連帯さんへの返信。2。

音楽と愛と連帯 2012/11/08 10:14
 

まず、知識量の問題なのですが、これって現代において公理同等の妥当性を与えられた哲学的知に対して私達に何ができるのか?という問いと大部分重なりますよね。この問いに関しては、仰るように単に知識量の多寡が問題ではないという点が難しいですよね。知識を量的に捉え、フーコやローティを越える知識量を想定することはできますが、知識とは量的なものではなく、むしろ、周辺に対して襞上の形態をもった、中心の無い、流動的なものかもしれません。フーコーの中世や古代ギリシアの知識については、キース・ウィンドシャトルというオーストラリアの歴史家が、ずいぶんと恣意的ででたらめなものだと論文で指摘していました。ハイデガーギリシアの知を復興すると言う際にも同様の恣意的な操作が施されているのかもしれません。


「哲学的な知識によって不自由になっている」という感覚は私も同様に強く持っています。ただ、この不自由さは価値をいまだに相対化しきれいていないことから来るのかもしれないと思いました。ニーチェフーコー、もっと言うと哲学の価値を今でも強く信じていることが枷となっているのかもしれません。世界を構成する様々な知に対して哲学の領域というのは狭すぎると改めてですが感じました。現代思想に対しても同様に狭さを感じます。


別にノイズが好きでなくても哲学者になれるでしょうし、B級映画を観なくても同じくそうでしょう。あるいはSFを読まなくても物理学者になれるでしょうし、元ハッカーでなくても小説家にはなれるでしょう。ただ、これらの不必要にみえることを敢えてやるということが面白さを生むのかもしれません。少なくとも私が好きなのは、カルコフスキーやジョン・ケージしかり。アカデミックであるならばらアホでもあれというあの精神です。ですから耳蝉さんの数学への傾倒はディレクションとして非常に面白いと思います。あとwant toベースということを仰っていますが、その姿勢と振り幅の大きさこそ、狭い哲学的な公理や現代思想を越えて自分の頭で思考するために何よりも必要なことですねよね。


私も、これでとりあえず一段落したかなと思いました。付け足しのような形で思い当たったことなので、特に何もなければ返信は結構です。いつか、今と展望が大きく変わり、別の見方で考えることができるようになったら、また書込みさせていただくかもわかりません。その際またお相手していただければ幸いです。それではこれで失礼します。


知のでたらめさは難しいですね。これはいつも僕が感じることで、例えば碩学って言葉があるじゃないですか?彼は凄く碩学だといっても、その知識の正当性って誰がチェックするんだ?って、例えば科学系なら科学者がいちいちチェックして、哲学なら哲学学者がチェックして・・・みたいな感じで、知識の正しさって常に恣意的だと思うんですよね。それはフーコーが言うような相対主義的な意味ではなく、誰もその人の正当性なんてわざわざチェックしないので、どこまでが正当でどこまでがでたらめなのかが分からないってことになるんですよね。


例えばフーコーにしてもキース・ウィンドシャトルなどの論文が無ければ普通の人は相当な歴史家でもない限りフーコーの知識はホンモノだっていうか、まぁ少なくともでたらめだとは思いませんよね。正しくは「でたらめなところが多い」ってことで全てがでたらめというわけではないのでしょうが、これを疑い出すと何も信じられなくなるんですよね。その分、哲学というよりかは自分で勝手にやる思索は良いですよね。正当性とか関係ないし、哲学者について語るにしても「自分が思うに」って言ってしまえば自分の解釈でいいわけですから正当性なんていらないわけです。むしろその正当性を提示するのが自分の仕事ですよね。


そういう意味で僕は絶対に学者や研究者にはなれないなって思いますね(笑)ただフーコーの場合、かなり痛いですね。それには歴史的事実っていうのがあるので主観に依存しない客観的な知識のところに関して恣意的ででたらめなところがあるとそれは相当マズいですよね。でも史実などがでたらめでもフーコーがやった分析って価値があるので思想としての価値は下がらないとは思いますが、それは恐らくソーカル事件でディスられたポストモダン系の哲学者全般にも言えると思います。比喩や数式がでたらめでも思想においてはあまり影響がないですからね。でもまぁドゥルーズなんかは無駄が多過ぎて読んでいられませんけどね。それはハイデガーが生み出した無駄に晦渋に書くスタイルってのがなぜか哲学の書き方の主流になってしまったような感じがしますね。要点を書けばそんなに大著にならないのに・・・ってことを言い出すと何もポストモダン系の哲学者に限らず無駄に晦渋になってしまっているのは多いと思いますね。まぁ僕も彼らとはレベルは違いますが無駄に長いので全く人のことは言えませんけど(笑)


ちなみに指摘されないとさっぱり分からない別な例として、全然性質は変わりますが僕は超ひも理論の適当さ加減には凄く唖然としました。あれも専門家のチェックが入らないと普通の人はさっぱり分からないっていう良い例ですよねというか、これについてはちょっとまた色々と思うところが出てきてしまって長くなりそうなので今は書きませんけど、ちょっと書くと、例えば社会分析や哲学などが誤った史実や思想の解釈から生まれてきたものでも、結果、世に影響を与えるものであったり、価値があると言われるものであればその元になった史実や知識の正しさってどうでもいいのかな?とも思ったんですよね。フーコーで言えば史実的なところは都合良く解釈されていて歴史家はなかなか黙っていられるものではないんだけど、でも結果として出てきた分析や言説というものは凄く影響力があって価値があるものとされているってこれは「正しさ」の尺度からだけではなかなか評価できないものですよね。まぁ結果よければ全て良しというような単純なことではないんですけど、ただ「正しさ」と「価値」って関係あるのかな?って思いましたね。まぁ分野によるんでしょうけど。


哲学に価値を感じるという話なんですが、僕も特にここ1年ぐらいは数学を割と熱心にやるようになったんですが、結果的に没入していた哲学の世界を相対的に観察できるようになって、だからこそ過去の自分が言っていたことや感じていた価値観というのがいかに哲学に絶対的な価値を置いたものだったか?というのを痛感させられたんですよね。別に価値わを感じることはいいんだけど、結局、それが不自由にしていることが凄く多いと感じているし、わざわざなんでも哲学に帰結させるような考え方とか、自然にやっていてもそれは結局は哲学の領域に飲み込まれているんではないか?って凄く最近は感じるようになったんですよね。だからこそ知識って何だろう?って凄く思うようになったんです。あとはまぁ集合論圏論などの影響も大きいんですけどね。


そういう意味でも僕の数学への傾倒は自分ながら凄く面白いなというか、哲学だけに留まることを止めさせてくれたってことでも凄く重要なんですよね。数学があることで哲学でアホであることができるし、哲学があることで数学でアホであることが出来るので、この両者の相互的な関係が凄くアホであるってことにとって凄いパワーを生んでいるんですよね。といってもそれは例えば集合論を神学に発展させてしまうような、本当に痛い意味でのアホさではなく、もちろんカルコフスキーやケージ的な意味でのアホさ加減ですね。ちゃんと押さえているところは押さえていてそれでアホであるっていうのは完全な自由とは違いますからね。その押さえているところを押さえるということがまず僕が数学でやらなければいけないことなんだって今は思ってるんですよね。数学に関しても専門分野をしぼることが必要だと思っていましたが、やはりまずその前に色んな分野にある程度精通するということが数学的なパースペクティヴを提供するものだということが分かったので、凄まじく時間はかかりますが、基本は押さえるってところはやはり必要だなと思いましたね。


とりあえずやはり思うのは知は力だなってところですね。でも知識量とかではなく、結局それは狭いところに留まらない広さを提供するものだと思うんですよね。そういう意味で専門知とは正反対のものですね。まぁ理想なのは様々な分野の知識を専門レベルで身につけていることです。だから知=価値なのではなく、知=パースペクティヴという観点から知を捉え直したほうがいいなと今回のやり取りで思いました。


でもその場合、want toベースでやっていると自分の好みに偏りがちになるので、意図的にパースペクティヴというものに今まで盲目的に信仰していた知への愛を移す必要があると思いました。結局、知への愛は盲目を生むだけだなと痛感したんですね。結局、哲学への愛というのは一種のフェティシズムですよね。知=哲学的なものになっていまってはただの盲目のフェティストの出来上がりなので、そこを知=パースペクティヴとして捉え直す必要があるなと繰り返しになりますが思ったんですよね。


今回のやり取りでは自分のモヤモヤしていたものが解消されたような感じがしたんですよね。変な言い方になりますが、連帯さんには凄く感謝をしています。凄く良いやり取りが出来たなと思っているんです。自分で思っていても言語化しなければはっきりとしないことがあるし、まぁそのために僕は普段から書いているわけですが、それが対話によって言語化され精神によりヴィヴィッドな形で顕在化したという感じがするんですね。そういう意味で凄く対話の神髄みたいなのを感じさせていただきました。


連帯さんの美しい文体と豊富な知識に裏打ちされた文章は僕にとって凄まじいインスピレーションの元となったので、今後とも何かあればまた是非書き込みをいただければと思います。