知のゲシュタルト崩壊。

なんでも疑うっていうと疑うことが原理になるじゃん?懐疑主義になるよね。それは正しいのか?とまず思うことが必要ってまぁ必要ではあるけどさ、疑うことが原理になるとそれはもはや疑うということではなく立場になるよね。まぁ正しさとかが相対的になっちゃうのはしょうがないとして、知識そのものが相対的になると本当にやっかいだよね。フッサールなんかはそれをクリアしようとしてたと思うんだけどさっつーかクリアじゃないのか。知識に対して主/客という構造は成立しないっていう事実を提示したってことになるのかな。でもなんかさ、やっぱりあれだよね、問題の根本が人間の認識にあると思うんだよね。主観が色々な邪魔をしてるんだけど、主観なしじゃ何も成立しないし、主観を無くすということは言葉で言えるけど実質的には無理なんだよね。どこまでの範囲をイデオロギーとか通年としてとらえているのか?ってのは凄く重要なポイントで、そう思うとやっぱりあれだよね、連帯さんとのやり取りにもあるように、哲学に価値を置きすぎると見えなくなるものってのがあってっていうか、例えば思考の枠組みが神学なんであれば思考は自ずと神学的になるじゃん?神を軸にするのか教えが軸になるのか分からないけど、でも何かを軸に置くってのはたいていまぁ宗教的になるわな。


哲学ってまぁデフォなら無神論だと思うけど、でも「知」というものを超越的な軸として置ける存在として置いてるよね。いや、そうじゃないんだ!って言われても結局、そうじゃないと言いながらやってきてもそうなってるもんね。ニーチェの破壊者っぷりとかフッサールの突き詰めっぷりとか哲学キラーだと思うけどさ、結局、それすらも哲学に組み込まれてるっていうさ、むしろ現代思想なんて立脚点がそこでそこから生まれてる言説なわけだから。でも哲学者って分析哲学者とかならともかく、たいていは別に完璧な正しさなんて求めてないと思うんだよね。そんなのあるわけないのは分かりきっているんだけど、でもその知の構造というのを分析するとどうしてもなんていうか骨付き肉みたいな感じで人間の認識ってのが骨みたいについてきちゃうんだよね。実際に必要なのは肉の部分でも骨の部分に肉がついてるんで骨付き肉を食べるしかないって中で食べかすとして大量の骨が残って、それが結果的に認識を構成しているっていうさ、知識やら認識やらは肉として消化されたりして、まぁ吸収されてるんだけど、いらないはずの捨てるはずの骨の部分が残るんだよね。で、それが勝手に形を作り出して勝手に自分で歩き出すようになるっていうさ、それがいわば意識なんだと思うんだよね。


知識を吸収するからには骨付き肉を食べなきゃいけなくて、骨なしというのはありえないんだよね。残骸の骨は捨てればいいのに捨てられない。むしろその残骸が認識を形成するってさ、食べたからには骨が残るっていう当たり前のことだよね。んー別にコンテクスト依存ということが言いたいわけではないんだけどね、ただ色々と読むってことはその大量の骨を自分の中に残すってことなわけでさ、その骨のおかげで体が重くなっちゃうってことだよね。知識によって自由に考えられなくなるみたいなことなんだけど、でもだったらその知識を捨てればいいじゃん!っていってもそれは無理なんだよね。捨てたつもりでも知識が認識にこびりついちゃってるから子供のように考えることは無理なんだよね。まぁ別に子供のように考えるってことが必要なわけじゃないし、知識が必要じゃないってことでもないんだけど、ただその知識をとりあえず知識として認識とは別に考えるってことがどうも難しいんだよね。哲学に飼いならされてるからむしろ今後の俺はそこから脱却しないといけないわけだ。知識の悪い意味での重さだよね。かといってもそういう重い知識から自由になったところでどうにもなるものではないし、まぁそれはどうなるか分からないんだけどさ、んでもね、なんつーか自分の頭で考えるってやれてるようで全然やれてないんだろうなーってことなんだよね。まぁ別に概念の転用とかさ、知識によって得られる分析ってあるにせよ、知識があるからできない分析ってあるじゃん?っていうかまぁ考え方とか。


やっぱりあれだよなぁー、哲学をちょっと知ってるぐらいで色々と知ってるように思っちゃいけないねって当たり前なんだけどさ、んでも自分の頭で考えてるようでも実際はなんかの転用じゃないですか?それが科学ならともかく、思索そのものを哲学ベースで行うって実は凄くおかしいよね。なんで哲学の地盤で考えなきゃいけないのか?自由になるための知識といっても実際は呪縛のほうが大きいような気がしてきたんだよね。別にリベラルアーツの概念の批判ではないけど、自由のための知識と知識から自由になるってのは別々に考えなきゃいけないね。っつってもまぁようはパラドキシカルな面が多いってことなわけだ。自由さといっても理性がある自由なんだよね。ようは。悪い意味でのアナーキー状態じゃなくてアナーキズムの思想が理想とするようなアナーキー状態だよね。まぁ言うまでもなくそれは自治が基本なんだけども、でもその自治の基本となる基盤ってなんなの?っていうとやっぱり知性なんだよね。


でも別にそれは論理尽くしで正当性を求めてもしょうがないし、論理尽くしで正しさを立証できないということでもないし、これってやっぱりゲーデル不完全性定理の誤用の基本でなおかつ重要な面だよね。形式的な論理での「証明できない」とか「決められない」という結果と知識の正しさとかその価値を決められないのって全然違うからね。それをごっちゃにすると不完全性定理=理性の限界とかになっちゃうわけだ。実際は理性と論理は関係ないからね。むしろ知の部分ってドライな論理的な分析なんかとは程遠いものだと思うのよ。分析なんてのはある部分に役に立つはさみとか釘とかドライバーみたいなツールみたいなレベルだからね。それの積み上げが知を形成するわけじゃないのは、はさみとかドライバーを積み上げても家はできないのと一緒だわ。色々なものを駆使して誰かが作らないといけないわけで。っつってもヘーゲルみたいな認識の高まりにおいてのみ家が形成されるってことでもないんだよね。


何しろ正しさの基準が相対的なんだから絶対的な認識なんてありえないわけだ。いや、ゲシュタルト的なものってようは知覚じゃん?顔に見えるとか三角形に見えるだとか、結局は知覚に依存するものってさ、間違いないっつったってそんなの全然確かさの根拠にはならんからね。いや、これは古典的な話だけど知に関しても色々と読んだりすることで知のゲシュタルトみたいなのが生まれてきて、例えば文献の正しい読み方だとか批判的な読み方とかさ、どんどんようはフォーマライズされていくんだよね。でも結局はこれって知性の経済化っつーかさ、あまり思考力を使わずに大量の情報処理するっていうさ、でもこれやってるといつのまに頭がデータを処理するコンピューターになっちゃって、んでまぁみんな画一化されていくし、所謂「インテリ」ってのが出来上がるわけじゃん?人によって考え方は違うのに知に関するものは程度はあれゲシュタルト化されてさ、解釈が画一的だったりやり方が決まってたりね、まぁ学校ってそういうのを教えるところだよね。自分で考えることを教えてくれるわけじゃない。


認知の経済化とか高次化っつっても何も利点だけじゃないってことだよね。かといってもいちいちいろんなことを考えててもそんなの脳に負荷がかかりすぎて無理だし、そんなことしてたら毎日生活できなくなるよね。だからやっぱり考えるものと考えないものってのは自分で決めるしかないっつーか、そこがやっぱり俺の言いたい価値ってことになるんだよね。どこに重きを置くのか?っていうのは独我論的な価値観に従うしかないよね。価値というとかっこ良すぎるから恣意的な選択とでも言っておこうかな。ベタに言えば暗中模索だよね。自分でレールを作っていくみたいな。ベタだけどなんつーかまぁとりあえず知への盲信はもうやめようってことだね。それは本当に西洋哲学的なイデオロギーってことで、んでもそうなるとあれなんだよね、もう本当に教科書的な知からは遠ざかることになるよね。西洋哲学は知識としてはあるにせよそれをベースに考えるのはやめるってことだよねっつってもそれは別に東洋哲学も同じで、まぁようは可能な限り知識に頼らず自分で考えるってことか、まぁそれは無理にせよ認識から知識を切り離していくっていう作業はやる甲斐があるからやろうと思うけどね。


なんかあんま書きたいことが書けなかったけどまぁまた今度色々と書くわ。んじゃまた。