「魂と体、脳」について。

そういや書いてなかったな。西川アサキの「魂と体、脳」なんだけどさ、もうだいぶ前に読み終えたんだけど書きたかったことがあってさ、んで書いてなかったんだけど、著者がマトリックス的な映画を「混同」の映画としてるんだけどさ、ようは「夢と思ってたら現実だった」とか「脳がみている妄想だった」とかっていうのが識別不能性をごちゃごちゃにして、一つの超越的な視点から見る世界が絶対でそれ以外はありえないとするのが混同の映画だって言うんだよね。


で、マトリックスの場合、マトリックスの世界で現実とされるあのエネルギーを吸われてる世界が言わば完全に正しい現実という風になっているから、識別不能性をそれでクリアしているような混同だってことなんだよねっていうか識別不能性の説明が面倒で嫌なんだけどさ、ようはどこまでが想像でどこまでが現実なのかが全く判断できないものってことで、例えばその映画の例で言うと「去年、マリエンバードで」とか「彼女について私が知っている2、3の事柄」とかなんだけどね、ようはどこが主観でどこが客観なのか、ストーリーに対する主人公のセリフなのか、それともストーリー内の主人公が映画の中で喋っているただの独り言なのかっていうのも全く区別がつかないっていうね、現実か想像なのかを区別する手だてがないのでそれ自体を問うことがナンセンスになってしまうような、ようは超越的な目線からの絶対的な言葉が無いから全く分からないっていうね、その辺をマトリックスとかインセプションとかの映画は混同系の映画だって言うんだけどこれは絶対違うと思うね。


っつーのはそもそもマリエンバードみたいな映画の超越性の無さというか、主観/客観の決定不可能性は、そもそもマトリックス的な夢か現実か?というレベルではないってことなんだよね。それこそまさしく混同なわけだ。それをマトリックス的な夢か現実か?ということと混ぜてはダメなんだよね。言わばマトリックス的なものはバーチャルリアリティじゃん?あまりにも現実的過ぎて現実にしか思えないっていう夢を見ている自分がいるっていうことなんだけどさ、それは例えばすんげーバーチャルリアリティが発達して、そういう混乱が自分たちの日常生活でもありうるようになった場合はまぁありえるわけだよね。でもこっちが現実だって言える自分がいる。バーチャルリアリティのほうが夢のような最高の世界でも今の世界が本当の世界なんだって言えるよね。これがマトリックス的な夢か現実か?っていうレベルの話なんだよね。


で、マリエンバードの世界はこういうレベルではなくて、例えば俺がバーチャルリアリティにハマり過ぎて戻ってこれなくなって家族の助けで戻ることが出来て、こっちの世界を現実だって感じてる俺ってのがいたとするよね?でもその俺にマリエンバード的な主観/客観の決定不可能性は全然ついてくるっつーかマトリックスだのインセプションの世界だのでもこの決定不可能性は残ってるわけだっていうかむしろインセプションのあの思わせぶりな最後のシーンはまさしくその次元の違いを意味しているよね。あっちの世界か?こっちの世界か?っていう世界とは別の実際はどうなんだろう?っていう分からなさとか、結局はどの世界にいようが超越的視点は得られないというところからくる決定不可能性はそれが人間である限りついてくるんだよね。だからそれは変な話、バーチャルリアリティでもその問題はあるんだよね。完全にマトリックスのバーチャルの世界を現実だと思って生活している人の中にも主観/客観の決定不可能性というのはついてくる。


言わばマトリックス的なものは凄く卑近なむしろ物理的な差なんであって認識の問題ではないんだよね。それが一応は現実とかバーチャルリアリティと呼ばれている世界との識別になっているけど、でもそれはただの呼び名で、これが現実だと言われても決定不可能性の解決には何もならないわけだ。むしろこの決定不可能性の前にはマトリックス的な夢か現実か?なんてことの差なんてどうでもいいことなんだよね。むしろ全く関係無いと言っても過言ではない。著者が混同してるっていうのはマトリックス的なものはその二分法で問題が解決してるから混同だって言ってるのか分からないけどさ、とにかくまぁ浅いってことが言いたいんだろうけどこれは大間違いだろう。水と粉を比べてるぐらい全く異質のものを比べてるわけで、混同してるのは著者のほうだよね。あそこまで色々書いてるのに読んでるときは激しく疑問だったね。なんでそうなるわけ?っていう。そりゃー違うでしょーってすぐ思っちゃったもん。そんぐらい違和感があった。


本の内容は複雑過ぎて要約できるようなもんじゃないので買って読んでみてほしいんだけどね。アフィっとくので。別にアフィを押して買う必要は無くてその情報を元に本を検索してくださいってことね。


今日はそんだけです。