ウォール伝、ディープWebアンダーグラウンド。

わたしがウォール伝を書くのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために書いているのだ。

現実はオワコンという認識からはじめませう。その9。

っつーか「notify-NotifyUser_POST_NG_CATEGORY」って何なの?書いてる内容が反社会的だからとか?ビッグブラザーか!っつーのって感じだけどまぁいいや。


ってことで7からの続きです。


思うに完全に人と接さないなんて無理だと思うんだよね。コミュニケーションを眺めているだけでもとりあえず人が喋っているところってのを見て安心したり何かが満たされたりする人たちっているわけじゃん?だから匿名掲示板とか流行るわけでしょ?まぁ日本独特の暗い文化かもしれないけどでもまぁそこはとりあえず日本問題ってことでいいんだよね。あとは何より今の自分がそういう環境にあって、大いにネットによって助けられてるとか人とやり取りができているとかあとはゲームによって精神が救われてるとかさ、こういうのが無かったらもう俺は駄目になってるもんね。そういう風にならなくて大変だけどやっていけている今の俺ってのはやはりその要因を評価しなきゃ駄目だよね。だからネットとかゲームとかの実存における重要性ってのがね、客観的なリアルもそうだし自分の生活圏というリアルが崩壊すればするほどその重要性が顕著に見えるようになったんだよね。


そこで現実を立て直せ!って言われてもさ、無理な人もいるじゃん?っつってもまぁ生活のことはそりゃ無視できないけど立て直せない現実もあるでしょ?それを変えようとするっていうそのほうがよっぽどナイーヴだと思うんだよね。でももともとこういう人間だから現実ファック!ってことでやっぱり変えたい!っていう気持ちの延長であるのは間違いないんだよね。アプローチが変わったとも言えるかもしれないけど、でもなるべくやっぱり現実ファック!的な発想はやめようかなって思ってるのね。何でも現実と比べたり現実での不満とかさ、そんなこと言い出したらきり無いし意味が無いことだよね。だったらもっと見たい世界とかやっていけそうな世界ってのを作ったほうがいいわけだ。


それって逃げっつーよりかは自分で作るわけだから創造なんじゃないの?って思うけどね。どうなんだろうね?まぁその逃げと感じてしまう直感を変えようとも思わないんだよね。逃げと思う人ならそれで結構だしそういう人たちを必死に説得しようとしたりさ、何が現実なのか?みたいな形而上学を議論してもしょうがないわけだよね。それこそすげー無駄なエネルギーを使うことになるわけだからさ、だからそれは一番いいのは自分で世界を作って世界観を提示することだよね。で、自分の生活自体がどうなろうがどんなに客観的に惨めだろうが内面的には満たされてるみたいなさ、それを不気味と感じるかもしれないけどでもまぁ宗教ってそういうもんでしょ?まぁそういう意味だと宗教的なんだろうけど、でも宗教的な部分は物理的なものばかりに視点を置かないというだけなんであってオカルト的な神とかアストラル界に生きる!みたいなことを言ってるわけでもないしさ、そもそも生きるってことは生きられてるってことでそれは色々なものがある程度満たされてるから生きられるんじゃん?常に欠乏に悩んでいたら生きられないわけでさ、だからそういうインフラの一つなんだよね。俺が言いたい世界って。


で、多分あれなんだよね、「そんなの逃げでしょ」とか「食えない自分を正当化するな!」とかさ、実際にそういう批判があるだろうし何しろそういう批判が浮かぶのは自分の頭だよね。でもよくよく考えると街を普通に歩いている人たちがいて個々が色々な世界観の中で生きているわけじゃん?で、そんな中に宗教みたいな価値観もあるし、世俗的な成功みたいな価値観もあるしさ、で、そういう価値観の一つとして絶望ってのがあるわけよ。で、それは残念ながら正しい観点なんだよね。色々考えれば必然的に絶望的になるわけよ。そんなの哲学とか仏教とかでも永遠といわれ続けてきたことなわけだ。じゃあそういう中に生きるのか?ってそれは意味無いと思うんだよね。それが俺の嫌うシニシズムだったりするわけでさ、だったらそういう世界を脱出すればいいと思うんだよね。でも絶望っていう要素を作り出すのは現実っていう概念だから世界を脱出したんだったらもっとフリーに考えたほうがいいってことなんだよね。


で、なるべく現実っていうのを軸に考えすぎる思考ってのをやめるってことなんだよね。こんなもんは仏教とか密教の本に昔から色々と書かれていることなわけだ。まぁある意味自明なことだよね。でも俺はそれを身を持って経験したわけだよね。それはやっぱり今みたいな環境にいないと気がつかなかったことだったわけでさ、知識として仏教的な考え方ってのがあっても全然実践できてなかったんだよね。でも俺は仏教として実践するんじゃなくて仏教とかの要素とかも入ってるようは自分なりの考え方だよね。そういうのが浮かんでるからそれはいけるんじゃない?って思ってるからそれを実践するっていうそういう話だよね。


でもそれを実践するから完全に世の中と離脱することになるのか?っていうとむしろ俺のアプローチは創造なんだからめちゃめちゃ建設的でむしろその結果、そういう世界で人と接するということになるわけだよね。でも別にそれは任意で接したくない人は接しなきゃいいし、俺も別に四六時中接していようとは思わないからさ、そこをやっぱりあれなんだよね、現実の代替みたいに考えると駄目なんだよね。望ましい規範というのが現実での理想的な生活みたいになると駄目なんだよね。そういうのがそもそもの不幸の始まりなんだよね。そこから外れたらもう駄目だとかさ、リア充っつー考え方なんてその最たるもんだし、ようは内充だよね。必要なのは。


充実しているけどそれはリアルによってもたらされたものではないっつっても本人が充実していると感じればそれは充実じゃん?誤魔化しとかアンチリアルみたいなルサンチマンがあったら別だけどね、それはまさしく俺の言う逃避になるわけね。逃避というのはネガティブなんだよ。逃避じゃなくてそこに能動的に向かう感じだよね。で、動機付けとしては俺が理想とするような見たい世界とかなってほしい世界ってのはどうやら実現しなさそうだって思ったらまぁ自分の世界を作るってことになるよね。まぁオウムの千年王国の発想と全く一緒だけどさ、まぁオウムはリーダーに問題ありってのもあったけどそもそも現実の世界の中にそれを作り出そうとしてたのが大間違いだよね。だからまぁテロとかっていう発想になるわけでしょ?そんなのありえないでしょ。


仮に生きてる人間ならそいつがごみみたいな人間だろうが殺していいなんてことはないし生きる権利があるわけでそいつに対しては何もできないしやっちゃいけないのよ。で、変えようとするのはまず無理ってことね。だったらもうあれなんだよな、一見同じ世界に生きてるように見えても違う世界に生きているっていう考え方しかないよねっつーかそもそもそういうゴミとかと同じレベルで物事を考えて「なんでこんな風に考えるんだろうか?」って唖然とするってようは世界を共有してるからじゃん?同じ場で物事を考えているから争いが起こったり不和が生まれたりするわけだ。でも本当の協調ってようは共生じゃん?違う価値観や世界に生きていながらもお互いがそれを認め合って特に干渉することもなくまぁ見た目は問題が起こらないようにリベラルに振舞っておいて勝手に自分の世界を生きるっていうさ、それが共生じゃん?自分のイデオロギーとかで世界を変えようとするから違う人間を変えようとしたり殺そうとしたりっていう発想になるわけだ。


でも全くその別の世界には干渉しないってこれは本当に協調だと思うんだよね。まぁようは多文化主義だよね。そんな中で一般的にはアンリアルとされる違う世界に住んでいる人も含まれるっていうことなわけだ。だって実際、宗教観が違う人たちって同じ場所でも違う世界を生きてるじゃん?なんでお互いを認め合うのかって邪魔されなくないからだよね。邪魔しあったら戦争が起きるからなんだよね。宗教戦争が永遠と続く理由ってようはこういうことだよね。まぁもちろん認めることで相手がどんどん核武装化していって世界を牛耳るようになるとかさ、実際にヒトラーがヨーロッパを席巻したのも争いごとをなるべく避けようとしたがために侵略が早かったっつー話があるぐらいで、まぁやり方を誤るととんでもないことになるんだけど、でもそれはお互いの世界を生きてても共生のルールってのがあるじゃん?それがまぁすげーファンダメンタルなレベルで言えば生存権ってことじゃん?


思想は自由だしそれによって迫害とかされちゃいけないわけでしょ?あと個々に生きる権利があるわけだ。それは認めづらいけどね、認めづらい生きる権利もあるけどでもそれはもう無理なんだよね。根本のモラルを変えるってのは無理。まぁ生物倫理学とかああいうのはめちゃめちゃ必要だし、でもああいうのってようは俺の言う領域で言えば共生の領域の公共の部分じゃん?いろんな世界観を生きている中で公共の部分として色々と議論する必要があるっていう部分だよね。そういうところも全部現実のことだなんつって無視するなんつーそんなことではないんだよね。そういう意味での無視できない現実とのバランスなんて当然あるわけよ。むしろそんなもん当たり前だから書くまでもないと思ってるんだけどね。ようは違った世界で生きるって話なんであって現実を捨てるって話ではないからね。まぁ捨てたい人は捨てればいいと思うしそれも選択じゃん?


ただでもさ、違う世界に生きたいのに無理やり強制を強いられる部分ってのがあるじゃない?それが何を隠そう現実に存在している色んなルールとかしきたりなんだよね。で、最たるもんがお金なんだよね。拝金主義とかじゃないにしてもなぜか成功とか上手く行っているという話の根拠の大きな部分にお金っていう要素があるんだよね。まぁお金によって不幸になってる人もいるし無いことで不幸な人もいるけど、まぁどの道原因を作ってるのはお金だよね。生きていかなきゃいけないっていうことで永遠と人間が悩み続けなきゃいけないのってようはお金の心配なんだよね。まぁそれを心配することでどうにかしよう!と思って解決策とかが見出せる人はいいけど見出せない人っていっぱいいるじゃん?あとはお金の心配というよりかは人生の意味そのものが分からないっていう人たちもいるじゃん?そういう人たちはお金があってもまぁ多少は幸せになるかもしれないけど実存的な問題の解決にはならないって分かってるわけじゃん?なんかそこでいつも気になるのがさ、なんでそこでその現実を見据えて何の道も無いなーって思うことがイコール諦めと見なされるのか?って話だよね。


鬱の療法に「自分なんて生きてる価値がない」って思うことが意味がないって思わせるっていう認知療法があるじゃん?それぞれの生き方があっていいわけだから何も自分を責める必要ない!ってことじゃん?鬱の人の「価値がない」っていう価値観もまた現実という観点から見たうえでの自分の価値なんだよね。体が動かなくて頭も動かなくてポンコツ人間だっていうさ、いや、それだけで価値が無いとすれば世の中の大半の人は価値がないってことになるよね。実際に本当に人間的に価値があるよね!なんて人間だけ残したらもうごっそり世界から人間がいなくなりますよ。それってめちゃめちゃエクストリームな観点じゃん?自分で価値がないって思い込んで理由を聞くとまぁ世の中でやっていけてないとかお金がどうとかそんな話ばっかじゃん?でも逆説的に言えばお金がどうにかなってても価値がない人は価値が無いしお金を稼げているから価値があるなんていう道理は無いわけだよね。


食えているから立派だっておかしな話なんだよな。それってたまたま自分の持ってる能力なりなんなりが社会でお金になるっていう人たちの道理じゃん?大抵はそんなことないから単純に身売りをして生活するしかない。ようは労働力を売るってことだよね。まぁジョブズとかイチローとかはそりゃ立派だけどあれが立派な人間だとしてしまったら基準が高すぎるじゃん?そんな基準はないしそんな基準があったら多くの人をどん底に突き落とすものになるよね。イチローを目指せ!なんて何万人が挫折して絶望する結果になるのか。


下手に希望とかを持つから絶望するんであって、それは期待したりするもんじゃなくて自分で作るもんなんだよね。大抵の人がイチローじゃないのは目に見えてるんだからそういうところは認めようぜって話だよね。逆に叶うわけもない夢を見続けるなんてそれこそ現実逃避だろうって思うけどね。まぁそういう世界観の中で心のバランスを保って生きていけているならまぁそれも一つの世界でまぁありもしないバーチャルな夢の世界を生きるっていう意味で仮想現実だし実際にそれで生きていけてるんだったらそれは十分立派な世界観でしょう。だから他人からディスられる理由はないよね。っつってもなぜか日本にはドリームキラーが多いんだよな。魔のしもべみたいなのが多いよね。


ネガティブ好きっていうかみんな不幸になってしまえ!とか駄目になれ!とか潰れろ!みたいな負のエネルギーがめちゃめちゃ強いんだよね。それはまぁ俺が昔から書いてたことだけどまぁそれを変えようなんてドンキホーテもいいところなわけでさ、一回そんな魔のしもべになった人間を人の力で更正させるなんて無理なのよ。ましてや一般的には立派に自立して生活しているから立派な社会人みたいに扱われてるわけでしょ?でもすげー人の悪口言ってたりネガティブなことしか言わなかったり負のパワーを出しまくってたら立派もクソも無いと思うんだけどね。


ってことで続きはまた明日。