1万時間の法則に挑戦。

いやー毎日数学ばっかやね。やらなきゃ!というよりかは常に時間がない!と感じるっつーかさ、ようはやる分量が多いんだよねっていうかまぁ普通そうだけどさ、数学の本とかってトピックごとに分かれてるからチャプターごとに必要に応じて読むとかって場合もあったりなんかしてさ、ようは頭からケツまで通読するってデザインされてる本はあんまり無いんだよね。でもそこを俺は基本は通読にしてるからまぁ分量が大変なことになる。でもなんでこんなことができるのか?っていうといつも書くようにあれですよ、もう現世でやることが無いからですよね(笑)


いや、でも学問ってそうなんじゃないかな?多感な10代の頃は映画だの音楽だの芸術だの恋愛だの・・・・って感じになるじゃん?で、酸いも甘いもかみわけた末に学問にたどり着くっていうか、基本文学とか哲学はそうだよね。そもそも世間知らずっつーか、人生経験が無いと哲学とか文学って心から共鳴することは無いと思うのよ。早熟な人は10代でニーチェ読んでたりするけど、ニーチェなんてそれこそそれなりの苦労とかが無いと理解できないと思うんだよね。あとは他者と接するとかさ、そういういろんな経験があっての哲学だよね。


純粋に認識だとか存在だとかってのについて形而上学的に語ってる感じの哲学は年齢関係ないかもしれないけど、ショーペンハウエルとかニーチェとかさ、あとはまぁプラトンとかにしてもなんつーかある程度の大人じゃないと無理だと思うんだよね。大人じゃないと無理って意味分からんけどさ、で、なんで青年がポストモダン哲学とかに傾倒しやすいのか?っていうとやっぱりそれはもうファッションとしかいいようがないよね。まずポストモダン系の哲学者はフランス人が多くて名前を出すだけでなんか響きがかっこいいのは「ヌーヴェルヴァーグ」とか「ゴダール」って響きがかっこいいのと同じ理由でしょう。だからファッション的に傾倒することになる。でも結構な数でいい歳こいても永遠とこういう青年のままの人っているけどね。


一旦傾倒してさ、で、ある程度年月が経つとこういうのって恥ずかしくなるよね。俺にしてもゴダールゴダールだなんて言ってた時期が恥ずかしくてしょうがない。とにかくなんつーか青年はペダンティックなものに傾倒しがちなのよ。で、そのまま大学でて就職すると「そういえばそんな本も読んでたっけなぁー」とかさ、結局なんだったかが分からないみたいな笑い話で済ませる薄っぺらい大人の出来上がりなわけですよ。まぁ社会人としては哲学に傾倒しないほうがいいんだろうけどね。


まぁそれですげー篩にかけられますわな。で、大抵のやつは読まなくなるよね。んでもガチなやつはどんどん深まっていって泥沼化してはっきり言ってそれこそ括弧付きの社会人としては機能しなくなるぐらいの廃人になるわけだ。なんかで読んだんだけどさ、まぁただの例えだろうけどさ、数学でも哲学でもいいんだけど、そういうもんばっか考えてるやつってのは脳のものすごく局所的なところばかりを使ってるんで脳内のバランスが悪くなるからハマればハマるほど変人になっていくってのがあったんだけど結構言えてるよね。


普通の人として生きていくってやっぱりなんつーか日常的なやり取りとかさ、所謂常識的なもんとかさ、なんかとりあえずそういうのいっぱいあるじゃん?でもガチでやる人ってそれがメインになるからね。あとはもう飯食ってるかオナニーしてるか寝てるかぐらいになるじゃん?まぁバランスとれてる人もいるかもしれないけど俺の印象としては良い家庭を築き上げている研究者とか学者ってエッジ超えてない無難な人が多いと思うんだよね。エッジを超えてる人って大抵変人なのは元々変人だった場合もあるんだろうけど、やっぱり研究に没頭して他のことに気を使わなくなるから変人になっていくと思うんだよね。だから普通の会話の受け答えとかも変になったり人に対して無礼になったりしちゃうわけよ。


ようは後天的な要素だよね。いや、これが強いんじゃないかな。だからなんかさ、いつも疑問に思うのがさ、なんで研究者なのに結婚するのかな?っていうさ、まぁ結婚っておっさんになってから結婚の良さが効いてくるって話はあるじゃん?やっぱりパートナーがいると困った時でも大丈夫!的な。でもガチでハマる人はそもそも人生設計なんてできないんじゃないのかな?って思うよね。今の俺がそうだもんね。昔は一応キャリアとかも考えつつ学問をやっていこうって思ってたけど、今は完全にアカデミックな道からは外れたんでキャリアとか考えなくなってるわけよ。


あとまぁ実情でアカポスについてもロクなことにならないってのを知っちゃったから余計に興味が無くなったってのはあるにせよ、人間としてはどうかと思うけどなんつーかまぁ何かに没頭する人としては理想的なんじゃないかな?って思うよね。将来どうするの?って言われると一番痛いんだけど、まぁそんなのどうでもよくて目先の知りたいことややりたいことに夢中だからとりあえずそれをやる!ってことになるわけね。刹那的という意味ではなくて。


だからなんつーかまぁ衣食住に困らない人しかやれなくなるんだよね。あとは大学院生とかにしても親のサポートとかが無いと学問続けられなくなる。それがすげーアンフェアだよね。で、今の俺はっつーと将来に関しては完全にエポケーやね(笑)そもそも色々と安定しないんでキャリア設計みたいな考え方がばかばかしくなってるってのもあるし、むしろその流動性に可能性を感じてたほうがいいじゃん?逆に色々なものが不安定って勝ち組にとっては嫌な要素だけど燻ってる連中にとってはチャンスだからね。それこそ土台とかが壊れて活躍できてなかった人とかが一気にオーバーグラウンドになったりするわけでしょ?あとは既得権とかがどんどん無くなってくるとかさ、でもこれってまぁあれだよね、常になんかやってないとダメだけどね。


だからやっぱニートってダメなんだよな。社会的な意味ではいいけど人生で言うとニートって完全に時間の無駄なわけでさ、ニート的な生活を送りつつ何かを極めてるとかさ、現状では金にならないことをやり続けてるとかってもうニートじゃないわけよ。実際、よく言われるのがネットで匿名的な面白いコンテンツを作ってるのって大抵がニートだって言うけどさ、このクリエイティブなニートってニートじゃないよね。それこそ下手な芸術家とか作家より面白いことやってるわけだからエンターテイナーでしょう。金になってないからプロじゃないってことじゃないじゃん?金になってるけどつまんないのを作ってる人が多いわけでさ、金になろうがなるまいが面白ければいいわけだよね。


なんかさ、金ってのがやっぱり邪魔なファクターなんだよね。何にでも金がかかるからついついマネタイズを考えちゃうけどさ、でもフリーコンテンツっつーかそれはタダって意味じゃなくてフリージャズ的な意味でのフリーさってやっぱり原則タダだからなんでもできるわけじゃん?掟破りでも関係ないわけだ。そういうところから面白いのって出てくるよね。ネットの創作物にしてもプロデビュー考えてそうなやつと完全に名乗り出ないで面白いのを作ってるってだけのやつってすぐ分かるじゃん?俺がwell-madeなものを嫌うのはまぁ前者的な創作が嫌いというのもあるよね。


でもそんなの求められてないと思うわけよ。ただ上手いだけの人なんて腐るほどいるからね。そうじゃなくてやっぱり面白いものだよね。必要なのは。でも面白いのを作ろうと思っても金がかかっちゃうと無理なんだよなぁー。元を取らなきゃいけないってことである程度金が払われるようなものを作るしかなくなって、だからまぁ無難なものばっかになっちゃうっていう。日本のここ5年ぐらいの出版って全部そうだよね。死ぬほどつまらない本が大量生産されてるもんね。まとめサイトとかブログとかのほうがよっぽど面白いっていう(笑)


なんかそういう意味である意味でもうフリーコンテンツが従来のコンテンツに勝っちゃってるんだよね。実際、古くさいシステムの中でやってる音楽とかもう見向きもされなくなってるわけだし、好きで勝手にやってる連中のほうがよっぽどリスナーがついてたりしてさ、だからもうなんつーかプロとアマで分けるのってもう意味なくなってるよね。上手いだけだと意味が無くなってるってまぁ凄まじい進化だよね。かといっても面白いのを作るためにはまずは基本というかそれこそ絵で言えばちゃんとしたデッサンができないとダメか?っていうと全然そんなことないわけじゃん?絵の場合は分からないけど音楽とか動画だとかそういうものに関して言えば「ちゃんとやればできます」的な基礎が無くても全然いいわけだっていうか関係ないじゃん?これってアイデアマンが勝つ構造だよね。これって凄くない?


んーでもまぁねぇー別にプロがつまらないというわけではないんだけど、プロだったら徹底的にプロじゃないと面白いアマチュアに負けるんだよね。だからプロの座が全然安泰じゃないってことか。ずば抜けたプロじゃないと安定しないってことだよね。なんかでもね、俺はこういう感覚を持っているつもりだけどさ、プロ的な目線で作品なりなんなりを評価するのをちょっと止めてみない?ってことなんだよね。細かい雑なところは多めに見て面白いところを評価するっていうさ、それって大事だよね。


結局、価値って出す側だけじゃなくて見る側も能動的に作って行くもんだからさ、やっぱり作り手と受け手の関係性の中だよね。なんか今ね、何気にウォール伝あんま更新してないからなんか書こうかなぁーって思って書き始めたけどそんなに別に書きたいことがあるわけでもないので適当にダラダラと書いてる感じなのね。なんかこういう適当さだよねぇー。文章にしたって文章としてちゃんとしてる必要なんてないわけじゃん?数学書にしてもさ、フォーマルに書かれている必要は全くないわけだ。ちゃんと厳密に証明が成されてれば論文だって別に漫画だっていいんだよね。リーマン予想の証明が絵付きで発表されましたみたいな。


なんかさ、凄く言葉のリニアな感じが嫌いなのね。俺。これはこうでこうなる従って・・・・的なリニアな感じっつーのかな?で、こういうことを書いたからこういう反論がありえるのでこれも書いておく・・・的なやり方をしてるから人間って何億といるのに書かれる文章は似たり寄ったりになるんだよね。その中でもやっぱり読ませるなぁー!っていう文章を書く人ってやっぱ独特なんだよね。それは小説にしてもそうだけど。数学書を読んでて思うのがまぁしょうがないにしても数学研究者とかの文才の無さって呆れるよね。もうちょっとフレンドリーに書けないもんかな?って思うんだよね。


そんなのが必要ない世界なのかもしれないけど俺は必要ないとは思わないけどね。でも良い数学書って大抵語りかけるような感じがあるわけよ。凄く人間的だったりさ、人間味があるのね。機械的な証明と結果だけってやつはそもそも人間の頭との相性が良くないのよ。人間らしいナラティブがあったほうが頭に定着しやすいわけで、テキストとか書く人たちはもっとそういうところに力を入れてほしいと思うよね。そういう意味で洋書に良いのが多いのはナラティブな良い数学書が多いのがまぁ英語のものか英語で読めるものに多いからってことになるわけよ。そういう意味でも和書は凄まじく糞なのが多いんだよね。あれで数学やれと言われても嫌になるだろうっていう。俺がなんで今やれてるか?って良い本を見分ける能力もさることながらやっぱり英語が読めるからだよね。和書しか読めなかったら相当苦労してると思うし、そもそもやり続けてるか分からないよね。嫌になっちゃってるかもしれないわけで。


いや、で、文章の話に戻るけどさ、なんでちゃんと書かないといけないの?って話だよね。思いつきの羅列とか意味の無いことを永遠と書くとかそれでもいいはずなのになんでちゃんと書かないといけないの?っていうさ、それで言うと音楽なんてもっと酷いよね。つべのマッシュアップのコメントとかでたまにキーが合ってない的な批判とかがあるけどそんなことを気にして音楽聞いてるっつー感覚が全然分からないんだよね。そういうの気にしてるから音楽のバリエーションって狭まって全部似たり寄ったりになるわけじゃん?なんであえて他と似たような構造のを作らなきゃいけないのか?っていうさ、それで言うとDJ Mixとかもそうだよね。


なんで関連あるもの同士とか違和感が無いミックスをしなきゃいけないのか?っていうさ、いや、それをあまりにも派手に砕いてくれたのが例のハズウェルのミックスなんだよね。まぁ俺も別にそれは最初から思ってたしっつーか別にちゃんとつなげる必要は無いし上手い必要も無いとは思ってたけどあのハズウェルのフォローできない感じは凄いじゃん?あれは適当にやってできるわけじゃないから凄いんだよね。ああいう驚きだよね。やっぱり。どんなミックスよりも面白いんだもんね。


なんつーかさ、何が言いたいのかなぁー?って思ったんだけどさ、ようは形式があるならその意味を問え!ってことになるよね。音楽においてなんでキーがあってたりしなきゃいけないのか?ってそれは聴覚上の問題じゃん?でもサンプリング音楽っつーか初期のヒップホップなんてトラックとサンプルループのキーなんて合ってないわけでしょ?合ってるのもあるかもしれないけどその合う合わないは関係ないんだよね。聴覚上かっこよければいいしそれこそグルーヴ感があればいいわけでキーなんて問題じゃないわけだ。あとまぁなんでブレイクとか展開がなきゃいけないのか?ってまぁそっちのほうが盛り上がるからってことなんだろうけど今はやり尽くされた上に色々な人がもうそういうのはやり尽くされたって言い始めてからもう10年以上も経ってるっつー完全な飽和状態があるわけでさ、そんな中でブレイクとか展開があっても別になんとも思わないでしょう。みんなそういうのに飽きてるわけで。音楽においては特に顕著だよね。


そうじゃなきゃいけない的なお決まりの理由付けというのに対してそこまで説得される理由が無いっていう。文章にしてもそうだよね。伝えやすくするためっつって極端にフォーマルになりすぎてて何が言いたいのかよく分からないとか論理的に書きすぎてて全然ハートが伝わってこないとか、そんなの本末転倒じゃん?今さ、そういうのを指す言葉はなんだっけ?と思ってさ、この「本末転倒」が5分ぐらい出てこなかった。歳なのかなぁ?


まぁそれはともかくだな、あれなんだよね、今はQ念のSet Theoryって本を読んでるけどさってまぁ色々と同時に読んでるからこれだけじゃないんだけどね、いや、集合論のちゃんとした本って読んだことなかったんだけど論理式ってやっぱ慣れないとちょっと理解に時間がかかるね。逆を言えば数式はかなり自然に理解できるようになってるってことだよね。論理式にちょっと時間がかかる感じを覚えてるわけだから。まぁそれはともかくさ、いやね、集合論においての論理ってなんであんなに厳密にやる必要があるのか?ってそれはなんでそうじゃなきゃいけないのか?っていう必要性なんじゃなくてさ、そうなるためにはどうなっていなければいけないのか?っていう構造の話なんだよね。


でもそれはこうじゃなきゃいけないって人間が恣意的に決めるものではなくて構造があるからには決まっているものがあるんだよね。もしくはワークする理論だとかなんだとか。そういう意味で数学は必要性とか必然性とルールとの乖離が無くて美しいんだよねってまぁ美しいってことはないか。ようは凄く納得できるんだよね。俺は形式嫌いだけど数学の形式の場合まぁ別に俺はformalistではないけども、ただその必然性に完璧な理由付けがあるってところがなんかすっきりしてていいのかもしれないね。


だからそういう意味で論文を書くときの形式とか音楽を作るときの形式っていうそういう型という意味ではない完全な形式って意味での形式は好きなんだよね。恐らく。だからブルバキが好きなんだと思う。論理でガチガチというわけではなくて概念に関してミクロな単位での納得のいく理由付けがいっぱいあるっていう論理のクリアさだよね。こうなってるんじゃないかな?ではなくてこうなってるんですっていうね、でもそれはただ本を読んでるだけじゃダメで自分で考えてこうなってるのでは?っていう予想なり推測があって、んでそれありきで本を読んでやっぱりそうだったか!って合点がいくっていうさ、いや、このプロセスだよね。


説明書を読むような感じで数学書を読んでてもダメだよね。そんなの思考が無い読書みたいなもんでただのバカになるよね。そもそも学習ってそうだよなぁー。思考ありきっつーかただの詰め込みって何にもならないよね。基礎の詰め込みの段階でも常に思考しながらやらないと何にもならないよね。だから詰め込みしかできない人はそもそもあんまやる才能が無いとも言えるよね。ついつい考えちゃうって一種の才能だもんね。


まぁでもあれだわ、何かに没頭するってまぁ人付き合いとか一切なくなるじゃん?っていうか、まぁ廃人っぽくなるじゃない?でも俺にとっては鬱を介在させないっていうかさ、ある意味での認知療法なんだよね。身体的なレベルでダルさがあるとかってのはしょうがないとして、何か虚しさとか寂しさってのを感じる前にっていうか感じる余地がないぐらいある意味でスケジュールを埋めちゃうっていうさ、そんなことを考えてる暇がなくなるっていうさ、これがようは俺のメンタルヘルスに貢献してるわけだ。だからリチウムとか飲んで変に安定したらどうなるか分からないし、なんかロボトミー的だからそれは嫌だから飲んでないんだよねってまぁ処方されたわけじゃないんだけど。


鬱から逃げるっていうか鬱にならなくするってようは鬱がないと無理じゃん?あとまぁ俺は軽い躁状態の時の自分が好きだからやっぱり安定させようとは思わないよね。脳の活動をゆっくりさせるなんてことをしたらそれこそ人格改造じゃん!ってことになるわけで。まぁそんなわけであれなんだよね、没頭できることがあるってことは幸せなんだよね。今年に入ってからだよね。本格的に数学に没頭できるようになったのは。だからまぁ今年からかな。カウントは。


ようは今年を数学元年にしてさ、で、今年のはじめから計算して1万時間の法則を満たすっていうさ、とりあえず1万時間やるってのが目標でもあるのよね。1万時間やってもダメならそれはもうさすがに才能無いってことだからそのときが諦め時なわけだ。でもそれはまず1万時間やらないと分からないっていうさ、1万時間の法則が正しいかはともかく、まぁでもあれってやろうと思ったことがあって、とりあえずこんぐらいはやらないと分からないよ的なことの良い指標だよね。1万時間やれば誰でも開花する!とかじゃなくてまぁ開花させるには最低そんぐらいやらないといけないってことだよね。


なんかさ、去年とか永遠とこれで悩んでたからね。そもそもの目標が高過ぎるからやれるかどうか分からない・・・なんつーことで悩んでたっていうさ、で、とりあえず1万時間だな!って決めちゃえばこの悩みはなくなるもんね。我武者羅に意思の力っつーかやりたい!っていうそれだけでとりあえずやるっていうさ、俺はそれができるんだからとりあえずそれでいいじゃん!ってことなんだよね。で、開花したら色々な心配はオールクリアになるだろうっていうかそれがいつも俺が書いてる「極めちゃえばなんとかなるっしょ」ってことだよね。まぁほぼ最上級と言えるレベルってことなんだけど、でもさすがにそんぐらいになれば困らないでしょ。


なんかそういう意味で結果的に未来への投資をしてるって正当化できるじゃん?ごまかしではなく凄く社会的なコミットメントなんです!って割と言い切れるもんね。そんな感じで最近は色々なものが統合されてとりあえず数学に関して悩んでたことはある程度無くなったよね。


ってことで今日はこの辺でいいかな。んじゃまた。