Epimbiさんへの返信。

Epimbi 2012/10/29 13:23


ニート論の感想です。ま、私は制度上は精神病者で、狭く分類するとニートには入らないのかもしれません。ただ、現在状態の比較的良好な、いわばうまくいっている精神病者というのは妄想とか幻聴とか目立ったわかりやすい症状というものはないわけで、そういう意味では私は患者ですと言い立てるのはなんだかおこがましいような気がするのです。じゃあ障碍者雇用とかで働けばいいかというと、実際データベースの入力等で6年ほど働いたわけですが、もっと自分を活かすすべはあるのではないかとちょっと欲をもってしまって、今は図書館に入り浸って読書三昧の日々を過ごしています。


ただ、文化消費だけでは時間を浪費している感じがするので、ブログ書いたり、画像つくったりするわけですが、それをもって文化生産と言い立てるのもちょっとどうかなと思うので、まあ、日々考えたことの記録ということにしてます。現在精神障碍者向けの自立訓練施設にかよってたりするのですが、労働をしているわけではないので、自分の中ではニート周辺群という感じだろうと思っています。状態の比較的よい患者なので、患者としても周辺群ということなのかもしれないです。ほかにも初期のリウマチも罹患していて、まあ、生殺し状態といえばそうなのですが、まだ私は救われていると思っています。


問題はmimisemiさんの書かれたリテラルニート。ただ自分としては人生のめぐり合わせ自体が彼らとは違うかもしれないのであんまりパッシングもできません。私は幸運なことに熱中できることが今ありますけど、無趣味な人が最初の趣味をもつとか打ち込めるものを探すのって非常に難しいのではないかと思うのです。努力してもどうせ報われないと思っているかもしれませんし、実際今、いま私が経済的だったり、社会的だったりの形で報われているかというとたぶん報われていないのですが、それでも主観的にはそこそこ毎日は充実しているのです。


無為に毎日を暮らすというよりは一般社会人とはカタチは違うかもしれませんが勤勉だと思います。無償労働みたいな形でテレビもゲームもすることなく何かに打ち込んでいるのは真実です。といっても知れた才能というか、感性のほかにも論理的に考えるのが苦手だったりして無駄に毎日頑張っているのかもしれません。でも、笑えば笑えです。それも「いま」という時代を象徴している何かであって、私を動かしている何かに個人の力を越えた時代のうねりみたいなものを感じます。


リテラル意味でのニートが何か思い立つことができさえすれば、順序を踏みながら自分の力を上げていって「そこではないどこか」にいけるための登山道ができればいいのになあと思うのです。私はけもの道を歩いている感じで、藪漕ぎしながらもがいてもがいて毎日過ごしているような感じなのですが、さまざまな人々の生き抜こうという努力みたいなものが踏み跡になって、自分では気づかないカタチで後から歩く人の参考になればいいなあと思っています。私自身、どこにいけるのかわからないし、野垂れ死にしてしまうかもしれないし、結果はわからないのですが、私の入り込んだ迷い道ふくめて、多くの人の試行錯誤がなんらかの意味での道しるべになればいいのになあと願うばかりです。と書きながら、具体的に何やっているの?と聞かれても、単に何か読んだりみたりして、考えて、何かくだらないもの吐き出しているだけであって行動的とはいえないかもしれません。


でも、ことばにして初めて声となって誰かに伝わるかもしれませんし、一つの声の背後に声にならないさまざまな同じような声を誰かが聞き分けてくれるのかもしれません。そんなことつらつら考えました。mimisemiさんは野生の数学者なのかもしれません。mimisemiさんを通してそういうカタチもアリなのかなあと思う人もいるでしょう。mimisemiさんの存在で初めて可能になる次の世代もでてくるかもしれないし、極私的なことも、誰か遠くで見ているのかもしれません。今日はこのへんで。文章読んでくれてありがとう。


僕もおこがましいレベルの精神病者なんですよね。だからなんというか言葉的にはHighly Sensitiveとかそういう感じがしっくりくる感じで、まぁつらいことはつらいんですが、それこそ精神病患者と言われるほどの人に比べれば明らかに症状はマイルドですね。でもマイルド=楽ということではないんですよね。でも経済的なサポートがあれば一人で色々とやれるわけですし、そういう中で何もしてないと見られるとやはりニートの烙印を押されやすい気がしますね。でもマイルドな精神病の人と健常者の壁って近いようで凄い隔たりがありますよね。だからこそ理由があって何もできないという人と理由がなくただ怠惰で何もしないという人の差は凄まじいはずなのに、いっしょくたにされますから、そこがようはニート問題の本当の問題ですよね。ようはニート問題と言われ提示されている問題の提示の仕方に非常に問題があるわけですよね。


まぁそれはエントリーに書きましたが繰り返しませんが、でも僕もやはり実際のところ、リテラルニートを冷ややかに見ることはできないんですよねー。自分にはたまたま好きなことがあったりしてそれが故にリテラルニートと違う自分がいるというだけで、仮にそれがなかったらただのニートなんじゃないか?というのは本当にいつも思いますね。まぁリテラルニートになるのが怖くてだからこそ好きなものは極めようって思うんですけどね。極めたい!という気持ちもあるけどニートとの差が紙一重なんでニート化したらダメだ!っていうのはありますよね。全部want to原理で動くといってもゲームばかりwant toしてもしょうがないわけですよね。それこそゲームばっかやってるニートになります。まぁ僕はハマると本当にニート状態になりますね。でもやっぱり数学のほうが最後は勝つんですよね。やらなければ!とかニート状態じゃないか!みたいなゲームばっかやってたとしたら学問に対する後ろめたさが生まれるわけですが、やはりそれとは別に数学の本は読みたくなるんですよね。何しろ面白いですからね。あれは代替不可能なものですね。ほかの楽しいことと入れ替えができない楽しいことです。


まぁ結局、僕はそれで社会進出を目論んでいたわけですが、一応アメリカでレールには乗ったもののまたもや外れてしまったので、またけもの道に戻ったって感じはありますよね。でもまぁ哲学でもそうなんですが、性質上、別にアカデミックば場にいなければやれないということではなくて、それこそ両方とも場を選ばないって言われる学問ですから、だから環境的なことは実はあまり重要じゃないんですよね。でも環境的なことが、それこそフリーターとかニートと変わらないような環境なわけですから、そこはEpimbiさんもおっしゃっているように、もがきながら先に進むしかないんですよね。何かの必要があってやっているわけじゃなくて、「いま」を生きるために、それこそ強度の確保のためにやっていることでもあるし、あとは「そこではないどこか」に行くためにもやっているわけですよね。行けるかどうか分からないけど進まなければ行けないのは目に見えているので、だからとりあえず進むって感じですよね。そういう生き方は貫徹すれば多くの人の道しるべになると思うんですよね。


でもそこで難しいのは、知のマッチョとも言えるような、けもの道で学問をやり続けるって方法はそんなにメジャーな方法ではないんですよね。ようはさっきも話に出ましたけど、そもそも好きなことがない人がいるわけですし、あとはそんなエネルギッシュな人ばかりではないっていうことなんですよね。いやーあなたたちはそれができるからいいけど・・・って言われると何も言えないんですよね。それは僕らには打ち込めるものがあるからそれを前提で道しるべと言われても参考にならねえーよって言われたらそれまでですよね。それは僕の長年の盲点だったわけです。毎日打ち込めることが身近にあるって、これはこれでかなり恵まれてる話なんですよね。Epimbiさんも僕もとりあえず本があれば・・・ってことでその手軽さは共通してますよね。いかに好きなことが身近にあるというのが素晴らしいことなのかってのを相対的にですが感じます。好きなことや打ち込めることは無を有に変える力があるっていうかなんていうか。でも僕としてはやはりやっているだけでは無は有にならなくて、それこそ分かりやすい形で伝えられるような形になれば自分もいいし結果的に道しるべ的なものにもなりますから、そこはやっぱり「自分は好きなことがあってよかった!」じゃなくて、まぁ勝手にですけど、何かやはりミッション的なものを背負わなければいけないなって凄く思うんですね。


そこから来る辛さはそもそも背負ってるわけでそれは不可避ですよね。でも別に毎日会社に行かなきゃいけないわけじゃないんだしそのぐらいは背負うし背負うべきだろうって思ってます。次の世代にそんな形で例えばちょっとした結果とか出るとそれこそ言葉がより伝わりやすくなりますからね。それは自分が凄くやりたいことですし、だからやっぱりあきらめたくないんですよね。まぁといっても僕はやっぱり野生なのでやめるということは無さそうな気はするんですけどね(笑)やっぱりでも自己満足だけじゃない何かって凄く自分が求めてることだなって今回のやりとりで凄く思いました。凄く励みになります。