狸さんへの返信。その6。

狸 2010/11/03 23:33


我を突き詰めると空にいくっていう耳蝉さんの言葉を聞いて、F・ベーコンの「哲学を少しばかりかじると人間の心は無神論に傾くが、哲学を深く究めると再び宗教に戻る」っていう言葉を思い出してしました。もちろんそうゆう同一のものの裏表というか、結局は同じものに行くっていうのはわかるんですが、様態の部分ではやっぱり文化的な違いっていうのに注目するのは大事だとも思いますね。例えば、西洋の数学的は観念の上での空に対して、仏教的な空って(日本以外はよくわかりませんが)観念というより日常に根付いている。


今、ロラン・バルトの「象徴の帝国」っていう日本論の軽いエッセイみたいなの読んでるんですが凄く面白い。天ぷらのことを「空虚を食べる」って言ったり、皇居に関して城壁と樹木によって東京という都市の中で「空虚な中心」をつくっているとか。冗談半分のエッセイなんでしょうが、その記述を見ると西洋人が持つ数学的な「空」と仏教的な「空」の捉え方の違いが凄く際立っている。例外的にショーペンハウアーのような西洋人は仏教と接続したりしたけど、本当に稀な気がする。数学的な学問の発展も欧米が常に牽引してきたし。だから、耳蝉さんの境地っていうのは、今の僕には想像の及ばない感じで、ただただ凄いなっていう。二つの文化を横断するなんて、口で言うほど簡単じゃありませんからね。


ソクラテスに関しては流石ですね。よく理論でその人が提示したことと、実際その人がどのように行動するかは関係がないなんてこと聞きますけど、人文系の真髄ってこの体現って所ですよね。中島義道もやや感情的に、真の哲学者っていうのはやっぱり=体現者だと思うって言っています。けれども、この体現っていうのを手放しで賞賛したい一方で慎重に考えないと危険だなって思う。例えば、ベトナム戦争で自分に油をかけ引火して抗議した僧や、天安門で戦車の前に立った人など(彼は死にませんでしたが。)つまりは、自分を一つの問いそのものに昇華して事実に仕立て上げることですよね。それこそ命を差し出して問題になるっていう。体現っていうのが生きてなすことなら僕は全面的に賛成だし、いいんだけれど「死」ってところが絡むと少し・・・。


社会にあるフラストレーションがある個人に集中しそれが死という犠牲によってチャラになるっていう。笑いでいう無茶ぶりみたいなのが必要なのはわかるんですよ。「マジかよ〜、」って言ってスベってモヤモヤした空気の犠牲になるっていう。歴史的にみればこうしたことは至極当然の政治手段の一つであったわけなのだけれども、現在にとっては人権の法整備などもあってか、そこの物語が未処理のまま放置されてる気がするんですよね。放置して風化をまって、死の匂いが消えたら標本にしてモデルケースにするっていう。で、その物語を僕はまだ持ってなくて、ソクラテスは未だに未処理なんですよ。というか、僕は1988年生まれなんですけど、言われてきたことは「一つの命は地球より重い」的なコテコテのヒューマニズム。だから見ぬふりにいく。見なきゃないですからね。ただ、語らなくちゃいけないトピックっていうのはあるわけで、死っていう問題に関しては避けちゃいけないんじゃないかって最近になって感じるんです。最低限、見ないってことで自分はうまくやり過ごしてるんだって自覚ぐらいは必要だなって。


表現の話がうまく繋がってよかったです。思うに表現って行為には「ノイズ」っていうのが絶対的に先立ちますよね。そのノイズに対してのリアクションが表現って呼ばれるものだと僕は思ってて。空気抵抗が邪魔だと思って空気をなくしたら飛べなくなったっていう鳥の比喩ですね、まさしく。耳蝉さんが自分でおっしゃってるように、確かにある時期からガラッと思考の感じが変わりましたよね。これは僕の推測なんですが、その分ウォール伝にぶつけるものも少なくなったような気がします。おそらくどんどん目に見える他者に向けて表現していくのが次の段階になるのかもしれませんね。


アルバム編集に関してなんですが、僕はむしろGoogle的なものに代わっていくのかなって思ってます。個人は個人でアルバムを作る一方で、そうした個人のアルバムの集積の上に成り立つアルバムっていうんですか。その箱は大学っていう現実の空間が担うんじゃなくて、ネット空間のアルゴリズムが担うっていう。Googleの検索システムや翻訳システム、それに加えてwikのようなページを見ていると、そっちのほうが今のニーズとか流動性に対応できる気がしますね。当然wikも色々間違うことはあるんでしょうが、共通認識というか、たたき台はwikになるっていう。すると大学っていうのは、より良いアルゴリズムを作れる人材を養成するところになる。何だか書いていて少し切なくなりましたが、こうゆうモデルになる気がします。前回言っていたことと違って恐縮ですが・・。実際、哲学なり対話っていうのは現在のこのやり取りみたいにあらゆる障害や肩書きを取っ払ってはじめることもできるし、その結果もネットの中の集積庫に保存されるわけですし。


丁寧な補足ありがとうございました。いわゆるハーバーマスの「近代未完のプロジェクト」みたいな感じですよね。ただ、ここまで技術が先行した時代においてそうゆうプレモダン的な道徳論じゃ到底たちうちできないって現状もありますよね。すると、行き過ぎた科学技術を人間の行動を制御する社会構造として組み込んじゃうって方向にいく。例えば、酔った人がハンドル握ればエンジンがかからないとか。着火マンを人の方に向けたら自然と火が消えるだとか。ちょっと毛色は違うけど、ファーストフードの椅子を硬くして店の回転効率を上げるっていうのも社会的制御の一つですよね。ただ、そうした構造っていうのは凄く監視社会的でもあるし、国家権力的でもあるんで、いわば道徳を制御する構造を制御するメタ道徳っていう観点が重要になってくる気が僕はします。


またまた長くなってしまいましたので、この辺で。


その狸さんが言う文化的な違いって凄く分かります。日本的な空の概念と西洋的な概念で定義する空とかも結局は違うっていうか、それも分かるんですけど、その繋がる感じってそれこそそういう文化とかを超えた真理が繋がるって感じで、だから場所とか文化とか関係無い感じなんですよね。ロラン・バルトとかって凄く分かるんですよ。西洋的な日本の解釈とかって、まぁそういう人が定義する日本とかってまぁモンドな感じですよね。なのでそういう感じの人が東洋のことを語ってたりすると僕はそれがcultural differenceみたいな、まぁ相違を生み出してしまうと思っていて、西洋人もそれらしい解説とかだったりするとそれで理解してしまったりするから理解そのものが変わってしまうんですよね。


でも特に空とかもう全てを超越してるんですよね。まぁ真理全般そうなんですが、そこもそれこそロラン・バルトのような「西洋人の解釈」というようなある種の我が入ってこない分、いいんですよね。理解はそのまま理解で理解するみたいな感じです。。そのなんていいますか、数学と仏教という媒体には文化とかの介在すらも許さないような真理のロジックがあるみたいな感じなんですね。仏教と言っても僕が言うのは空の論理で、現在の形骸化されたような宗教としての仏教ではなくて、その空の論理というものにつまりは文化的なものや人間的なものって介在しないんです。なので仏教的な空も数学的な空もなくて、あるのはただの空なんですよね。


それを人間は空の論理を通して理解するというただそれだけのことです。なので僕は文化や人間に依存するか、文化や人間が介在してしまうような空の概念というのは空の概念とは違うと思うんですね。まぁそれも一つなので否定はしませんが、それは空というモチーフを使った文化って気がするんです。つまりは日常的な感覚の仏教ですよね。で、僕は科学も恐らく理想的な形は同じようなものだろうって思ってるんです。文化とか我とかエートスなどに依存しないようなものですね。それは究極的にイデオロギーフリーなものの一つだと思うんですね。


ところで「死」が絡むことについてなんですが、僕もやはり「死」が絡むと微妙だなぁーというのは三島由紀夫みたいなのを見ていて凄く感じることではあるんですよね。体現ということに余計なヒロイズムや幻想とかが入ると三島みたいになると思うんですよね。結局は我を通じてそれを体現しようとする過剰なメッセージは我が成すことなので、それは余計なことだと思うんですよ。体現するということは自然にそれが体現されているというような、受動的なものだと思うんですよね。所謂、なんていいますか、主体の行為性が無いということですね。能動的にやっているということではなくて、それが結果的にそうなっているみたいなことですね。それこそ現象的なものですね。そこを過剰なヒロイズムや幻想などが自分の態度の体現というものを現象として成立させたいというある種の自己顕示欲みたいなものに突き動かされ過ぎて、死という表現行為を取るんだと思うんですよね。


でもその一方で死ぐらいしか表現のしようがないというような人達もいるので、それは一概に否定はできないんですよね。凄く危険ですし、結局まぁその死を肯定してしまうとテロリズムの肯定にもなったりするので危険なんですが、でもそこを考えるということがつまりはその未処理感を出さないということだと思うんですよね。その未処理感って狸さんだけじゃなくて割と一般的にそうだと思うんですね。危険な物語だからこそ死の匂いを消す必要があるわけですよね。あとは今生きている人とか革命家とかでもまぁ結局、レジスタンスだのなんだのって言ってやってたのはテロでしょ?みたいな、まぁゲバラとかってテロの香りがしないから英雄扱いされるわけですよね。でもやってたことはテロですからね。ゲバラに限らず革命家みたいな英雄って勝てば官軍的な英雄だと思うんですね。


そこを狸さんが言われてきたようなコテコテのヒューマニズムは語らないし語らないように仕向けるようにするものだと思うんですね。平和だのなんだのって言いますけど無血の平和なんてありえないわけですし、僕に言わせれば理想主義的な平和主義者ほど危険だったりすると思うんですよね。あまりに死とか殺さないということを言い過ぎていて必要悪としての死とか殺すことすらも否定してしまうっていう。その危険なものに対する全面的な否定というのは平和を考える上でも非常に危険だと思うんです。僕が思うのは現実主義的な平和主義者ってテロリストみたいになると思うんですね。


みんながみんなそうではないでしょうけど、でもまぁ平和だけ叫び続ける平和主義者は絶対現実主義者でないことは確かだと思います。テロとかってどんな形であれありえないぐらい悪いことだとされているんでそれを肯定したりする人ってあまりいないと思いますけど、平和のロジックで言えば最善の帰結がテロだったりする場合もあると思うんですね。そういう明日にでもテロが起きそうとかやりそうみたいな雰囲気の中で殺しや死の物語を理解したり解釈するということが必要だと思うんですよね。ようは臨場感とか緊迫感ですよね。そうじゃないとテロリズムって理解できないと思うし、死の物語も理解できないと思うんですね。


僕の場合、モデルケースにするプロセスが逆なんですよねっていうのは死の匂いが消えたモデルケースから死の匂いや本来の血なまぐささみたいなのを取り戻したなるべく原寸大で感じて理解してモデルケースにするということですね。それは陳腐なヒューマニズムに洗脳されたような僕らのような世代の人間だからこそ可能なことだと思うんですね。そこでもちろん「んじゃあテロをやろう」ではなくて、「テロも分かる」ぐらいの臨場感から「でもダメだよね」という帰結に至れないとそれは本当の平和とは言えないんですよね。狸さんのその「避けちゃいけないんじゃないか」って血が通っている人間として凄く健全な意志だと思います。


アルバム編集に関してですが、確かに哀しいですね。それって。でも納得してしまいました。僕はかなり勘違いしていたようです。そのネット空間感覚って攻殻機動隊のようなデータベース感覚ですよね。草薙素子にとって大学なんてのが必要ないように、アルバム編集を担えるぐらいのアルゴリズムがあれば、それを求める全ての人達がデータベースにアクセスしてそれを得られるようになるってことですよね。仮に「んでも大学って必要でしょ」ってどうしても言いたい人みたいな立場に立って物事を考えても、このネット空間に勝てるぐらいのアイデアって無いんですよね。


大学でやれば体系的にやれるだとか教わらなきゃ分からないところがいっぱいあるとか人々との繋がりがどうのとか・・・結局はネット空間で代替可能なものばかりで、結局まぁ名物先生的なミメーシスを引き起こすような強烈な先生が大学にいることぐらいしか大学の必要性ってネットに対して浮かばないですね。まぁ社会的なセカンダリーグループ的な集団を形成する場としての大学ってやっぱり良いとは思うんですが、でもプライマリーな目的ではないんですよね。それって。あくまで学問というのが中心で、その学問という目的に人々が集まってくる中でセカンダリーグループとしての大学という機能が生まれてくるわけで、学問そのものがネット空間のアルゴリズムに担えるようになってしまったら本当に大学ってどうなるのかな?って気はするんですよね。


「こういうのを学びたいから」っていう理由で大学に行くという動機付け自体に矛盾を感じてしまうんですよね。本当にそう感じているならググるなり、ググった結果で必要な本を買うなり図書館に行くなりして、明日から自分でできるんですよね。学問って。全部が全部そうとは言わないですけど、でもネット空間が担える部分って相当っていうか大部分だと思うんですよね。それはネットが担うというとネットとかウィキが先生みたいな雰囲気になりますが、つまりは知識習得への道筋をネットが示してくれるってことですよね。それもアルゴリズムで可能だし、現に例えばアマゾンのゾーニングなんかもある種のそういう道筋表示機能ですよね。完璧なものではないので頼り切れない感じはありますが、まぁそもそも大学もネットも知識を得ることに対して頼るものではなくて利用するものですから、そういう意味で道筋表示機能としてのネットって大学の代替になってると思います。ただまぁ現状で言えば完全に代替可能ではないんですけどね。


あと最後に近代なんですが、僕の意見の説得力の無さってまさしくそれなんですよね。今時virtueみたいな概念を持ち出してもちょっと無理あるだろ・・・っていうような現実感ですよね。それこそそういうものは現実に対して空虚な道徳論とかになりかねなくなっちゃうわけで、自分で言っておいてなんですが、結局、「本を読みなさい」とか「学ぶことが大事だ」みたいな、それか似たような帰結に至るような近代性を担保する近代人としてのあり方って非現実的なんですよね。それができたらとっくに近代人は近代人らしくなっているだろうっていう。


それができていないから技術だけが先行した近代があるわけで、だから道徳論とかプレモダンな感覚って相当弱いですよね。それこそ太刀打ちできないって感じです。太刀自体は別にそこまでなまくらでもないし、切れ味は悪くないんですけど、でもそれだけじゃ無理っていう感じですよね。で、結局、そこの点を考えた時にあんまり好評ではないかもしれませんが、僕がいつも言うエリート統治ってことになるんですよね。まさしく狸さんが言うような「近代を制御する構造を制御するメタ道徳」みたいな観点を持てるようなエリートがそのメタ道徳によって構造なりそのメタ構造を操っていくっていう。なのでもうそれは民衆の手に負えるレベルのものではないわけですよね。なんていうかそれは民衆をエートスなどによって鍛え上げていくというような感じでは到達できないようなメタレベルの話なんですよね。それこそマトリックスに出てくるアーキテクトぐらいのレベルの話だと思うんです。


これまた思ったより長くなったのでこの辺でやめておきます。