狸さんへの返信。その7。

狸 2010/11/07 01:39


「空というモチーフを使った」文化というところで腑に落ちました。ところで、死の物語に関してですが、今の時代にこれを考えることは否応がなくテロとの関わりになってきますよね。そこで耳蝉さんがいう、明日にでもテロが起こるかもといった臨場感や緊張感が必要だというのはわかります。イギリスのロンドンの監視社会やアメリカの銃に関する考え方なんか、日本人にはわからないテロに対する危機感の表れですよ。で、なんで日本に、というか僕の世代にその臨場感がないのかなって思った時、日本が世界唯一の被爆国であるという強固なバイアスが働いているのではないかと感じました。それは完全に敗者の側の理論で、「私は敗者だから勝者の国に対する攻撃が敗者に向くのはない」っいう。重要なのは被爆したのが日本のみであり、原爆という兵器は割りと単純に世界的な悪と見なされているということです。


で、そうすると必ず「憲法9条」をどう解釈するかって話にどうしたってなる。話の流れから言えば、この時代のテロの問題を考える上でも世界の情勢を考える上でも改憲して軍隊を持つべきだろうって話になると思うし、9条を楯に平和を連呼するよりはよっぽど現実的に感じる。しかし、そこで改正に一票を投じることは僕にはどうしてもできないんですよ。というのは、このロマン的な理想の塊が世界の中心の一つを担う国民国家にあるっていうのが、常にある未処理な問題を未処理なまま人々に投げかけるっていう機能を果たせるように思うんですよね。それも死をもって体現するとかしなくて。うまくいえないんですが・・・。憲法ってもんがモデルケースになるっていうのは、個人の死や事件がなるのと違って、かなり文化的で記念碑的で、現在の社会のルール上無視できないものだと思える。だから未処理をすっきりさせたくて処理するより、未処理を未処理として保持する持続的な強度というか。


もしかすると、欧米の国々がテロの脅威に、まさに癌と戦うように存在しているのに対して、日本は一発でやられるかもしれないという前提にある国でいいのかもしれない。したたかにアメリカという親分も抱えているのも随分賢いやり方に見える。ただ、この考え方はちょっと危ないかもしれない・・。未処理を保持する持続的強度なんて可能かっていう・・。


しかも、これは国家レベルの死の物語で、じゃあ実際その強度はどうやって維持するのってことになる。そこで耳蝉さんがいう、モデルケースから遡及してリアルを取り戻すっていう想像力は興味深い。そこで思い浮かんだのが、「バトルロワイヤル」や「Death Note」「Ganz」です。どれも特異なゲーム設定と死を絡めることで、体験したこともない人間のリアルを喚起しますよね。これらの作品がもたらす感情っていわゆるホラーを見たときのものとは少し違う気がする。ホラー一般が幽霊的な透明感のあるものに還元したのに対して、これらの作品は人間のテロ的な暴力性そのものに生々しく還元する。(耳蝉さんが想定したリアルと違ったらごめんなさい。)


けれど、この暴力性ってあまりに露骨過ぎる気が僕にはします。それこそ、小さい子供が無邪気に蛙を殺したりする範疇と同じというか。それでかなり飛躍するんですが、1997年の神戸で起こった殺人事件っていうのは蛙を殺す無邪気な暴力性が人間に向いたもので、それはつまり上で述べた作品と同じじゃないかと思うんですよね。というのも当時僕はこのニュースにリアリティを持って受容したのであり、そのリアリティと上記の作品から受け取るリアリティが凄く似ているという実感が凄くある。


で何が言いたいかというと、体験してないリアリティを想像力で遡及的に理解しようとすると単純な暴力性に依拠してしまい、テロ的な行動と現実の行動の境界を越境しちゃうものとして働いてしまうんじゃないかという危惧なんです。かなり乱暴ですが。そして、こんだけ色々言っといて、僕はその強度の物語をどうすればいいかっていうと、昔話を小さい頃に聞かせてあげることくらいしかわからない・・。


大学の機能に関しては、耳蝉さんが的確に言ってくれたのでもう僕のいうことはないですね。一つ加えるなら、ネットの多くの利便性が耳蝉さんが言うように「代替」という性質を持っていることですよね。代替っていうのはつまるところ伝統に片足入れといて一歩前に踏み出すってことですよ。だから代替できない実験施設なんかの場所としての大学ですよね。逆にネットが代替できるものをネットに譲らないとするのは既得権益の一言で片付くもので、代替できないものをピンポイントで特化する施設の建設が今後大事になる。理系はある程度答えがあるから、文系がね。


エリート統治っていうのがアーキテクストレベルっていうのはまさにその通りになると僕も思います。例えば、同じエリート統治といえば哲人政治ですけど、これは失敗しますよね。それはなんでかっていうと、僕は統治している人物が可視化されてるからだと思います。一方、アーキテクストの設計って不可視ですよ。かなり無意識の部分に働きかける。哲人政治がエリートっていう数人の個人による統治と民衆に認知されるのに対して、アーキテクチャの場合そのアーキテクチャに参加している民衆の総意としてまず理解される。メタ的な部分は不可視なものとして存在できる。ようは責任を具体的な個体に転嫁しにくいっていう。


これまた長くなってきたのでこの辺で。
なんか、支離滅裂になってしまい申し訳ありません。
難しいですね・・、文章を書くって。


死についてなのですが、狸さんが言うロマン的な理想の塊って凄く分かるんです。ある意味で平和主義ってこの言葉に要約できる気がします。あとバトルロワイヤル的な暴力感って分かりますが、それは僕の言っていたリアルとは違いますね。それは僕が普段から書いているような、例えばテロの現場とかを見るというリアリティで、それはネットがあるので可能なんですよね。所謂、「グロ画像」とか呼ばれているものになりますけど。人間が爆弾などによって肉片となっているとか、何の罪も無い子供や赤ちゃんがバラバラになってたりするわけですよね。それは僕はグロ画像を楽しむために見ていたりするのではなく、報道などでは発信されないリアリティを感じるためのものとして、ある種のアイコン的な「死」を感じるために見ています。といっても別に日常的に見ているわけではなく、まぁ見たことがあるという感じですけど。


まぁそのためという目的ではないのですが、現実を見るということが、つまりは死を見据えるということに直結するわけですよね。でもこういう本当の現実を知らない人間ってやっぱりいっぱいいるわけで、例えば爆弾テロによって30人が死亡とかって、爆破の瞬間の動画とか、テロではなくても爆死の瞬間を捉えたような映像を見た経験があるのなら、文字からでもその凄まじさって喚起されるんですよね。もちろんそんな感じ方を毎日していたらやっていけなくなるので、だからまぁ見ないようにするとか、忘れるとか、「あーまたテロか」ぐらいで済ますって感じだと思うんですよね。


これは体験したことが無いリアルというよりかは、僕らと同じ人間が一瞬で肉片になっているというまぎれも無いリアリティなんですよね。こういうのに比べればどんな映画にも死のリアリティなんて無いと思うんですよね。現実の不条理な死に勝てるような死のリアリティなんて無いんですよね。だから少なくとも僕にとってはsawだとかバトルロワイヤルだとか、ああいうのは全部、生と死をモチーフとした娯楽映画なのであって、リアリティを感じるものとしてはほど遠いと思うんです。


神戸の事件なども、即物的な言い方になりますが、ビジュアル的なリアリティを知っているのと知っていないのとでは捉え方が全然違うと思うんですよね。それこそ生きながらにして首をのこぎりで切られたりしている映像を見たことがあるのと無いのとでは全然違うと思うんです。これは死全般に関することに言えることで、例えば肺がんなんかもガンで死ぬ壮絶さとか、肺がんの苦しみとか、肺がんになった肺の画像とかって見せられたらタバコなんて吸う気になれないと思うんですよね。ある種のそういうショックドクトリン的な感じって海外ではやっていますよね。ずいぶんとグロい広告とかCMがあるんですよね。


あとは交通事故なんかにしてもティーンエイジャーの飲酒運転の末路みたいなのを画像で見せられたら、酒を飲んで車をかっとぱしでスリルを味わおうなんて思わなくなるわけですよね。誰も原型を留めないぐらい体がグチャグチャになることを望まないですからね。僕は狸さんの言う想像力で遡及的に理解しようとする暴力性の危険性というか、依拠することの危惧って凄く分かるんです。でも今の僕らにはネットがあるわけで、それによってバーチャルでもなんでもない死の現実って見ることができるんですよね。


でも例えば「テロで30人が死亡」って言う報道の中で爆死した人々の肉片が散らばっている現場の映像とかを流したら大変なことになりますよね。でもそれは起こっていることなのであって、むしろそういう生々しい死に対してブルーシートで隠してしまうような報道とか理解っていうのが、つまりは暴力性を想像力によってしか理解できないというような、本来の生々しい暴力性との乖離を生むと思うんです。もちろんかといって報道で屍体の映像などを流せばいいとは言いませんが、でも現実を見ない限り死ってリアルにならないと思うんですよね。


僕にとって死ってのは凄くリアルなものなんですね。だから「日本は一発でやられるかもしれない」みたいなことがあったとすれば、それに臨場感を持って危機を感じるわけです。今日一緒に居た家族が次の日にはバラバラになっているかもしれないというリアリティですね。「テロが起こる可能性」というのはつまりはそういうことですよね。別にそれは家族じゃなくても他人でも同じことですが、臨場感を感じるという意味では例えば自分にとっては家族が爆死するとかってことになるということを通じて臨場感を感じられるわけですね。まぁもしくは爆死するのは自分でもいいんですが。いや、死んでいいということではなくて、死ぬかもしれないという臨場感ですね。


そういう可能性がある中で平和主義を掲げて軍隊を持つなとかっていうのってあまりに現実を知らな過ぎなんじゃないか?って思っちゃうんですよね。それこそバトルロワイヤル的な架空のリアリティしか知らないからそういうことが言えるんじゃないか?って思うんですね。まぁ現実を見据えるって難しいことで、日常的に例えばテロが今の所無い場所でテロがあった場所の臨場感をニュースを見るたびに感じるとかってまぁありえないことだとは思うんですけど、例えば忙しいからとかそんなこと考えている暇はないとかって理由も分かるんですが、結局は現実を見据えないことから来る仮想のリアリティというか、平和ボケとかってやっぱりあると思うんですよね。「忙しいから」とかって言えちゃう空気感です。それでは政治は無理だと思うんですね。こういう発想から僕は平和主義とかが生まれると思うんですよ。リアリティを知っているのなら平和のための防衛などの必要性って絶対分かるはずですからね。


あと最後にエリート統治なんですけど、僕が理想としているのはまさしくその可視化されないエリートの存在なんです。ちょうど良いので賢人統治の例を出していうと、まぁ賢人という言い方に語弊があるかもしれませんが、賢人統治における賢人ってまさしくアーキテクトレベルで、実際に統治している人達は言わば駒に過ぎないわけですね。まぁそれでもそれなりのエリートである必要がありますが、実際に統治していたり、統治しているように見える人達というのはまぁ具体的な言い方をすると政治家とか大統領みたいな見える人達ですよね。


で、そういう人間が本当にアーキテクトを設計している賢人達に「こんな感じなんだけどどうすればいいのか?」って相談しに行く感じですね。もしくは賢人というか本当の支配者が権力者達に指示を出しているみたいな。なので賢人統治の例で言えば実際賢人達は統治をせずに、イデオロギー的な統治とか、システム的な統治の構築をするわけですね。で、それは民主制によって選ばれる賢人達ではないので、民衆に媚を売るような迎合もいらないわけですね。


つまりまぁある種のポピュリズムの回避にもなるわけですね。まぁ衆愚性の回避というかなんというか。民主主義が擬制として成り立っているから、それを擬制としてなおかつ人々が信じているような民主主義らしい形をとって社会が回っていると人々に信じさせるとか、あとはそれが狸さんも言うようにアーキテクチャに参加している民衆の総意なんだと理解されるという言わば自然な感じですよね。なのでそこに偉そうな寡頭政治のような誰かが支配してる感じってのが無いわけです。凄く自由で市民社会らしい健全な社会が育まれている。それこそプラトンが言うような善い社会です。でもその背後にはその善さを担いながら作り出している賢人の存在があるわけですね。


陰謀論などで言えば世界はロスチャイルドが支配しているとか、ロックフェラーがどうのとか、可視化されないという感じだとこういう感じですね。彼らが本当に支配しているかはともかくとして、仮に支配していても彼らが政治を担っているという感覚を我々は持たないし、政治家とすらも認識しないわけですね。でも実際は彼らに支配されている。でも僕はそれがロックフェラーであれロスチャイルド家であれ、その支配によって善い健全な社会が育まれているのならそれはいいと思うんですね。そこを過剰に「支配」ということに敏感になったり、「民主制」にこだわり過ぎたりするということはおかしいと思うわけですね。あくまで民主主義は善い社会を作り出すダイナミズムのシステムの一つとして認識されるべきで、それ自体が目的であってはいけないんですよね。それはもう民主主義フェチみたいなもんですよね。僕が民主主義を批判するのはこの辺なんですよね。この目的化というところに凄まじい違和感を感じるわけです。ある種のまぁアメリカンイデオロギーですよね。


でも政治ってつまりは可視化されてないところで動いてるもんだと思うわけですよ。僕らにはアクセス権減は無いわけですね。まさしく疎外ですが、だからこそその本当に支配してる人達が私利私欲で動いていては国家も世界も潰れてしまうので、だからそこに賢人的な人達が必要なんじゃないか?という本当のエリートの存在なり育成の必要性を僕は感じるわけです。理念的過ぎますが、僕が思い描くような政治的エリートは私利私欲などでは絶対動かないわけですよね。彼らが政治をやりたいと思うイニシアチブが「善い社会を作ること」なので、変な話、そのためには死ぬことも辞さないような感じなわけですね。戦前の日本の政治家にはちょっとはこういうタイプの人達がいたと思います。まぁ実際、暗殺された人達もいたわけですが。ただ彼らがアーキテクトレベルだったかは分かりません。でも例えば天皇機関説のようなものは凄くアーキテクトレベルな思考だなとかって思います。


ただ結局はまぁ僕なりの賢人統治の考えを言ったところで空論っぽい感じには変わりませんよね。そもそもそんなアーキテクトみたいになれるやつがいるのか?みたいな、つまりはそれがルソーが言うような神としての立法者のような存在を求めるようなことになってしまえば、それは不可能なことであるし、結局はつまりは政治の不可能性というのは人間の限界ということに繋がると思うんですよね。だから「そんなやついない」とか「誰がそんな神みたいなやつになるの?」とかって言われたら終わりなんですよね。東浩紀宮台真司のエリート主義に対して「そのエリートって誰なの?」っていうような批判ですよね。あとは仮にそういうエリートを育成するなりなろうとしようとするやつがいて、んじゃあそいつが明日から何をやっていけばいいのか?ってことですよね。そこをまぁ僕はなんていうかそういう人間が育っていくようなインフラを作ればいいと思うんですけどね。エリート育成機関みたいなところですよね。フランスとかアメリカにはそういう場所に近いところってあると思うんですが、まぁ日本にはないですよね。なのでまぁまずは欧米のエリート育成機関の猿真似とかでもいいんでやればいいと思うんです。エリートの不在というのは社会にとって決定的なことですからね。


相変わらず長くなったので今日はこの辺で失礼しますね。確かに文章って書くの難しいですよね。自分の意見を的確に伝えるのって凄く難しいです。