日本庭園の抽象的な美について。

調子に乗って楕円曲線とモジュラーフォームの本を読んだらっつーかNeal Koblitzの「Introduction to Elliptic Curves and Modular Forms」って本なんだけど中盤あたりからえげつなくなってきて読むのやめた(笑)っつーか具体的にどことは言えないけど数論ってよく言われるようにいろんなジャンルの理論が応用されるっつーけど確かにそうで解析ぐらいなら余裕でマスターしてないと歯が立たないねっつーかゼータ関数とかのようは解析的数論って感じだよね。もっと代数的にいけるのかと思ったら代数をマスターしてるなんて当たり前でなおかつ解析も当然!といったような突き放しっぷりなわけですよ。数論が数学の頂点である所以が分かった気がする。ただこれが好きかは分からないな。


ちょっと分かり始めてるから興味はあるけどっつーか前にも書いたように代数的に攻めれば当然いけるからっつってもフェルマー予想とかゼータ関数を理解するには解析的な理解も必要ってことで必然的に放置プレーになってた例のVisual Complex Analysisを最初から読み始めてるね。これもようは動機が数論じゃん?目標がしっかりしてるし、恐らく相当な部分が代数的にも表現可能だと思うからだからやる気が出るよね。でもなんかさ、フーリエ級数だのテイラー展開だのってジャンル関係なく必須なんだねぇ。やっぱ。でも解析接続とかになると途端にトポロジカルになるんで一瞬で理解できるんだけど、細かい解析的なディティールになるとちょっと躓くんだよねって言ってることが矛盾してるかもしれへんけど。


なんであんなみんなこぞってゼータだの楕円曲線だのModular Formsだのリーマン面だのってのをやるのか?っていうと理論的な必然性があるのね。現代数学の頂点っつーかそれこそいろんなジャンルの数学が混ざり合ってるある種の究極的な数学っつーか大局的な数学っつーかさ、一番数学でやりたくないのは重箱の隅をつつくようなやつじゃん?ほんとにどうでもええわってなるようなもんじゃん?でもゼータ系になると話がデカくてこれぞ数学の醍醐味!という感じがする。でも膨大な予備知識を必要とするんだよねっつーか恐らく学部の数学全部だろうな。で、大学院ぐらいでやるんだろう。恐らく。


でもなんか前にも書いたように有名だからフェルマー予想やるとかさ、ゼータやるとかじゃなくてやってるうちに自然とそこにたどり着いていたっていう必然性に感動するんだよね。で、こういう感じのやつって俺が大嫌いなただ複雑なcomputation系の数学ではなく、それこそ感覚が必要とされるような数学なんだよね。


昨日さ、NHKの番組で庭師のやつやっててさ、麒麟の川島が庭師の元で修行するって内容だったんだけどさ、庭師の先輩方が言ってた「感覚」ってのに凄い惹かれたんだよね。ここが何センチでここが数センチあるからこういう風に感じられるとかさ、なんつーか科学的な分析とかを元にやってるんじゃなくて、凄く感覚的にやってるんだけど結果的に恐らく分析すればきれいな比とかになってるんだろうなっていうさ、でも川の見せ方とかね、落ち葉をどのくらい拾えばいいのか?とかこんなの分析じゃどうにもならないじゃん?無作為の作為って言葉に本当に感動したわ。


数学ってこういう世界なんだよね。そりゃ分析すれば論理的な必然性とかが明らかになるんだけど、でもそうじゃなくて式を見てそれが何を表してるのか?とか表現してるのか?ってのを感覚的に理解できないと凄まじく限界があるんだよね。それはこうでこうでああです的なリニアな理解だとそれこそ俺が前に批判した紙のペン系のミミズが這うようなやり方で理解していくってことになるからやれる範囲も限られるしとにかく時間がかかる。でも俺がやってるような感覚ベースとか思考ベースってのはさ、上手くやれば凄く経済的なんだよね。


ようはリニアでやってれば膨大な時間と集中力を必要とするのを森を見ながら最終的に木々も理解するっていうさ、まずエレガントな構造を見いだして、そこからディティールに入るっていうさ、まぁ俺の場合、ビジュアル的なものとか感覚的に理解してるから正直、そこまで頭が良くなくてもね、これができると処理能力が凄くなるんだよね。人間って絵とかで理解すると何倍だったか驚くぐらい処理能力が上がるんだそうでさ、俺が数学やれてるのってこの能力のおかげだと思うんだよね。秀才系がやる紙とペン方式じゃ絶対無理ね。そもそもこんなペースで進まないから。


庭師の話に戻るとさ、番組を見てる限り庭師のhow to本とかで勉強してる感じじゃないじゃん?まずは黄金比がどうのでこうので・・・っていうような日本庭園の基礎とかさ、そういうところから入ってなくて現地でもういきなり川島の感性が試されててさ、で、実地で動きながら庭師の仕事を盗みつつ丁寧にやりすぎないように大胆に「遊ぶ」っていうさ、もうこの世界感が大好きなんだよな。俺は。極めて日本的だよね。そう。だから紙とペンってすんげー西洋的なのよ。なんでも論理論理。リニアリニアな感じで。東洋哲学にしてもさ、論理的に説明すればこうなるんだろうけど一気に大局的なことを少ない言葉で表してるじゃん?


それは俺が日本人だからかもしれないけどっつっても学者は大抵そもそも学問的な主流が西洋だから国籍はどうあれ西洋的なロジックロジックリニアリニアな感じになっちゃうじゃん?でもそこは俺は良い意味で学者的じゃなくて感覚的だからそういう日本的な感性っつーのかな?そういうもので感じるというほうが自分に合っているし好みとしてもそっちのほうがいいんだよね。でもこれだけではダメだから一応基礎として西洋的なものは下地として身につけているけど本質的な部分は東洋的な感覚でやるっつーのかな?


岡潔が言ってた数学の世界観と近いと思うんだよね。これって。で、なんでか?って考えるとそれはやっぱり数学が抽象的だからだよね。で、庭園もそうなのよ。シャンデリアがどうで宝石がどうでっていうようなギラギラな世界ではなくて抽象された美じゃん?ただそこにあるだけとかさ、朽ちていく過程に美があるっていう現在形の美とかさ、あとは偶然の美とかね、そういう意味で龍安寺の庭って抽象芸術の最高峰とされてるけどそれはすげー分かるよね。完全なある意味での幾何的な美といっても通俗的な黄金比とかではなく、配置と間の美っていうのかな?


形や幾何的な美しさで魅了するのではなくて場を埋めるのではなくてdisplacementな感じっつーのかな?何かが広がっていて、で、そこに岩が置いてあるってのは何かが広がっているものに対するdisplacementなんだよね。そこはモノなり石なりで埋まっているということになる。で、その局所的な場を埋める石の形とか配置とかっていうものがあくまで他との関係性ありきでそこに存在してるっつーのかな?まぁ作用してるというかなんというか。だから石だけ持ってきてはいオッケーにはならなくて、そこの空間ありきの石だし場所だし形なんだよね。


あまりにもこの美のあり方が圧倒的過ぎてコンセプチュアルアートだの美を極め尽くした西洋芸術だのがどうでもよく思えてくるぐらい崇高な美だよね。まぁこれは俺の主観だけど、でも抽象画とかではない日本庭園的な美というのは本当の意味での抽象だと思うよね。で、それは理論どうのではなくて感覚で感じるものなんだよね。あとあまりにも分析しようとすると凄く無粋になっちゃう。黙って見るしかないっていう感じっつーのかな?で、それは自然にそのままただあるように見せて実は庭師とか庭園を造る人の作為が入ってるわけじゃない?それが無作為の作為だよね。


でもそれは当然作為的に見せちゃダメなわけだ。あくまで作為が介在してないように見せないといけない。で、どこまでが自然でどこまでが人工的なのかが分からなくなるんだよね。あたかも数学が人間の創造物なのか自然の形なのかがやっているうちに分からなくなるようなシュールレアリスティックな感じだよね。ようは超現実なんだわ。それが。でも別にこれはシュールレアリズムではないしブニュエルの映画に見られるようなどれが現実でどれが夢か妄想なのかが分からない・・・といったようなあやふやなものを感じさせるようなものではなくて、超現実的なものが現前しているっていう現象だよね。だからそれは美術で言われるシュールレアリズムとは全然違うんだよね。


でもそこでなんで数学にしても日本庭園にしても派手に装飾されたものではないのに美を感じるのか?ってのが面白いところなんだよね。そこがようは感性的な世界なわけじゃん?感覚的なものってのは大きさで圧倒したりだとか、迫力だとか色彩の美しさとかさ、まぁこれはこれでいいんだけどまぁ西洋的なものってこういうのが多いじゃん?でも感性的なのってのは感性に直に訴えてくるものがあるんだよね。そもそも数学に美なんてないし、庭に石が置いてあるだけで美なんて感じないはずなのになぜか感じてしまうんだよね。それは抽象的な感性のレベルで美を感じてるんだと思うわけよ。能とかも恐らくそうなんだよね。あれも分かるのに時間がかかるらしいけど西洋人がなかなか理解できないもんだろうなぁーとは思うよね。


だいぶ前に少年愛について似たようなことを書いた気がしたけど、あれもようはペドフィリア的な肉体的な美ではなくて抽象的な美ということで言うと俺はいつも言うように最高峰の美の一つだと思うんだよね。この辺は恐らくプラトンも同じようなことを考えてたと思うんだけどね。いや、実際はムラムラしてたのかもしれないけど(笑)ただのロリコンが凄く性愛的なものに対して少年愛ってのはさっき書いたような抽象的な感性のレベルの美だよね。もちろん少年を性の対象として見るっつーレベルもあるけど、それはようはペドフィリアっていう性愛のレベルなのよ。でも少年愛は違うよね。少女愛って言葉が無くてなんで少年愛って言葉があるのか?ってのはその美に固有性があるからでしょう。だから固有の呼び方になるわけだ。


少女の場合、最近の事件にもあるよう極めて即物的なわけだ。実際に所有したいだの監禁したいだの犯したいだのっていうような物理的な肉欲なんだよね。でもそういうものとは区別される意味での少年愛は極めて観念的なんだよね。エロスは感じるけども、でも実際にそれを実行するとなるとまた別の話になるわけだ。ネットでも最近はショタコンを公言する人とかって割と多いじゃん?これは俺が第一人者だと勝手に思ってるんだけど(笑)まぁそんな話はともかく、これは観念的なエロスなので恥ずかしがったり隠すものではないってことなんだよね。だから言うのがそんなに恥ずかしくないっていうさ、美しいものを美しいと言って何が悪いんだ!的なね、で、逆にペドフィリアは永遠に悶々としてるよね。だってこれは肉欲なんだから。だから公言できるようなもんじゃないし隠し続けないとどうにもならないことなわけだ。


なんかさ、最近女って不人気じゃん?(笑)醜悪さが情報化によって伝達されやすくなってて女性の本来の姿がむき出しになったのでそれに幻滅する男性が増えたってことなだけだと思うけどさ、だからこそ今はイデアの時代なんだよね。二次元に本当に恋をしたり、あとは少年愛イデアだからまぁこれも元ネタが三次元の二次元みたいなもんでしょう。それにしてもやっぱり女の醜さと言ったらないよね。本当に。三次元に負けている女が多いってことなんだけどさ、ここで俺の進化論の勝手な仮説を展開するとさ、最近の中学生とか小学生ってすんげーかわいい子多いじゃん?これはもうあれなんだよね、生物的に三次元に負けている女性が多いからさ、遺伝子を残すために女の子が二次元化してるんだよね。


なんつーか前にも書いたように俺の世代とかには滅多にいないような絵に描いたようなまるでアニメの世界から出てきたようなかわいい子がいるじゃん?元々ロリコンとかではない人たちまで惑わされてるっていうさ、この威力といったら凄いよね。女性恐るべし!今結活とかしてる世代がようは三次元負け世代なんだよね。ひたすら売れ残って遺伝子残せない世代ね。


で、明らかにバージョンアップしたかわいい世代はロリコンではない大人まで迷わせるぐらいの威力なんだから遺伝子は残せるわけだ。これは男を引き寄せるための進化だよね。今の売れ残りの女達みたいな性格とか恰好じゃやっていけないから必然的に進化してるんだよね。女っつっても尋常じゃないぐらいかわいい今の中学生とか小学生とかがちょっと成長したぐらいのだったらまぁ中身は分からないけど醜いとは思わないわな。あまりにもかわいいからね。まぁ全然成長しないで現状でもいいんだけど完全にそれだとロリコンになるからね(笑)


今の30代とか40代の女だよね。あとは20代後半ぐらいの。そういうのが幻滅されてる完全に対象とされない終わった女達だよね。新世代は全然違うわな。それが新世代たる理由なわけで。なんかせっかく崇高な美の話とかだったのに最後は最近の少女は可愛いって話になったね。まぁ美つながりでいいんだけど。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。