Bill Fontanaについて。その2。

weatherさんへの返事にも今書いたことなんだけど、最近、ロックだけどロックじゃないものみたいなのに凄く興味を持っててさ、ようはポリシックスとかもそうなんだよね。ハヤシって人は別にロッカーではないし、文科系なんだけど、でもロック的な何かがありつつベッタリじゃないっていうか、なんていうか形体はロックなんだけど、それもただ相対化された一要素として存在してる感じっつーのかな?


で、アートリンゼイのギターは昔から好きだったんだけど、あっちに居た頃に壊れてるギターで適当に色々弾いてたりしたんだけどさ、なんかまた最近弾きたくなってきたんだけど置いてきちゃったからいや、触りたい一心で買っちゃったんだよね。ギター。まぁまだ届いてないんだけど。6回払いとかで。またレコード売らなきゃいけないっぽいけども、でもそういう先のこととか考えないんだよね。衝動に忠実であるということが人生の強度を規定するみたいな。まぁそれがいきすぎると詐欺師にだまされたりするんで、まぁちょっとは気をつけないといけないけど、でもまぁ今回のはいいよね。本とかあんま買えなくなるけど、前ほど何冊も必要じゃなくなってきたし、前に買った分厚い本とかをもっと熟読するような段階になってるからまぁいいかなと。


ギターって意味分からないんだよね。なんであんなただ弦が張ってあるだけのものにあれだけ人が群がるのか?っていうさ、フェティシズムかも分からんし。だからこそ興味があるんだよね。結局なんなの?っていう。で、俺が今回買った動機としてはさ、まぁなんつーかタンテと一緒でさ、いや、DJって意味じゃなくて、それを音楽用途というよりかは音波発生器として捉えるんだよね。で、その一環でまずはアートリンゼイの猿真似をやって猿真似を極めようって感じなんだけどね。まぁ続くかどうか分からないけどさ、でも数学もそうだけど、なんか新しいことを始めるって脳のためにもいいんだよね。それこそ今まで使ってこなかったような感覚とかが研ぎすまされたりするわけでさ、それをやることでの直接的な結果は短期間では出なくても、長期的に見れば絶対何らかのベネフィットがあるんだよね。まぁ少なくとも言えるのは何もやらないよりかは絶対いい。それは海外に行かないよりかは行ったほうがよっぽどいいのと一緒で、まぁ恐らくセックスとか男女交際とかも同じなんだよね。だからまぁあんま閉じちゃいけないよね。人生がつまらなくなるし可能性も狭まるし。何しろまぁ何にしてもやってみないと分からないからね。まぁギターは触ってたからアレだけど、なんとなく適当に弾くのが好きだったからねぇ。だからいつもソファの傍らに置いてたんだけど、まぁとりあえずアートリンゼイの完全コピーっつーテーマを作ってやろうかなってことだよね。今回のコンセプトとしては。


で、仮にちょっと触るのに慣れてきてさ、ちょっと弾けるようになってきたりとかしたら、ギターとか演奏っていう観点から俺が全く興味を示してこなかったロックみたいなものに触れる機会も出てくるかもしれないじゃん?単体では聴かないけどギターとか演奏っつー観点で触れるようになるみたいな。まぁ俺って昔のまりんみたいなもんでさ、人力系のやつってすげーダサいって思う人なんだよね。全部機械みたいなのがクールっつーか俺の場合、ここ数年はずーっとattitudeって意味でオヴァルだけど、んでもそういう風に思ってきてたやつがさ、一気に反対側に振れるっつーのかな?極左が一気に極右みたいになるってことだね。そんなことが俺の中で起こりつつあるなってここ数日感じたわけね。そういう変化に敏感だからこそ、なんつーかすぐにそういう感受性に対応した何かを作り出そうってことで、まずはまぁギターだよね。鉄は熱いうちに打てじゃないけどさ、そこからまた見えてくるperspectiveって面白いんじゃないかな?ってことだよね。ホント、音楽的にあんまりエキサイティングじゃないっつーのが俺的に凄くつまらないわけよ。だから聴くのが無くなったとかって言わないんで、自分から既存のものに対してアプローチを仕掛けていくっていうやり方だってアリなわけじゃん?で、まぁDNAとかは本当に好きでさ、まぁとにかくアートリンゼイのギターの音色が大好きなんだよね。


俺が作るノイズにしてもそうだけど、キリキリしてるっつーかトゲトゲしてる音が好きでさ、You Tubeとかで見れる大友さんのノイズギターインプロとかも大好きなんだけど、ようは俺が好きなのってこの発生器としてのギターなんだよね。だからまぁロックとか関係無いわけだけど、んでもそこで関係無いとかって閉じないで、なんかギターってところから見えてくるものがあったらそれに対してオープンになってもいいじゃん?まぁそんな風に思ったわけねっつーか前置きが長くなったけど昨日の続きね。これまた長いけども。あ、んでギターなんだけど身の回りの機材でさ、前からやりたいと思ってたことがあって、んでまぁそれが仮にできて気に入ったら録音してアップするかもしれないんで、まぁあんま期待しないで待っててね。ただのフィードバックノイズギターなんだけど。


ってことで昨日の続きです。


でも5年前ぐらいからサウンドスケープそのものの異化とかさ、あとはまぁこれも書いたかもしれないけど、コンクレート的な距離感の音とサウンドスケープ的な距離感の音をミックスするって感じなんだよね。つまりはコンクレート的な距離感の音ってソーダの「シュワー」って音とかね、誰かのいびきとかでも料理する音とかでもいいんだけど、まぁようは指向性が一つの音に向かっているんだよね。つまりはまぁ離散的ってことだ。それに比べてサウンドスケープっつーのは連続的でさ、終わりが無いでしょ?その場所が存在する限りまぁ実質的にそこの音って時代によっては変わるだろうけど所謂、「場の音」は永遠と存在し続けることになるよね。


で、サウンドスケープというのはその場の音っつーのを切り取ってくる作業なんだよね。まぁもちろん何千年も変わらないようなサウンドスケープもあるけど、それって割と環境音っつーかさ、世界遺産的な感じなんだよね。それこそリラクゼーション系のCDとして発売されるような音っつーかなんつーか。でもサウンドスケープって所謂、癒しとかと全く関係無いその場の音なんだよね。その状況をそのマイクが捉えた範囲で記録するっていう。だからまぁサウンドスケープなわけだよね。


で、俺はその指向性があるさ、離散的なソーダの音とかさ、キッチンの音みたいなコンクレートサウンドを切り貼りしつつも連続的なサウンドスケープを連続のものとしてある意味で持続音的に使っていてさ、でもそのサウンドスケープ自体も他のサウンドスケープと意図的に混ぜられてるから音の固有性みたいなのを失うんだよね。でも連続性みたいなのは失われてないっていう。あとは離散的なものとしてさっき書いたジムの音楽作品とかのコンクレートとかサウンドスケープだよね。でもクリス・ワトソンとか水谷聖みたいなガチ過ぎるサウンドスケープは使わないんだよね。あれはもうつまりは一つの楽曲みたいなもんだから使えない。でも部分的に使われてるサウンドスケープってさ、すげー使えるんだよね。使えるって音楽的にっつーよりかは認識的にってことね。ジムのサウンドスケープの使い方って離散的でさ、だからまぁいいんだよね。凄く。使い方がイメージ的っていうのかな?


で、俺が嫌いなのはエコ的な自然音ね。自然って素晴らしい!みたいな自然賛美みたいなやつは大嫌いだね。だから正直、Earth Earとか微妙なんだよな。ああいうコンセプトは好きじゃない。なんつーか地球全体って感じじゃん?世界遺産的な感じだけど、やっぱそれよりかはクリス・ワトソンとか水谷聖みたいな個人がそこだけを切り取ってきましたみたいなのが好きなんだけど、その切り取り感って水谷聖が抜群なんだよね。クリス・ワトソンは音の収集家に近いじゃん?世界を飛び回ってるしさ、物語が世界とか地球的なんだよね。エコ的ではないからいいんだけど水谷聖は凄く個人的だよね。それで言うと一時期狂ったように好きだった恩田晃だよな。


写真家でもある彼のスナップショット的なサウンドスケープって最高だよね。本当に。その個人的な感じがいいわけだ。だからむしろそのテープ感とかがいいんだよね。すんげー豪華な機材とかでとられてなくてさ、それこそ個人のメモリーズみたいな感じの音ってのがいいんだよね。それを俺は世界だろうが個人だろうがコンクレートだろうがDATだろうがテープだろうが全部配置して一つにするみたいなことをやってるわけだけど、んでもやっぱ音楽作品として作り上げてるんだよね。だからただの音の配置にならないでまぁ音楽作品になるわけだよね。まぁフォンタナも恩田晃も十分コンポーザーではあるんだけど。いや、恩田晃は地でコンポーザーなんだけど、それが例え彼のテープの音源のみを使ったものか、テープの音そのままでも十分コンポジションと言えるってことね。


恩田晃で言えばボン・ボヤージュが大傑作だね。コンポジションながらもなるべく人為的なものは音そのものには加えないとか、構成までもがランダムでチャンスオペレーション的っていう。そういう意味では俺はまぁ貪欲過ぎるのかもな。自分がやりたいことではあるんだけど、相対化して言えばリュック・フェラーリ、ビル・フォンタナ、ジョン・ケージ、クリストフ・シャルル、恩田晃、水谷聖みたいな人達がやっているようなことを全て含めたことをやりたいんだよな。


いや、でもなんつーかリュック・フェラーリから始まる今書いた人の名前のリストを見てるとみんなコンポーザーだよね。クリス・ワトソンとかはバーニー・クラウスみたいなタイプのフィールドレコーディングのプロだと思うんで、コンポーザーっつーかコンポジションって感じにはならないんだよね。いや、プロって言い方は変か。いや、つまりはフィールドレコーディングそのものが目的になってるっていう作品ってことね。いや、水谷聖はクリス・ワトソン系だな。コンポーザーっつってもGround Faultから出てるBird Songsの一曲目とか聞くと音楽的なセンスゼロっぽいからねっつってもBird Songsのあの録音の荒さとか凄く好きなんだけどね。Yokosawa-iriがやっぱり最高で、丹沢のやつは本当にプロって感じだよね。ちなみに恩田晃に関しては一時期好き過ぎてミーハーになっていた時期があってCDにサインもらったりしてたな。


今、そのサイン入りのCDが出てきた。なんつーかボヘミアンな波動ってあるんだろうね。同じような波動に惹かれてたってのもあるだろうな。まさかあの後にニューヨークに行くことになるなんて。いや、結局帰ってきたけどね。サイン入りCDっつって持ってる恩田晃のCD全部にサイン入ってた。凄いミーハーっぷりだな。個人的な思い入れとかが無くなった今でも客観的にボンボヤージュとAncient & Modernは掛け値無しにいいと思うわけで。フィールドを素材的に使っている作家は腐るほどいるけどフィールドそのものの本質に迫ってるような作家って少ないわけで、だからやっぱ恩田晃をはじめとしたフィールドかもしくは創作活動の中にフィールドも入ってる人達って貴重だと思うんだよね。だからこそやっぱまぁ無いものを作りたいっつーかあるものは作る必要が無いって思う俺としては自分で作りたくなるんだろうなぁー。作りたい!と思ってるのが無いからね。ミックス然りだけど。結局、細かい理由はどうあれ動機付けのコアってそこなんだろうな。自分が聞きたいものを作りたいっつーか「こんなのあったらいいのにな!」ってのを作りたいっていう。


あ、んで話は飛ぶけどリュックフェラーリってそれこそフィールドを素材にしていたり、そのものをやっていたりする数少ない現代音楽家であるが故に過大評価され過ぎなんだよね。実際は全然たいしたことないんだよね。いつも書くようにプレスクリヤンの最初とミュージックプロムナーデが大傑作で他はもう本当に対したことないのばっかりだからね。強いて言えばCycle Des Souvenirsがマシかな。フェラーリらしいセンスゼロの変な音入るけどね。スーデラに来た時ライブ行ったっけなぁー。やたら大友さんのタンテ演奏ばかりに目が行ってしまったよなぁー。


フェラーリ師匠横で笑顔で座ってるだけだったもんな。よくでもまぁライブなんて行ってたよなぁ。まぁでもフェラーリぐらいにならないと重い腰は上がらないよね。あの頃でも滅多に行かなかったからね。フェラーリ師匠について書いたやつを貼っとくね。この貼ったやつってのの元ってのが耳ラボ時代に書いたものだから相当前なんだけど、まぁ俺の評価軸って変わってないからいいよね。この一貫性って自分で自分を好きになる瞬間だよね。軸がブレてない感じっつーか。当時からボロくそ書いてるなぁーっていう。今もその評価は変わらないからね。フェラーリ師匠に対して。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20080204


フェラーリに対する妙な評価の高さの感じって何なんだろうな?なんつーかフォンタナのほうが現代音楽的っていうか現代アート的っていうかさ、サウンドアートの走りじゃん?かといってケージ思想にかぶれているわけではなくて凄くインディペンデントな発想でやってるわけでさ、まぁでも音楽作品としては看做され辛いからなのかな。インスタレーションだからまぁフェラーリとかと同じに語れるわけないか。でも音に対する思想って意味だと俺は一番好きなんだよな。フォンタナが。あ、んで良い論文があるんで貼っておくわ。フォンタナ作品の説明が秀逸過ぎるのね。まぁ全体的に凄くいいんだけど。でもあんまりフォンタナって言及されない気がするんで、こういうのって貴重かと思うんですけどね。


https://sites.google.com/site/audibleculture/home/articles-2/2010-9-seika-the-logic-to-relativize-john-cage-in-the-1950


これを読めば分かるようにいかにフォンタナが優れた作家かってのが分かるよね。だから俺的には彼はキングなんだよね。ケージとかフェラーリとか全然敵わないわけで。でもそんなに評価されてないし有名じゃない気がするんだよね。でもサウンドスケープってのを考える時にフォンタナは絶対忘れちゃいけなくてさ、んで俺は個人的にマリーシェーファー的なサウンドスケープ論って大嫌いなんだよね。なぜマリーシェーファーが評価されててフォンタナがマイナーなんだろう?っていつも疑問なんだよね。普通逆だろうっていう。


いや、シェーファーの評価が高いかは分からないけど、まぁ世界の調律とかいって本当にナメてますよねっていう。一時期好きだったっつーかサウンドスケープ論みたいなのがシェーファーぐらいしか無いっつーかさ、ネットとか今ほど凄くなかった時代だったからシェーファーぐらいしか読み物が無かったのよね。だから凄く貴重だなって思ってたんだけど、まぁそれだけだったね。シェーファーサウンドスケープ論ってなんつーか社会学的でさ、全然サウンドアートじゃないよね。サウンドスケープでサウンドアートならフォンタナだろっていう。サウンドデザインとかにしてもさ、人為的なものの悪い例って気がするんだよね。自然という現象に介在して人間の良いように音をデザインするみたいな、すんげー俺が嫌いなタイプの人為性なんだよね。まぁ個人的な好みの問題なんだけど、こういうのは凄い嫌だね。


あ、んでフォンタナがラジオに出たやつがストリームで聞けるんで貼っておくね。


http://www.archive.org/details/OTG_1990_10_22


あとビル・フォンタナのページ。


http://www.resoundings.org/


んでRiver Soundingっつー最近の作品のステレオミックスのサンプルがここで聞けるんで聞いてみてってフォンタナのページ内なんだけどね。wergoのやつも基本的にこういう感じだからさっき貼った論文のフォンタナの音のイメージが分かりやすくなると思うんで聞いてみてくださいね。


http://resoundings.org/Pages/River_Sounding.html


ってことで今日はこの辺でいいか。思った以上に長いのでね。