですし、まぁ「ニート」みたいな評価もあるんですよね。まぁ客観的に見ればニートにしか見えないんでしょうけど。


それがなぜか例えば「どこかに所属している」みたいな、ある種の属性によってニートにしかならないようなものも一般的に「社会人」とかって看做されるようになったりして、そういう属性の条件からなぜか評価が変わったりする場合もあるんですよね。僕はそういうのはどうでもいいんですが、最近は以外にそれってどうでもよくないことなんだなって痛感させられるようなことがあったのでそれはまぁ文字通り痛感しているんですよね。かといって別に大学に行くということが解決になるわけでもないし、職を得たりすることで僕の発言力みたいなのが増すわけではないとは思うのですが、仮に僕が大学というものを通して社会に機能するということになったとして、本当にそれが物語の変更という大きな客観的なパラダイムシフトを意味するものになるのか?ということに関する模索といいますか、実験にはなるんですよね。まぁ仮に大学という側といいますか、機能を利用することができればの話なんですけどね。


そういう意味でやはり狸さんが言う「道楽」で括らない社会財産として世間に思考なりなんなりを表示する機関としての大学って必要だと僕も思うんですよね。もしくはマイノリティでも学問というものに惹かれてしまう人種を活かす場というか、海外の一流大学なら変人みたいな研究者がそれだけやって食べているみたいな場所もあるのでしょうが、それは敷居が高過ぎるので、そこまでレベルが高い大学じゃなくてもそういう機関としての大学の機能があったほうがいいし必要だと思うんですよね。それこそまぁ有吉ですよね。学者として大成するかは分からないけど、でも面白そうな学問好きのやつらをなんとか食わせるみたいな相互扶助的なシステムとしての大学ですよね。別にそれは学問に限らず大成するかは分からないけど面白いやつを相互扶助的なネットワークで食わせるという社会的なシステムは必要だと思うんですよね。


社会的なデマンドにフィットしないやつらは自動的にドロップアウトとか食えなくなるというゆとりの無さってつまりは文化の死滅にも繋がることだと思いますし、学問にせよ文化にせよ、こればかりは市場主義的なものに任せてしまっては無くなるものがたくさんあると思うので、何らかの形で資本主義的に金にならないものも無形の文化財として保護していく必要性があるんですよね。で、例えばそれは僕自身が無形の文化財になるみたいなことではなくて、無形文化財にコントリビュートできるようなエージェントとしての機能を果たせるということなんですよね。


それが結局、鳥瞰してみれば文化の保護なり成長に繋がるのかなという気がするんですね。それは別に思想とかに限らず文化全般そうだと思うんですけどね。五重塔って観光的な金になるような価値というよりかはそれそのものとしての価値があるわけで、不可視ではありますが、思想とか理論とかも同じだと思うんですよね。数学の定理にしてもそれ自体ではさっぱり社会的に役には立たなくても定理そのものの素晴らしさや文化的・科学的な価値があるっていう。そういうのを生み出す土壌としての文化的なものを育む社会の重要性ですよね。例えば無形文化財にコントリビュートするエージェントっていうのがその無形文化財の一つを数学にしたときにそのエージェントというのは数学者になるんですよね。あとは別に無形じゃなくても舞台芸術とか絵画とか芸術映画とか色々あると思うんです。エージェントがつまりは芸術家ということになるわけですね。その一端を大学が担ってもいいんじゃない?っていうか、本来大学ってそういうところじゃないの?って話ですよね。もしくはそういうエージェントを育成する場であるとか、文化的なものを作り出していくような一つの場として機能するとか。


リスクヘッジという言葉が出てきていますが、僕にとっての学問ってリスクヘッジ的な意味もあるんですよね。つまりはまぁ若干の変動があっても恐らく普遍的な価値みたいなのはまだまだあるから極めれば社会的にやっていける道はあるだろうっていう楽観視なんですが。もちろんこれはただの好きで楽しんでいるものに対するこじつけというか後付け的な意味なんですけど、良いところとしては別にどこかの機関に属さなくてもその「極める」という作業は自分でできるということですね。達したレベルによってはインディーズからでもいくらでもメジャーへのアプローチはできる可能性があるみたいなところですね。やることに対してそこまで費用はかからないし、ある意味での僕の中での最高の経済的活動がつまりは学問をするということになるのかもしれませんってこれもまぁこじつけなんですけどね。まぁそんな風な言い方もできるって感じでしょうかね。これがただの「好きなこと」とか「楽しいこと」にしてもゲームをやることと学問をやることの差なんですよね。どちらとも僕にとっては好きで楽しいという意味で差は無いのですが、社会・経済的な意味合いは違ってくるということですね。そういう意味でいつでも社会に出れるようなクオリティとか、内面にばかり行き過ぎないというようなことは常に意識しているんですよね。


色々と話が拡散し過ぎたかもしれませんが、こうやって書いててつまりは大学の存在意義ってこういう例えば「学問」のような、一見意味が無いようなことに意味を与えたり社会的な機能を与えるということも言えるのかなって思いました。まぁ全ての学問が意味が無いとは言いませんが、例えば意味が無いと言われがちな哲学とかにしても、つまりは大学という砦があることで存在しながら成長し続けることができるということですね。そういう機能を市場に任せて奪ってしまってはいけないということですね。哲学は在野でやってもいいわけですが、それをプロパーとしてやっていける人達がいてもいいじゃないかってことですね。