現実はオワコンという認識からはじめませう。その15。

はい。そこで俺の話になりますね。脱出せよ!と長年言い続けてきた男の話になりますが、ようはその真実の世界を見ろ!っつってようは絶望しかなかったってことですね。あらゆる現実の諸要素が絶望ディスペンサーになっている。だからそんな世界を見よ!といっても俺自体の実存が壊れていくほど絶望っていう病をこじらせてしまったわけだ。洞窟の外に出たはいいけど何も無い焼け野原で絶望っていう疫病が蔓延してるからシェルターに戻ったほうがいいんじゃない?って話なんだよね。で、俺は戻るのは嫌だから自分のシェルターを作る!っていうそういう話だよね。まぁほとんどの人が洞窟にいるって意味でみんな引きこもりみたいなもんじゃん?


本当の世界が見えてる人なんて限られてるし、そもそもそういうのが見れないか見ようとしないのが大衆なんだって散々哲学者や社会学者や心理学者は言ってきているわけで、その世界の転換!なんてそもそも無理なんだよね。彼らの主観を完全に変える!なんて洗脳しかないじゃん?啓蒙は無理なんだから。でも別に洞窟の中にいようが外に出たってどうせ何もないんだったら洞窟の中でバーチャルな世界に浸っていたほうが楽だってみんな考えるわけでしょ?だからまぁ社会が変わらないんだよね。で、俺はそれを変えようとしていたけど、それを変えようとするのは心地いい場所にみな安住するという動物の根本的な本能みたいなのを根こそぎ変えるっていうことなんだからそもそも無理なことを考えていたわけだ。


洞窟にいるっつーと家に篭ってるイメージになるけど別に仕事してようがサラリーマンだろうがプラトンの比喩の洞窟で言えば洞窟の中の影を見てるだけなんだからその人がどんな生活してようがそれは洞窟の中なんだよね。まぁそれを理解しろ!とは言わないよ。俺はそういう啓蒙的なものにパワーを使うのはやめたしっつーかそもそも分からない人は完全に分からないからね。で、分かる人はもう分かっているか、あとは俺の書いていることを見て共感するっていうそういうことなんだよね。ただまぁあれだよね、あ、分かってる人いるんだなって分かり合えることでもそれは救いになるからね。圧倒的なマイノリティに見えるけど気がついている人は結構いるんだってことなんだよね。


でも今回の俺のパラダイムシフトってさ、洞窟の中のまたここの主観に存在する世界もまた同じ世界であるってことをオントロジカルに認めるっていうところなんだよね。前の俺で言えばそんなものは虚像なんだ!ってことになるけど、そもそも虚像じゃないものなんてのがそもそも少ないわけだ。真実の世界に生きているつもりでもまだ虚像を見ている可能性があるし、俺から言わせればずーっと真実の世界を見るなんてタフ過ぎて大抵は心が病むと思ってるんだよね。だから繊細な人ほど心を病んじゃうわけだ。哲学云々というよりかは現実の空しさってのに対する感受性が高いんだよね。だから馬鹿ほど幸せになるっていうアイロニカルな状態になるんだけど、別にそれは今に始まったことでは無いんだよね。別にそれは昔からそうでしょうっていうさ、変な話、みんなが開眼していた時代なんてあるのか?って無いからね。昔の中国がしょっちゅう戦争をしてたんだけど民衆は何も言わなかったのか?って凄まじい強さの無関心があったから永遠に権力者が戦争を続けてたらしいんだよね。いや、昔なんてもっと酷いよな。いや、当たり前だけど。


じゃあただのフィールグッドでいいのか?ってことになるけどさ、ヒラリー・クリントンだっけ?Feel good societyって発想。政治家で頭が良いからこんなことは分かりきった上で大衆をフィールグッドにさせなければ!っつー方針なんだろうなぁ。少なくとも日本では政策のレベルではやられてないけど民間ではアイドルだのアニメだの個々人が勝手にフィールグッドになっているっていう世界が形成されてるっていうさ、でもそれってサバイバルの作法だから動物として考えたときにワイルドすぎる現実でやっていくには?ってそこまで頭が回らなくても本能的にやっていける道を探すってことで幻想を追い求めるとかさ、気持ちいということをやるとかってことになるよね。だから凄く自然な形だよね。


で、いきなりだけどめちゃめちゃ単純な説明を思いついたんで。マトリックスで赤いピルかそれとも青いピルか?と言われて「どちらでもないし、どちらでもある」みたいに答えるってことだよね。基本的に現実の世界はネオとかがいるような感じでまぁロクな感じじゃないわけだ。日本でもっと貧困化が進んでいくと言われているしそういうリアリティがあるならむしろそういうリアリティを持って絵空事ではない現実のことについて語ろうではないかってことなんだよな。で、まぁ相当の数の人があの宇宙船みたいな生活を強いられるようになるよね。もうなってる人もかなりいるしそれで自殺してる人も凄まじい数でいる。そんな中で仮想の欲求が簡単に満たせるマトリックスの世界を否定できるのか?ってことだよね。現実逃避をすればイリュージョンである青いピルを選ぶことになるんだけど、でも多くの人たちはマトリックスの世界に埋没したままでいたいと思っても否応なしに現実に変えってくることを余儀なくされるわけじゃん?そんな中で現実でサバイブしていくために例えばそれこそ性欲とか達成感とかそういう人間の欲求ってのをマトリックスの世界で満たしつつ現実の世界はとりあえずまぁしょうがないってことで生きるしかないっつーかさ、あとはマトリックスの世界があるから生きていけるって感じになると思うし、実際の世界ってそうなんだよね。


こないだAKBについて色々書いたようにさ、マトリックスほど明確ではなくてドラマティックではないんだけど、実際はマトリックスの世界というのは現実の一部なんだよね。どちらが?という優越性が無く、それは単純に主体がそれに臨場感を持って接しているか?っていう言わば強度の問題なんだよね。だから結局それは全て認識の問題ということになっちゃうわけだ。それがリアルかリアルではないか?というのは例えば俺の場合さ、今、エロ動画見てて思ったんだけどOLモノとかナンパモノとかってあるじゃん?あれで俺が一番冷めるのは言うまでもなくやらせというかAV女優がOLに扮してたりするやつだよね。まぁそれが作り物であろうが演技であろうがさ、一応客観的に状況的にはOLが犯されているという映像が出来上がるわけだ。でも見てる側はそれが本物なのか偽者なのかすぐ分かるんだけど、そんなのこだわりがなければ「抜ければいい」ってことになるんだよね。でも俺から言わせればリアリティが無ければそもそも興奮しないし冷めるわけじゃん?洋服とかも本物のOLの私物じゃないと興奮しないし、だから俺って基本的にAV女優のやつってあんまり好きじゃないんだよね。あんな新品のそれのためだけの衣装を用意されても全然興奮しないんだよな。それはリアルじゃないから。


でもこれって典型的なWho cares?的な話だよね。何なのそのこだわり?っていうさ、でもこれって仮想世界と現実の世界の話をすると差ってこの程度のものなんだよね。逆にそこまでこだわって本物のOLじゃないからって悩むか?っていうさ、現実に悩むって実際はこんぐらいくだらないことなんじゃないか?ってことなんだよね。いや、結局仏教とかがもっと大局的な見方で見て見ようっつってさ、全ては些細なことだって視点を変えることで考え方を変えるってまさしくこれだよね。で、俺は特に今回の話の場合、強度の重要性とか臨場感じゃん?って話をしてるわけだ。昔、石野卓球がさ、オナニーにはオナニーのよさがあってセックスにはセックスのよさがあるからどちらが良いとは言えないなんてことを言ってたことがあるんだけどまさにこれだよね。


オナニーはセックスの代替ではないっていうさ、別にセックスできる人でもオナニーは楽しみとしてあるって人が多いじゃん?だから別もんなんだよね。セックスのほうがリアルでしょうっつってもオナニーしているときの気持ちよさってまぁ臨場感で言えば俺はセックスしたこと無いから分からないけど根本的にセックスとは関係ないと思ってるんだよね。本当に卓球が言うように別ものだと思うわけ。で、そりゃ実際にセックスしたいとは思うけどイッた後にオナティッシュ捨てながら「あーオナニーは楽でいいわー」ってディオゲネスみたいに思うわけじゃん?実際だったらこうはいかないだろう。いや、それこそセックスだけが目的だったらオナニーのほうがいいに決まってる。まぁようは俺って典型的なイッたら終わりっつー最低の男なんだと思うんだよね。だからこそオナニーが楽だと思えるわけだ。


無料アダルトサイトのアクセス数が世界からのアクセスで億単位なのはまさしくこういうことだよね。バーチャルもクソもなくネットでずりネタを探してそれで抜くっつーのは一つの現実のあり方なわけだ。それは逃げでは無いでしょう。四六時中アダルトサイトを見ていて、んで給料入ったらソープとかデリヘル呼ぶって人もいるしさ、それだけのために働いてるみたいな人もいるわけで、それは大いに生き方の一つなんだよね。東陽片岡的な。あとは何にも無い感じとかってやっぱりつげ義春だよね。結局俺ってやっぱり世界観がこれなんだよな。東陽片岡つげ義春、カルネみたいなすげードライな世界ね。そういう世界観に浸ってるのが好きなんでしょ?とかっていう馬鹿が必ずいるけど、そういうやつは四六時中マトリックスの世界にいるから分からないんだよね。まぁようはマトリックスと現実の世界を行き来してる感じなんだけどリアリズムそのものってのをマトリックスの世界とは切り離して単体で見るような芸当はできないわけだ。そういう認識を持ち合わせてないんだよね。


それがそもそも無理な人たちにマインドを変えてもらう!ってのが変える!って発想だったりするけど認識そのものを変えるということは本当に難しいっつーか無理。だからまぁあれだよね、自分のチャンネルを作るってことだよね。で、その世界ってのはさ、自分の世界というと凄く引きこもりというか、凄くインナートリップな感じだけどそこは違うんだよね。こういう世界観もあるよねってことでやっぱり他者と共有するってのがいいんだよね。いや、実際にそういう感じになったってのがウォール伝なんだよな。似たような考えを持っていて絶望的に大学とか会社に通ってたけど「やっぱりこういう人いるんだ」とか「俺と考えてることが同じだ」って思えるってことはさ、繋がりというほど凄いものではないけど、でもそれってリアルじゃん?存在を認識するってのはもう認識に影響を与えてるわけだ。だからそれで世界を変えるとかそんなことじゃなくて世界観の共有だよね。そんな中で芸術から政治まで色んな世界ってのがあると面白いなっていうさ、で、お金を軸に考えないわけだから社会性とか関係ないわけだ。


かといってもよくあるようなネット革命みたいな感じでツイッターフェイスブックを使って共有!みたいなそういう感じではない。もっと抽象的で観念的な繋がりだよね。いわば価値観の共有なわけだ。独自の世界あっていいじゃない!っていうさ、その中ではその人がどういう仕事をして生計を立ててるのか?とか関係ないんだよね。この辺が凄くバーチャル空間のアバターっぽいでしょ?でもなんつーか仮想世界の自分という話ではなくてさ、本当にもうここだよね。ようは実存とか存在なんだよね。ネットになら居場所があるっていうさ、それってかなり負け組みっぽい響きがあるんだけど実際にリアル社会で幸福になってる人がいるのか?ってもうあんまりいないわけだしそれこそベンサム的な単純な快楽主義ということになると見栄えとか社会的ステータスとかは関係なしに個々がそれなりの幸福を持って生きていっているか?ってことだよね。とりあえず常に人が自殺し続けるようなことから脱却しなきゃいけないんだけど、なんつーか俺自身も将来は分からんけどさ、ただまぁあれなんだよね、繰り返し書くように現実が全てじゃないんだよね。


ってことでそろそろ追いついてきたかな?一応まだ続きがあるんだけど書いてないんだよね。まぁこれの続きは今度貼るけどそれ以降もあるんだけど書いてないってことね。まぁそんなに急がなくていいか。んじゃまた。