狸さんへの返信。その3。

狸 2010/11/01 01:51


返信ありがとうございます。初めてブログにコメントするってことをしたので、こんな話をこんなに真剣にできることにちょっと感動しています。


東が哲学の重要性を述べたのは、西洋が未だに哲学を学問の基本に据えられているからですね。高校では哲学の科目が一番多いらしいし。たぶん西洋にとって哲学は、日本での法隆寺とか五重塔みたいな存在だと僕は思います。確か、東もそんなことを言っていたと。彼らの精神性のルーツはギリシャ哲学ですし。で、大学がダイレクトに文化を担うっていうのはその通りですよね。僕は文化をアルバム作りだと思っていて、大学はアルバム編集委員を育成しているんだと勝手におもっているんですよ。誰だって自然に自分の子供の赤ん坊のアルバムを作ったりしますよね。文化も人類のアルバムみたいなもんでしょって。ちょっと単純ですが。でも、そんなに外れてないと思います。むしろ、文化の重要性をいらないと思っている人は、それだけ無意識的に人類のアルバムがあることを信じきっているのじゃないかとすら思っています。科学っていう人類の歴史が凝縮したもんを信じてるんですから。


食えてるっていうのは、絶対ですよね。それは単純に説得力がありますし、誰もが最低限の責任として考えなくちゃいけないことです。でもその「食えてる」ってことを相互扶助的なネットとコネクトできないかなって思います。例えば、イチローって確かに天才ですよ。でもその天才の後ろには、氷山のような山があるわけですよ。膨大なプロ野球人に高校球児。イチローになれなかった数多くの人の上にイチローはいる。大成したやつっていうのは結局その分野の頭みたいなもんじゃないですか。だから、成功した人を一人の努力とか素質に還元する物語のつくりかたを改めて、99人の類似イチローの上にイチローがいるみたいな物語を持てれば、少し違う気はするんですよね。伝統芸能のような世界はいまだにこうゆう思想があるような気が最近します。 現実は確かにそんなロマン的なもんではなく揚げ足とか、蹴落として上に立つようなことばっかでしょうが、こうゆう理想を持つことは今後大事じゃないかなぁっと。


もちろん学問はリスクヘッジでもありますよね。ちょっと一般的な人とは違うところに引っかかる人の居場所を提供してあげるっていう。ただ、これに関して僕が凄く言いたいのは、学問や文化にコミットすることと、個性を勘違いする人が意外と多いことなんですよ。学問っていうある程度歴史があって普遍性がある集合的な叡智に所属することで個性を手に入れたみたいな。僕は、某wマンモス大学に所属しているので色んな人と話してみるんですけど、文系とかの連中は本当にその傾向が強いですね。文献の解釈の仕方がただ自分の肯定に結びつけるみたいな。それと好きじゃないことの関心から外に開いていかない。


少し、矛盾するようですが、僕自身大学なんてもういらないだろって思うほうが実は強いんですよ。この前、東大の独文の院に進学する人に何するんですかって聞いたら「トマス・マンとハイデガーの思想の類似性を研究したい」って言ったんです。その時、正直途方に暮れちゃったんですね。なんか。それやってどうすんのって。もちろん、そういった途方もないことを研究することが大事っていうのは一応わかるんですけど、その途方もなさを彼が背負ってないっていうんでしょうか。無自覚っていうんでしょうか。唐突ですが、教育に従事するものは誰よりも教育ってもんを疑ってなきゃいけないと僕は思います。それと同様、大学でなんかやっていこうと思う人は誰よりも大学の機能を疑ってなきゃいけないと思う。社会の外にたって営為を行うんですからね。疑ってなかったら、社会の内で働いている人に申し訳ないっていう。


またも、ダラダラとすいません。まとめると、一つは、食えるってことの後ろには食えなかった奴がたくさんいるから成り立つってことと、大学っていうものが学問の社会的な位置づけとして必要である。けれど、それを無自覚で甘受するようには決してしてはいけないって所でしょうかね。


Ps 客観的にはニートって言われるかもしれませんが、耳蝉さんは僕にとってソクラテスみたいに見えます。自由に思索して、物事の類似を次々と見つけていく。数学っていう所に行き着いたのも本当に思索に向かうっていうか。それに加えて、僕みたいな未熟で性急な話にも丁寧に聞いて返信してくれる。うん。


「耳蝉さんは僕にとってソクラテスみたいに見えます」とかって言われるともう寝れなくなるぐらい嬉しくなってしまいますね。あとアレなんですよね、これはまぁ結果なんですが、ウォール伝にこうやって書き込みをしてくれる人と建設的な対話とかができるとなんていうかそれは僕にとっても凄く勉強になるんですよね。逆に悪い意味でインテリっぽ過ぎる人達とかってその狸さんが書いているような個性を勘違いする人が多いんですよね。結局、論議をしていても「俺」みたいなのが中心になるんですよね。ようは自分の立場とかオピニオンを肯定したり、知識量とか対話の相手より自分が勝っているみたいなことを誇示するために終始するみたいな、狸さんが批判している「勘違いする人」とはまた違う意味での「勘違いする人」ではあるんですが、んでもなんていいますかこういう傾向ってありますよね。で、こういう人達と話していてもさっぱり得られるものが無いんですよね。哲学って自己にせよ他者にせよエッセンスは対話だと思うんですが、勘違いしている人達に究極的にないのってつまりはこの対話性の無さだと思うんですね。対話自体が哲学なのであれば双方の知識量とかなんて全然問題にならないわけです。でも知識量を競うようなくだらないレースになってしまうと、それは当然まぁ対話性なんて無くなりますよね。なんでこういう傾向が生まれるのか?ってつまりは自我の肯定とか自分の肯定に知識とか学問っていうツールと化したものが使われているからだと思うんですよね。


衒学的なやつらって大体こういう感じで、これも文系に多い気がします。逆になぜ理系にはあまりそういう連中がいないのか?っていうかまぁつまりはなんで文系に目立つのか?というのは僕が思うに理系はやはりそのジャンルもあってか、学問を客観的事実として捉えるような、まぁつまりはサイエンスとして捉えているというのが感覚的に分かっているので、だから例えば物理学の理論とかを利用して自分を偉く見せたりとかってしないわけですよね。「これは客観的事実なんだ」ということを言うだけっていうか。その点、文系だと僕も前から書いているように、発言者が声を大きくすればそれがなんとなく正しいみたいな風潮って生まれやすいですよね。イデオロギーってそうだと思うんですが、この文系の胡散臭さというのに僕はここ数年結構嫌になったというか、だから例えばソーカルような科学的な人物が痛快に思えたりするようになったのかもしれません。


ちなみに僕も大学はいまのようなままであり続けるなら本当にいらないと思います。完全に形骸化していますし、ごく一部の一流大学においてはもうただのブランドと化していると思います。もちろん学問を志す人もいるんでしょうが、やはりキャリアだの学歴だのという表面的な理由で良い大学に入るような人達がやはり多いと思うので、そういうある種の権威付けといいますか、ただの学歴というブランドを配布する場に大学が成り下がっているなら、そんなものは逆に無くしたほうがいいと思うんですよね。あとは研究にしても「それやってどうするの?」的なものが多くなっちゃうのもしょうがない気はするんですよね。


まぁそれと途方も無さを背負う自覚って違うことなのですが、途方も無さを背負う自覚が生まれないという背景につまりは研究という行為のニッチな感じが出てると思うんですよね。それこそ「何なのそれ?」って言われるぐらい「何なの?」みたいなやつじゃない限り研究テーマが他とかぶったりする可能性があるので重箱の隅を突くような研究をせざるをえなくなるっていう。結局、動機付けが「他とかぶらない」とか「個性ある」みたいな実存的な理由で選ばれているのでobligeみたいな感覚が生まれないんだと思いますね。あくまで実存を満たすためだけの研究であったり、大学でやっていきやすいような研究をやったりするので、だからまぁかなり痛烈に言ってしまえば態度が軽いってことなんですよね。


教育に関しては本当にその通りだと思いますね。僕は前からここに書いているように現状の教育なんて大半がまぁ結局、洗脳だと思いますし、アルチュセールの言うようなイデオロギー装置の一つがつまりは教育機関ってことになってると思うんですよね。そんな洗脳のためにあるような機関なんてまぁいらないわけで、だからこそ変えていくにしても解体するにしても内部からやったほうがいいわけですよね。それこそ政府に本当にたてつきたいなら内部に入って解体するか改革していくってことがベストってことと一緒ですよね。それはある種の革命精神だと思いますし、革命精神の背後には当然、現状のシステムへの疑いというものがあるわけですよね。だからまぁ変えていこうとか解体しようって思うわけですよね。なのでその「疑い」の重要さって凄く分かります。それが無くなったら終わりって感じですよね。実質的なレジスタンスがいなくなるような状況なので、それは社会的にも相当ヤバいことだと思うんです。


「無自覚に甘受しないこと」って恐らく政府にも大学にも会社にもつまりは組織全般に言えることだと思うんです。もちろんそれがあることで食えたりするし、社会的な位置づけもできるのだけど、でもそれを無自覚で甘受するようになってしまっては、つまりは疑いというものがなくなってしまっては内部からの腐敗や堕落に対して自覚的にいられないということになるわけで、つまりは完全に主体がシステム化されて内部化されてしまうということで、組織と共に主体もまた腐っていく可能性が出てくるわけですよね。あとは自分が食えているとか食えるという既得権みたいなのが生まれてしまうのも良くないですね。無自覚さが生まれるものの一つにこの既得権ってあると思うのですが、特に日本のアカデミアの酷い腐敗などはそれこそ日本の政治に見られるような既得権から来る腐敗も相当あると思います。だからといって「腐ってる」で済ますのではなく、内部から疑ってかかれるような、浄化を促せるようなエージェントって絶対必要だと思います。


話が前後しますが、狸さんがおっしゃる「食えてる」ことの相互扶助的なネットって絶対必要だと思うんですよね。それこそそれはイチローのような天才を育てるためにも氷山が必要だということですよね。そこをあまりに突出したような人物の素質や努力に全てを還元してしまう物語が危険なのは凄く言えてると思います。もちろんイチローぐらいのレベルなら勝手に自分で凄くなったりすると思うんですが、イチローぐらいのレベルではないけども、でも全然凡人ではないようなレベルの人達っているわけですよね。でもそういう人達がイチローにはなれないという理由で食っていけなくなったりするというのは凄く理不尽だと思うんですね。そこが僕が前に書いたケンブリッジとかオックスフォードとかもいいけど、別にそこらにあるような大学だってちょっと変な奴らを食わしていけるようなシステムがあったっていいんじゃない?って思うんですよね。別に一つの大学が全ての変な研究者とかを食わせなくてもいいわけで、それをどの大学も標準的にやればいいってことですよね。それがつまりは氷山を形成するってことに繋がると思うんです。


「99人の類似イチローの上にイチローがいる」というのは凄く良い物語だと思いますね。救われる人達もいっぱいいると思います。逆に僕が救われないのは「イチローは凄いなぁー」っていう物語なんですよね。いつも天才系のエントリーで書いたりしていますが、やる気が削がれるような天才ってやっぱりどの分野にもいるわけですが、その突出した天才を崇めたりするような物語や思考法は改めて、数学にせよ哲学にせよ学問全般がつまりは一部の突出した人間によってのみ形成されたものではなく、多くの無名の研究者や学者達によって形成されてきたと考えるような物語の形態を取るということの社会的重要性ですよね。それもまぁロマン的な感じかもしれませんが、社会的な効果を考えればこういう物語を取ったほうがいいわけですよね。「天才が天下を取る」みたいな物語って凡人に絶望を与えるだけですからね。それは下手をすれば害悪にもなりかねません。


勝ち組・負け組」みたいな概念ってそれこそ負の物語から形成された負の思考のパラダイムですよね。やたら大成したやつらのみを勝者と崇めて影でそういうものを支えている人達にさっぱりフォーカスがいっていないんですよね。それこそ狸さんの言う「文化はアルバム」ということで言えば、アルバム作りというのは膨大な労力を必要とするわけで、それは一部の勝ち組やら天才によってのみ作られるものではないんですよね。文化の重要性を重視しない人達というのはそのアルバム作りなりリアルタイムな文化の形成ということに対して意識が行っていないのかもしれませんね。


これって文化という名のインフラだと思うんですが、例えば配管工とかゴミ収集する人達とかその辺の会社員とかよりよっぽど重要な職種ですが、ゴミを出せば収集車が持っていってくれるみたいなことが当たり前となり過ぎていてそのありがたさや必要性に鈍感になってしまうというようなことが、つまりは文化という名のインフラに対する配慮の無さということの表れの一つなのかもしれません。数値で見れば儲かってる会社のほうが凄いように見えるけど、例えば文化のインフラという観点から見た時にさっぱり食えていない美術家とかのほうが実は社会にとって有用なことをしてたりする場合もあるかもしれないわけですよね。お金を儲けるなんてまぁ物質的なことで人類のアルバムには足されないことですよね。ただのまぁ物質が行き交う現象みたいなことなわけで。重要なのはそんな物質の行き交いが大半の中で人類のアルバムに何かを刻めるような人達ですよね。


そういう人達は資本主義的なシステムでは食えない場合も多いわけで、そういうことに社会は自覚的であるべきで、だからこそ彼らのような人材を役立たずみたいな括り方をせずに社会的に有用な人達として看做す必要性があると思うんです。実際は役に立ってるかはまぁ分からないんですが、文化というものは数値で計れるような分かりやすいようなものではないわけなので、だからこそそういう部分に敏感じゃないと文化が壊れるということになると思うんですよね。で、これは結局、科学にも言えることだと思うんですね。社会的に有用であることが自明である研究分野とか、やっていきやすいような流行の研究テーマだけを追っていては本質を見失うみたいなことって過去の研究者とかが言っていることで、つまりはこの「流行」ってある意味で「市場のデマンド」って言い換えることもできると思うんですよ。芸人にしても流行っているとか今ウケやすいようなことばかりやっていても偉大な芸人にはなれませんよね。お笑いがダメになっているというか低俗化しているのとかも結局は市場原理みたいなもんだと思うんですよね。ゲームにしてもまぁそうなんですけど。


もちろんお笑いもゲームも文化ですから、つまりは文化的なものを市場主義的なものの流れによってのみ存在させるということが文化の破壊に繋がるということが言えると思うんです。そんな中で例えばNHKとかって凄く文化的だなって思うんですよね。数字取れなさそうでも文化的な番組を放送したり海外のハイブローなドキュメンタリーとかを放送したりしてますからね。くだらなさすぎる民放に比べると本当にNHKの文化的な感じって際立つように思えます。でも市場的に言えば恐らく民放なんでしょうね。NHKは国営だからハイブローなものも数字とか関係無く放送できるみたいな。まぁちょっと単純なロジックかもしれませんが、国営という後ろ盾があるからこそ文化的なものや民放とかが絶対やらないようなハイブローなものが放送できるってつまりは市場原理から離れることで文化的なものが保護されているっていう良い例だと思うんですね。


思ったより長くなったのでこの辺でやめますね。