連帯さんとEpimbiさんへの返信。

音楽における愛と連帯 2012/11/06 01:58


全体を読み返してみてまず思ったのは、それぞれが音楽や哲学といった個々の文化や社会体制について考えを述べながらも、そこで同時に問題になっているのは価値の問題でもあるということです。考えてみれば当然のことなのですが、世界が相対化されようが、意見を述べる場合には何らかの価値観を基盤として選択しなければいけませんよね。価値観がないという認識も一つの認識として基盤になるわけですから、価値が相対化されようが価値の問題はそれで片がついたというわけではありません。むしろ価値観が相対化されたからこそますます価値の問題が重要になってくるわけで、そこで問題が価値に逢着するというのはむしろ自然なことなのでしょう。


そこで耳蝉さんが仰るように、「相対主義的な状況が前提になったからこそ、依拠できるのは自分の思考しかないじゃないか」って理論の方向は私も同感です。ただ、私達の思考も私達の生活と同じようにかなり制約されたものですよね。私達は言語や道徳、社会の慣習という基盤を前提にして思考するわけですから、経済体制や社会基盤の上に成り立つ私達の生活以上に私達の思考が自由であるかは一つ疑問です。ですから、ソクラテス以来の哲学の普遍的知さえもいったんエポケーに入れて思考を再構築してみるという作業の必要性を私も同様に強く感じますが、その試みの困難さにも思い当たります。ニーチェハイデガーフーコーがそういう方向で知を破壊しようと努めてきましたし、それとは別のやり方で同じような問題に取り組んだのがウィトゲンシュタインだと思うのですが、彼らの思考法をも破壊しなければならないのだと思います。社会に株式会社「ユニクロ」や「スターバックス」があるのと同じように、知の世界にも株式会社「フーコー」や「ローティ」があって幅をきかせている。それらといかに付き合っていくのかという問題はまだクリアされていないですよね。フーコーを越えるなんて、言うのは簡単ですが、あのおじさんだって知識量からして半端じゃないですから。


アメリカの左翼系の不買運動が中途半端なオナニー行為に見えてしまうのと同じ危うさが、知や思考を中心的な価値と考える人たちにも同様にあると思うんです。左翼系の政治活動ほどには活動の矛盾が目に見えないだけで、言語や慣習への依拠って見えないところで大きいのではないでしょうか。政治や経済に対して私達がほぼ無力であるのと同じように、知に対して同様に無力ではないのかとか、そんなニヒリズムに陥る可能性が常にあると思うんです。すごく巨大に見える政治や経済が司る表の世界に興味を失い、思考や知を中心とした個に立脚した価値観を選びとった場合でも、その選択がオートマティックに自由を与えてくれるというわけではないですよね。


そこからもう一歩先へ進んで、その私が選びとった個とは一体なん何なのかを考えるようになってから、ようやく自由を云々できる域に入れるわけで、これって繰り返しになりますが不自由を感じながら一時自由を獲得するという、ほぼどん詰まりの塹壕戦みたい な前進方法だと思うんです。耳蝉さんも私に合わせてそれを、「存在を更新する」という言い方で表現してくれていますが、そこで私達が言うところの「存在」ってニュアンスとしてはお互いに伝わるけれども、更新される「存在」って絶対に別のものですよね。それを一つの絶対的な目的として他人に掲げることは私達にはできないし、未来に更新される自らの存在を更新される以前から目標として掲げることは自分自身にもできませんよね。そういう意味で存在って無ですよね。


ですから、他人に対して「本を読め」としか言えないのは何故だろう?という疑問には、存在に対する探究を行う以上、そもそもそのような教説自体が不可能になったのではないか、あるいは最早意味を持たないのではないかという疑問が前提にあるのではないかと思うのです。存在との戦いを戦う場合、他人に対しては「好きなものをやれ」以上のアドバイスはできないし、それ以上言ってしまうと存在を固定してしまうという点で不正確になるのではないでしょ うか。「好きなものをやれ」というアドバイスが、好きなものなんて無いよという人達から無責任であるとの責めを負うとしても、私は、そういった人たちに対して私達ができるぎりぎり可能なラインの配慮ってこれ以上はないと思うんです。


ただ、そうであったとしても、それでは実践できる人が限られてくるから「もっと他に言えることは無いのか」と耳蝉さんは考えられていますよね。これは私には無い発想なんですよね。耳蝉さんが一時政治思想家を志していたこととか、「世界を変えなければ」と真剣に考えられていたそういう経験とあるいは無関係ではないかもしれませんし、微妙な世代のギャップがあるのかもわかりません。わたしの世代の特徴って既に何もかもが飽和し停滞した社会のなかで思春期なんかを迎えたことで、大人になる前から無気力感を感じたり褪めた考えを持っている人が多いことだと思うんです。私個人としては、そうした無気力や褪めの感覚には馴染めませんが、社会に対しては落胆する以前に初めから何も期待していなかったのだと思います。政治思想を経由せず、あるいは、私の読書体験がそもそも文学の領域からスタートしたという違いがあるのだと思います。 



政治活動に対する私の無知と淡白さって、文明の歴史は奴隷制なしではありえないという考えに終極するんですよね。で、文明ほど巧妙なものはないとニーチェなんかも言っていますが、奴隷制を高度に制度化する過程でそもそも奴隷制が存在すること自体が意識されなくなるという現象があって、それこそ古典ギリシア時代とか先進国がこぞって植民地支配を政策として取り入れていた頃に比べて現代の奴隷制はさらに見えにくくなりましたよね。現代では先進国の人も同様に無自覚に奴隷みたいなものですから。ただ奴隷制の高度化って現段階が終着点ではないと思うんですよね。


それこそ後進国に対するあからさまな搾取が存在するくらいですから、それは今から100年後くらいの人からしたら、私達が19世紀の植民地政策に対して抱くのと同じような嫌悪を感じるそういう対象になっているかもしれませんし、そうなるべきだと思うんです。そもそもユニクロの社長みたいにおおっぴらに搾取をひけらかして「批判には当たらない」なんて平然と抜かせるほど、社会がいつまでも愚鈍であるとは思えませんし。ジャック・アタリが人類総奴隷化の次は、クローンを開発して別の惑星に住ませ、彼らを消費者にすることで彼らから利益をあげるなんてSFみたいな話をしていますが、今のところそこまでテクノロジーは進化していませんよね。ちなみに、アタリに言わせるとその次は、クローンの逆襲だそうで、それってまんま有名SF映画のタイトルやないかい、というオチです。ただ、消費を別なところに作るという考えはもっとまじめに検討されてもいいですよね。無機物やクローンからの搾取は搾取にあたるのかとか、そこまでナイーブに線引きする必要はあるのかとか、それは別で考えるとして。


で、ポストモダン以降ってことですよね。ここでも、どういう風潮のなかでポストモダンを経験したのかと言うと、私の世代にとってポストモダンとは、既に終わってはいるのだけどなかなかその次が出てこないものという感じでした。耳蝉さんにとってのポストモダンも同じようなものだったでしょうけど、その時より支配力は弱くなっていたのだと思います。それで、私に限って言えばなぜかポストモダンディスる傾向が最初あって、それに対して原理的な大きな物語に執着していました。真剣に読みはじめたのはカントやニーチェハイデガーなのどのプレモダンを一通り経験してから後なんですよね。だからポストモダンが飽和して、表象に終始するようになったという地点までまだ追いつけてはいないです。ただ仰るように、ポストモダンの飽和にも意味があったでしょうから、そこまでは辿りたいと思っています。


なんか色々と言っておきながら、結局私も存在との戦いという点に戻ります。左翼系のイキきれないオナニーを越える本物のオナニーの開示(笑)繰り返しの書込みと、長文になってしまったこと、申し訳ございませんでした。対話を通じてさまざまな示唆を頂けたことを感謝いたします。それだけに、耳蝉さんにとっては既知でしかなかったのではないかとその点を不安に思います。


連帯さんの文章は僕のと違って凄くまとまりがあって読みやすいので、僕らの今までの対話の質の高いサマリーになっていると同時に、まとめられたことで要点が見えやすくなって、僕としてはハッとさせられるところが多くありました。


まず方法論ですね。僕がやろうとしていることはまさしくニーチェフーコーが行ってきたような方法と一緒で、結局、彼らですら「株式会社ニーチェ」でしかない現在において、そういった状況にどう対応していけばいいのかははっきりいって明確に分からなくなりました。それはあとは単純に知識の問題もありますね。特にフーコーは知識量に関しては並外れていますから、現在の状況に対応していく必要条件が彼ら並の知識であるならば僕はまたスタートポイントにも立てていないわけで、凄く無力感を感じますね。でもまぁいつも僕が書くように知識量なら時間と情熱があればなんとかなると思うんです。問題はその株式会社問題ですね。


僕らが普通に読書などから得られている知識は結局は会社のプロダクトが大半なわけですよね。いくら自分で考えたとは言えど、今回の話に関して言えば、連帯さんが言うイデオロギーから自由になっているか?と言えば絶対違うと思います。思えば世の中にあふれている本なんて大抵がプロダクトでしょう。それが悪いわけではありませんが、知の世界に幅を利かせている株式会社から自由になっている知というのは少なくとも僕は見たことがありませんね。まぁ強いて言えばゲーデルの哲学かもしれません。ちょっと話が逸れてしまいますが、僕がここ1年ぐらいゲーデルに惹かれているのは、ポストモダン的な意味ではなく、知識論的な意味でゲーデルが追い続けていた「数学とは何か?」という問題が凄く「知とは何か?」という問題に直結するような気がしているからです。


言語の乱用をするなら、よく数学基礎論である話はそもそもの数学のシステム自体が様々な公理からなっていて、でもその公理とやらは公理的に正しいとされるか、もしくは直感的や感覚的に明らかで正しいとされるものから妥当だと判断され、体系的なシステムがそこから構築されるわけですが、この妥当性とは何か?ということになるんですよね。厳密な数学基礎論的な哲学とは異なりますが、この妥当性というのは凄く今の僕に語りかけてくるものがあるんですよね。まさしくそれが僕らが前提としている知識そのものなわけです。言わば株式会社フーコーニーチェというのも公理とは違いますが、知においてはほぼ公理と同等なぐらいの大きな力を持っていますよね。


まぁそれは人によっては何が妥当かは違いますが、少なくとも僕らの議論の中ではフーコーニーチェデリダウィトゲンシュタインなどの哲学者の言説というのは公理と同等なぐらいの知の妥当さがあると思うんです。それをエポケーするというわけですが、それは数学のあまりに自明な公理をエポケーするのと同じぐらい難しいことですよね。僕も口では簡単に言いますが、その困難さは凄く感じています。あとそもそもエポケーするからにはまず完全に自由にならなければいけなくて、そういう意味で僕らは哲学にどっぷりだと思うので、悪く言えば哲学的知識によって不自由になっているとも言えなくもないと思います。


結局これは哲学においての守破離という気がするんですね。僕らは別に伝統的な哲学に忠実であるつもりはないが、でも結局は忠実になってしまっているんですね。だからもう自ずと「守」をやってしまっている。で、「破」の段階にはいると思うんですよね。そこでどうしようか?と迷っているわけですから。ただ守から破までは簡単ではないけれども比較的スムーズに来たのに対して、「離」の困難さが半端じゃないってことですよね。果たしてそれが可能かすらも分からない。理論的に言えば無知のヴェールやウェーバーの価値中立性みたいな不可能性があるように思えますが、あくまで両者は社会的な言説や態度におけるものに対して、僕らが語っているようなことは実存的でドメスティックな問題なので、そこまで極端な決まりきっているような不可能性があるとは思わないんですけどね。


僕が数学においても哲学においても普段から「バカの考え休むに似たり」になってしまうのではないか?という不安を感じるのも、連帯さんが仰っているオナニズムですね。まさしくその通りだと思いました。知や思考や抽象的なものを価値と考える人たちには普遍的に付随してしまう問題なんだと思います。数学においても毛色は違えど、あまりに抽象的過ぎるものには軽蔑的な意味でアブストラクト・ナンセンスなんて言葉がありますし、まぁこれは本来は肯定的な言葉だったんですが、軽蔑として使われることのほうが多い気がしますが、例えば色々と議論していて小難しい話や抽象的な話をしているが、結局はただのトートロジーに陥ってしまうというか、結局はトートロージーの証明をしているだけだとかなんとか、結局、問題となるコアの部分は「習性である」ということに帰結してしまい、その習性がなんであるか?と問うことに繋がるのにも関わらず、言語にしても数学にしてもその習性や自明性抜きではまず考えられない・・・というような袋小路に陥ってしまうだとか、自由や自明性や妥当性などを問うことになると、このような言語的なものが孕んでしまう問題にも繋がってきますよね。


でも別にそれは言語学的な問題というわけではないし、あと論理学的な問題ということでもなくて、少なくとも僕はそこの問題の部分を知識の問題だと考えていて、でも連帯さんに指摘されて改めて気がついたことですが、そもそもの知識というのが何らかの知識の寄せ集めによって形成されているものなら、そもそも最初から自由なんてないじゃないか!なんて思ったりしちゃうんですよね。まさしくどん詰まりの塹壕戦ですね。もしかしたら僕らは硫黄島の日本兵なのかもしれません。


そこを比喩的に答えを模索するという行為や自分の存在を未来にプロジェクトしていくことでまずオントロジーの話の部分を落ち着かせているだけなんだなとも思いましたね。まさしく存在は無だと思いました。でも結局、これしかないですよね。「もっと他に言えることは無いのか?」とか思いつつも、結局は何らかの形で存在を未来にプロジェクトしていくしかないと思うんですよね。まぁ結局はニーチェ的な、あとはドゥルーズ的な意味での生成としての哲学というまぁ結局は古い概念なんだとは思いますけどね。連帯さんが仰る世代的な意味でも連帯さんの個人的な読書体験からも言えるような無気力感というのは、ある意味での時代精神ですよね。むしろ思考していたらそうならざるを得ないし、諦めとは違うような、状況そのものがそれ自体として迫ってきて一方的に無気力にさせるような力があるわけですよね。で、僕が自分で虚しいと感じる「これしか言えないのか」と思ってしまうようなマッチョイズムが「本を読め!」とか「自分で考えろ!ということで、でもこれってようは極寒の場所で「寒いと感じるのはお前の精神力の無さだ!」って言ってるようなもんですからね。


寒いのはみんな感じているのに、それは精神的にしか超越できないものだって言い切ってしまうことで、結局は体育会系的な精神論になってしまうという・・・。あとはむやみやたらに何でもかんでも知で解決しようとするので、何か超越的なものを知の中に措定して、その存在自体は分からないが、プラトニズム的に何かがあるに違いない!って思い込んでコミットしたり人に勧めるとかっていうのも結局は宗教勧誘と同じじゃないかって思うんですよね。プラトンで言う「善」というものを最上級の価値観として盲目的に提示して、そこに誘おうとするのは結局は全てを神で済ませる話と同じぐらい無責任だなと感じているわけです。


文明の話は本当にその通りですよね。僕も散々書いてますがやはり奴隷は不可欠なんですよね。あと知能指数の分布のバランスも必要なんですよね。それは自然に分布がなされているとは思いますが、そもそも啓蒙というのはこの必然的な奴隷制の必要性と矛盾するんですよね。そもそも必要な奴隷に自由を与えて自分で考えさせるようにするって制度的な必要性と矛盾しますからね。でもそこは僕はここで書いてても思いますが、本質的に奴隷として生まれきた人には言葉は届かないってことなんですよね。ロゴスを必要としない人たちが大勢いて、そこにロゴスをインストールしようと思ってもそもそも意味が無いし、奴隷制の必要性からそれはやる必要がないし、だから必然的に話は小乗的なことになってしまうんですよね。ただ問題はnatural born的な奴隷は必要だし、ロゴスを届ける必要がないにしても、現在の状況は本来奴隷ではないはずの人たちにまで奴隷になるように強いてる環境がありますよね。


「奴隷になるのか?それとも人間やめるのか?」みたいな極端な選択肢を「将来を決める」みたいな名目で洗脳し過ぎなんですよね。元々理性的な人たちですらも大きな波に飲まれて選択肢や行き先を誤ることが多くなってしまいますよね。だから本質的な奴隷はともかく、奴隷になるべきではない人たちはやはり救われるべきだと思うし、そういうロゴスが通じる人たちにのみロゴスを届けるということはオナニーにはならずに成立するかなと肯定的に考えていますね。ただ大きなポイントはやはりこれ自体は奴隷制の否定ではないということですよね。奴隷制は絶対的に必要だけど奴隷になる必要がない人たちはならなくていいじゃないか!ということなので、そういう意味で全然反奴隷制ではないんですよね。別に能動的に奴隷制を肯定はしないけど、でもシステム的に必要なようになってしまっているから、どう考えても否定は出来ないってことになるんですよね。僕はこの考えに至るまでにえらい時間がかかりました(笑)


ただ僕も現在の奴隷制は人道的に許されるべきではないし、恥ずべきことだと思っているので、「奴隷は奴隷でいいじゃないか」なんてことは微塵も思わないんですよね。それこそ奴隷がやるような仕事はクローンかロボットにでも任せておけばいいのかもしれないけど、でも問題は現在のロボット化されている人間達が労働力を売ることで成立している強固な社会基盤というのがあるので、逆にロボットやクローンなどで労働力が代替可能になってしまったら彼らが食いっぱぐれてしまうというような、ネオ・ラッダイト問題みたいなものは解決できませんね。かといってもベーシックインカムをやれるほど豊かな社会が来るとも思えないし、あとは逆説的に日常がルーティン化されているから生きていける人たちが自由になり過ぎて路頭に迷うという可能性もあるんですよね。これは僕がベーシックインカムの話をしていた時に、書き込んでいただいた人から指摘されたことで、本当に膝を打つような思いがしました。


労働力搾取は悪いように見えるが、実際は恩恵を受けている人たちも大勢いるということですよね。そこがなかなか労働力搾取=悪に出来ないところではあるんですよね。だから労働で自己実現!なんてのは妄言にしても、ある人間にとってはそれが恒常性を保つために必要不可欠な要素だったりすることはあるわけですよね。まぁでもこのぐらいの度合いの話になると、いきなり明日から労働力を電子化ってことにはならないでしょうから、徐々に行われていくので人類はそれに適応していくとは思いますけどね。ただその先に全ての人間が労働から解放されたユートピアがあるのか?というと最近は凄く懐疑的ですね。なにしろ実存的な悩みのというのはむしろ自由からもたらされるものですからね。みんながそういう悩みを持ち始めたというのは社会が発達した証拠であるという意見には凄く説得力を感じます。


ところでクローンの場合、逆襲はあるでしょうね。何しろクローンといってもそれは人間で我々と同じような自我を持っていますから、クローンを奴隷にするというのは人道的に不可能でしょうね。だからやっぱりロボット化ということになりますが、でも遺伝子操作でロボットのような人間は恐らく作り出せるんでしょうね。人体は我々と同じような生身だけど、脳はそれこそロボット化されてるっていう。苦痛などを感じないようにさせてオペラント条件付けのように労働に対する対価を食欲や性欲といったものに結びつければ彼らは永久機関として働き続けるかもしれませんね。んーでもこうやって書いていて現実の世の中と大差がないように感じてしまいましたが・・・。


ところで連帯さんのポストモダン経験なんですが、本当に新世代の体験そのものって感じがしますね。ディスるようになったのってポストモダンを超えなければいけない!っていうような雰囲気とか、あとはポストモダン的なニヒリズムに抗う必要があるとか、本当にここ最近の動きだと思うんですよ。それは凄く良いことなんですけどね。そもそもポストモダン的なものがクールの象徴として消費されるとかってまぁ結果でモノを言うようになってしまいますが、やっぱりそれって社会に余裕があったからですよね。分かりやすい意味での消費とかお金の動きってのがあったから、それをメタ的に観察するインテリの態度として成立していたように思うんです。


でも僕らの世代とかってポストモダンキラーなんですよね(笑)そもそも最初から消費が成立してなかったし、景気が良い時なんてのを経験してないので、そもそもポストモダン的なものをクールなものとして享受できるような感受性が良い意味で育たなかったってことですよね。むしろ僕らのような世代が共感するのってマルクスとかあとは日本の実存主義的な文学とか、とにかくあの行き詰まった感じですよね。で、とにかく生きるのが辛い感じですよね。それがまさしく時代精神だと思うんです。だからそこに「ポジティブになれ!」とか「希望を持て!」という言葉を持っていっても、先ほども書いたように極寒の地の人たちに「寒いはずないぞ!」っていうようなもんなんですよね。そのぐらいの虚無感というか無気力さってのが寒気ぐらいのヴィヴィッドな体感としてあるわけですよね。それは思い込みだと言われても寒気の場合、とりあえず寒いわけで「寒くない!」と言われても感覚的に寒い!って感じますからね。そのぐらいある意味でのペストのように無気力さとか絶望って時代の空気になってるんだと思います。


言うまでもなく僕もそれに飲み込まれている一人です。ただちょっと違うのは僕の世代の場合、まだ若干景気が良かった時代の雰囲気とかは残ってたし、ブランドものとかJ-POPとかがありえないぐらい売れてたみたいな状況を体感していたので、デフォで無気力というほどどうにもならない感じではないとは思うんですよね。だからこそ能天気に「変えなゃ!」って思えるのかもしれないし。もちろん今はもうそこまでナイーヴではないですけどね。


あ、ところでこのパターンになると僕は相変わらずエンドレスに毎回書き続けてしまうので、返信は何かあればまた書いてください。その場合、長文であればあるほど大歓迎です。あとはまぁ要点だけでもいいんですが、僕は文章的には全然経済的じゃないのでこういう長い返信しか書けないんですよね(笑)そういうわけでまた何かあれば返信ください。あ、なんで僕がこういうことを書いているかというととりあえずひと段落したのかな?とは思うからなんですよね。僕が今回書いていることは繰り返しのことが多いし、特に目新しい何かを書けたとは思えないので、もし返信に値する何かがあればまた是非お願いします。

Epimbi 2012/11/07 13:17


mimisemiさんのニート論あれこれ読み直しています。で、気になるのはやはり落としどころなのです。ソフトランディングの青写真をどう作るのかというようなところです。大問題です。似たような境遇にある人多くの人にとっての問題でもあります。欲望としてはコンテンツ生産です。文章あり、画像あり、音楽あり。人によってはコンテンツの価値の問題をすでにクリアしている方もいます。それに引き替えエコシステムは整備されていません。コンテンツを生産してくれる人をささやかながら支えていきたい、自分のできる範囲で。という方はいると思います。知恵を巡らせば、生産者を支えることは、どこかで自分も生産者として支えられる側に立てるかもしれないという希望につながるからです。うまい具合にシステムが構築されればです。mimisemiさんの嫌うシステムでもあります。でも、史記をみればわかるようにはじまりとしてのシステムは牧歌的なイメージです。善きものです。支えあいです。結果的に中心と周縁が出来上がったとしても、
熱力学の法則はそれ以上のものとして自然を存在させてくれないのかもしれません。非力なカミサマを恨むしかありませんけど、今のところ彼にしても精一杯の作品なのかもしれません。


脱線しましたけど、問題はエコシステムの構築であり、当座の目標はエコシステムの足場をつくることだと思います。すでにエコシステムの要素はあると思います。ネット上にはさまざまなコンテンツありますし、コミュニティもあちこちに出来上がっています。それらが要素であると思います。私は下町の商店街で育ちましたけど、母は近所の肉屋さんや魚屋さんで食材を買い、近所の人も母の洋裁店のお客さんになってくれました。経済という要素もありますけど、モノやカネを媒介にしたコミュニケーションでもあり、母の洋裁店は一種の集会所でもありました。お金を払ってくれるはずのお客さん達は、お金ばかりか旅行に行ったときのお土産とか、畑で獲れた野菜などももってきてくれました。


もちろん母は利益をのせて洋服をつくっていたわけですけど、私は牧歌的なものを感じるのです。そういった形態は文化生産の今にも適用できないのだろうかと思うのです。ペットを飼う人は大好きな犬や猫や金魚を生かせておくためにエサを買ってきます。鳩にパンくずを与えてくれる人でさえ身銭を切るのです。そんな感じでネット上の誰かを生かせておくために、パンくず程度の身銭を切ってくれる人を集めたり、また自分もパンくず与える側に回ったりしながら、全体が維持される、そういうユートピアってないのでしょうか?ユートピアってどこにもない場所だし、下町の商店街も外からみるのと内側からみるのとでは違ってくるでしょうし、苦さはどうしても入り込んでくるとも思うのですが、よりましな世界像というのはありそうな感じがするのです。


事実、三食、白米食べているではありませんか。これも先人の血の滲むような努力だったり、下手をすれば戦争の遺産でさえあるのかもしれません。また脱線しましたけど、エコシステムは何も偉い設計者が作り上げるものではないのかもしれません。トップダウンでつくりあげても、ブラジリアの街が魅力なかったり、筑波学園都市が筑波病を生み出したりなどよくないことも起こります。むしろ、ボトムアップなローカルな個々の営みに期待したいです。といっても具体的なことはイメージわかないのですけども。


個人レベルでのソフトランディングの試みも要素に分けることが肝要だと思っています。団体旅行でなく、個人旅行、もしかしたら社会の中での冒険の道を選択した人々は遭難の危険にあります。踏み慣らされた道から外れると遭難の危険があることから旧世代の人たちはシステム化されたベルトコンベアーのような人生行路を整備したのだと思います。それはそれでともかく「食えた」という意味ではさきほどのエコシステムの整備です。でもそれも老朽化してベルトコンベアーから降りたり、落ちたりする人続出です。それが現状です。とりあえずは家庭がセーフティネットになっています。もちろん期限付きで。その期限も思っているよりは早くきてしまうわけですけど。そういうことでソフトランディングの方策を練る毎日になります。


先ほど書いたように要素に分解しないと頭を抱えてしまいます。他人からそう見えるよりは自分の人生について考え、かつ知恵を絞っているのですが、外から見えるよりも多分難問です。出来上がった道の上で生活している人にはわからないと思います。難問ではあるけども、似たようなところで悪戦苦闘している人は結構いると思います。自分ひとりの問題ではありません。とりあえず、声を出してみることは大事だと思います。同じ問題を抱えている人が答えてくれるかもしれないし、一つか二つ峠を越した人がアドバイスしてくれるかもしれません。もっともアドバイスと称して、腹をすかせた狼やら鮫を呼び寄せかねない危険な賭けでもありますけども、、、、


エコシステムに関しては基本は全く同感ですが、ただ気になるのは最近のコンテンツの流れですよね。あ、内容というよりかは消費とかの流れです。僕が思うにフリーコンテンツって増えたし、面白いものにフリーコンテンツが多いような気がするんですよね。なんかある意味でそれの典型みたいなのがまとめサイトなんですよね。別に何を作っているわけじゃないんだけど、寄せ集めや何かのトピックに関する話し合いとか怖い話とか死にそうになった話とか、コンテンツと呼べるほどではないにせよ、でも集まるとなぜかコンテンツに見えるんですよね。別に文章力とかなくても不思議な体験とかって書けるじゃないですか?捏造じゃなかったら別にありのままを書けばいいわけで。そういったものが過去に本として出版されていたような不思議な話の寄せ集めとかよりも面白くなってるって凄いことだと思うんですよね。怖い話然りですが、スカイプでやってる怪談があって、それがまたえらい人気なんですよね。ファンキー中村という人が怪談界のスターみたいになっているのでその話芸のカリスマ性もありますが、これも元々はフリーコンテンツなんですよね。最近ではとっておきの話とかはライブやDVDなどでやっているみたいですけど。


でもまぁ基本フリーなんですよね。で、フリーに慣れすぎてしまった。僕もそうです。あとよく言われるのは見たり聞いたりするのに最初から金が必要となるようなコンテンツに面白いのがないんであえて金を出そうと思わないみたいなところですね。で、無料コンテンツは金を出すわけじゃないし、つまらなかったら見なければいいわけだし、だからリターンしかないんでそりゃみんな群がりますよね。でもこれの面白いところはコンテンツ自体は別に意図的にコンテンツとして作られたものではないということが多いところです。


このいつの間にか普及しているフリーコンテンツという地盤に対してどうやってそこからエコシステムを作るか?ってことですよね。でもこれはどうしても善意が前提になってしまう特にとセコイやつらとか金は一銭も出さないって連中が多いですから、僕はあまり現実的には思えないんですよね。むしろ僕はそれこそがベーシックインカムだと思ってるんですけどね。お金ってもう貯金するためのものになっていますが、もっと流動性を増やしてむしろ使わなければいけないものっていう風にすれば良いお金の循環が生まれそうですけど、でも今の経済システムでは絶対無理ですよね。みんな貧乏になり過ぎましたからね。だからケチでも金が払われるようなシステムじゃないといけないんですよね。


やっぱりユートピア的な発想になると善意で払う人がいるってことになると思うんですけど、実際は全部タダのほうがいいって人が大半だと思うんですよね。CDもレンタルで書籍は全部図書館とか僕の価値観で言えば考えられませんが、そういうのでオッケーって人が大勢いますからね。コンテンツに対するリスペクトってない人が多いと思うんですよ。あとは知的リソースとか知的・芸術的財産に対するリスペクトだとか。僕にとっては特に本なんてものはその人が何十年もリサーチしてきた結果だったりして、もう血が滲んでるわけですよね。それを買わないってどういうことなんだ?って思えるんですけど、でもこれって僕の価値観で他人には押し付けられませんよね。


いや、そこまで思い入れはなくてもコンテンツ自体にやっぱり金を払わなきゃいけないっていっても別にタダでも見れるならそれでいいじゃん!ってことになっちゃうと思うんですよね。牧歌的なモデルはやはり性善説に立っていますからそれはなかなか難しいと思うんですよね。性悪説に立ってもお金が回るようなシステムにしなければいけないんですが、それで言うと現在の僕らが享受しているフリーコンテンツに対してお金を払うような感覚だと思うんですよね。それは今の状況では無理ですよね。食費すらも浮かせたいぐらいの感覚の中でフリーコンテンツに金を払うような余裕って出てこないですからね。たったの何百円ですらも払わないって人多いですからね。僕はガンガン金を使う家に育ったので、おかげで今も家族の貯蓄がゼロですが、そういう感覚って理解できないんですけど、本当に世の中にはケチな人が多いんですよね。金出さないくせに楽しみたいっていう都合の良い人たちが多いわけで、でもそういう人たちのニーズにフリーコンテンツって結果的に答えてますよね。


僕もこういう話に関してもしょっちゅう色々考えますが、やっぱりそれは人々の意識というよりかは余裕がないと無理だと思うんですよね。みんなそこそこ金が使えないと難しいですよね。まとめサイトで言えば管理人は収入があるとは思いますが、あれって匿名のコンテンツの寄せ集めじゃないですか?僕が理想とするのはやっぱり発信者そのものにお金がいくような形なんですよね。でもそれってネットに書いた怪談とか面白い話でお金をもらうようなものなので、それがどう成立するのかはわかりませんが、でもなんか既存の意味でのコンテンツとは言えないようなコンテンツが今は面白いと思うんですよ。まぁブログなんて最たるものですよね。でもそれがどうしても今の僕らの金銭感覚から言うとお金を払うものではないんですよね。でもそういうものから楽しみを得てる人たちが多くなったわけですよね。


なんかうまく説明できないんですが、コンテンツにしてもガッツリとコンテンツです!って言うほどしっかりしたものじゃなくて、適当に書いたものとか日記とか思ったこととかを流しているという緩いレベルのコンテンツが生活の中にあふれていて、それは一個一個で見るとコンテンツが充実しているとは思えないんですが、全体で見ると小さい緩いコンテンツの中で生きてるなぁーって思うんですよね。でもそれらは仮に付加価値をつけられてパッケージングされても恐らく買わないようなものばかりなんだけど、でもワンクリックなら見続けるんですよね。


だからお金が回らないんだけど、でもワンクリックの良さが小さい緩いコンテンツの武器だと思うので、だから消費され続けてると思うんですね。だからなんというかマネタイズとは程遠いし、マネタイズされてないフリーのものだからこそ自然に生き残れる原理みたいなのがあると思うんですよね。だから別に今まで通りでいいとは思いませんが、ただ投げ銭システムだとか、こういうのは僕は散々書いたように性善説に立っていると思うので、とてもじゃないけど成立するとは思えないんですよね。


あとはこの僕が言う規模が小さいフリーコンテンツにお金が回るような付加価値や商品化ということはそのフリーコンテンツの性質と相反してしまうものなので、その辺を埋める何かがほしいなとは思いますよね。まぁコンテンツというよりかはインフラですよね。でもそれは具体的な目立つ作家とかアーティストがやっているわけではなく、匿名性が高かったり、そこまで有名ではない個人が規模の小さいインフラをローカルに作り上げているっていう、そういう意味でEpimbiさんの言う個人レベルでの冒険って絶対それがそもそもの文化の基盤だと思っているので、ローカルな営みというのは絶対だと思ってますが、まぁそれで食えなくて遭難してしまうわけですが、とりあえず暫定的なニート論で言えば、勝手に好きなことをやってるやつらは勝手に俺らは文化を担ってるんだ!とかローカルなインフラ設備をしてるんだ!とかって思えばいいんですってことになるんですけどね。金になってないけど凄く価値のあることなんだってまずはやってる主体が見出さないと始まりませんからね。そういう意味で凄く本質的な個の時代だとは思うんですよね。でもそれは道楽として見られてしまうので、実は物凄い社会貢献をしているんだっていう意識が必要になってきますよね。


でもまぁそういう個人が結局は家族というインフラも失ったら遭難してしまうというのは事実なので、好きなことをやってればとりあえずいいんだ!なんて言い切れるほど楽な話ではなくて、そこは本当になんとかしたいですよね。お金はともかく面白かったらやっぱり積極的に評価をするという基盤は必要ですよね。ネットやフリーの文化って道楽的であればあるほど面白いわけですから。