「魂と体、脳」について。その2。

昨日の話の補足ね。すげー簡単に書くとマトリックス的な「夢か現実か?」ということは言わば場の問題なんだよね。でも西川アサキの本で語られているような識別不能性は認識の問題なんだよね。それをごっちゃにしてただの場の話であるマトリックスの場の問題を認識の問題だと思ってるからだからそれこそが混同なんだってことが言いたかったわけね。だから別に西川アサキの本がダメというわけではないのね。別にそこだけ難アリなだけで本としては久々の良書だと思うんだよね。とにかくクオリティが高い。だから是非読んでほしいね。簡単に読める類のものではないんだけど。


認識における識別不可能性っつーのはそこにパースペクティブがある限り発生してしまう不可避的な問題だと言えるよね。なので凄まじくリアルな夢の中で主観か客観か分からなくなるっていう、その夢を見ている自分というのがいるのにも関わらずそれが超越的な目線を持っていないが故に何も分からないっていうさ、まぁそれは現実に起こる識別不能性とは異質なものだけど、でも根本は同じなんだよね。で、ハッ!と目覚めて「夢だったのか」と思って現実に戻っても識別不能性の問題は常に残ったままなわけだ。パースペクティブに不可避的に付随してしまう問題なので、場は関係無いと言う話ね。そこがマトリックスの世界であれ30年後ぐらいの夢か現実か判断が不能になるぐらいのバーチャルリアリティの世界であれなんであれ、それは永遠と残り続けるわけだ。いや、まぁなんかのパラダイムシフトがあって解決できるかもしれないけどね。


西川アサキが語っている問題は全てにおいて全く場に依存してないと思うのね。しつこいようだけどパースペクティブ固有の問題なので、パースペクティブが発生している場が夢だろうかバーチャルリアリティだろうが現実だろうが関係無いんだよね。あと俺自身、この場の問題は本当にどうでもいい話だと思ってるのね。今自分が見ている世界が実は夢かもしれない・・・とか、植物人間が見ている脳内ワールドかもしれない・・・とかさ、まぁこれってそれこそ五輪とか各地での戦争とかさ、夢だったら頭で作り出さなきゃいけないものなのにそれ以外のことがあまりにも起こり過ぎていてまずありえないじゃん?


まぁだからそれは意味無いと思うっつってもそういう意味ではなくて、仮に夢だとしても今の自分にとっては現実だし、仏教はその現実を夢とか妄想なんだって思うし、ようはただの呼び名だよね。だからバーチャルリアリティが進化すればそっちのほうを現実と定義してそっちで暮らすと言う人が出てきてもおかしくないし、それを現実側が「そんなのバーチャルリアリティじゃないか!」っていう筋合いはないわけだ。別にそれはその人の定義によるわけで。何を現実と置くか?ってことだよね。


で、俺の場合、自己防衛もあってか、今は数学の世界が自分の現実だと思ってるんだよね。あとはまぁウォール伝か。まぁ脳内ってことだね。まぁあと哲学を自分でやっている時に限ってはその時も現実だね。ただ他の生活の部分は全くどうでもいい話なんだよね。だから別にそれがどうなってもいいけど、でもそれがどうにかなっちゃえば数学が出来なくなるしウォール伝も書けなくなるし本も読めなくなるから、ようは俺の現実のインフラが壊れるからどうでもいいってことにはならないんだよね。ただ場に関してはどうでもいいってことね。もっと現実的になれよ!って言われたり抽象的な世界に逃げるな!って言われたところでそんなのどうでもいいんだよね。言われる筋合いが無さ過ぎるわけで。


でもそれは俺が決めている現実だし、それは認識レベルでの話だけど超越レベルでのマトリックス的な話なんてのは語れる余地がないじゃん?それがありえたとしてもどうにもならない話だし、まさしく場なんだよね。認識レベルでは場の話は出来ないわけだ。だからそれを認識の話を比べたり混同するのはお門違いってことなんだよねってことが昨日言いたかったことです。まぁあとはあれか、まぁそれすらも人の定義によるんだよね。この場の話も重要な認識レベルの話であるっつってもそもそも客観性なんて持てないわけだからさ、それは認識レベルの話ではないよねって思うよね。所謂、超越レベルの話ね。認識レベルでは考え方次第ってことになる。でも根本的には西川アサキが詳しく書いているような識別不能性というのは常に存在しているってことなんだよね。


んー色々と例を出す事で混乱するかもしれないけど、あえて書くわ。マトリックス的な場の問題は言わば神学論争みたいなもんでさ、神がいるのかいないのか?って話なんだよね。ざっくり言ってしまえば。この世は神が介在した事によって作られた世界なのか?それとも宇宙人の支配化にある何かのパラレルワールドなのか?とか、これはパースペクティブの問題じゃないじゃん?超越性の話なんであって、それは映画とか物語でしか語れないし語り様がないよね。


そういう超越目線で語られたものといっても、例えばマトリックスならネオにとってのパースペクティブ問題ってのは常にあるし、画面というのはその世界を映し出しているということだけで、それはこの世界以外ありえないということを意味しているわけではないんだよね。言わばそういう排除的で絶対的な目線ではないということね。


あともっと重要なのは西川アサキが著書で書いているようなことは場に依存しないじゃん?って前にも書いたっけ?あ、書いたね。それが我々が言うところの「現実」ではないとワークしない枠組みじゃないじゃん?バーチャルの世界でも夢の世界でもパースペクティブがあれば発生する問題なわけだ。理論なり理性で超越的な外部について言及ができたとしても、それはあくまでそのパースペクティブの延長上にある外部でしかないわけだ。そこに限界がある。結局の所、神学論争には決着がつかないということだし、神学論争は意味が無いというか、俺は興味無いし、それは認識の問題とは全然異なるものなので関連づけて語る必然性が無いってことなんだよね。なのにも関わらず西川アサキはマトリックスマトリックス的なものと「彼女について私が知っている二、三の事柄」を同等に語ってしまってるんだよね。で、マトリックス的な映画を混同だと言っている。


これは揚げ足取りではなくて凄く重要な点なんだよね。そこでミスってるから相当マズいと思うってことね。繰り返しになるけど場だとか超越的な目線というのは全くこれとは関係無い話なわけだ。超越的な目線があったとしてもその中でも識別不能性はあるわけね。んーちょっとごちゃごちゃになるかもしれないけど書いてみるか。ようはマトリックス的な実は夢でした・・・ってラインがあってそれは最初に語られるんだけど、でもマトリックスの物語内では「彼女について私が知っている二、三の事柄」や「去年、マリエンバードで」や「羅生門」みたいな識別不能性が発生しうるってことね。それは例えば「去年、マリエンバードで」の最初のほうで主人公の男が夢から目覚めるみたいなシーンがあるみたいな感じで思ってほしいのね。で、実はこれは夢だった・・・と。でも何が夢だったのか分からない。でもとりあえず夢でしたと。まぁあと別に明確に夢であったシーンが描かれてもいい。で、超越的な角度から絶対的な現実として映画の本編が始まるんだけど凄まじい識別不能性が発生して何がなんだか分からない。ということなわけよ。全く両者は関係無いわけ。別にマリエンバードの本編が実は全部夢でした・・・っていうのでも別に本編には全く支障を来さないわけだ。


これで多分かなり分かりやすくなったと思うんだけどね。超越目線と識別不能性の関係無さが。超越目線というのはそんなに単純なものじゃないんだよね。それこそ神学だからマトリックス的な世界で現実に気付いた人間がいる・・・って中でもそれは神についての何の影響も及ぼさないじゃん?何個もパラレルワールドがあって色んな世界のバージョンがあって、各バージョンに神がいたり超越者がいるかもしれないけど、またそれを見渡している超越者がいるかもしれないけど、とにかくそれには言及ができないんだよね。多分、物理学の発展とかを待たなきゃどうにもならない話で、言わば科学の話なんだよな。宇宙の話なのね。それと識別不能性は関係無いでしょ?神がいようがいまいが識別不能性はパースペクティブに自ずと付随するっていうことになるわけじゃん?そういうことなんです。俺が言いたかったのは。


でも別にこれがあったところで西川アサキの議論に問題が発生するのか?と言うと当然ながら全く発生しないわけだ。だってこの本はその識別不能性やらそれにまつわる色んな話や分析が書いてあって神学について書いてあるわけじゃないからね。ただ著者の私見の部分で俺的に見れば「そりゃ違うな」ってツッコミがあるだけで、別に本の内容に影響するものでもなんでもないわけだ。まぁ凄く重要な点ではあるんだけど、本に書いてあるような話に関する議論には全くならない。だからまぁ色々と強く「ミスってる」って書いたけど、本の内容や議論に亀裂が出来るようなものじゃないので別にミスでもなんでもないかもしれないね。ただまぁ俺は気になったってだけなのね。繰り返し書くように本自体はすげークオリティ高いし面白いからね。必読書ですよ。本当に。


まぁそんな感じなわけですよ。


あとね、すげー良い本があったんで貼っとくわ。両方ともめちゃめちゃ直感的な本っつーかむしろ俺みたいに直感とか感覚でしか数学を理解出来ない人にとっては最適の本だと思う。




特にこのVisual Complex Analysisはヤヴァ過ぎる。「うわー!!!!!!!!これこれ!!!!!こういうのぉーーーー!!!!!」って心の中で叫んでいたぐらいなんだよね。もちろんブルバキみたいな本っつーか数式のみからビジュアライズする力ってのも養う必要があるけど、でもこうやって徹底的にビジュアルから解説してる本ってのもあっていいよね。アマゾンのレビューでは「誰もが必要としているのは分かっているけど誰もが書かなかった本」みたいなことが言われてたんだけどようは著者の労力だよね。俺はもうだいぶやったから簡単に通読できると思うけど、まだモヤモヤ感が残っているものに関してのモヤモヤ感を完全にこれで払拭できるような気がするんだよね。


あとあれだ、相変わらず三角関数とかフーリエ変換とかが苦手なんで徹底的にこれで強くしようかなって思ってるんだけどね。ヤヴァイよ。この本。マジで。ページちょっと開いただけでもうアドレナリン出まくりで読んでアハ体験が起こってドーパミンも出まくり!みたいな脳内麻薬大放出みたいなゲートウェイドラッグですね。ところで性交に関して言えば性交体験がアへ体験を生み出してまた性交したくなるってことですよね。基本的にドピュドピュするものは快楽的なものが多いよね。ピュッピュとかってエロ同人誌でよく使われるけど「脳汁出てるぅーーー!!ピュッピュ出てるぅぅ!!!」ってアへ体験をするのは言わばプラトニックセックスですよね。知的刺激と分かった時のアハ体験中毒は実質的にアへ体験と変わらないと思うね。どちらも快楽だから。放っておけば永遠をマスかいてるみたいなさ、で、マスかきが終わったらマスやってるみたいな。そのループですね。名付けてマスループ。精液はティッシュと一緒にトイレに流されるけど、マスで蒔いた種は発芽する可能性があるので建設的で生産的なマスターベーションですよね。数学に受精させるみたいなね、そんな感じだね。