ポストモダン症候群。

主観に依存しない意味みたいなことなんだよなぁー。結局。ホモロジーなんかの構造とかさ、圏論でもいいんだけど構造の話だと思うんだけど、でもそこに意味合いはないじゃん?まぁ意味を見出すことは可能だけど主観に依存するよね。でも結局意味ってそういうことなんだよねぇーっつってもそれだけでは嫌でさ、いや、結局数学系の話がかなり哲学の話とつながってきてて、ようはゲーデルの話なんかもつながってくるんだよね。最近はそういうのばっかで数学らしい数学はやってないかもね。集合論とロジックが多いけどでもあくまで哲学的なものを考察するのに必要なものとしての集合論とロジックだよね。


まぁそれはともかくさ、いや、意味って個体に依存するところもあるよね。構造から意味が見えてくるどころか構造でしか意味は表されないとかってことになると色々と問題があるんだよね。そもそもの意味ってのを考え出すとどうもやっぱり神の視点みたいなのが必要になっちゃうんだよね。一つでは意味を成さないけどそれが何らかの規則性を伴って集まると意味が生まれてくるとか人間が意味を見出しやすくなるとかゲシュタルトが発生するとかね、でもそれもまぁ局所的な観点でしかないんだよなぁ。例えば大きい広場みたいなところで人同士が手をつないでそれが永遠と広場を囲んでるみたいな形があったとして、んで別にその人たちは自分が何をしてるかも分からないし、とりあえず指示があったからそうしてるだけってことだとすればまぁ意味がないよねっていうかまぁ指示に従ってるだけなんだけどさ、で、それをヘリかなんかで上空から見ると人間同士が手をつなぎ合ってることでそれが形になってるみたいなまぁ地上絵的なね、ハートマークになってましたとかさ、まぁそんなことでもいいんだけど、でも手をつないでいる人たちにはそれが知らされてないから何をしてるか分からないんだよね。もちろんこれって意味の階層とか属性とかがごちゃごちゃになってるから起こることでもあるんだけど、でもそれって簡単に分けられるほど明確じゃないじゃん?そもそもの色々なものの混同自体を考慮する必要があるとなると綺麗なモデルで考えられる意味論とかそういう話ではなくなるんだよね。


いや、意味で言えばゲーデル不完全性定理が理性の限界を示しただとかポストモダン哲学とかでよく引用されたりとかさ、実はこういう混同って何気にすげー多いんだよね。それ自体は構造的なものの結果と事実なだけなんだけどそこに意味みたいなのを見出して悪い意味での哲学的な意味とかを与えてしまったりして、そうなるとなんか呪術とかと変わらなくなるよね。4が死を意味するだとか北枕は縁起が悪いだとかなんだとか、そういうレベルだよね。呪術とかオカルト的なものってこういう意味の混同とか無駄な拡張とかってのの集積じゃん?まぁカルチャーとしてのオカルトは俺は大好きなんだけどね、ただそれがいかに思い込みとか過剰な意味づけから生まれてきてるかとかってのが本当にまぁ国時代関係なくそうなんだよね。ようはゲーデルでもなんでも、あとは純粋に数学的なものの結果を何かの意味の表れだとかって拡大解釈するのは呪いとかさ、菅原道真が起こって雷を起こしてるとかまぁ本当にそういうレベルになっちゃうんだよね。そんなプリミティブなレベルじゃないんだけど、でも実際は形だけ見ると同じなんだよね。論理の飛躍というわけではないんだけどやっぱりそういう意味で意味ってのを見るときにどっかで必ず主観的な飛躍というか凄い極端な結びつけとかってのがあるんだよね。ただでもそれが言説になると通念になってそれが常識になったりさ、スタンダードなものの見方だとかアカデミックな見方だとかそんなことになるんだよね。例え元がオカルトぐらいのレベルの意味づけなんだとしても言説になって認められるとまた変わってくるもんね。


いや、んで意味に戻るけどさ、例えばそれが意味しているということが今の段階ではそう解釈されてもほかの情報とかが明らかになったときにそれもまた何かの一つに過ぎないみたいなことになるじゃん?局所的に見れば意味が発生するようだけども大局的に見ると意味がないっていうさ、でもその意味がないものに意味を見出すっていう、でもそれってやっぱりミクロなスケールでしか意味ってありえない気がするんだよなぁ。そもそもいろんなことについて今以上の情報が見つかるとかね、まぁおもに科学の仕事になるけどさ、そうなってくるとそれまでの解釈とかが変わるじゃん?いや、精神分析とかも完全にカルチャーだよね。あれもまさしく俺が言いたいオカルト的な意味づけの最たるものなんだけど言説になるとそれが固定的な定説みたいになって、んでそれが通念になっちゃうんだよね。で、漫画でも映画でもドラマとかでも「精神分析では・・・」みたいに語りだすキャラクターとかがいるとそういうのからも広がるじゃん?


まぁ何が言いたいのか?っていうと精神分析ほど胡散臭さが明らかじゃないものでも、何か妥当と思われることに関して実はオカルト的というか精神分析的なバカげた意味づけをして無理やり何かと何かを相関させて無理やり何かを理解しようとしてるんじゃないか?って思うんだよね。人間って自分が理解できるように理解したいから人間の都合で理論とか考えるじゃん?完全に方向が違うよね。神しか知りえないものを有限の人間でも知ることができるようにするってのが理論なんであって人間の都合によって作られるもんじゃないよね。結局なんでも意味だ意味だっつーと何とでも言えるからね。おそらく数学の影響だと思うんだけど、その人間の都合とか恣意的な解釈とか飛躍したオカルト的な意味づけとかそういうのがもう生理的なレベルで受け付けなくなっちゃったんだよね。ある意味で精神的に今まで以上にセンシティブになってしまったかもしれない。とにかく受け入れられないものが多くなりすぎてもう結構なストレスなんだよね。いや、だから興味の幅とかも減るのよ。どうでもいいことが明らかに多くなる。別な言い方をすればフォーカスするべきところってのが自ずと見えてくるから進歩と言えば進歩なんだけど、でもまぁ楽しくないね。何でも知的刺激だ!っつって楽しんでた頃が懐かしいぐらいなんだよね。頭が良くなったというよりかは賢くなっただけだね。それがプラスなのかは分からない。


ただようはこれについて非常に悩んでいるんだけど、でも根本解決は原理をちょっとでも探るかその不可知性に気付くってことなんだけど、まぁ不可知だから鬱になるわけじゃん?なんでもわかるようになったらまぁ哲学なんて万能の学問でしょう。精神の健全のために薦められる学問になるけど完全に病むよね。突き詰めれば。ほかのこともいろいろあって哲学もたまに読んでるぐらいが人生にとっては一番いいのかもしれない。それだけになるともうひたすらがんじがらめだよね。まず楽しくはないんだけどでも逃れられないんだよね。放っておくことがもうできなくなっちゃってるっていうまぁ一種の病気かもね。でも哲学って大抵は都合が悪いところは落としどころを決めてとりあえずそれで暫定的に置くじゃない?で、今の人たちには色々と考えられてきて、ただ手つかずだったり、そもそも考えることが不可能だったりするっていうことだけが残されてるんだよね。普通に人間が考え付くことなら本当に考えつくされてきてるなって思うもんね。


むしろそれに気が付いたからこそ余計に鬱になるよね。でも分かるまでは絶対楽しいよね。知識自体に凄く価値を感じるわけだから。結局なんかまぁ20世紀の哲学って語られつくしたことを言葉を変えて再定義しなおして長々と書いてたり、実際の発展ってほとんどないんだよね。ようは凄く言葉に縛られてるってことだ。言葉を尽くすとポストモダン思想みたいになるんだよね。でも実際はあれがモダン思想でポストモダンなんてのはまだ無いって気がするよね。モダンで色々行きつくしてすげー言葉が浪費されてるって状態で、その次じゃん?で、それが今だ!と言えるほど何かがあるわけでもない。色んな研究があって落ち着いてる感じだよね。ただなんとなく俺のイメージだとポストモダンってニッチなものだと思うんだよね。それが流行りになったりキャッチーなフレーズとともに喧伝されたり批評に使われたりする概念装置とかでもなくて、なんつーかどうしようもない感じで、あまりにどうしようもなさすぎて語りようがないような事だと思うんだよね。まぁもはや思想でもなんでもないんだけど。


まぁようは思想とかも介在させた抜け殻的なただの雰囲気とかだよね。そういう退廃的な感じだと思うんだよね。ポストモダンはなんかイメージがバブルとか革命とかとつながるじゃん?運動とかね、そういう意味で全然ポストじゃないんだよな。今は状況的に凄くポストモダンだと思うんだけど思想がないんだよね。それこそが思想なのかもしれない。なんかこの漠然とした感じだよね。何も掴めない感じっつーのかな?進歩が終わっちゃって次は?ってのが見えないということが必然的に起こる状況自体がポストモダンなんだと思うんだよね。実際にあったポストモダンって凄いラディカルっつーか進歩だよね。モダンの批判とかさ、明らかにまぁなんつーか哲学にしたってその流れを受け継いでるじゃん?で、俺が考えるポストモダンはその大きな流れが完全にストップした後だよね。それ自体が思想とは思われないような状況がポストモダンなんだよな。だからまぁ実際は今じゃないのかもしれないね。今もまだモダンなのかもしれないけど、なんか俺は凄く断絶を感じるんだよね。大きな流れがあったのに色々とぶっ壊れたじゃん?誰がやったわけでもなく必然的に壊れた流れなんだよね。で、その後・・・ってのがリテラルな意味でもポストってことになるわけだ。


イデオロギーの時代が終わるとか物語が終焉するとかではなくて完全に終焉した後の何もない時代だよね。それまでは何かしらあったわけだから。それがないんだもんね。凄いことだよね。あとさ、何かを読み込むっていう文献主義みたいなのももう終わってると思うんだよね。手法としては有効だった時期もあったけど、そもそも今の感覚から言うとなんでそもそもテキストの読解から何かが始まるの?っていうことなわけで、モダンが前提としていた知のあり方とか方法論とかが完全になくなったっつーか良い意味で受け継がれてないんだよね。あとは連続性の流れの中で過去のテキストを読み込むとか解釈がどうこうとかってのは成立しえたけど、思うに90年代以降とかからそもそもその考察されるそれ自体が古くなっちゃって連続性のリアリズムがなくなっちゃったと思うんだよね。別に手法的に有効じゃなくなったということではなくて別にそれは実感の問題なんだけどさ、いや、ようは古典の再解釈とかがすでにもうかなり昔からやられてたわけじゃん?思えばフッサールとかハイデガーの時代からもうモダンなんだよね。で、ポストモダンと言われるものもハイデガーニーチェなんかと地続きだから実はモダンのままだったっていう。で、今は地続きじゃないんだよね。


モダンが終わってなんか一個のパッケージみたいに見えるようになってきた。それを見てるということがポストモダンだよね。だからかっこいいとか進んだとかっていうことじゃなくて、なんかどうしようもない感じなんだよね。手が付けようがないっていうかアカデミックで言えば文系の研究職の全否定になっちゃうっていうそんぐらいのもんだよね。だから今でもモダンの時代を読み解いてるような感じの場合、あくまでモダンの系列の中でやっていることでそれは地続きでやってることだよね。でもこのね、思想とか哲学みたいなもんが全然威力やリアリティを発揮しないというこういう物質的な感じっていうかさ、そこで佐々木中みたいなロマンティストが色々と言ったりする場合もあるんだけど、まぁそういうのを求めてる人が多いんだよね。でも求められているというリアリティ自体がそもそもポストモダンだよね。色々と進歩している時期にロマン主義的なことを言って批判されたりもする人ってのが佐々木中でなんつーか括弧の中に入ってるよね。


あ、それで言えばあれだ、そういう感覚を共有できたのがっていうかやっぱわかってる人はわかってるなって感じたのがこないだの連帯さんとのやり取りだよね。読んでない人にはあれだけど、ああいう感じなんだよね。俺が言いたいポストモダンって。でも当事者はどうしていいのか分からないっていう状況なんだよね。そもそもそれを打破するものなのかも分からないし、ただでも脱中心化ってのはキーワードだよね。そういう意味で昔のポストモダンなんてモロに西洋文化の産物じゃん?で、完全に中心点がないものっていうとさ、まぁ客観的にはそれはありえないけど、考える当事者が「ニーチェによれば・・・」とか「ハイデガーが・・・」とか「フーコーが・・・」って言ったところでそれが科学ではなくあくまで言説なのであれば何の妥当性もないし説得力もないっていうさ、そのどうしようもない感じだよね。なんでそもそもニーチェによればっつってニーチェを出してくるんだ?って問われちゃうわけじゃん?西洋的な知識の価値みたいなバイアスが完全にないわけだよね。まぁそういって東洋にシフトしたのが60年代とかに流行ったヒッピー文化みたいなもんだったりするわけじゃん?


まぁ西洋の学者は東洋思想はまだ発見されてないものだとかってまだ思ってるかもしれないけど実際は研究してる人はいっぱいいて、んでしかもすんげー細かい研究がされてるわけでさ、そういうのを読めるっていう恩恵に授かってるわけだよね。だからなおさらどこかに重きを置くということができなくなるわけなんだよね。どれも解剖しつくされててその結果はあってあとはただ読むだけっつっても読んだところで解体新書みたいなのを読んだってことになるわけでその後どうするの?ってこととは何の関係もないんだよね。この関係がないという点の後がポストモダンなわけよ。そういう意味であまりにも空しすぎて自殺しちゃうみたいなのも思想ではないけどポストモダン的傾向なんだと思うよね。モダンの時代はコミットするものがあったじゃん?今はポストモダンだ!とか言いながら方法論とかを模索したり新しく出てきたものを身につけたりってことができたけど、なんつーか今って全体的に何の流行りもないし、何かを仕掛けようとするとそれにみんな気が付きすぎていてすぐステマだってバレるし何も流行らない時代なんだよね。だからマイブームしかないんだよね。俺で言えばクラシックと数学とボーダーランズがマイブームだよね。まぁボーダーランズ2は相当売れてるから流行ってはいるだろうけどまぁ発売してすぐっていうことなだけで流行りってわけじゃないだろう。


あーそれで言えばあれだわ、着眼点が独自過ぎるって意味でタモリ倶楽部ってほぼ唯一と言っていいほどのポストモダンっぷりだよね。まぁ昔で言えばマージナルなものを取り上げてきたってことになるんだろうけど、今はマージナル扱いされてたものが勝手に動き出してたり個々に存在しあってたりっていうメインストリームみたいなのがないじゃん?だからやけにサブカル的なものが前に出てくるような感じがするんだけどあれはメインカルチャーがなくなったからだよね。だからサブの部分で強い部分が目立つようになってきたわけで、まぁただそこから派生した流行るタイプのサブカルっていう独自のものがあるけど、そういうのって本来のサブカルの人たちはすぐわかるじゃん?あー流行りのタイプだなって。で、自分は独自の道を行くわけじゃん?だからオタクは最強なんだよな。何もないとか思想がないとか支柱がないとかって関係ないもんね。彼らが独自に持ってるからそういうのに左右されないんだよね。


実はマージナルで独特な人たちのほうがサバイブ術に優れているように見えてしまうってのも俺が言いたい本来のモダンの後って意味でのポストモダンなんだと思うんだよね。でもあれだよね、例えば5年前とかはそんな感じなかったよね。まぁ前から書いてたかもしれないけどさ、でもなんか今は恐ろしいぐらいのリアリティがあるんだよね。ただ生きてるだけ感とかね、言っちゃうと終わるからあえて言わない感とか。90年代からそういう雰囲気はあったかもしれないけど不況やら色々なことがあってとにかく暗いじゃない?みんな不安だもんね。それに比べて90年代は金あるもんなぁー。そんな中で空しい・・・と言っているとブルジョワの嘆きみたいな感じがするじゃん?でも今って金も思想も価値も楽しいことも何もないって人たちがひたすら空しいって感じてる時代だと思うんだよね。あとはやっぱりあれだよね、結婚しても幸せになるとは限らないとかさ、それまでゴールだとされていたものが実は違ってたとかね、そういうのが完全にバレバレになったわけじゃん?やっぱネットは大きいよね。そういう情報が共有されるんでみんな馬鹿なことはしなくなる。だから引きこもってネットとかが一番合理的になりうる場合もあるんだよね。ネット依存だとかなんだとか言うけど俺に言わせれば外界のものが今までみたいな価値を失ったからなんだよね。だからあれはネット依存でもなんでもないと思うんだよね。むしろあれしかないわけじゃん?それにすがるということがはたして依存なのか?ってことだからね。実際に俺もネットなくなったらやることなくなるもんね。まぁ本は読むけどさ、本は買えないし手に入らないしエロサイトにも行けないしsteamからゲームもダウンロードできないし・・・まぁこないだ書いたデジタル依存の話と一緒ね。依存と必要性は違いますよっていうことなんだよね。


引きこもって会話もしなくなるっつーことを選んでるってことは会話自体に価値を感じてないわけじゃん?で、ネットで本音を言い合ってたりするほうがコミュニケーション感があるってことじゃん?だからネットにリアルが移っていってるんだよね。これはもう物質世界の限界なのよ。これを依存とするのには大きな問題があるよね。リアルが糞でネットが面白ければそりゃみんなネットに行くに決まってるよね。そりゃリアルを充実させることが一番いいかもしれないけどそうはならない人もいるじゃん?で、そういう人たちもひっくるめて依存とするのは最悪だよね。凄く重要な実存の問題を逃すことになるわけで。なんかニート系の話と似てるよね。なんで働かないことがマイナスなのか?ってわけわからないじゃん?ネット然り。ネット=悪いものではないでしょう。むしろリアル=糞なのが彼らの一番の問題なわけだ。でもそんなの解決できるわけないわけで。俺はもうそれは無理だと思ってるね。だから前から仮想現実の話とかしてるわけで。俺も正直疲れてきたんだよね。変える力は意志の力しかない!っていう自分の風潮に。これに飽きてきたし続いてないってことは多分有効じゃないってことでしょう。


この虚しさを俺はポストモダン症候群と名付けることにした。別に思想とか読んでなくても風潮とか社会情勢とか雰囲気でみんななりうるってことは一般性があるもんね。共通しているのはリアルに価値を感じられなくなってるってことだよね。あとは過去との断絶ね。下手すると昭和ノスタルジーみたいなのが流行ったりもするし、これもポストモダン症候群でしょう。だからこそ頑張る!的な思想は流行らないかうつ病の人を増やすだけなので、いかに頑張らずに楽しく生きていけるか?ってのを考えないといけないなって真剣に切迫しながら思ってるよね。自分のことでもあるし。俺のニーチェ的な意志の力ごり押しは良くなかったと反省してるね。俺の鬱もああいうところから来てる部分もなくもないからね。意志の力がなくなるときもあるけどその度に思想だ!っつって立ち上がるっていうさ、それができる人はいいけどできない人が多いわけで。俺はあくまでやっぱり自分にだけワークする方法じゃなくてある程度の汎用性があるような有用なものを考えたいと思ってるから意志の力系はやめることにした。まぁただでも価値しかないでしょってのは変わらないよな。実はこれが軸で意志の力じゃないんだよな。いかに価値を見出したり作り出したりして自分の生活を楽しくしたり、あとはそれを軸に何かやり始めたり他人とコミュニケーションしたり、まぁそれすらもできない人が多いのはわかるけど、でも意志の力よりかは敷居が低いと思うんだよね。本当にここで言われた「耳蝉さんならいいかもしれませんがそれができないって人はどうすればいいんですか?」っていう突っ込みは本当に正鵠を得ているよね。ずーっと突き刺さったままだし、本当に的を得てるなと思っていて。俺もちょうど疲れてたしできない人でもいいやってモードにしてそれでどう生きよう?とかどういうマインドセットでいよう?とかってことを考えることにしようって感じなんだよね。いかに頑張ることをやめるかっていうのは凄くキーになると思う。もしくは頑張ってると見えるけど自分は頑張ってるつもりはない的なものとかね、やっぱそこだよね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。