連帯さんへの返信。

連帯さんとの一連のやり取りをエントリーとして残したくなったので、かなり長いけどやり取りを貼るです。あと連帯さんへの返信も含めて。


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20121026#c

音楽による愛と連帯を信じて 2012/10/30 08:49


はじめまして耳蝉様。私もハズウェル様の活躍を楽しみにしている者です。先頃発売されましたハズウェル様のレコードは、確かに耳蝉様の仰る通り一聴してクズだとわかる代物でした。残念ながらそれは弁護のしようもないほど徹底的に事実であります。しかしまた、私は繰り返しレコードを聴くうちに、ある固く暗い予兆のようなものを顔に投げつけられたような気がして、全身寒気がしました。それは、例えるならば、氷山に衝突していくタイタニック号の、その瞬間を、スローモーションで、目の前で、まざまざと目撃してしまったかのような体験なのです。私は、無惨にも、死に行く運命を背負った数千人の人々の、泣き叫ぶ声を、その時、前もって聞いていたように思います。船内の大広間では、ヴィスコンティの『山猫』のランカスター侯爵が、没落の踊りを狂おしく踊っていました。根本的な問いはこうです。ハズウェル様は終わってしまわれたのか?私達の大好きだったハズウェル様はもういなくなってしまわれたのか?神は私たちに同情して死んだとニーチェは言います。ならばハズウェル様はいったい何に?たぶん耳蝉様も同じような問いかけをなされたと思います。あれは俗にいうところの、創造性の枯渇なのでしょうか、あるいは産みの大いなる苦しみなのでしょうか。後者であるならば、近々、とんでもない傑作が発表されるはずです。この問いに答えるには、次回作を待たねばなりません。私達はしばし静観いたしましょう。



話は変わりますが、以前耳蝉様がこのブログで鳥取のエルマというノイズアーティストをとてもほめていらっるのをみて、CDを聴いてみたのですが、私ひじょうに感心いたしました。ジャパニーズノイズの懐の深さに改めて関心する一方、なぜこのような素晴らしき傑作たちが世に出ていないのかと腹立たしさを覚える程でした。ミュージックステーションで、たもりと並んで美川様が会話に花を咲かせ、今週の海外からのお客様のコーナに、ハズウェル様がカルコフスキーと一緒に来日する。とても愉快ではありませんか。エルマとの邂逅はひとえに耳蝉様のお蔭であります。深く感謝いたします。私はCDやレコードに回せるお金が少ないのと、最近はもっぱらアイチューンズで音楽を管理していますので、御茶ノ水にジャニスというレンタル屋さんがありますよね、あそこなら品は古いですけど割とノイズなんかも置いていますので、レンタルで済ませているのですが、もう聴くのがほとんどないというのと、当然エルマは置いていませんし、ハズエウェルも数作しかありません。そこで買う前にお伺いを立てさせていただいたというわけですが、耳蝉様が思うエルマの良作を御教授していただけませんか。ちなみにハズウェルのlive savageの位置付けはいかようでしょうか?私はあれを稀にみるまともなハズウェル作品と、いえ、そればかりか私の知る限り最も完成度の高いハズウェル作品ではないかと思っているのですが、いかがでしょう。時折公開されるリミックスはどれも非常に素晴らしいと思います。あとここら辺の系統で良作があれば教えていただきたいものです。音楽による愛と連帯を信じて。

mimisemi 2012/10/30 21:23


はじめまして。ハズウェル愛好家の方とコミュニケーションするのは初めてです。


ところで問題のハズウェルの新作なんですが、あれは一応やっぱりハズウェルなりの進化なのではないか?と思っています。もちろんクズなのは変わりませんが、でもある意味でもともとハズウェルってあんなもんだと思うんですね。ノイズ史に名を遺したLive Savageは最高傑作ですが、何が良いかってまぁあの単純さですよね。メルツバウなりなんなりのノイズ系やコンクレート系の音をソースにして、それをゴリゴリとソフトウェアプラグインでいぢり倒すっていう、今作はそれをアナログでやっていると言えばそれまでなんですよね。ようはプラグインソフトウェアの部分が色々と繋げられたアナログのエフェクターやフィルター系になっているだけでやっていることは同じなんだと思います。ハズウェルは割と最初からマックを使っていて、アナログ経験がないので色々と目新しいんだと思うんですよね。数年前に出したこれまたクズ作品でもTB-303とかTR-606だったかリズムマシンを色々と変なつなぎ方をしてノイズを出してましたから、いきなり糞になったというよりかは予兆はあったと思います。



で、今回のはあまりに酷い出来なのでセンセーショナルな感じがしますよね。でも我々が好きだったハズウェル様は全然いらっしゃると思うんですよ。ただ音を聴くと退化にしか聞こえないわけですが、本人はそれをやるのが楽しいのでやっているっていうそういう感じがしますね。ソフトウェアでノイズを出していたころもまぁ誰でもできるようなことをやっていましたが、今もそれは変わりないと思います。ただ単純に音で言えばやっぱりマックで出してたノイズが一番いいですよね。アナログ系の音の使い方には一切のセンスを感じませんね。本人は数年前からライブテクノとかに凝りだしているみたいで、あとはやはりライブエレクトロニクスが今更マイブームになっているっていう感じがしますが、おそらくハズウェルの場合、最初がブラックメタルとかハードコア系なんですよね。ルーツが。で、だんだん電子音楽に近づき始めてそれでライブエレクトロニクスとかUPICとかに凝りだして下手にアカデミックな手法を取り入れたりしたっていう感じがしますが、流れとしては元が現代音楽がピュアな電子音楽作家でその人がハードコアやノイズに目覚めてノイズをやり始めたってほうが面白い感じがしますよね。カルコフスキーはこの順番だと思います。フランスの音楽学校でクセナキスの授業とか受けてたらしいですし、オーケストラ作品とかもやってた人なんですよね。



ハズウェルに関しては迷走期みたいな感じで見放さないで見守るしかないと思ってます。本当にまさしく静観ですね。まぁ甘やかされすぎてるんであんなレコードを出せるわけですが、やっぱり最低限のラインってありますよね。それを余裕で超えてしまうものをリリースするってどうなんだ?って気がしますよね。あとELMAに関してなんですが、音源によって色合いが全然違うので、とりあえず全部聞いてみるのがいいかと思います。初期はハードコアミュージックコンクレートという感じで、で、だんだんと時代が現在に近づくにつれてデジタルっぽくなったり、より電子音楽っぽくなったりします。とりあえずいつも思うのはハズウェルのレコードもそうですが、ああいう糞みたいなレコードをリリースするんだったらELMAのレコードをリリースしろよ!って思いますね。中堅のノイズとか電子音楽系のレーベルってどこもそうなんですよ。全然新人のをリリースしないんです。まぁELMAはベテランですけど中堅ぐらいからのリリースがないんで、どっかから出してほしいって凄い思いますよね。それこそレコードがいいなって思いますね。あとデジタル系であそこまでのハーシュノイズを作ってる人って僕が知る限りいないんですよ。メルツバウはより電子音楽的になりましたから、音の暴力性で言えばELMAがダントツだと思いますね。



あとマッシュアップなんですが、僕は人のマッシュアップを聞かないのでおススメはわからないんですよね。で、あと自分ので言えばやっぱり聞く人が原曲のどちらかを知っているという場合、やはり面白くなるかと思うので、知ってるやつがマッシュアップされてるのがあれば聞いてみてください。


音楽による愛と連帯を信じて 2012/10/31 12:42


耳蝉様のお話を聞いていますと、自らが作り手に回ることで、はじめて見えてくるものがいかに多いか痛感させられます。ハズウェルに関して言えば、彼がアナログの使用を経由せず、初めからデジタルで音を作っていたとは知りませんでした。もとの畑がブラックメタルとかハードコア系ということは過去にバンドを組んでいた時期もあるのでしょうね。あまり想像できません。同じような流れでノイズをやっていらっしゃる方って結構多いですよね。ただ、私も耳蝉様の仰るように、アカデミックな基盤を持ちながら、そこからノイズや音響シーンに転向してきたアーティストのほうが出している音がよりラディカルなような気がいたします。いわゆる前衛バカにはさしたる魅力を感じません。クセナキスの『ペルセポリス』なんか、今の水準から考えると音も密度も物足りないのでしょうが、私はとても好きで周期的に聴き返したりします。最後の部分でジェットの噴出音がゴーゴーと鳴りながら、頭のてっぺんに向かって突きぬけていくあの感覚、聴き終わったあと頭の中がとてもクリアになるあの感覚は、私にはバッハの幾つかの音楽やストローブ=ユイレの幾つかの映画作品、あるいはウィトゲンシュタインの『探究』の体験と重なるのです。



こう言いますと、耳蝉様は大仰なとお笑いになるかもわかりませんが、私はハズウェルのLive Savageから少なからず同じような印象を受けているのです。そのくらい評価しています。この点がハズウェルをカルコフスキーやピータ、メルツバウから区別させます。この三方はすでにノイズ界の重鎮で、ピータはレーベルオーナーでメルツバウは後進のミュージシャンから神のごとく崇められているというのに、それに比べてハズウェルの求心力の無さと言ったらほとんど迷子の子猫同然ですよね。彼は絶対に自分のレーベルは持てないし、誰かに世話を見てもらわないと生きていけない。そういうオーラが作品からも滲み出ております。日本でいうと中原昌也なんかが同じポジションなのでしょうが、彼の作品とハズウェルの作品を単純に比べた場合、これは断然ハズウェルの方が凄い。まるで比べ物になりません。ハズウェルの場合、期待値が高いだけに、新作は拍子外れだったというわけです。ELMAはとりあえず手に入るものは片っ端から聴いていこうと思います。音楽による愛と連帯を信じて。


mimisemi 2012/11/01 23:43


ハズウェルはCathedralというブラックメタルではかなり有名で大御所のバンドの作品に「掃除機」と「詠唱」の演奏者としてクレジットされてます(笑)


http://www.discogs.com/Cathedral-Statik-Majik/release/1433275


この人は元々何かを作るって感じの人ではなくて、とりあえず音を出すとかいじるって感じの人なんですよね。作曲なんて一生できないだろうという感じがする人ですが、それが良さでもあるんですよね。でも妙にUPICとかのアカデミックで理論的な方向性のもあったりして、そういうのは本当につまらないっていうか、言い方が悪いですけど、パンクバンドで叫んでた人なんかがいきなりアカデミックな電子音楽を始めたって言ってもしっくり来ないですよね。まぁ音次第なので別にもともとどういう畑だったか?って関係のないことですがハズウェルって荒削りなヘタウマ感だけでやってる人だと思うんですよ。それが初期のノイズだと凄く出ているのに、アナログになってからはただの下手になってるんですよね。だからまぁあんなクソ作品を出すようになったんだと思います。それだったら掃除機と詠唱のソロ作品を出してほしいぐらいですね。こういうスカム路線なら全然ありだと思うんですが。



あ、ちなみに優れたノイズや暴力コンクレート作品にバッハやウィトゲンシュタインのような美しさを感じるって凄くわかります。で、ピタやカルコフスキーとは違うっていうのも凄くわかります。あ、ちなみに僕は90年代前半からマックに移行する間ぐらいのメルツバウの作品に似たような美を感じていました。今は数学やラヴェルドビュッシーのような印象派のクラシックなどを愛好するようになりましたが、美を感じるポイントは同じだと思ってます。ようは趣味が変わったのではなく、今まで知らなかったものや接してこなかったものに似たような美を感じるようになったという感じですかね。



ハズウェルの求心力のなさはまぁあのなさが故にあんな気の抜けた道楽的サウンドを作れるので、あの適当さは良いと思うんですよね。絶対親が資産家とか、勝手にイギリスの元貴族の家系だなんて思ってたりするんですが・・・。実はバートランド・ラッセルのひ孫だとか(笑)食うに困ってない感じが彼の作品には一貫してあるんですよ。人に良く思われようとかこれでやっていこう!とか有名になろう!みたいな野心が一切ないんですよね。ただ余裕があって好きだからやっているっていう、まぁニートがノイズやってるようなもんなんですよ。そこに僕は昔から個人的な親近感を感じていたわけですが。



中原昌也は世渡りが上手い点でハズウェルと大いに異なりますね。あの人は文章が上手いし小説も面白いし、あれでこそマルチだと思うんですが、ハズウェルは本当にどうしようもないから世話を見てもらわないと生きていけない感じがあるじゃないですか?中原昌也は食うためもあるしパフォーマーでもあるので凄く器用な人だと思うんです。ジム・オルークSuicidal 10ccってノイズユニットやってたりしますからね。相変わらずコアなんだけど雑誌に出ちゃうようなメジャーな面もあって、ハズウェルとは似ているようで天と地との開きがあると思います。でも同じようなポジションっていうニュアンスは凄くわかります。



僕は個人的にニートってもっとノイズとか変な音楽やったほうがいいと思ってるんですよ。特に食うに困ってないやつらは親の金で機材とか買って自主レーベルとかやって変な音楽とかノイズをひたすらリリースすればいいと思うんです。ハズウェルみたいないい感じのニート感が出るかはわかりませんが、まぁ何もしないというのは凄くもったいないなぁーと思いますね。才能の有無なんて問題じゃないんだ!ってのをハズウェルは生き証人として体現していると思います。ハズウェルは音で何もしないことの達人ですね。でも脱力ではなく凄く暴力的なんだけど圧倒的にニートっぽいっていう、文句の付け所がない人ですけど、まぁ文句がついてしまうような作品を近年は連発しているので、本来の天然のバカさ加減とかニート加減ってのを取り戻してほしいですねって言ってもまぁニート度で言えば近年の作品のほうがダントツに上なんですけどね(笑)ニコ動とかに作品をアップしてもいつまでも4桁いかないでしょうね。イギリス人なのにニコ動っぽいって凄いですよね。



ところでLive SavageなんですがアナログオンリーでリリースされたVol.2が僕にとっての全てのノイズ音楽でのトップの作品なんですよ。僕がライブやるなら大友良英のギターノイズかハズウェルのLive Savage 2みたいなノイズの真似をやりますね。まぁ外に出るのが面倒なんで機会があってもやりませんけど(笑)


音楽による愛と連帯を信じて 2012/11/03 02:26


そのバンドは初見なのですが、ハズウェル様の掃除機プレイと詠唱には興味を惹かれます。ハズウェルが音を出すとかいじる人だと言う表現はまさにその通りだと思います。現代音楽って理論とか確率に基づいた作曲とかという小難しいイメージが一般的にあると思うのですが、まず大前提としてとにかく音を出してみるってところがあると思うんです。それまで音楽の音として認識されていなかった音を探して楽器以外で例えばコンピューターなんかで音を出してみたり、初期のミュージックコンクレートみたいに自然音や鳥の囀りを積極的に採集して、音楽を構成してみたりと。Z'evというパーカショニストの大御所がいまして、私はかなり好きなのですが、この人なんかその四半世紀に渡る音楽活動を通じておよそ叩いて音が出るものは既に叩き尽くしているのじゃないかというくらい日用品から家具から何までとにかく叩いて音を出しています。



叩くものがなくなってからの、わりと近年の作品に人間の可聴域を越えた音しか出ていないCDというのがあるのですが、当然人間が聴いても終止無音です。もう突っ込みどころが多すぎてどこから文句言っていいのか分からないのですが、人間の耳には聴こえない音もやはり音として存在していて、満点の星空なんかを見上げたときに沈黙のなかに喧噪が渦巻いているように感じるときがあるだろ、宇宙には俺達に聴こえないだけでもっと多様な音が鳴っているんだよ、というようなメーッセージが込められているとかなり良心的に解釈することも可能だと思うんです。CDとしてはクソだけど、必ずしも無意味ではないというか、ですからハズウェルや時間のある方にはもっと面白いことを期待したいんですね。掃除機と詠唱のソロ作品とかハズウェルなら許されると思うので、私は聴いてみたいです。
 


メルツバウは作品が多すぎて全く全貌が掴めません。編年体でボックスなんかが出ると嬉しですし、その需要はあると思うのですが、レーベルがまちまちなので難しいのでしょうね。中原さんは実を申しますと個人的にあまり好きじゃないので辛口になってしまうのです。お好きでしたら酷評したこと申し訳ございませんでした。ハズウェルに限らず芸術家でそれも革新的な人って結構普通にニートだったりしますよね。ぱっと思い浮かぶだけでもプルーストは親が高級官僚で、生前に発表した作品はいずれも自費出版ですし、映画界を見ると著名な作家ってほとんどが大ブルジョアの息子なんですよね。ルノワールオリヴェイラゴダールも親の遺産を食いつぶして映画を撮ってましたし。彼らの作品の良さってやましくないところだと思うんです。見返りを求めていないところ、表現において自分に真摯だからあんなにも魅力的な作品がうまれるんだと思うんです。それが現代では稀少になっているように思います。特にポストモダンに入ってからそのやましくないっていうのがますます稀少になってきて、自分はこれだけの本を読んだのだから、あるいは、これだけの映画を観たのだからそのお返しに利益を受けてもいいんじゃないかっていう考えが作品から透けて見えるのが多いと思います。本来芸術とか学問ってお金からは最も遠い存在ではなかったのかとか、まあそこらへん確言はできないのですが。



ニート一般を肯定するわけではありませんが、真摯に生きようとした場合そのような境遇に身を置かなければならないという人も出てくるわけで、そういう人たちには正直に真剣にいきてほしいですし、そのような環境を与えられて然るべきだと思います。現実的には働くのが当然と思われていますので、尚更恵まれた環境にある人たちには真剣に生きてほしいです。私には四年制大学を出たばかりの22歳で就職するという選択肢は考えられませんでした。ただ今現在も自分の技量で食っていける程特出していないので、親の支援を受けています。そのような選択を認めてくれた両親に感謝しておりますが、何気ない会話を通じてやはり両親と私の価値観は決定的に異なるのだということを痛感させられることが多々あります。ですから現状を肯定は出来ません。そこから抜け出したいのですが、そのベクトルが私の場合働くとかそういう方向には向いていなくて、ただ読むことと書くことを通じてしか存在を更新できないという不自由さがあります。他人からすればただの強迫観念と思うでしょうし、自分でも自分がそれをする必然性などないと分かっているのですが、それがなければ自分が生きている理由が皆無になってしまうので、部分的につらかろうと続けるしかないのです。働くことが問題そのものの解決にはならないと言うと、世間はそれは働いてからの話だと言います。そこで「私は存在をめぐる戦いを戦っている」なんて言うと、とうとう頭イカれたかって思われるでしょう。ですからそんなことは言いませんけども。ただそのように思っていてもつい惰眠をむさぼってしまったり、下半身の方へ手が伸びたりと、これには困ってしまいます。



サー・ラッセル・ハズウェル。ハズウェル様ってイギリス人だったんですね。立ちのぼるカリフォルニアのアシッド臭からアメリカ生まれだと決めつけていました。実は貴族って線よりもニーチェみたいに勝手にポーランドの貴族だと思い込んでいるとか。ハズウェルの父親はなんとなく大銀行の重役とか大きな病院の院長のような気がします。そこらへん含めて身辺が気になるお方ですよね。それでもって意外と童貞とかだったら笑えます。こじらせすぎでしょう。


mimisemi 2012/11/04 00:32


Z'evはメタルパーカッションだけかと思っていましたが何でも叩き屋なんですね。メタルパーカッショニストというとあたかも演奏者というか、鉄にこだわる人って感じがして楽器と同じような感じがしますが、なんでも叩くとなるとむしろ主体は「叩く」という行為に移るわけで、そうなると一気に現代音楽的になりますね。凄く方法論的というかなんというか。かなり驚きです。そうなると途端に可聴域以外というのもある種の必然的な帰結の一種になるのも頷けますね。カルコフスキーなんかもほとんど音とは認識されない低周波のみのCDとか出してたりしますね。



中原さんに関してはなんかその嫌いって感じは凄くわかりますね。マジでノイズが好きな人たちにはむしろ嫌われていると思いますね。それにしても連帯さん(そう呼ばせていただきます)のニート文化の知識はすごいですね。というかゴダールも親の遺産だったんですねぇ。いや、そのニート連中のやましくないところってまさしくそれですね。僕が凄く惹かれるところってそこだな!って思いました。ケルアックとかバロウズとかそうですもんね。全然媚を売ってないし、やりたいことだけをやっているという感じで、そこになんか凄くまぁ人生の先輩だなぁーって昔から思ってたわけですが、プルーストルノワールオリヴェイラといったようなヨーロッパ勢も加わった感じで、なんか凄く心強い感じがしますね。まぁなんというか普遍性ですよね。ニートが作る真摯な作品にこそ芸術性が宿るというような、でも結局、僕もそう思うんですよねっていうのは結局、まぁ芸術ってそうじゃないですか?



昔からパトロンがいたか貧乏だったかっていうそんぐらいのもんですよね。学問もそうですよね。数学者なんかは貧乏な人もいたし、あとはあまり職に恵まれず家庭教師をやっていたり3流大学の講師をしていたり、まぁ別に芸術家や哲学者や数学者が貧乏であるべきだとは思いませんが、そもそもやっていることがお金と直結しないことが多いので、だから結局、突き通せば突き通すほどお金から遠ざかるっていう感じがしていて、でもそこでやっぱり問題なのはお金と無理やり結びつけることですよね。下手にマネタイズしようとすることで本来の本質的な表現の何か根源的なエッセンスのようなものが奪われてしまうというか、ネット文化でも下手にメジャーになったものって大抵つまらなくなりますから、やっぱり僕はいまだに商業性と作品の魅力って両立しづらいと思っています。まぁモノにもよるんですけどね。



だからこそまぁそれこそやりたいことがあるなら金にならなくてもとりあえずやったほうがいいってことになるわけですよ。今はつまらないことでも継続していけばいつか化ける可能性があるかもしれないし、そもそも何かをやりだしていきなり面白くなるなんてことはないですからね。最低でも5年とか長ければ10年ぐらい見ないとダメですよね。そのぐらいお金にならない道楽みたいなことを続けるのって楽ではないと思いますが、別にニートだったら関係ないわけで、だからこそその恵まれた環境を活かして何かやってみれば?って思うんですよね。金があればなおさらですね。



ところで実存の話ですが、僕もその存在を更新するって感覚が凄くわかります。知識を得るとか認識が広がるとか、それこそ数学を理解するとか、そういう日々自分を更新するということでしか自分の存在を肯定できないんですよね。いくら生きているだけで価値があると言われても説得されませんよね。だから僕も強迫的に自分を更新し続けているわけです。で、僕の場合はそれを狂ったようにやり続けることで必然性を力技で作り出してしまうということですね。ある種のニーチェ的なマッチョな感じではあるんですが。知的な体育会系というかなんというか。



あとちなみに働くことって何の解決にもならないんですよ。そもそも働くことを「働くこと」というほど物事を抽出するほどしっかりしてないってことですね。日々生きているという中で糧を得る手段として労働力を売ることで対価を得ているっていうそれだけのことですから、そもそも自己実現とか人生とか実存なんてのとは一切関係がない話です。むしろマルクスなんかは「疎外された労働」なんてことを言っているぐらいですからね。むしろ資本主義的な中でただ労働力を売る人間として生きていくことによってより生きることの意義や意味が失われていくってことなわけで、相変わらず僕は共産主義系のイデオロギーで労働が神聖化される意味がわからないんですよね。むしろマルクスは全く逆のことを言ってるのにレーニンとかは聖書からの引用で「働かざる者食うべからず」っていうことをまるでスローガンのように述べていたわけですよね。



で、その理由はというと資本家や地主などの働いてないのに贅沢している連中を批判するために引用したので、ようは貧乏人に鞭を打つような言葉としてではなく、楽して儲けたり搾取やらマネーゲームやら、そんなことで金を稼いでる連中を潰すために言っていたわけで、日本の場合、逆転してるんですよね。貧乏人が貧乏人に対して「お前も働け!」というようなことを言っている。相当狂ったロジックですね。最近で言えばステーキけんの社長なんかが成り上がりのサイコパス丸出しな感じをバリバリ出していますよね。こんな時代によくもまぁあんな感じでやっていけるよなぁーって感心してしまいます。他の国だったら無事でいられるかわからないですよね。金を生み出すには搾取しかないみたいなことを公言していて襲われないとかなかなかのもんですよね。それぐらい日本には倒錯した奴隷根性といいますか、変なイデオロギーが蔓延してるんですよね。むしろ共産国とかだったらこういう人間に対して暴動を起こしたりするわけです。なのに現状ではワープアが他のワープアに対して「お前も働け!俺も苦労してるんだ!」みたいなことを平気で言いますよね。若い人の中でもまだまだこういう現象がみられるということでこのイデオロギーの根強さを感じてしまいます。



ちなみに僕で言えば何かで食って行けたとしても別にそれは自分の存在の肯定にもならないし、存在をめぐる戦いが終わるわけでもなんでもありません。前にここにも書きましたが仮に銀行に一生遊んで暮らせるぐらいのお金があっても何も嬉しくないってことなんですが、ようは自分が生きていけるとか食っていけるという物理的な問題と、自分が主体的に人間として生きていけるという観念的な問題とは全く関係がないということなんですね。衣食住があれば存在問題は解決できるのか?って少なくとも僕はそんな抽象度が低いレベルで悩んでいるわけではないので、だからこそなんといいますか、お金や労働なんて何の解決にもならないって言いきれますね。あと一応バイト経験とかありますし、特にああいう誰でもできるような仕事には全く何の意味もないしむしろ疎外しか感じないって言いきれますよ。あんなことをやらなくてもいいように、だからこそ何かしらのことで特出した人間になるとか、有り余る時間を利用してほかの人にはできないことをやってしまうとか、これって別に知性がそこまで卓越してなくても「有り余る時間」があれば可能なことなんですよね。ようは有り余るお金より有り余る時間のほうが貴重なものなんですよね。



それこそ時間はお金では買えませんから、その時間をすべて自分のために使いつつしかも将来のために育成ゲームのような感覚でありえない時間を自分磨きに費やすとか、これってニートの特権じゃないですか?社会に出て奴隷になってしまったらできないことですよね。むしろ奴隷になるしかないような人間が貴族になれる可能性を作り出す源泉というのが有り余る時間というリソースを生きようとすることに使うということにあると思うんですね。どの道、お金のためではなく自分のためにこれをやらないと成功してもただの成金になるだけなので、またどうせ将来金がなくなったら苦労するだけです。あとはお金は無くならないにしても社会的地位がなくなったら存在意義がなくなって悩みだしますよね。チヤホヤされてる時期を過ぎたらただのおっさんですからね。実際、芸能人とかハリウッドセレブとかでもお金に困ってなくても病んでる人多いですからね。そういう不幸な人って実際いるんですよね。



そういう意味でラッセルハズウェルは最高に人間性とかヒューマニズムみたいなものを体現している人間でしょう。奴隷にはあんな自由な発想はできませんからね。ましてやあんなレコードを出して世の中に作品を問うなんてことをできるのは金銭的にも精神的にも自由な本当の自由人だけでしょう。あと童貞か否か?ってことなんですが、僕はあの人はゲイだと思ってるんですよ。まず凄まじくゲイっぽいんですよね。僕もおかまっぽいし、実際にそういう面はあるのでオカマが他のオカマを感じられるセンサーみたいなのってあるんですよね。で、まぁ実際にゲイかはわかりませんが、過去にハズウェルの書いた油絵みたいなのを見たことがあって、それはマッチョな兄さんみたいなのが勃起したチンチンを出したまま立っているという、ちょっとキュビズムっぽい感じの絵だったんですが、ゲイ以外あんなの書かないだろうってぐらいストレートなゲイな感じだったので凄く納得がいったんですよね。そういう意味でハッテン場などで活躍していると思いますね。そういう意味でやりたい放題なので本当にすごい人だなって尊敬しているわけです。だからやっぱり悩み過ぎたときはLive Savageなんかを聞くといいかもしれませんね。「こんな適当でいいのか」って思えますからね。それでも高田純次並みの適当さの実力があるので、ただの適当とは大違いなわけですが、近年の作品はまぁ本当にただの適当ですけどね(笑)むしろ適当さをこじらせすぎてるかもしれないですね。


音楽による愛と連帯を信じて 2012/11/04 09:58
 

中原昌也に対するあまり好意的でない感情って、まずは彼の文筆業に触れた時に感じたんですよね。書きたくないとか自分が書くこんな文書にはなんの意味もないとか愚痴をこぼしてるだけで、彼自身それはポーズではないと言っているのですが、それって結局怠慢じゃないのかと思うんですよね。書くことがしんどいということは自明のことなので、そのくらいしっかりせい!と思うわけです。
 


ニート文化の知識が豊富ということはあまり自慢できることではないでしょうから、そう言われますと少し恥ずかしい想いがいたします。作品に触れるうちに自然とその作者にまで興味の範囲が広がっていたのだと思います。バロウズやケルアックはもろニートですよね。バロウズは40くらいまで作家として芽が出なくて才能がない才能がないと嘆いてはドラックをやりまくっていたようなのですが、そういうのを知るとまだ続けてもいいんだって勇気が湧いてきます。芸術や学問がお金と関わることで大切な何かを失ってしまうのではないかという考えには私も同感です。理想は媚を売ることなく自分の作品を追求し、なおかつそれが評価されるっていうのだと思うのですが、それが難しい時には、社会性はいったい捨て置いてもいいのではないでしょうか。



大衆って結局俗なもので、後から追従して評価することしかできないでしょうから。ポストモダンって突きつめて言ってしまえば、自分が信じることを「これが真実である」と自信を持って周りに言い切れないということだと思うのですが、それとは別の意味で、よく批評家なんかが、20世紀に入ってから大衆の知は総体的に向上していて、もはや特権的な知を確保することはできないと言っているのを見かけます。同じくネットなんかでも、その分野の大家と見なされている人を、どこぞの素人たちがぼろくそにけなしたり、ばっさり評価したりといった現象が普通に起こっていますよね。あるいは、ただのライター風情や批評家崩れが膨大の量の作品を鑑賞しているというだけで、一見凄い人のように見えてしまうといったようなこともです。例えば佐々木敦なんかがそうでしょうけど。もちろん、私が今言ったようなことを指摘して、社会的な言説と本質的な知を分けて考えるべきだという意見も既に一般的に流通しているでしょうけど。
 


ステーキけんのオーナーは成り上がり根性丸出しで反論する気も失せてしまうようなことを平然と言ってのけるようですね。あの人はもう手遅れということで今はそっとしておきましょう。それより私が驚くのはユニクロのような現代の日本を代表する会社の社長で、大学も早稲田を出てるわけですからそこそこ学もある人間が、論調こそステーキ屋とは違いますが、言っている内容はそれと全く変わらないということです。彼は以前、徹底した低コストを実現するために安い人件費を利用するのは当たり前で、それに対する批判はもはや批判に当たらないといった内容のことを平気で新聞上で言っていました。経営者という立場上、労働を否定できないのは分かりますが、あの意見が彼の建前ではなく本音であるとしたらぞっとしますね。ただ、消費者という立場に立った時には、当然製品は安い方がいいですし、いちいち人件費などの製造過程を考慮して製品を購入するわけではないので、誰しもがそこから利益を得ていることになりますよね。



そうすると、現在の経済体制を批判するこちら側の基盤の確実性というものが幾分怪しくなってきます。恩恵を預かっているから、批判できないというわけではありませんが、そこになにか不徹底で、しょせんポーズにすぎない欺瞞を感じてしまいます。それで私は経済とか政治に対する興味というものがいまいち持てません。社会的な体制がそうである以上私ごときがどうこう言って変化するわけでもないし、静観するしかないかなと、基本的には社会に対してはこのようなスタンスです。それに先ほどのステーキ屋の社長にしてもユニクロの社長にしても、搾取する側であるには違いないのですが、もっと大きな視点から観ると彼らも経済体制を担う一部分にすぎないように思うんです。それは低賃金労働者や社畜と呼ばれる方達に比べると恵まれていますが、私にはどちらにしても一経済体制の中で不自由を感じている人たちにしか思えません、あるいは彼らが不自由を感じていなくても彼らが不自由であることにかわりはありません。正確な例えではないかもしれませんが動物園に例えると、社畜が動物たちで、社長たちは動物園の管理人ということです。
 


これで先ほどの知識についての舌足らずな考えに戻れるのですが、私は知識に対しても同じような不安を感じています。一つのイデオロギーや社会的に流通している言説からどうすれば自由になれるのか、また自分がそれらに捕われているということに気がつかないくらい無自覚なまま不自由な可能性もあるので、不自由にいかに気がつくかということを考えています。その際、自然に帰るとか無知を推奨するような方法ではなんの解決にもなりませんし、また、それは全てを相対化するということを意味するでしょうから、フーコーデリダやローティの発見に悦に入っているというわけにもいきません。徹底して知ることを欲することで、無知や不自由さを通して知や自由を感じることしか現段階ではできないのかなと思っています。こうして本を読み続けながら、知の確実性に達したり、そこから大きく後退したりを繰り返しながら、結局いつになったら自分の言葉で語り始めることができるのか?今は暗闇のなかでしかないですね。ですから耳蝉さんの「知的な体育会系」というのはすごくわかります。また、ニーチェ的なマッチョイズムにも親近を感じますが、現段階では駱駝ー獅子ー子供の三段階で言えば圧倒的に駱駝風情です。ヒューマニズムに対して私が考えるのはこんなところです。それは絶対にお金や労働することで解決できる問題ではありませんね。まとまりを欠いた読みにくい文章になってしまったかもしれませんので、その点申し訳ございません。



ハズウェルの画像をググってみたのですが、そう言われてみるともうそうにしか見えないという不自由さがそこにはありました。ハズウェルは確実に「子供」ですね。ただ、駱駝ー獅子を経由していないので、どことなくバカっぽいという。



耳蝉さんがおかまっぽいということであるならば、私にも少なからずその要素はあります。ネットではなぜかネカマを中途半端に演じてしまうという点と、一人称が固定できないので、時折女の子とメールすると女ぽいって言われるところくらいなのですが。


中原昌也に対する嫌悪感は分かりますね。凄く分かります。ポーズではないと言っていても、どうしてもあのニヒルな姿勢ってのがポーズに見えてしまって、まぁ器用だからこそあそこまで作為的なことが出来るんでしょうが、僕も恐らく連帯さんも素朴で真摯な表現が好きだと思うので、ああいう屈折した感じのが好きになれないって感じだと思うんですよね。



いや、ニート文化の知識って別にそれってようは文化の知識なので恥ずかしいことはないと思うんですよね。文化って余暇が無ければ生まれるはずがないので、だからいつでもどこでも文化があるところには高等遊民ありってところだと思うんですよ。僕も何かが好きになるとその人の生い立ちとか半生が気になったりするタチなので色々調べる癖がついてるんですが、こういった長年の調査(?)を見ても文化の背景には必ずニートありってことなんですよね。まぁ道楽者ってことですね。文明は血の滲むような努力などによって形成されると思いますが、文化は努力とは縁のない話だと思います。背後には必ず余暇を持て余した快楽を求める人間がいますね。だからこそ僕がいつも書くようなwant to原理で動くことって大事なんですよね。やりたいことをやるってことが場合によっては結果的に文化に貢献するわけですよね。もう文明は築き上げられていて飽和化しているのであとは文化しかないですからね。まぁ実際は文化も飽和状態にあるとは思いますが、そこはやっぱりニートの腕の見せ所だと思っています。


そういう意味で連帯さんのおっしゃるようにそれが一見文化に貢献しないような、さっぱり評価がされないものなのであれば、別に評価されることを基準にしなくても、社会性など捨ててしまって、それこそ社会性なんてどうでもよくなるぐらいのめり込めるものがあればそれをやり続ければいいと思いますね。のめり込んでる人って大体そうだと思うんですね。社会性なんて気にせずに好き勝手やっていたら評価されていたっていう、逆に社会性を気にしている芸術って何なんだろう?って思いますね。それはそもそも芸術という言葉と相反するものなんじゃないか?って思いますね。実際にバロウズとケルアックは社会性ゼロですからね。あれが文化になったわけですから凄いですよね。ああいう人間がヒーローになるところにはやっぱりアメリカの魅力って感じますね。本当にかっこいい人がヒーローになってますからね。ロックンローラーやパンクロッカー然りですが。


ポストモダンに関してはこれも普段からの持論になりますが、「これが真実である」と言えない前提というのがすでに共通認識としてあるという状態だと思うんですね。まぁポストモダンを規定するものはこれだけではありませんが、そこで僕はなんというか、結局は価値観の創造だと思っているわけです。真実なんて誰にも分からないし絶対性なんて存在しないからこそ、むしろ必要となるのは価値観という、まぁある意味での究極的な相対主義からの逆流みたいな感じでの独我論的な価値観ですね。何も分からないからこそ何らかの価値観を提示したりできるということが凄く貴重になる気がするんですね。何も分からないし間違えている可能性が多いにあるので、だから価値観を作るって下手するとかっこ悪いわけですよね。だからニヒリストは何もしないし、ライター風情や批評家崩れは感想文をひたすら書くだけというパターンが形成されてますよね。


実際に連帯さんがおっしゃっているように膨大な量の作品を鑑賞しているとか、膨大な量の本を読んでいるとか、そんなことは凄いことでもなんでもないわけですよね。佐々木敦は音楽評論から彼の薄っぺらい音楽評論のあのスタイルそのままでなぜか日本の思想のまとめとか批評をやり始めましたよね。本質的な知から乖離した表層的なものの台頭ってある意味で凄くポストモダン的なのかもしれません。価値観を提示せずに、提示された価値観や作品についてあーだーこーだ言うというのはリスクが少ないし、上手いこと文章を書けばさまになりますからね。でもそれはただの評論で思想でも知でもなんでもないですよね。でもまぁなぜか評論的なもののほうが見栄えはいいわけですよね。何しろ価値観を提示するとか本質的な知を追求するって泥臭いことだし、全然知的に見えないですからね。まぁ本質を分かっている人には違うのでしょうが、見栄えは評論的なもののほうがなぜか知的に見えるわけですよね。ポストモダン的なものに共通するものってこういった表層的な知だと思うんですよ。だからこそのプレモダン的な知や価値観の提示ですよね。それこそ古典的な哲学の復興です。



といってもまぁ具体的にプラトンに戻れ!ということではなくて、古典的である種のナイーヴな哲学的姿勢を見直せってことですね。昔の哲学者のようなナイーヴなまでに知を求める感じって今やると相当ダサいんですが、これもまたまぁニートが価値を感じたなら勝手に没入しろっていう世界の一つなんですよね。別に評論や言説で食べていくわけじゃないので、知自体に価値を感じたなら勝手にやり続けてやり通せ!ってことですね。


ところで経済に関することなんですが、これってよく言われるフーコーだったかが指摘した、先進国は後進国の労働力の搾取によって基盤が成り立っているみたいなことですね。で、例えばあれですね、特にアメリカの左翼がやったりすることなんですが、スターバックスには行かないとか、ナイキは買わない!とか、ナオミ・クレイン(現在はウルフ)みたいな世界系左翼がよくそういった生活の中で不買運動をしたりするわけですが、連帯さんがおっしゃっているように、そもそもの社会基盤がそうなっているので、仮に一人がスタバに行かなくても大勢の人が便利で行くわけで、一人が何かを買わないとかってやったところで何も効果は得られないんですよね。それでも自分は意識的にやっていくんだ!って自己満足するのが左翼的なオナニーですよね。世界と自分とが社会や経済システムなどを一気に飛び越えて繋がってしまっているっていう。


例えば僕で言えば
僕はナイキやジョーダンが大好きですが、労働力搾取は言うまでもなく大嫌いです。でもましてやスニーカー世代みたいな世代に育ってきて、ある意味で凄くバカバカしい価値観が自分の中にあったりするわけですが、それは好きなものなのでしょうがないわけですよね。そこがまさしくいちいち好きなものを買うときに社会的なものなんて考慮しないってことなんですよ。それをいちいちやるのがナオミ・クレイン的なオナニー左翼かアニマルライツ系のヴィーガンですね。それが成立してしまっている社会基盤を批判するということは、そもそもの生活基盤を批判するということなので、先進国で先進国らしい生活をエンジョイしている限りは批判ができないわけですよね。もちろん企業の姿勢としてあまりにも酷い搾取はやめろ!って言えますけど、根絶しろ!っていうとそもそも搾取によって成り立っている基盤を否定するわけですから、自分が住んでいる場所の地盤を自分で壊すようなものですよね。



これは根本的に矛盾することなので、なんというか、だから政治や経済にイマイチ興味が持てないってある意味で必然的な帰結だと思うんですよね。僕はそういう意味ではナイーヴでしたから「世界を変えなければ!」なんて真剣に思っていましたが、色々と知れば知るほど経済や社会といったものがもはや自分が何をしたところであまりにもどうにもならなすぎるものだというのが痛いほど分かってしまったわけです。今思えばそんなのやる前から分かりそうなものなのですが。そもそも何かが自分に出来るはずだって思うのが間違いなんですが、でもニヒルでいるとか不可能だって思うのは凄く嫌なことで、社会が変わらなくてもそれこそさきほど書いた自分なりの価値観の提示は出来るだろうって思っていて、それは時間がある人の特権だと思うので勝手にやり続けようって思ってることなんですけどね。


そういう意味で連帯さんが言うような徹底して知を欲するということに帰結するんですね。相対主義ズボズボでもどうしようもないし、必然的な帰結としてのニヒリズムは自分の性分ではないし、とにかく冷めたものが凄く嫌いなので、そういう風にいられないとなると、やはりデュオニュソス的陶酔になるわけです。ニヒリズムの超越というと大げさですが、結局はバカみたいにナイーヴに知を求めるしかないんですよね。やっぱりそういったニヒリズム的なものや社会的な疎外といったものに抗えるものってやっぱり芸術や知だと思うんです。だからこそこういう時代なので余計にニートみたいなやつらが勝手に好きなことをやるということが重要になってくるわけです。本人達がそれを自覚していようがいまいが勝手に自分の好きなことをやるというのが実は凄く政治的な運動になるかもしれないわけです。でもイデオロギーがあってやっているわけではないので、そこはやっぱり個の自発性や内発性に由来するものなので、ようはスポンテニアスなんですよね。暇なので自然発生的に出来てしまった作品とか文章とか、それこそが文化の種だと思うんです。まぁでもそこまでそこに希望を見いだせるほどのものではないんですけどね。だってまぁニートに期待できることなんてないですからね。でもニートにポテンシャルはあるということですね。実際に芸術家とか評論家とかって言われるような人たちより面白いものを作っていたり書いたりしているのって高等遊民みたいな人たちですからね。


でもそういう人たちが従来の評論家や芸術家みたいな枠組みで活躍できるようになるべきだ!とは思わないんですね。彼らは匿名のまま面白いものを作り続けられれば一番いいわけです。別に表に出る必要は無いし、出たくないって人が多いだろうし、でもまぁそんな中でやっぱりある程度面白くて質が高いものにはお金がいくようなシステムはあったほうがいいと思いますよね。言わばニートの親代わりを鑑賞者がするわけですよね。そいつをみんなで食わせてやるって感じですね。パトロンと芸術家って図式は普遍的だと思うので、これをどうにか近代的な枠組みで成立させることはできないだろうかっていうのはいつも思いますね。



あといきなり話が知識に戻るんですが、相対的な世界観の中で知を求めることって結局、その不自由さってことだと思うんですよね。僕が言う本質的な哲学の知みたいなものも、所謂西洋哲学の流れからあるような、ソクラテスを起源をするような知であって、まぁ僕はこれ自体は良いと思ってますし、ソクラテス的な知は好きなんですが、ここに普遍性を感じるというのは聊かナイーヴだなと感じるようになったんですね。どの哲学でも大抵はやっぱり知への価値って普遍的だと思うんですよ。ポストモダン的なものやポストモダン哲学などでもそれは同じです。で、それ自体をエポケーするというか、それ自体はじゃあ一体どうなんだろうか?って検討する必要性ってのを最近感じるんです。でもそれってやっぱり一通りある程度見渡せていないとこういう視点には立てないと思うので、だからまぁ色々と読んできた甲斐はあったなと思うんですが、逆にこれまで絶対的だと信じていた哲学的な知すらも一種のイデオロギーなんだって思うようになってからはまた違った意味での極端な相対主義に自分自身が陥ってしまった気がしています。そういう状況だからこそ異様に原理的な数学というものが光って見えるのかもしれませんが。


フーコーやローティといったものの先にあるものですよね。ポストモダン的状況を語っていられたのがやっぱり2000年代前半までだと思うんです。別にポストモダン自体が論じられてきたことは良かったと思いますが、それ以降は「じゃあ今後はどうするの?」ってことになっていて、で、そこからまだ何も生まれてないって感じがしますよね。でもそれ以降ってアカデミックな哲学なの?っていう疑問はありますね。そこがようは僕が言いたい独我論的価値観で、結局は個々の価値観次第じゃないかって思うんですね。それは価値観によって価値が変わるといったような相対主義的な状況ではなくて、相対主義的な状況が前提になったからこそ依拠できるのは自分の思考しかないじゃないかってことなんですよね。だからこそただの知識ではない生きた知識や知性が必要とされるようになっているというそういう感じがしますね。



でもこれはやれる人は限られていて、そこが問題ではあるんですけどね。全然社会的な処方箋にはなりませんからね。そこは過去にこういうことを言ってきていて「それは耳蝉さんみたいにエネルギッシュな人ならいいかもしれないが、そうじゃない人はどうすればいいんですか?」みたいなことをここで聞かれたときに本当に痛感したんですよね。自分が言ってるのは所詮はニーチェ的な体育会系の「とりあえず体を鍛えておけ!」的なマッチョイズムなのであって、それはようは軍隊のような価値観じゃないですか?そうではない生きることそのものの哲学や思想ってどこにあるのかな?って思うんですね。そこで僕は仏教や禅にいきがちになりますが、僕の中では少なくとも仏教や禅もまた選ばれたものしか実践ができない選民的な思想だと思うので、そこに普遍的なものを求めることはできないなって思ってるんです。仏教はスタイルやスタンスとしては大乗を前提としますが、結局は根本は小乗なんですよね。僕はそもそも知的なものそのものに小乗的なものを感じてしまいます。



結局、僕が言う依拠できるのは自分の思考しかない的な考え方もようはカントの自律みたいなことなのでやれる人は限られていますよね。これではあまりにも生き方自体に知のバイアスがかかり過ぎているんです。知も一つの方法ですが、僕はマッチョな知の提案しかできないし、それはそれでいいとして、ほかに何かもっとないのかな?って思うんですよね。まぁ勝手にいろいろやって勝手に生きろってことに尽きることは間違いないですし、僕も連帯さんもやれる限りやるべきですよね。やれる人って環境的にもそんなに多いわけじゃないですし。でも絶望的に思うのはそもそも好きなことが見つけられないって人が多いことですよね。それで言うと変な言い方になりますが僕らってすでにいくつかの壁は越えてるわけですよ。コミットできるものがあるわけですから。で、それをベースに「好きなことをやれ!」って言うのは楽なことですが、それって無責任なんですよね。僕はそれに自覚的ではなかったんですね。相変わらずナイーヴなので。



なんかそこでやっぱり存在との戦いってことになるんですよね。その戦いを好きなことへの没入でクリアするとか戦い続けるということではなく、仮に素のままで存在と向き合った時にどうすればいいんだろう?っていうことですね。いろいろと書いててこれってヤスパース的な実存主義そのものじゃないかって思ってしまいましたが。それを主意主義的に乗り越えろ!っていうのがようは体育会系のノリで、もっと軽く生きたい人にはウザく見えるんですよね。それは僕自身が「とにかく肉を食え」というような単純な体育会系のノリが大嫌いなので、「とりあえず本を読め!そして考えろ!」的な、肉が本に置き換わったような言い方しかできないのはどうなんだろうな?って凄く疑問に思うんですね。むしろそういうことばかり言う人は迷惑だって思う人もいるぐらいですからね。そういうのは疲れるからやめようよ・・・的な。でもそうなるとやっぱり自由人としてのリベラルアーツとしての教養って必須だと思うので、これは主知主義になると思いますが、あえてこういう二元論的な話を出しているのも結局、どの道、やはり知は自由にとって不可欠なものであるということは確かであるからなんですよね。どっちに依拠しようがしまいがどういきようがやはり知は必要不可欠なものだと思います。別にそれが必ずしも哲学的な知である必要はないし、別にプラグマティズム的な有用主義でもいいし、マキャベリアン的でもなんでもいいんですがってまぁこれはあまり良くないんですが、とにかく知がないと自由は獲得できないってことですよね。



ちょっと比較的かなり長くなりすぎてしまったので、今日はこの辺で失礼します。