ヒミズ観たんだけど・・・。

映画のヒミズを見たんだけどさ、完全にネタバレになるから見てない人は読まないでね。


ってことでまぁヒミズなんだけども、「あぁー・・・やっちゃった・・・」という感じだね。震災を絡めたというのは知ってたし、内容も変えたってのも知ってたんで嫌な予感はしてたんだけどやっぱりそうだったか・・・というそういう感じになっちゃってるね。俺の解釈ではヒミズはリアリズムの漫画だし、ああいう「がんばれ!」的な話とは無縁な話なわけで、まぁようは実存映画じゃん?そこを震災とつなげちゃったんて変なことになっちゃったんだよね。時期的に分からなくもないけど本当に必要なかったと思う。まぁ強いて言えば茶沢目線というわけか。原作が主人公目線って感じか。


ただこうしちゃうと園子温が撮る必然性がなくなっちゃうんだよなぁー。救いのなさが園子温なわけで、実際、希望の島だっけ?震災をテーマにした映画が新しいのであるんだけどそっちでやればよかったと思うんだよね。ヒミズは独立させるべきだったと思うし、なにしろそういう震災的な実存の苦悩と人間が持っている本来の苦悩を一緒にしちゃうのってやっぱダメだと思うんだよね。いや、最近よく言う混同ってことなんだけど被災の辛さと生きていること自体の辛さって違うからね。そこを一緒にしちゃうとダメだし、俺的に見るとむしろ被災者に失礼じゃないか?とすら思ったんだよね。


それこととってつけたような応援のメッセージになっちゃっててさ、あと俺が思うに被災した人にだって自殺する権利はあるし、絶望したまま這い上がれないということの辛さをもうそのままとして受け取るしか無いっていう助けようの無さってあると思うんだよね。それこそデフォでがんばれ!ってのは本当に辛い人にとっては最悪のメッセージになるので、これはある意味で鬱病の人への応援のメッセージみたいな場違いな感じを受けたんだよね。鬱病の場合、それはやっちゃダメでさ、で、被災者にとってそれが一緒かは分からないけど、それを言っちゃいけないような状態になっている人もいるわけだ。



むしろそういうもう本当にどうにもならない絶望とかを描くのが文学とか映画だと思うわけでさ、別にあえて応援をしなくてもいいと思うし、応援映画はあってもいいけどヒミズでやっちゃダメでしょっていう。凄く残念でしたね。あと全体的に優しさがあふれすぎていて絶望感があまりにも足りなさ過ぎるよね。あの原作の明日にでも自分も死のうと思うぐらいの実存の重さっていうのかな。そういうのが全く描けてなくて本当に残念だったね。まぁ原作が良過ぎると大抵のそれを元にした映画って質が下がるっていうけどヒミズはそういう例でしたね。まぁ平均的な映画としては全然良いほうなんだけど、園子温だから辛口なことを言いたくなっちゃうよね。


あとはやっぱり原作が大好きな人たちにとっては相当辛い映画だと思うよね。全くそれを知らずに映画を見て、んで原作見れば「いや、別に言われるほど酷くないと思うんだけど・・・」ってなると思うけど原作を何度も読んでるようなディープなファンとしてはやっぱ絶対ダメだよね。多分原作好きの人はみんな納得してないと思うね。それこそ自分自身が持っている生きる辛さを「がんばれ!」とだけ言われる嫌な感じっつーかおせっかいな感じっつーのかな?俺ってやっぱ基本は死ぬスタンスだからね。


自己啓発系をハードコアに実践してありえないゴールを設定して自己実現的予言を成熟させるっていうさ、それが力への意思ってことで生きてるわけだけど、それがなくなったらもう生きる意味ないし、茶沢さんが言うような子供を育てる喜びとか家庭的なものに幸福を感じられるわけがないし、そんなものでなんとかなるほど自分の闇は浅くないわけだ。だからこそ薄っぺらい応援とか生きることのすばらしさとかを言われると本当に腹が立つんだよね。まぁ実際楽しい人はいいけどね。全く他人の人生観はどうでもいいので。


そのぐらい闇が深いのでだからそれを打ち消すような光が必要なわけだ。でもそれはそれができる環境にいるからやれることなわけでヒミズの主人公みたいな環境だったら絶対それは少なくとも俺は無理だよね。今の俺はそういう意味でベクトルはもろに生のほうだけど、でもそれは死を前提とした生だからね。それはニューヨークの頃と変わらないし、帰国したらホームレスになるしかないってのも未だにその状況は変わらないわけだ。


まぁ俺が敷いたレールから外れちゃったらもう無理だろって意味での詰むって意味だったんだけど、でもまぁ今はまだレールから外れないでそのレールのままやっていけてるからまだそこまではいかないんだよね。だから帰国=死ではなかった。でもどのみち俺がダメならそれは死だから結局は基本構造は変わらないんだよね。そういう意味で昔と何も変わってない。そんな中で生きる喜びを感じられる数学と哲学はやっぱり俺の人生の本質だよね。命とつながってるようなもんだよね。昔はそれが音楽だったんだけど。


今後はそれもまた変わるかもしれないけどさ、まぁ変わるにせよ相当時間がかかるし変えようとは思わないけどね、でもそれに変わるような、あとは数学と哲学プラス何かまた他のものが見つかるかもしれないけど、とにかくそれらがなかったら俺は無理だし、そこで自分を納得させるようなことができなければそれはダメなんだよね。だからアマチュア的な立場に甘んじて一生やっていく気はないわけで。


佐藤幹生が言ってたことで「どのくらい数学に浸っているかが勝負の分かれ目だ。数学は自分の命を削ってやるようなものなのだ」ってのがあるんだけどさ、ようはこれってやろうと思ってやれるわけじゃないじゃん?そのぐらい浸れないと無理だし、命を削ってやるぐらいじゃないと何もやれないわけだ。それは哲学も同じだけどね。だからそれのみのために生きるっていう道はある意味で俺にピッタリでそれ自体が生きる目的になるのでやれているうちは死ぬ理由が無いので死ぬ必要がないってことになるんだよね。


でもいつまで続くかが分からないっていうかさ、いや、音楽だって冷めたわけじゃん?まぁみんな冷めてるからこれは一般的なこととしてもさ、一生というほど続くのか?っていうそんな心配をしてもしょうがないんだけど、少なくとも哲学に関して言えば哲学書を読むってことが凄く浸るってことにはならなくなっちゃったからね。冷めたわけじゃないんだけど昔ほどの耽溺はない。そのぐらいまぁ身体的なものになったと言えば聞こえはいいけどね、実際はどうなのか分からないよね。でも数学に関して色々分かっちゃったからもうつまらないなんて段階が訪れるのか?ってことだよね。いや、色々分かったら後はもう研究っつーかさ、こうなんじゃないかな?って思ってることを完成させるってことになると思うんだよね。そうならなきゃダメでそれができないと生きてる意味がなくなっちゃうし。


こればかりはどれだけ数学に向いていてもある意味で関係ないところだからね。自分で何かを研究するレベルになると学部や大学院の頃に敵無しだった天才の人たちとかも何もできなかったりする場合があるし、ギ逆に成績で言えばあんま良くなかった人たちが良い仕事をしたりするし、学習の段階では分からないんだよね。最近読んだImagineっつー本にも書いてあったけどIQと創造性ってのはそこまで強い相関関係があるわけじゃないってのがよく分かるからさ、だから数学がすげーできるから将来よい仕事ができるってことにはならないんだよね。だから仮に今の俺が良い線行っててもそれはなんの保証にもならない。だから常に不安があるんだよね。楽観的になれない。


でもまぁグラムシの「知のペシミズム、意思のオプティミズム」になるわけだよね。現状を把握すれば悲観的にならざるを得ない。でもそこを意思で能動的に楽観的に切り抜けるっていうかさ、それこそ大いなる勘違いでもしてとにかくゴールに近づくということをするしかない。そうしないと闇に飲まれて精神がダメになるだけだからね。慢性的な鬱とか不安は脳のmalfunction以外にもやっぱり知の必然的なペシミズムがあると思うんだよね。分析できればそりゃペシミスティックにならざるを得ない。で、そのペシミズムに打ち勝つにはオプティミスティックな意思の力しかない。それが俺の言う力への意思なんだよね。


で、創造性が云々・・・というのはまさしくディオニュソス的陶酔ってことになるわけだ。数学や哲学といった知的刺激を受けるものに陶酔し激情しながら生きていくという、生きるということ自体がディオニュソスの踊りみたいになるってことね。だからディオニュソスが踊れなくなればどうにもならなくなっちゃう。だからそれをキープするしか無いってことになるのね。そうじゃないととてもじゃないけど生きていけない。


んでもその生き方たるや必死過ぎて凄まじくダサいっていうね、ダサいぐらいまでいかないとそれは追求しているということにはならないって前に書いたよね。それこそ佐藤幹生みたいなモロに天才型の数学者の言葉を真に受けて「俺も実践するんだ!」って勘違いしてしまうバカっぷり。これぞまさしく大いなる勘違いなんだよね。ちなみにゴールはデカ過ぎて恥ずかしくて言えないぐらい(笑)書いたことも無いし言ったことも無いよね。


で、いつも書くようにあまりに目標がデカ過ぎると今の自分と将来との自分にギャップがありすぎてそれが凄いストレスになるんだよね。あと自信喪失になる。でもそこがまさしく意思のオプティミズムが発動する場所なんだよね。そこをディオニュソス的に踊りながら通り抜けるっていうイメージか。できるできないではなくてやるしかないということね。やらないと何もやることがないしやりたいこともなくなるし、それが結果、生きている理由がなくなるわけだ。ヒミズの主人公はまさしくそんな感じでしょう。だからまぁ夢を持て!というのも分かるけど、あの主人公が夢を持ったらストーリー的にダメでしょっていうところだよね。


夢を持て!なんつって夢は持てるわけじゃないし、はっきり言って俺の数学もアクシデントみたいなもんだからね。それこそブラックスワン的な、今までの人生からの経験で見るとまずありえないということだよね。まず回避するものだし大嫌いなものだったわけだ。それがああいうきっかけでのめり込むようになったっていう。まぁちょうどあの頃に政治学を専攻にすることに関して躊躇があったから余計に救いにはなったんだけど、あの芽がここまでデカくなって人生の中心にまで発展したっていう。好きだと思い込んでいるのではなくてマジで好きになっちゃったんだよね。


まさしく自己充足的予言でしょうっつってもどこまでが意思的な人工的なもので、どこまでが生得的なのかは分からないね。まぁビジュアライズできるという能力は生得的だと思うけどね。親父がそうだったのでそこは似たのかもしれない。でも逆にビジュアライズできないものに関してはからっきしダメっていう(笑)まぁでも松本幸夫の「多様体の基礎」とかにも書いてあるようにイメージしづらい微分なんかもやっていくうちになんとなく分かっていくっていうさ、ベクトルとかテンソルとか積分関係は直感的でビジュアル的に分かりやすいけど微分というのはなかなか直感が効かない。でも考えていくうちになんとなく分かってくるもんなんだよね。イプシロンデルタ的なものとかもそうだよね。


まぁそんなこんなで結局色々と分かるようになったから色々と最高に楽しくなったわけだ。これはやっぱり継続の賜物でしょう。絶対楽しいに違いない!って思ってある程度我慢してやってたところもあったからそれが実ったんだろうね。まぁそういう意味では努力なのか。ある程度の本当に基礎の部分は努力も必要ってことだな。分からないことだらけだし直感的に分かるものばかりではないし。


でもこつがつかめちゃうと芋づる式に他のこともどんどん分かるようになっちゃうんだよね。で、数学ってのが結局は全部一緒の数学なんだってことが本当に分かるようになってくる。そうなってきたときの視野の広さといったらもうたまらないよね。金持ちだけが独占できるマンハッタンとか新宿の夜景みたいなもんだね。それを高級マンションのかなり上のほうから見下ろすっていう。知を極めたものにしか見えない世界ってあるじゃん?それを見たいんだよね。知識自体が好きだし、それで見えるようになる世界が楽しいし、なにより全部がそういった快楽原則で動いてると言えるよね。なんでやるか?って楽しいからだよね。The Power of Habitの枠組みで言えばrewardの部分がドーパミンなんだよね。それが楽しいからやめられないっていう感じね。


だから哲学とかは一通り読んでいろんなパラダイムが分かるともうドーパミンは出ないよね。ある程度までいっちゃうとあとはもう文献学みたいになっちゃう。誰々がこう行ったってのをより詳しく研究するってことになるわけね。どんどん哲学から離れるよね。で、自分で哲学していて「そうか!」って思ったときにドーパミンが出るから哲学においてはさっぱり思索ってのが一番の快楽の道具と言えるよね。読書ではもう無理になるので。まぁでも数学も同じなんだろうな。今はとりあえずそういうレベルに行くために色々やってる感じだけどプロセスの中でドーパミン報酬系のシステムが出来上がってるから目標に進む!というよりかは快楽に任せていると勝手に進んじゃうって感じだよね。


でもこれって結局、俺みたいに何も成していない人間でも快楽物質が出るような毎日やれるものってのと夢ってのがあるってのはもうすでに強いんだよね。でも問題はそういうのが無い人はどうすればいいのか?ってことなわけで、俺がここで語り続けてきたことってのは結局はアドレナリン/ドーパミンジャンキーの言い分でしかないんだよね。いや、今店の手伝いしててさ、妹と接する機会が多いんだけど中身が俺とは正反対なんだよね。アドレナリンとかドーパミンとかってのは無縁とまでは言わないけどジャンキーじゃないというか、相対的に俺が相当ジャンキーであるということが分かるわけ。何を今更?かもしれないけどね、でもそりゃ分からんのよ。ニューヨークっつったってずーっと一人でいたわけだしさ、こんなに毎日コミュニケーションをとる機会ってなかったわけで。


もちろん俺は普通じゃないのは分かるけど、でもこれだけ差があるのか!というね、いや、知性とかじゃなくてアドレナリンとかドーパミンを求めようとすることの差ね。で、普通の人は大抵あんな感じなんだろうなと思うわけ。だからある意味で毎日安定した暮らしができるわけだし躁鬱的なことにはならないわけだ。アタラクシア的な。でも俺はそれが無理なんだよな。医者にリチウムを薦められたことがあったけど、それって俺にとってはもうロボトミーに近いものなんだよね。あとリチウムを飲んでいる人の話だと確かに気分は安定しているけど躁の時のハピネスが無いんで感じるのは体感的にたまにある鬱だけになって毎日つまらなくなったっていうさ、これって完全にロボトミーだよね。


かといってもんじゃあそれを拒否して躁鬱を繰り返すのか?っていうと俺は繰り返すねっていうのはそこまで酷くないからなんだよね。多分躁鬱だろうけど鬱の時は酷いけど躁の時はやたらとマッシュアップを作ったりウォール伝書いたり読書しまくったりゲームやりまくったり・・・っていう感じで実害が無いんだよね。酷い人だとキャバクラで豪遊したりショッピングしまくって借金だらけになっちゃったり・・・っていう感じになるんだけど、俺はそういうのは無いんだよね。まぁあとは誇大妄想か。普段俺が装置的に利用している大いなる勘違いを勘違いじゃない!ってマジで思えてくるんだよね。実際、そういう時に色々書いたりしてるから波が凄いと思うんだよね。ウォール伝をグラフ化したら見事に双極性のグラフになりましたみたいな(笑)


でもこういうハピネスのための鬱ならやっぱりそれはしょうがないかなと。リチウムで安定するっつったって俺は元々鬱が酷いから多分鬱は残るんだよね。ただ軽い躁状態がなくなるから躁状態が原因の鬱というのはなくなるかもしれないけどそれは本当にロボトミーなんだって。


まぁ話を戻すとだな、ようはやりたいことや目標が無い俺だよね。実存ってのは。言わば全く生きる目的や生きたいという意思が無いという状態ね。そこからくる虚無感とかさ、ただ生きるだけで辛いとか、まぁやっぱそこだと思うんだよね。夢があるから!っつーんで楽観的にはなれないっていうかまぁそれが生きるための装置みたいになってるけど、でもかといってんじゃあそれでいいのか?っていうと良くないんだよね。その人間が持っている根本的な実存の虚しさってのを考えないとダメなんだよね。いや、本当に助けようがないんだよね。学問にハマりはじめてからは俺にとってはそうじゃないけど、でもやっぱりそういう虚しさを感じるときってあるわけでってまぁしょっちゅう書いてるけどね。


なんかそこなんだよな。そこをがんばれ!とか夢を持て!で解決するってのはなんか違うと思うし、やれない人も大勢いるってことなんだよね。俺の場合はそれでいいんだけどやれない人はどうなるのか?っていう。自分だけが良ければ良いってことじゃないんだよな。俺は一般化された実存の苦しさについて考えてるし考えたいわけで。まぁでも結局俺の場合、そこで今回書いたような意思のオプティミズムになるんだけどね。でもそれしかない!じゃなくてまぁそれは俺の中でオッケーとして、んじゃあ意思のオプティミズムとかニーチェみたいな精神的に凄くマッチョなやり方以外で何か無いものか?ってことなんだよね。


まぁ今日はそんな感じでもういいかな。何か無いものか?って今は分からないからね。考えるしか無い。