やっぱり価値だよね。

自分の中でずーっと引っかかってた「わかるってことはなんだろう?」みたいなことがさ、いや、ここ最近気が付いたんだけど数学基礎論とか数学の哲学の話とつながっていくっつーよりかは数学の哲学に関しては勝手に読んでただけだからさ、いや、なんつーか数学の哲学系の話が自分自身の問いである「わかる」ってこととか「知識」ってこととつながるんだよね。ようはそれってなんだろう?っつーそれがいまいち分からないというのが、そのままというほど単純ではないにせよ、問いとしては数学とは何か?とか物理現象との独立性とか公理とは?とか論理とは?とかさ、そういうのと凄く似てるんだよねってのに最近気がついたって話ですよ。


前はわかるってことを公理的に考えてとりあえずそれで落ち着かせてた気がするんだよね。具体的な何かってのがあって、それをそれ以前に定義しているものとか突き詰めるとアプリオリな知識や感覚にたどり着くものとか、ようはその「理解されること」っていうものに囲まれていることで、それ自身というよりかは囲まれたものを見て理解するっていうさ、子供が言葉を覚える時と一緒だよね。別れ際にみんな「ばいばい」と言っているから「ばいばい」というのは別れの意味なんだってのを言葉とそれが発せられる状況との対応関係で経験的に理解されるっていうさ、じゃあなぜバイバイなのか?っていうと言葉自体には特に意味がないものもあるわけじゃん?ようは言葉とは作用なんだってことだよね。フランス語でもドイツ語でも英語でもバイバイに値する言葉はあるけど言葉は違うんだよね。


でも意味は同じといっても本当に意味まで同じか?というとそういうわけでもないっていうさ、フランス語で言う何々を英語に直訳するとこうなるけど実際は・・・的な意味の差異が生まれるっていうさ、最近はYuri Maninっつー数学者が好きなんだけど、この人のエッセイ集みたいなのを読んで好きになって、んで何かほかも読んでみようと思って行き着いたのが「A Course in Mathematical Logic for Mathematicians」って本なんだけど、こういう意味合いだとか言語的なことが論理学的に語られてるっつーかまぁ元々論理だからそうなんだけどね、ただこういう意味での分析なら大歓迎だよね。哲学的だと思われることでもそれがピュアに論理問題なのであればそれは論理学を使って問題を記述できるわけで、なんつーか巷に出回ってる論理学の本ってたいていつまらないけど、まぁこれはずいぶんとハイブロウな本ではあるけどハイブロウであるが故に別に哲学を意図して書かれたわけではないのに哲学好きにはぴったりの内容になってるっていう、こういうところが俺が数学に魅力を感じるところだよね。哲学の話とかが数学の話になったりその逆もまた然りで、そのインターセクションが凄くセクシーなんだよね。脚線美的な感じっつーか。


意味と言えば作用についてのことなんだからそれは純粋に形式的な話になるのは必然的だよね。でも実は全部論理にできるほど意味って簡単なものじゃないっつーか、それがなんなのか?っていうとやっぱり個々の意味の捉え方の違いだよね。大枠ではあってるんで話は通じるけど実際は人によっては同じ言葉でも全然違う印象を感じてたりするわけでさ、そういう人間的な恣意性って形式では扱えないからね。結局はなんか哲学って理詰めというよりかはそういう人間のあやふやなところに行き着くよね。純粋に形式的な話ならそんなもん形式にして終わりだけど、そういうことでもないようなことがいっぱいあって、それでなかなかコンセンサスが取れなかったりそもそもコンセンサスを取るのが不可能とかさっつーか不可能なんだよね。定義ではそうだけど実際は違うっつっても何が違うのか?ってそれは個々の解釈の違いじゃん?で、実際に意味合いなんてのを深く考える人なんてあんまりいないし、深く考えないからこそ世の中は成り立ってるしコミュニケーションは成り立つんだっていう、ようはそういう人間の適当さが哲学を生むんだよね。そういう意味で人間がロボット的な意味で完璧なら哲学は生まれないだろうっていう。


ゲーデル不完全性定理に限らずゲーデルの哲学そのものってこれなんだよなぁー。ゲーデル系の本を読んでるとまさしくこれに尽きるなぁって気がするんだよね。だからようは何がいいたいのか?っていうと俺自体が気になってた話がゲーデル研究みたいな話とつながってきて、結果、自分の問いがありきでゲーデル系の本を読んでるってことになるんだよね。ようはこれってハイデガーとかフッサールほど明確な哲学の体系というか、哲学の話とは認識されてないっつーかまぁマイナーなんだよね。比較的。でも実際は凄まじい分野なんだよね。これ。結果的に数学的にテクニカルな計算可能性とかそんな話にもつながるっつーかつながるっつーか元がそういう話でもあるから結果的にチューリングとかもガンガン関係してくるわけね。だから凄くコンピューターサイエンスみたいな話に近づいてくるんだよね。


かといってもまぁ間違えても人間の脳=コンピューターみたいな話には絶対ならないけどさ、でも結局、形式化しきれない人間のあいまいな部分ってcomputationの部分だと思うんだよね。かといっても静的ではなく凄くquantumなんだけどでもそれを可能にする原理自体はそもそもが人間の認識の恣意性に基づいてるからそもそも原理が存在しないっていうさ、でもそこで「んじゃあ分からん!」じゃなくてそこで分からないからこそ興味を惹かれるわけだよね。思えばこういう話に関する興味は数学やり始めてからずーっとあったよね。数学の哲学に関する本はまだアメリカに居たころに読んでたから結構もう取り組み始めてから長いね。まぁ俺的には長いね。3年はまだいかないぐらいだけど。


だからそういう意味で最近ようやくゲーデルの哲学についてわかるようになってきたって感じだよね。まぁでもゲーデルの哲学はいろんな基礎知識を必要とするからだからこそあれなんだよな、多分マイナーなんだと思うよね。数学音痴の哲学者にも考えられない話だし、かなりガッツリ数学もやっててなおかつカントみたいなドイツ観念主義とかオントロジーみたいなのもやってるっていう人だとまぁ相当限られるよね。あとはメジャーな扱われ方がホフスタッター的な意味での数学よりの扱いのされかたもあって扱われ方自体もかなり偏ってるわけだよね。


でも実際、ゲーデル側に立つとむしろ数学的なものは基礎でそこから離れずに厳密に意味や何らかの事柄が成立するっていうことだとか計算可能性だとか論理だとか結果的に形而上学にまで話が及ぶっていう、だからどちら寄りでもないんだよね。あとやっぱりあれだけゲーデルライプニッツとカントとフッサールに関しては特に熱心に研究をしていたわけだから、こういう哲学の認識論みたいなのを抜きでゲーデルの哲学は語れないんだよね。むしろゲーデルは哲学にのめり込んでからは現象学者といっても過言ではないぐらい現象学的なものに依拠してたっつーかまぁそれは依拠してたっつーよりかは自分が考えていることに一番近いというか、真実味を感じてたんだと思うよね。だからゲーデルは哲学にのめり込むようになったっつーよりかは彼の研究対象が哲学的なものになったってだけで鞍替えをしたわけじゃないってのがよくわかるよね。実際は凄まじく不完全性定理の話からつながってるんだもんね。当時は鞍替えしたかのように思われて「数学をやらなくなった」みたいに揶揄されたみたいだけどまぁ凄い誤解だったんだなってのがまぁ研究者がまとめた研究結果によってわかるって話だよね。だから当時の人は勘違いして当然だよね。何しろ分からなかったわけで。


数学にしたって思索ベースで独自にやってたからあんな偉業を成し遂げたんだろう。そう思うとグロタンディークと重なるんだよなぁ。他人の論文やレクチャーを聞くというよりかは思索をベースに何かを作り出しちゃう人たちなんだよね。憧れるわぁーっつーか永遠の憧れだわ。興味が哲学に向かったんではなくて思索が哲学の分野と関連してきたから哲学の本を深く読むようになったっていうさ、まぁカントとかに関しては大学だか高校ぐらいの頃から読んでたらしいけどね、ようはそういう地盤があって、数学をやっていく中でつながったんだろうね。詳細はあんまり分からないけどゲーデルが独自の空間論や時間論を持ってたっつーのも彼がいかに思索ベースでものを考えてたかってのがよくわかるよね。んでもそれは正しくなきゃいけないからやっぱりアカデミックにちゃんとやるべきだろうっつってもそれはむしろやる人なんていくらでもいるわけでさ、思索ベースで何かができる人はそれを活かしたほうがいいよね。


哲学にしても数学にしても文献主義っつーかさ、やたら何々よればとか最近の研究ではとかさ、それってもう自分がただ読むだけの人間になっちゃってる気がするんだよね。むしろ常に最新の情報を読んでないとやれないようなものは少なくとも俺には向いてないしそれでいいなって思ってるんだけどね。だから独自に考えて、んでそれが数学と関連するならあくまで内発性ベースで数学をやるべきなんだよね。だから数学者になりたい!とかはもうやめだわ。それはあまりにもくだらないことだってのがよくわかったんだよね。むしろ数学と哲学ほど内発性ベースでやることが重要なものもなかなかないだろうって思うんだよね、内発性がなければ流行を追うって手もあるかもしれないけどそんなのつまらんからね。そもそも他人の仕事に興味はないよね。それは自分の仕事と関連するときにだけ興味が出て読むんであってとりあえず最新の研究だからっつって読むなんて本当にくだらない研究だと思うんだよね。何たら研究とされるものってそんなのばっかじゃん?だからつまらないんだろうな。本で言えば圧倒的に自分で考えてる人の本のほうが面白いじゃん?アカデミックになればなるほどつまらなくなってなぜか思考とか思想的なものと遠くなっちゃうんだよね。


でも内発性って何かによって促されるものではないっつーかきっかけはあるかもしれないけどようは芽が自分の中にないとどうしようもないからね。何かを理解するとか数学に詳しくなるとか方法論的に必要なんであって、それ自体が目的になっちゃったら終わりだよね。俺が最近感じているこのどうしようもなさってこういう動機づけの欠落から生まれてきたんじゃないかな?と思ってるんだけど。相変わらず人生は空しいのはともかくとして、知識自体にも一種の空しさを感じるのはやっぱりいつのまにか内発性ベースではなくて立てた目標にただ従ってるっていう受動的になったから生まれたなんつーか受動的だからこそ生まれてくる空しさのような気がしたんだよね。自分で積極的に価値を見出すとか探すというよりかは「数学に詳しくなる」みたいなのを前に出しすぎちゃってて、んでいつのまにやらそれに囚われるようになってるっていう、まさしく主体性の欠如ですよね。能動性がなくなるから空しさがより一層増すわけだ。能動的になったら終わりだよね。主体的に考えないってことなわけだから。お勉強的な知識を身につけつつもそればっかりやってると本当にその辺の学生とかとなんら変わりなくなるからそこはなんか凄い危ないなぁーと思って。考えるよりまず知識だろうっつーか考えるための知識だって思ってたけどっつーか数学に関してはそれが顕著だろうと思ってたけど、ただ受動的に「この本を読み終わる」みたいな目的で本を読んでても本当に頭がダメになる感じがするよね。ただそれが入ってくるだけであまり考えてないんだもん。これを知らないうちにずーっとやり続けちゃうと多分バカになるよね。頭が完全にボケる。学者的痴呆になるね。


そう。それをやるぐらいっつーか読むことしかできないんだったら下手に続けるよりやめたほうがいいってことなんだよね。それがこないだ書いた自分をリストラするってことでもあるわ。好きだったことを「好きだった」という昔の感覚をそのまま引き継いで惰性でやるぐらいならやめたほうがいいわけだ。それは何かを好きになった時の自分を裏切ることにもなるしね。結果、それしかなくてそれをよりどころにして生きるなんてみっともなくてやってられん!っつーかさ、いや、何かを拠り所にしてる人のダサさとか弱さってすげー嫌なんだよね。それはここ最近また色々と感じることでさ、まぁあまりにプライベート過ぎてそれは書かないけどとにかく嫌なのね。敗者みたいな言い方は嫌いだけど完全に負けてるんだもんな。あの負けてる感じが凄く嫌。かっこつけたいわけじゃないんだよね。なにしろかっこつけたところで誰にも見せられないし、明らかにわかるような表層的な意味でのかっこつけなんてわざわざやらないし、まぁそういう意味でかっこつけなんて全然関係ないっつーかまぁかっこつけてたらもっと文章に色をつけるとかさ、もっと知的に書くとかいろいろできそうだけど一切やらないもんね(笑)それはそんなのはどうでもいいからって思ってるのもあるけどやっぱりあれなんだよな、見栄えとかは本当にどうでもいいっていう昔から変わらない価値観だよね。むしろ見栄えを良くしようとしてるものほど中身が薄っぺらかったり実は醜かったりするじゃん?芸能人とかそういうの多そうだけど。


まぁそういう方針的な話はいいか。だからあれなんですよね、なんかのリサーチ結果が云々って書いてたけどさ、いや、リサーチ的なのをしようと思ってたけどまぁやめますわ。こないだの連帯さんとのやり取りでより強く思ったっつーか確信したよね。むしろ内発性がベースならそれだけでええやんってことなわけだ。社会的なことがどうのとかあまりにも余計すぎたしそれが凄い足かせになってるっつーかそれが葛藤の原因でもあったりして、でもそんなのはそもそも自分が考えるという主体的な行為から見たら全く関係ないことだからね。結果まぁ社会的なものともつながればいいけどそれも前提にいれるっつーのは矛盾してるし、まぁ器用で戦略性があればいいけど俺はそういうの無理だしやろうとも思わないからやれることといったらやっぱり考えることと書くことっつってもウォール伝に書くってことだけだよね。でも別にこれは書こうとしてるわけじゃなくて考えていることを書くとすっきりするし頭の中でまとまるっつーか凄くすっきりするのよ。


とにかく。だからまぁやってるだけだよね。だからまぁ書くということはそんなに大げさに書くというほど大それたものではないんでだからもう考えるということしか残らなくなるな。まぁでもそれしかないもんなぁー。俺は何かができるんだ!って思えるのが若いころって言うけど、自分を知るってのはやっぱり大事だよね。でもそれは諦めではなく自分を知ることで現実的に何をやっていくのか?ということを具体的に考えられるようになるってことだよね。その上で夢があれば最高だよね。若いころの夢ではなく現実的な夢ね。だからまぁ夢を見るからにはリアリストじゃないといけないってことになるわけだ。


んーまぁ別に前からそうだったっつーかまぁ最初からこんなことをこの場では書いてた気がするけどまぁそれはいいか。でもやっぱりさ、俺の中ではまず学者には絶対なれないとか、もっとさかのぼると社会学者とか政治学者とかにも絶対なれないってそれを知ることってやっぱり凄く重要だったんだよね。努力どうのではなく特性として無理があるってまぁあとはもっとさかのぼれば俺は10代の頃は芸人になりたかったからさ、いや、お笑いブームとか来る前だけどね。で、実際にそのやる側から見るとダウンタウンとかありえないじゃん?こないだもロンハー見ててつくづく思ったけどあんなのやるのは無理だもんね。でもああやって笑いを取るってことは凄いもうたまらない快感なんだろうなぁーとか思いつつ、そこはでもさ、いや、音楽でいってもそうじゃん?


まぁまずトラックメーカーになれないんでありえないんだけど、仮に作れたとしてもあんなの作れねぇーよなぁー!って先人のものを見て思うわけじゃん?で、現実的に考えて何年もやってればあんな風にやれるようになれるのか?ってなれないからね。その未来を想像して現実性がない場合やらないってのはやっぱり必要だよね。その中でやりたい!というよりかはやりたい!ということの中でやれそうなものをやるってやっぱそういうところに落ち着くよね。自己啓発本とか見てていつも思うのは知らないあなたがいるかもしれない!みたいな無責任な発言ってどうも困ったもんだよね。まぁああいうのって詰んでる人とか悩んでる人が読むもんだからまぁダイレクトに自分が読みたいことが書いてあってだからまぁ飛ぶように売れるんだろうけど、そんなのあるわけないじゃん?あったとしてもそりゃたまたまだし、そういうたまたまの例を一般例として出すのはどうかと思うんだよね。本って成功談しか語られないからその背後にある大量の屍に関しては語られないからね。


そういう意味でやれそうだと思うのはやりたい!ということだけではなくて自分の特性を知る必要があるわけだ。あとは弱みとか強みとか、あとはそれこそリアルに寝起きがいいのか?とか寝つきがいいのか?とかそういうレベルから始まるよね。当たり前なんだけど夢を見るときはそんなこと考えないからまぁそういうのがマズいんだよね。一生ワナビーのまま終わるわけだ。で、それもまたなんか拠り所になるじゃん?こういう夢がありますって言いながら自分をだまして生きていくっていうまぁそれも凄くみじめだなぁーと思って。なんか俺もさ、勉強するってことであたかも一心不乱になってるようでそれでごまかしてるみたいなところがなくもないからね。そういう実存的な葛藤を「これさえあれば!」で埋めるのをやめようと思って。


いや、実際にごまかしではなく葛藤が埋まるぐらい好きなことだったらやり続ければいいしそんなの放っておいても続くからさ、だからまぁこの状態が続かないとダメってことだよね。思えば俺は色々とハマってある程度納得して飽きちゃったっつーことが色々あるわけで、数学もそうなりかねないからね。俺は一生フィールドレコーディングしてるんだろうなぁーって昔はマジで思ってたからね。今はこんなに飽きてるわけで。まぁ好きだけど自分の中で録音する理由とかあとは実験とかそういうのをやりつくしたからだよね。まぁだから良い意味で飽きたわけでそれはいいんだけど。それで言えばマッシュアップとかもう完全に飽きたね。もう作ろうと思わないもんね。ミックスもさすがにもう飽きたよね。あとあれだけ作ってると自分の独特のパターンってのがあってもうそれに飽きる。で、それを壊そうとは思わないんだよね。別に良い意味でのパターンなんでそれがマンネリ化してもそれはしょうがないだろうっていう。まぁマッシュアップもそうだけどね。すげーマンネリ化してつまらなくなっちゃった。


まぁ音楽に関してはこの程度なんだよね。本当に。こういう諦めがあるからこそマッシュアップって作れるんだけどね。トラックメイカーになることを放棄してるわけだから(笑)既存のものを入れ替えたり声のパートとインストのパートを入れ替えたように作ってんでそれは自分で作りましたってあえて冗談で言うとかってまぁ音楽に真面目だったらできないよね。まぁだから自分の能力もあってか音楽に関しては適当にやるのが一番だと思ってるんだけどね。真面目に作れる人が相変わらずうらやましいけどできないことはしょうがないよね。


本当にそう思うとやれることよりやれないことのほうが圧倒的に多いわけだよね。人間は可能性の塊だ!なんて放言もいいところなわけで。まぁ見極めたうえならそれは成立するけどとにかく言葉だけじゃ無理だよね。長々しい前提が必要になる。それがあった上なら自己啓発本に書いてあるようなことはたいていあってることだよね。でも前提が書いてあるやつなんてないよね。全体書いたらそれこそ夢を壊すようなことになっちゃうわけで。そもそもそうなると自己啓発本というフォーマットが成立しなくなっちゃうもんね。でもやっぱり本当につくづく思うよね。可能性っつっても見極めて色々と選んだり消したうえでやらないと本当にどうしようもなくなるよなぁーって。ディレクションゼロのその日暮らし人生になっちゃうもんね。


ところでなんでこんな話になったんだか。あ、まぁようは内発性の話だよね。まぁただ内発性といっても何かをやる上で面倒なこともやる必要は出てきて、それをやりたくないっつってやらないのはさすがにアウトだよね。それとこれとは別なんだけど、まぁようは根本が内発ベースで動いてないとどのみち心身がダメになるってことだよね。あとはまぁ自分を偽ることに慣れてれば問題ないんだろうけど、俺はそれができないからね。そういうと偽ってる敗者から「そりゃ君が恵まれた環境にいるからだよ」とかって必ず言われるんだよね。負け犬の遠吠えとはまさしくこのことだなぁーとかいつも思うんだけど。余裕があるからできるとか親が金持ちだからとか親がやりたいことをやらせてくれているからとかそんなことを理由にするのはもう完全にダメ人間だよね。


そう思うと面白いことに社会的にはダメ人間な俺もちゃんとした人間になって世の中の8割ぐらいがダメ人間になるから面白いよね。まさしくsubversiveな感じなんだけどこのsubversiveな感じって哲学は得意だよね。思えばスピノザもカントもニーチェ的にsubversiveなんだよな。結局はまぁ雑に言えば意識だからね。それが人間を作るってまぁすげーベタだけどオーソドックスな哲学的観点から見てもかなり妥当だから面白いよね。色々と意見は分かれるだろうけどおそらく過去の哲学者の間で結構な合意がなされるのがこの意識が人間を作り出すってことだよね。まぁ色々と広く取り過ぎているとは言えそれで言えばデカルトだってそうなるでしょっつーかむしろデカルトだよね。デカルトが言っていた意味は今では誤りだけどでも根本の思想の部分は一緒だよね。それで言うと仏教とかもそうだもんな。仏教の場合、そうだから我を無くせということになるわけだ。西洋哲学の場合はwillを尊重して知というものに価値の重きを置くんだよね。まぁ相変わらずこの西洋哲学の考え方は俺は好きなんだけど。


んでも結局はあれだよね、こうしたい!みたいな能動性がないと時間はただ過ぎ去っていくだけだし歳を取るだけだしなんにもならないよね。そういうことに対して空しさを感じる人が増えてるわけだ。ただそこをwillでなんとかせよ!ってのは体育会系過ぎるからちょっと前に戻ってその空しさの分析をとりあえずやってみれば?的なことになるよね。凄く似てる空しさではあるけどやっぱり重なるところは主体性の欠如だと思うんだよね。別に自分がいてもいなくてもどっちでもいいじゃん的なのってようは自分が代替可能なロボットぐらいの価値しかなくて、しかも何もできないんで生きてる意味がないと思っちゃうってまぁそれってでもあってるよね。冷静な分析なんだよな。でも社会的な言説の場合「このように思う人が増えていますが・・・」とかっていうこれ自体を問題視するんだよね。でもこれは実際はメランコリー気質な人の固有の分析でもなんでもなくて客観的に妥当性があるんだよね。だから強力なんだよね。誰もそれを否定できる人がいないからんだから価値を感じなくなるわけだ。そこでやっぱり俺はいつもの話に戻って独我論から始める価値の創造ってことになるんだよねぇー。


それは客観的に価値がないってことなわけで、それは今の俺も変わらないわけじゃん?むしろ音だけにとどまらず文章でもノイズを垂れ流してるクズみたいに思う人もいるわけで、まぁそれって客観的だよね。んじゃあその客観的価値を俺が主観的に妥当だと感じてそれを受け入れるのか?ってことじゃん?で、今の俺は色々やってきた結果、価値がないのはそうやって人間をクズ扱いする8割の人間だっつー話に落ち着いたわけじゃん?っつってもまぁ俺はこの8割をクズ扱いするからまぁ人間をクズ扱いすることには変わらないけど、そもそもんでもさ、さっき書いた親が金持ちだからできるんだーとかさ、環境が良かったからだとかなんだとかっていうダラダラと不満を言うだけで何もしないどころか社会的な規範みたいなのを守らない人たちをすぐにクズ扱いする連中ってまぁ俺がステレオタイプに考える「社会人」なんだよね。実際は価値は逆なんだよね。俺はそこは絶対逆だと確信してるから生きてられるわけだ。


で、自分を当然のことながらクズだとは思わないわけね。そこは自分の価値があるからよ。自分で自分が作り出した価値があってそれを自分が認めてるってことだよね。そっから始めようってことになるわけだね。誰もあんたなんか評価しないよっていう前提に立ってるところがリアルでいいと思うんだよね。まぁ価値観っつってもいろいろあるけど自分の自分への評価ってのもそれは価値観に入るから価値の創造も提示もとにかく何もかもが相対的だってわかりきった中だと凄くその価値という概念が生きてくるんだよね。むしろそれしかないじゃない?っていうぐらいのものなんだよね。西洋哲学の残りかすが価値であるともいえるよね。んでもまぁ実際はこれってプラトンまでさかのぼることができるっつーかまぁようはプラトンが言うvirtueってことになるわけだよね。別にプラトンじゃなくてもタオイズムなんかでも微妙に違ってもようは「徳」ってことなんだよね。なんつーかだからもう概念的にゆるぎなさすぎる。それは先人が言ってたことだっつーよりかは自分で考えててこんなにゆるぎないものって滅多にないよなってぐらいvirtueってゆるぎないんだよね。俺は自分のコンテキストでそれを最近は価値とかって呼んでるけど結局はやっぱりvirtueなんだよなぁーってことになるわけね。


まぁ俺の方針としてもこれが大事なんだよね。プラトンが言っていたからではなくて自分で考えてもゆるぎないものが昔から言われ続けてきたことだったっていうそういう一致だよね。そういう意味で誰が言ってたかは全く関係ないわけだ。だから自分で考えたことしか言っちゃダメってことになるよね。まぁそれでいいと思うんだけど。まぁそれが今の俺のvirtueの一つでもあるわけで。それにしても悪徳とはよく言ったものだよね。知的剽窃やら搾取やら権力の乱用やら、徳とは?と言われると難しくなるけど悪徳というとポンポンと例がいくらでも出てくるから皮肉なもんだよね。少なくともそういう意味で税金おさめてようがなにしようが悪徳というかvirtueのかけらもない人間はゴロゴロいるじゃん?ああいうのを真正のクズっていうわけよ。だからまぁ徳がなくても少なくとも徳がないようなことをしなけりゃニートであろうがフリーターであろうがクズ呼ばわりされる筋合いはないんだよね。むしろ筋合いがあり過ぎるやつらが評価されてたりクズ呼ばわりされなかったりするじゃん?まさしくそういう価値観が病理の元なんだって言いたいわけね。


これって相対主義の前と後では同じ意味合いでもだいぶ違ってくるじゃん?だから俺はそれをことさら重要な概念だって力説してるわけね。まぁ説ってほどのもんじゃないけどってことでなんかちょっとまとまったからこの辺で終わりにするわ。ちなみにゲーデルの話に戻すとゲーデルの価値観は名声とか難問を解くとかってことじゃなくて自分が知りたいことについて知ろうとするっていうところにあったってのは言うまでもないよね。三つ子の魂百までというけどMr.Why?の異名を持っていた幼少期のゲーデルのスピリットは生涯に渡って失われることはなかったわけだよね。


んじゃまた。


Mathematics as Metaphor: Selected Essays of Yuri I. Manin (Collected Works)

Mathematics as Metaphor: Selected Essays of Yuri I. Manin (Collected Works)


A Course in Mathematical Logic for Mathematicians (Graduate Texts in Mathematics)

A Course in Mathematical Logic for Mathematicians (Graduate Texts in Mathematics)