狸さんへの返信。ラスト。

狸 2010/11/13 01:21


返信ありがとうございます。


まず、耳蝉さんのリアルを全く誤解していました。そしてそのリアルに対する態度と自分の態度を比べて少し考えてしまいました。正直、僕はグロ画像をほとんど見ません。ソウとかホラー系のやつも全く見ないんです。というか見れない。トラウマになるからっていう理由だけ。それで、前の返信で僕は色々書いてたけど実際自分の心情というか、心構えみたいなのを省みたとき何だか凄く情けなくなってしまいました。情けなくというより、その部分での語彙なり思考が全くないってことに。例えば、耳蝉さんの返信の中で出てきた交通事故の悲惨っていうのがあったじゃないですか。その文章を読んで交通事故って今の社会でどのような意味があるのかなって考えたとき、現在の便利すぎる社会の供物みたいなもんじゃないかと思ったんですね。どうゆうことかというと、自動車で移動するっていうのは基本的に必要のないことです。移動するって上では歩行が第一にあり、自転車なり、バスなり、電車なり、他のあらゆる交通手段を考えると車っていうのは最大の贅沢だと思う。*郊外の人や運送トラックはここでは除きます。交通事故っていうのはすると、まったく必要のないモノによって人間が死ぬっていう、最大の贅沢のように見えるんです。なので交通事故を報道する上でグロ画像を見せることは全く何も機能を果たさず、むしろただ事故っていう事実を報じることでわれわれはこの便利を謳歌しているようのではないかっていう。


ただ、これまでの返信をしていて僕の思考というか考えって、全部こうゆうシステムの機能に還元して考えちゃうことに少し戸惑ってしまったんです。社会の物語上のシステムと個人の人生の態度っていうのは一応区別されるわけだけど、そこの二つを考え繋げることが大事だと思う。なのに、僕がしていることはどれもシステムで語ってるだけで個人の問題が全く述べれてないっていう。平和とかいう言葉を安易に連呼していましたけど、耳蝉さんの返信を読んで平和っていうのは最も平和を疑うことでしかできないんじゃないかっていう。暴力をどれだけ引き受けた上でのことというか。でこれって僕が教育について言ってたことですよ。こう、ダブルスタンダードを無意識に適用してしまうっていうのはよくないですね。それに僕の文章は弛緩してきてしまってる。


なので今回のこの返信で僕のほうは一応終わりにしたいと思います。自分勝手にすいません。ただ、今回こうして何回かのやり取りをできて本当によかったです。大学の機能から学問の秩序の変化、表現との類似、政治やテロ、就職や仕事の奴隷根性、仏教の空と数学の関係など、色んなトピックをこんなに濃く話せたことは僕の宝です。最初、少しドキドキしてコメントしてからこんな風になるとは思っていませんでした。予想外な出来事っていうのは本当に面白いですね。
またコメントすることもあると思いますが、その時はまたよろしくお願いします。


Ps全然関係ないですけどボールペンの絵を描いてるんで、よかったら見てみてください。
http://d.hatena.ne.jp/zxtuu/searchdiary?word=%2A%5B%A5%DC%A1%BC%A5%EB%A5%DA%A5%F3%B3%A8%5D
http://d.hatena.ne.jp/zxtuu/


今回はウォール伝の中のやりとりでもかなり長い部類に入るもので、なおかつ僕にとって凄く勉強になることばかりでした。特に若いシャープな大学生とネット上であれやりとりできるって僕にとっては凄く嬉しいことなんです。僕はそういう場にいたことがないもので・・・。


リアリティに関して言えば結局、極論を言ってしまえば文明人にとってリアリティというのはもう仮想で違った形でしか体験できないものになってると思うんです。なのでソウみたいな生と死を扱った極限状態みたいな映画が流行ったりするわけだと思うんですね。まぁ僕はあれは娯楽としては好きですけどね。まぁ昔が良かったとかって話にはしませんが、例えば戦国時代とか鎌倉時代とかなんでもいいんですが、大昔ってどこでも死がその辺に転がってたわけですよね。美女が腐っていって最後に骨になってしまうみたいなのの段階図みたいなのが描かれている日本画とかありますが、ああいうのがつまりは死のリアリティですよね。屍体が朽ちていく段階を映した映像なんてその辺に無いと思いますが、そもそも文明的な社会って死へのリアリティから隔絶されていると思うんですね。路上に屍体が転がっていることはないし、転がっていたとしても一瞬で片付けられますね。報道でも屍体の写真とかは映されないし、血すらも映らないですね。あんな中で事件が起こったと言われてもリアリティを感じなくなるのは当然だと思うんですね。何しろもう完全に綺麗になっちゃってますからね。破損した車体とかはあっても内蔵とか血はもうそこには無いですからね。


こうやって空虚なただのイメージとしての死というのが流布されるわけですが、別にこれは日本に限ったことではなく、先進国では恐らくどこでもそうですよね。それはもう文明人の宿命というかなんというか、だからまぁそれは僕は必要性は感じながらも無理だと諦めているんです。「トラウマになるから」という理由だけでそういうのを見ないようにするというのは極めて普通の態度だと思うんですよ。それを僕は現実から目を背けているみたいな批判をしたこともありますが、そうではないんですよね。つまりはそれが現代人ということなんだってことなんだと思うんです。


結局、死って人間にとっての究極のリアリティの一つだと思うので、これがつまりは結局、一つの要素として政治とかそれこそ平和とか暴力ってことに繋がるわけなんですよね。リアリティを直視していない平和理論も政治理論も結局はただの机上の空論になってしまうので、だからこそ暴力や死などの究極のリアリティを引き受けた上でどういう理論が形成できるのか?とか、それこそどういう科学が可能なのか?ってことを追求することの必要性があると思うんです。それこそが政治理論だと言えると思うんですよね。


だから僕は楽観的な民主主義論とかルソー的な思想とかが嫌いなんですよね。理念としては大好きですがリアリティに即していないってことであんまり意味がないものだと思うんですよね。みんな手を繋いで生きていければ万事解決ですが、世の中そうではないわけで、だからこそ有用な科学的なrigorを持った政治理論が必要とされると思うんですよね。それはもう政治思想とかではなくて科学なんですよね。そういうものが構築可能なのか?と言われればそれは分かりませんが、社会科学が目指すべきはここですよね。今みたいな不完全な科学的な手法だけ使ったような似非科学ではなく、ちゃんとした科学的なrigorを持った社会科学を形成していくって本当に必要なことだと思うんですよね。


・・・とまた長くなりそうになってしまうのでこの辺でやめますが、狸さんとのやりとりがあったここ数日は凄くなんていうかエキサイティングでした。それはやりとりが馴れ合いとかではなくて、結構緊張感のあるものだったからなんですよね。こういう良いやりとりがウォール伝に刻まれるわけで、なんか凄く僕としても今回のやりとりは嬉しかったです。


あとブログのほうなんですが、正直、引くぐらいのクオリティでした。絵の中にある色々なもの同士の距離感が凄くいいですね。お世辞とかではなく、例えば美術館にしろ何かの雑誌にしろ掲載されていたらそれが誰の書いた絵であれ僕は反応していたと思います。つまり僕が言いたいのは「今回やりとりした狸さんの絵」という実存的なものがごちゃ混ぜになった評価ではなくて、誰が書いたかというのは関係無いこととして、自分が誰かの絵を見るという観点で見た時に普通に凄いなって思える絵だったってことです。僕はなんかあれなんですよね、知り合い同士に生じる馴れ合いって大嫌いなんですよね。知り合いのやっている喫茶店だから内装が良いと褒めるとか、絵にしても音楽にしてもそうなんですが、そういうのってありますよね。それがつまりは僕が言いたい実存がごちゃ混ぜになった評価なんですが、僕はそういうことはやらない主義なので、だから狸さんの絵にもそういう価値観は置いてないってことなんですよね。それで良いと普通に自分が思ったということをお伝えしたかったんです。


ということで今回は長い間本当にありがとうございました。