狸さんへの返信。その5。

狸 2010/11/03 01:32
返信ありがとうございます。今度の返信も色んなトピックが投げ込まれてて、凄くテンションが上がってしまいました。まぁ、こうゆうやり取りってお互いの熱がある時は自然と続いていくでしょうし、どちらかが冷めていけば自然と収束するでしょうから、成り行きに僕は任せますね。


数学と仏教の結びつけは面白いですね。確かに仏教には我をとことん突き放そうとしますよね。西洋の学問なんかは、仏教でいう空や無とかいう中心のブラックホールにどんどん我を気付き上げていく。全てを白日のもとに晒さないと気がすまないためか、あらゆる自我にまつわる言説がそこに集まって組み立てれるっていうか。世界精神とかね。それに比べると仏教なんかはとにかくブラックホールに吸い込ませて「   」って感じですよね。日本にいるからかどうかはわかりませんが、こうゆう思想は意外とすんなり入ってきたりする。すっきりするっていうか、枝が切られて、ベクトルがシンプルに進んでいくというか。とにかく我執はポイッていう。ね。そうしたすっきりな感じと数学の感じが似ているっていうのは大事ですよね。つまり、学問は我執じゃないっていう。


そうすると耳蝉さんがいうように「value free judgement」が重要性を帯びてくる。人間の営みだから程度の差はあると思いますが、数学の公式とか物理の定理から現代の研究者がその定理の成り立ちを探るなんてことはしない。それは、数学に対する信頼があるからですよ。そこに参加する人の誰しもが一致して持つ最低限の約束事。それに比べると人文系の学問っていうのは、今でも全然ソクラテスプラトンアリストテレスの解釈し直したりしますよね。だから、結局常に解釈学でしかないっていうか。それはそれで当然大事ですけど。その中間に心理学とか社会学みたいな分野もありますが、科学に比べると信頼の程度の差は歴然としてますよね。


すると、法律っていうのは人文の中ではかなり学問の気がしますね。彼らと議論なりしていると常に「それは価値中立じゃないよね。」つまりvalue free judgementを言うんですよ。で、彼らはわりと我に執着してなくて淡白であるっていうね。これは説得力がまるでないかもしれないけど、今の流れだとなかなかありますよね。そうやってみるとソクラテスは凄い。有名な「悪法も法なり」って、いわば法律の前に感情を持ち込んではならない。当事者といえどもっていう。話しを戻すとそうした判断が機械的なものじゃなくて「社会的な判断」を形成するという指摘は、ウロコでした。


視聴率の話に関して、ラーメンズのことがすぐに頭に浮かんでて実際出たので嬉しかったです。松っちゃんのやつは僕も見ました。彼の全盛期を全く知らないので少し偏りがあるかもしれませんが、ちょっと苦しそうだなって僕は思いました。なんか無理をしているっていうか。鳥居みゆきはテレビでしかしらなかったので驚きました。今はそんなことになってたんですか。びっくり。まぁ、その市場原理と見てくれる人っていうのも常に戦いですよね。客観性と感情の戦い同様。いい表現をすれば誰だって多くの人に見てもらいたいって思う。だからって市場にのっけて自分の芸を落としたくはない。その妥協点をどこまで高くもてるかっていう。こうゆう話をすると、必ず「でも生きてるうちに認められるとは限らない。死んだ後に評価される人もいる。だから市場とか流行に流されず自分の表現したいことを極めるのも大事でしょ」っていう人がいる。ゴッホとか例に出してね。表現者が絶対にしちゃいけないタイプのリスクヘッジですよこれ。ゴッホの話はそうゆう人のために作られた慰めであってゴッホ自身は誰よりも認められたかったって僕はいいたい。日記を見ると、自分が認められないことを常に気にしている。死んだ後にどうこうなんて話はまぁ、結果の話なんであって大事なのはどうゆう態度で表現者として挑むかってことですよね。そうゆう葛藤の中でしかいいものは生まれないというか。ようは、思考停止に陥っちゃいけないってとこに落ち着くんですが・・。


個人で編集してアルバムを作ることに関して耳蝉さんは音楽にも造詣が深いからこの辺りは流石ですね。まさにサンプリングですよ。こういったアルバムの最も大きい場がネット空間ですよね。アーキテクチャ=構造なんて概念で最近はよく説明されていて、巨大な知の集積所に入っていって並列的に歴史を俯瞰する。だから、近代文学と落語と方丈記を一緒にリバイバルしても何ら違和感がないっていう。それこそ「過去のものが現代の時代精神を反映する」ってことですよね。そうした縦にあった歴史感覚が平行的になると、わりと平気で間逆のベクトルの感覚も共存しちゃう。そしてニコニコ動画やユーチューブ、SNStwitterとか、いわゆるCGM(consumer generated madia消費者生成メディア)が文化の基盤にシフトしていったりする。こうなると本当にアルバム制作委員はどうなるのって、ちょっと話が戻ってしまうんですが。このジレンマはなかなか。一応、大学で行うアルバム委員は必要っていう前提に僕は立ってますが、そんなもん不要で個人が好きなように自分のスケールで作るっていう意見も当然ある。電子化なんていうのも、一応全てはデジタル化して集積庫に入荷しておくから、好きにしてっていう。この辺はまさに現在進行形の議論ですよね。僕も大学に身を置くものとして、どうにかこの両者を接続できないかとは思いますがなかなか。


確かに哲学もそんな感じですね。20世紀の初めくらいから分化が始まっていく。ラッセルだとかヴィットゲンシュタインの論理哲学なんて哲学を数学の分野に移行していくみたいな作業ですよね。言葉を価値中立まで吊り上げて、機械的に整理していくっていう。実存主義ハイデガーサルトルなんかもどんどんイデオロギー的な意味合いを帯びていき、20世紀後半の哲学は現代アート同様、全く様相がつかめない。


っていつになく長くなってしました。前回、もう僕の話せることなんてないかなって思ってたんですが、耳蝉さんの含蓄ある返信のおかげで書いていて自分でも知らない考えを自分に発見できました。不思議な感覚です。ありがとうございます。ほんと。


Ps『哲学で言えば「今」を意識すればするほど「プレモダン」な感覚がモダンに必要だなって思うんですよね。』っていう最後から二番目の段落の最後の文のモダンって、ポストモダンじゃなくてモダンですか?頭足らずなため、ちょっとわからなかったので少し補足してもらえると幸いです。


僕も実はいつもやりとりにはテンションが上がるのですが、僕だけガーッっと書いてしまって実は相手は疲れてるみたいなことがウォール伝とかではなくてメールとかであったんで自分が異常に書いてしまうということにはやりとりの中で自覚的にいるので遠慮したりすることがあるんですが、狸さんもテンションが上がっているということで収束するまで続けましょう!ってちょっと気合いが入り過ぎてるかもしれませんが。


仏教と数学の話なんですが、狸さんが言う西洋の徹底した白日のもとに晒すっていうある種のくどさみたいなものも徹底的にやり続けるとどんどん我から離れていくんですよね。仏教は最初からくどくどと説明せずにスッキリと空とか無って感じですが、ただ例えばナーガルジュナの空の定義って結構クドいんですよね。仏教の空を定義するための定義みたいなメタ定義みたいなのを永遠と続けるような感じがあるのですが、結局、定義されるものは空なんであって我とかではないんですよね。つまりは物事をくどくどと説明しても、仏教的に空に吸い込ませても、存在するのは因果関係によって構成されている現象だけということで、その帰結がなんか数学と仏教の関係に似てるなって思ったんですよね。


なんていうかイメージ的にナーガルジュナは割と西洋的なロジシャンタイプだと思うんですが、そういう人が空を定義してしまったみたいな感じですね。ただくどくどと説明しても空はあるというか、ロジックで攻めても空に行き着くし、精神世界的な悟りにしても結局は空に行き着くという、ある種の背理法的な感じの我が存在しないということの証明なんですよね。そういう万物の構造みたいなところの大枠のストラクチャの類似が数学世界と仏教的な世界観に感じられて、だから僕の中で勝手に繋がってしまったんです。だからまぁ僕にとって数学って別に理系に目覚めたとかじゃなくて、哲学の延長なんですよね。それも仏教と西洋的な哲学とか科学の融合としての数学という感じです。


それでまさしく狸さんが言うように人文系の結局は解釈学に帰結してしまうというのも、結局、僕は人文系の根底が科学的なものにあるのではなく、個人の思想に依存した我にあるからだと思うんですよね。なので他の人が解釈をするしかない。社会学とか心理学は科学へのアプローチというか科学化したい憧れとか目標みたいなのがあると思いますが、まぁあれも我の学問ですね。どれもこれもイデオロギーが詰まっていて科学とはほど遠い感じがします。だからこその科学化というか徹底した数理化って必要だと思うんですよね。心理学のことで言えば恐らく脳科学的なアプローチのほうがやはり科学性は高いと思うんですよね。心理学というとどうも心の解釈学みたいな部分がありますからね。もちろん科学的な心理学や社会学もあるとは思いますが、やはり狸さんの言うように全体で見ると科学と信頼の差を比べると差は歴然なんですよね。それは僕なりの言い方をしてしまえば学問的なものは我が介在しなければしないほど精度や密度や科学性が上がるってことなんですけどね。


ソクラテスが最初の政治哲学者って言われる所以は色々とあると思いますが、話題に出ている「社会的な判断」という部分で言っても、ソクラテスは彼の生き方とか哲学とか社会観というものを学問的な態度で突き通したというか、身を持って学問を体現したような感じがあるんですよね。結局、その死が僕にとってはやはり凄まじい民主主義批判に見えるんですよね。「ソクラテスが死刑になった」という現象そのものが社会や政治にとっての深い意味合いを持つことになったわけですが、それは「ソクラテスの死」というのが無ければ起こらなかったかもしれないことなわけで、そういう後世への波及効果という意味でも凄いなって思うんですよね。だからソクラテスは哲学と政治哲学の父なんだと思うんですよね。生き方を持って哲学とか学問を体現したという意味で父だと思うんです。


ところで市場の話なんですが、僕は割とその「極めるのも大事でしょ」とかっていうタイプの人間だったんですよね。まさしくゴッホとかを例に出して。でもそれが慰めであるという狸さんの意見はエビデンスともに的確であると思いますし、正直、凄いなというか凄まじい急所を突いているなって思いました。つまりは芸術とか表現という行為が社会の中とか他人との中とか市場との中における葛藤を抜きにしては良いものは生まれないということですよね。それは僕は最近は色々あって考えが変わって本当にそう思うようになりました。そこで爆笑の太田の裸の王様にならないというような市場の良さみたいなのも繋がってくるというか、社会とか市場ということが芸術や表現において邪魔のようなものに見えて実は表現そのものをrefineするような機能を持っている場合もあるということですよね。まさしくソクラテスアゴラに出て色々な人達と対話をして自分と相手の哲学を磨いていったみたいなことですよね。自分だけで思索して自分の中で結論を導きだして満足するのではなくて、それが社会の中で存在したり機能したりすることの重要性をソクラテスは教えてくれているような気がします。哲学というと引きこもりっぽいイメージがありますが、実際はソクラテス的な哲学者にロールモデル的なものがあるという感じですよね。


そのソクラテス的態度はつまりは別に哲学に限らず芸術や表現全般においても言えるのではないか?っていうような気がしてきました。つまりは僕の昔の表現とか芸術に関する考え方って狸さんが言うように絶対に表現者がしちゃいけないタイプのリスクヘッジだったってことになるんですよね。いや、でもこういうのに気がついたのが個人的にはかなり大きな出来事で認識が変わったきっかけというのがあって、それというのが例えば抽象的な言い方になりますが、「社会」とか「他人」ということが凄くキーワードになっている出来事だったんですよね。で、その認識は自分ではない人の意見や考え方や社会の見方から得たもので、そういう意味でも内的な世界にどっぷり浸かっていくことの危険さみたいなのが客観的に始めて分かったという感じでもあったんですよね。自分の話ばかりで恐縮なんですが、簡単に言ってしまえば今の自分はある出来事をきっかけに過去の自分の考え方から決別して新しい考え方になったわけですけど、そのキーワードが社会であったり他者であったりしたわけなんですね。それは市場も含めてですが、特に表現においてのそういうファクターの重要性を凄く感じたんですよね。むしろそれが無いと成立しないだろうというか、それが無ければただの表出で終わっちゃうだろって気がしていて。


アーキテクチャ=構造の話なんですが、僕はなんとなくですが、その個人で行うようなアルバム編集の感覚も大学というパブリックな場でのアルバム編集に活かされればいいと思うんですよね。それは公私混同ということではなくて、個人編集的な現代的な並列感覚みたいなものを持った人が大学編集委員にいてもいいと思うんですよね。好きなように自分のスケールで作るという感覚を公的な感覚から見直して現代的な編集方法として取り入れていくみたいな感じですね。だから当然、それは編集委員はちゃんとした大学人じゃないといけないんですけど、でもそれは古典的な大学人ではなくて、現代的な大学人ということですね。ようは優れた並列的な歴史感覚を持っているような今風のやつがどんどん大学を担っていけばいいってことなんですけどね。ちょっと乱暴に言ってしまえば。


もちろん全員がそうなればいいというわけではないんですが、私的なアルバム制作というのもある種の時代精神なので、それは大学は取り入れていくべき感性なんじゃないかと思うんですよね。そういう意味で大学のシステムとかって凄く古いと思うんですよね。古風というかなんというか、今の時代に合ってない気がするんです。もっとああいう場とか枠組みを利用して現代化というか、良い意味で現代の学びのニーズに応えるようなことってできると思うんですけど、形式が古いまま残っていて、それが余計現代における大学の機能不全を起こしている要因の一つになっているんじゃないかな?とは思うんですよね。とにかくまぁまず古過ぎるテスト中心の教育とか受験とかを無くしたほうがいいですよね。これだけははっきりと言えますね。それこそ並列感覚を持った面白い奴らとかが大学に見向きもしないようになってしまいますから、面白い人材に対して大学がその古くさい様式によってクローズドになっているという現状が凄く勿体ないと思いますね。なんかそういう意味でアメリカとかって面白い学者とか多いんですよねぇー。面白くてレベルが高いっていう。


あと最後に僕の説明不足なんですが、

Ps『哲学で言えば「今」を意識すればするほど「プレモダン」な感覚がモダンに必要だなって思うんですよね。』っていう最後から二番目の段落の最後の文のモダンって、ポストモダンじゃなくてモダンですか?頭足らずなため、ちょっとわからなかったので少し補足してもらえると幸いです。


これは確かに分かりづらいですよね。すみませんでした。僕がなんで最後の文をモダンにしたのか?っていうと現状の世界ってメンタリティ的にはポストモダンかもしれませんが、まだ近代化すらままならないって気がするんですね。この辺は丸山真男も言っていたことなんですが、イデオロギーなどに支配されない価値中立的な社会って僕が理想だと思っている社会でもあって、丸山真男はこれを近代の条件としていたような感じがあって、その中でイデオロギーの無い社会をコントロールするイデオロギーが必要だみたいなことを言っていたと思うんですが、僕も近代の最低条件ってこれだと思ってるんです。でも実際、世界って相当野蛮ですよね。凄まじく感情的である意味で凄くプリミティブな理由から戦争をしていたりして、とてもじゃないけどこれって近代の条件を満たしているとは思えないんです。仮にそんな価値中立的な社会なんて無いと言われても、少なくとも社会システムが価値中立的な原則によって回っているのが近代の条件だと思うので、なので今の世界はモダンよりも遅れているわけで、ポストモダンなんて寝言もいいところだと思うんです。


文芸とかの評論とかではポストモダンって言葉はusefulだと思いますが、社会分析とかにさっぱり役に立たないのって、まぁポストモダン的思想がただの空論という可能性もありますが、それよりまずそのポストモダン的分析を加えられるだけの近代の次になっている社会がこの世に存在しないからだと思うんですね。で、僕が言いたいのはまず近代化を目指したいのならプレモダン的な、ちょっとナイーヴ過ぎるぐらいの正義って何?とか徳って?とかヒューマニズムとは?みたいな、それこそ古代ギリシャ哲学とかがやっていたような感じの政治哲学的な熟考をする必要があると思うんですね。NHKでやっているサンデルの講義なんかはそういうプレモダンっぽい古くさい政治哲学をやっているので凄くいいと思うんですね。僕が前に書いた機械的な判断ってつまりは社会の近代化においては起こりがちなことであると思うんですね。正義とか徳なんて古くさいことを言うな!みたいな感じっていうか、全ては権力とか所有みたいなのに取って変わられてしまうということですね。極端な言い方をしてしまえば金があったり権力があればそれが正義なのだって言っちゃうぐらいの極端な拝金主義的な感じとかは明らかに社会的な退化なんですよね。


人を機械のように扱うとか人として扱わないみたいな酷い雇用の仕方とかも社会的な退化です。それはプレモダン的な社会観を磨いていない中でシステムだけが近代化したという結果に起こる、近代社会とそこに生きる近代化していない人間とのギャップなんだと思うんです。僕が言いたい社会的判断とか社会的合理性って当然、人道的というか、まずは人間的な最低限の近代人らしい条件を満たした上じゃないと成り立たないんですよね。そういうのを満たした近代人が近代的な社会を回せるようになるわけですね。そんな中でそれをコントロールするイデオロギーというとちょっとアレですが、まぁ流れというかパワーが発生するわけですよね。でも僕らが住んでいる近代と呼ばれる近代は野蛮人が近代的な社会的システムを回しているという感じなんですよね。でもそれは近代人らしい近代人が担っている価値中立的な社会とか社会システムではないという意味で、その野蛮人が回している近代的な社会的システムというのは本当の近代的な社会的システムとはほど遠いんですよね。なのでそれは社会システムそのものが価値中立システムを担保していないという意味で、あくまで「近代的な」社会システムに留まるわけです。


だからまぁそれこそ平気で奴隷生産とかするわけですね。奴隷生産とかってまぁ野蛮人的な、本当に原始的な発想ですよね。でもそれは近代人じゃないからああいうことを平気でやるわけです。こんなの全然近代じゃありませんね。ただhuman excellenceとは何か?みたいな問いとか、それに対する答えを導きだすみたいなプロセスはプレモダンだろうがモダンだろうがポストモダンだろうが関係無く共通して取り組むべき与件なので、つまりはプレモダン的な政治哲学的感覚というのはまずは当然、モダンにとっての必要条件になるわけですね。近代人が持っていけないといけない当然の感覚です。


でも僕には近代人がそういう感覚を持てているとは思えないので、だからこそ相対主義的な感覚がまかり通ったり、物質主義的だったり拝金主義的な感覚みたいなのが平気で横行したりすると思うんですね。科学とかテクノロジーとか社会システムだけが進化していって、その進化に人間が追いつかないというのは本当にマズいことだと思うんですね。そういう意味で言えば近代にすら追いついていない人間の科学万能主義などは危険思想の最たるもんだと思います。あと近代化していない社会での民主主義も同じぐらい危険なものだと思います。まぁでもチャーチルも言っていたように民主主義は最悪の統治形態ではあるんだけど他にロクなのが無いからしょうがないってところではあって、それは資本主義然りだとは思うんですけどね。


・・・と今回は結構かなり長めに書かせてもらいました。特にプレモダンとモダンについての補足をお願いされたのが凄く嬉しかったので、余計に長く書いてしまいました。