狸さんへの返信。その4。

狸 2010/11/01 23:52
返信ありがとうございます。


理系の人の話は凄くよくわかります。なぜって、内の親父が完全な理系なんですよ。しかも東大でてて(確か数理とかいう)、今は企業の研究室で頑張ってんですが本当びっくりするくらいこう、我がないんですよ。で、話すと意外と何も知らない。小説なんてほとんど読まない。新書なんかも。今回のやり取りで出た「東浩紀」「中島義道」「アルチュセール」「イデオロギー」「ソクラテス」なんて言葉をたぶん知らない。でも、全く気にしてないんですよ。やっぱりなんだかんだで僕自身、学問と個性とかを切り離せたのが今年に入ってからなので、ずっとそこが不思議だったんですよね。なんで親父はこんなに何も知らなくて平気なんだろうって。耳蝉さんも、僕がウォール伝を見ている限りだと、けっこうそこでモヤモヤしていて、自意識にずっと引っ張られていたとこあると思うんですよ。だから、数学に関心が移ってからは本当に明晰でクリアな思考しているなって。羨ましい!!


理系の人が文系のような我を持たないでいいのはその通りでしょうね。学問ってジャンルが単純にありますよね。親父は毎月送られてくる専門分野の学術雑誌をしっかり読んでいる。たぶん、必要な情報しっかりインプットしているんでしょう。がっちりと。文系の枠なんて・・・。広告みたいなのばっか。ジャンルの不確定性のためかどうかはわかりませんが、文系の発言がどうしようもなくイデオロギーを伴ってしまうっていう指摘はそうですね。こうして1対1でやり取りしている限りでは実に建設的で、尊重する対話が成り立つのに、3人以上になると対話とは絶対的に質が異なる政治が始まっちゃいますよね。3人目をどちらが味方につけるかって。一方、理系はあんまし対話みたいなのはやらないでしょうが、3人以上で建設的に話せますよね。


このイデオロギーってのが本当に厄介で、僕自身まだ対話のみの話しかしたことないし、できないので、どうなるのかなとは思います。つい最近まで、政治なんて俺は興味ない、文化を知りたいんだ、とかいって思っていたんですが、学問なんて、もろ政治じゃんって気づき・・・。これも思考停止にならないように注意しなくちゃいけないですね。いかにして、イデオロギーを踏まえつつ対話をしていくかっていう。居酒屋なら対話は確かに可能なんですけどね・・・。それでもいいのかな??


教育の話はまさしく。システムを疑うことに無自覚になった結果がファシズムみたいなもんですからね。かつ、革命みたいなやり方も失敗した。ならば、常にシステムに疑いを持って従事するってことになりますよね。


天才の話はね・・・・。ただ、人間って波がないと生きていけないから、必然的に落差のある物語を作ってしまう。昔なら、月からお姫さまが来ればよかったけど、今は宇宙まで行けちゃうから「天才」とか「才能「個性」「創造」っていう神秘的なもんにね。過剰に物語を付与させるっていう。で、性質として下克上が伴う。つまり、それまで上にいた奴が下に落ちて、新たな奴が上に上がる。これが一番落差のある物語を作れる。プロゴルファーの遼くんなんて、もう下ろされる方の物語にシフトしていますしね。その落差に人々は日々の退屈なエネルギーを消化させる。表向きはそれでいいんですよ。だけど、こう根底には「99人のイチロー」の物語を採択してて欲しいですよね。そうすれば、「食える」っていう既得権益に対して固執することが返ってデメリットになっちゃうっていう。


配管工とゴミ収集はいい例えですね。いわゆる自然だと思ってる生活のインフラと大学のインフラは同じってことですよね。精神面でのインフラっていう。部屋をなんもしなかったら知らない内にちらかるみたいに、街だってあんなに人がいれば汚れるはず。なのに保たれてるのは、無名の人が働いてるからっていう。おそらくこうした仕事って税金から支払われてると思う。税金っていうのは資本システムからはちょっと外れた社会主義的なシステムですよ。単純に言えば。なのに大学のインフラは資本主義っていう。民営化っていう。本当にえぐいですよ。そういった意味じゃ、NNKは文化的ですね。スポンサーとか視聴率を気にしなくていいっていう。ただ大田光なんかは、視聴率っていう不文律があるからテレビがいいって言ってますね。視聴率があるから、大衆から離れないっていう。裸の王様にならないっていう。ジャンプなんかも同じですよね。毎週投票させてランクをつける。


文化を市場原理から外す一方で、市場原理から生き残るために必死になっている進行中の文化がある。そこの兼ね合いをどうするかっていう問題もありますよね。かなり極端なこというと、今みたいな情報化社会なら自分で好きなようにデータベースからアルバム編集していいですよっていう。実際、学問の世界でも美術史の中でマルローの「空想美術館」っていう概念が出てきたあたりから、美術史のアルバムって少し止まってるんですよ。だいたいピカソの終了で近代美術史は終了していて、それ以後はなかなかできてこない。多くの人がアルバム作ろうと必死になってるとは思いますが、これがなかなか・・。あまりに複雑化なりすぎたことは当然ながら、そもそも作る作家が作品とは「今」のものであることに重きを置き、意図的に展示期間が終了したら原型がなくなるような作品もたくさんある。


って僕もいつまでもダラダラ書いちゃいますね。
すいません。新しいエントリーとか大丈夫ですか?。
もしあれなら、全然大丈夫です。こんだけ意義ある対話ができたので。


狸さんのお父さん凄いですね!これぞ理系の鏡という感じがします。かっこいいお父さんで羨ましいですとかって言ったらうちの父に強烈に失礼ですけどね。いや、何が言いたいのかというと、その「我」の無さこそが学問の真髄だと思うんです。つまりは科学ってことですよね。思想が科学になるかはともかくとして、特に政治的なものや社会的なものに関して言えば数理化ってできると思うんですよ。例えば僕が何かを言うという裏付けにはただの思い込みではなくて膨大のそれをサポートするようなデータや学説があるっていう。僕が思い込みが強過ぎる人間なので余計にこういう「我」の無さって必要なんですよね。合理性と言うか論理性というかなんというか。僕が数学にいってから明晰になってるって言われないと気づきませんでしたね。そうだったんですねぇ。あとはなんていうか仏教の無我とか縁起みたいな概念が数理系の概念と結びついてある種の覚りのレベルが上がったんだと思うんですよね。凄く自分の中ではこの仏教と数学とか数学的な思考の結びつきというのがしっくり来ているんです。なので数学だけではなくて仏教のおかげもあると思うんですよね。


僕の話はともかくとして、イデオロギーってまさしくそうで、これが党派性みたいなことになってしまうんですよね。何にでも何かと政治が結びつくのってそれだと思うんですけど、僕が目指したいのは恐らくまぁ不可能でしょうけど理念的なウェーバーが言ってたvalue-free judgementなんですよね。恐らく僕が人間である限り必ず何かの判断やら思考やらに価値観って介在してしまうわけですけど、何かを分析する時や考える時にはなるべくそういうものを避けようっていう、つまりは科学的な態度ですよね。これが僕の言いたい理系の我の無さってことなんです。ちょっと込み入った話になりますけど、例えば死刑廃止論とかも絶対に主観が入りますよね。こういう感情的でsensitiveなトピックでも感情的にならずにvalue freeで判断するっていう。


例えば遺族の感情回復とかにしても「自分の家族が殺されたら」みたいな考え方をすると当然感情的になっちゃうわけですよね。「だから死刑は必要だ」ってまぁそういう考え方から導きだされるのは分かるんですが、そういうのって危険なんですよね。難しいけど法制度とか人権とか社会的なことを総合してそれを考えなきゃいけないんですけど、でも全てを配慮した上で出てくる判断って人間的な判断とそこまで乖離するものにはならないと思うんですよね。僕が言いたいのは機械のようなドライなジャッジではなく、人間的な感情なども含めた社会的な判断ということなんですよね。つまりは感情的であるということは「感情」という部分にバイアスが置かれ過ぎているので、だからこそ判断力が鈍るといいますか、そこに感情というvalueが入り過ぎてしまうんですよね。死刑廃止論にしても、僕の中でやはり感情が入ってきてしまって、なかなか考えるに難しい問題っていっぱいあります。ある意味で感情と客観性の戦いって気がします。


文化に関しての話は狸さんの議論が的確過ぎて書くことが無くなってしまったのですが、太田光の言う不文律って分かるんですよね。僕は市場的なものが好きじゃないながらもやはり優れた一つのシステムである市場というものの重要性や機能は認めなければいけないわけで、人々のデマンドに乖離し過ぎた文化というのもなかなかありえない話なので、そこは凄く難しいんですよね。僕はそういう意味で誤解を恐れずに言えばハイブローなものばかりが好きなので、だからこそ実存的な偏りがハイブローなほうに出過ぎてしまうんだと思うんですよね。例えば松本人志がテレビでやりたい笑いをやれなくなったとかっていうのも、まぁ色々と理由はあるんですが、「松本の笑いは難解だ」みたいな意見もありますよね。


で、僕としてはそれで松っちゃんが自分のやりたい笑いをやれなくなるっていうのが凄く納得がいかないんですよね。笑いってサービス業的なところもあるかもしれないけど、文化としての面もあるわけで、なぜ松っちゃんが大衆の笑いの感覚に合わせて作品作りをしなければいけないのか?っていうのは凄く思うんですよね。まぁ実際、やれなくなった理由は色々あるんでしょうが、こないだNHKでやっていた松っちゃんのコントはそこの上手い均衡点みたいなのでやったんだなという印象がありました。難解過ぎずかといって松本人志のフレーバーは損なわれていないっていう。


ただやはり僕としては物足りない感じはあるんですよね。そこを視聴率みたいなものに依存し過ぎていたら松本人志の極めきった笑いみたいなのが見れなくなるんじゃないか?という危惧はあって、まぁそれは文化全般そうだと思うんですよね。お笑いに話が傾き過ぎてますけど鳥居みゆきなんかもそうですよね。テレビでは求められたものをやるしかなくて、恐らく僕が思うに本人は不服な感じでやってると思うんですけど、でもちゃんと自分がやりたいところを自分の映像作品とかライブでやってるっていう、まぁそのテレビとのギャップが激しいんですよね。そこが文化と大衆性の違いなんだと思うんですよ。


過大評価し過ぎかもしれませんが、鳥居みゆきらしさって文化らしいあり方じゃないとそれらしさが保持できない感じなんですよね。テレビじゃ絶対無理だと思うんですね。松っちゃんの笑いもそうだと思うんですけど。太田光はかなり大衆寄りだと思うんですよね。語弊があるかもしれませんが。所謂、松っちゃんや鳥居みゆきのような芸を究めるという感じではないって印象がありますね。テレビタレント寄りというかなんというか。ほとんどテレビに出ずに自分たちの舞台などでお笑いをやっているラーメンズってだからまぁ凄いんですよね。あれはまぁハイブローなのかもしれませんが、あれこそまさに文化って感じがします。でも別にそこまで極端にマニアックではない。でもテレビでやっても理解されないところは多いと思うし、テレビという場は彼らの芸に適してないと思うんですね。極端にテレビを市場とするならば、市場的過ぎる場所に彼らの芸は適していないということですよね。だからある程度分かる人とか本当に好きな人しか来なくていいですよっていうある種の篩がある。


ところで狸さんが言っている自分でアルバム編集って本当に言えてると思うんですよね。情報化しているからこそ個人個人がアルバム編集するような感じになっていて、だから例えば自分の中では現在進行形な文化として昔のジャズとか落語とかがあったりするわけですよね。まぁジャズと落語が現在進行形ではないとは言いませんが、自分の中では名作選みたいなので発売されるジャズの名盤や落語の名演みたいなのは新刊の本とか新譜とかと同じような感覚で手にしているっていう。ポップアート的というかサンプリング音楽的ですよね。懐古趣味で昔のジャズとかファンクをサンプリングしているのではなく、単純にかっこいいから今風のビートと混ぜちゃえ!みたいなマッシュアップ感覚ですよね。


「今風のビート」も「ジャズのサンプル」も作り手にとっては同じ現在け現在形のクールな音として捉えられているという意味で、この配列感覚が本当に自分のアルバム編集という感じがします。そういう個々のアルバム編集の結果というのが作品として出ているのがサンプリング音楽だったりポップアートだったりするんだと思うんですよね。今の日本の社会的な理由で蟹工船とか、あとは小畑健の表紙の太宰が売れただとか、これも過去のものが現在形として捉えられているというような例だと思うんですよね。僕も含めた「過去の文学」みたいな感覚が無い人にとってはこれらも現在の文学なわけですよね。これこそがなんていいますが時代によって配置される過去の文化って気がするんです。思想の時代による再解釈などつまりはこういうことだと思いますね。過去のものが現在の時代精神を反映するようなものにもなりうるわけですよね。


ところでマルローの「空想美術館」については知りませんでした。ちょっとググったら凄まじく面白そうな感じなので詳しく調べてみますね!ピカソの終了で近代美術史が終了しているってなぜか年代的にも哲学の歴史が終わっているのとなぜか一致しますね。哲学で言えばハイデガーあたりからもう終わっていますからね。展示期間が終了したら原型が無くなるのって例えばポストモダン思想とかだと思うんですよね。かなりあれは時代の産物的なものがあるので、はっきり言って哲学史に入ってない気がするんですよね。まぁポストモダンで括られている中には良いものもあるんですけど。哲学で言えば「今」を意識すればするほど「プレモダン」な感覚がモダンに必要だなって思うんですよね。


相変わらず長くなってしまいましたが、実質的に恐らくまぁやりとりって永遠に続くと思うんですよね。僕もこれだけ意義ある対話ができたので、そろそろまぁいいかな?って気もしています。僕は時間があるのでずーっと書いてしまいますから、キリのいいところで閉めないとまたずーっと長く書いてしまうなぁーって感じなんですよね。僕としてももしあれなら全然大丈夫な感じです。こういうやりとりが記録として残るというのが本当に最高だなぁーっていつもこういうやりとりをウォール伝上でしていてつくづく思います。