我の置き所。

外出るっつったら月1の病院しかなくてそれ以外全く出ないんで月1しか外に出てないってことになりますよね。で、まぁ今日は病院だったんだけど、前にも書いたかもしれないけど自分が老化したのかなんなのか凄まじくJCに欲情するようになったんだよね。自分が10代の頃は30過ぎぐらいのお姉さんが好きだったのに今はJCだもんな。まぁでも明らかに女子自体が進化してるってのがあるからってまぁそれは帰国後に色々と書きましたね。まぁだからこれってロリコンとかじゃないよね。新世代の明らかに体系とか顔とか声が進化した女子が好きなんだと思うわ。まぁそれはともかくさ、外に出るとっつーかまぁ基本的に籠ってるときは絶対何かをやってるんだけど歩いてる時とか自転車に乗ってるときってのは空くじゃないですか?そういう時に考えるよね。そう思うと普段は全然考えてないってことなのか。


まぁそれはともかくだな、いや、なんでこんなに面白いことが限られてるんだろう?って思い始めてからもう数年経つけどさ、いや、ホントに哲学に没頭してた時とか楽しかったよなぁーと思ってさ、まぁ数学然りなんだけどね。数学も思えばすげーペースでやり過ぎたのかもしれないな。マスターってのは言い過ぎだけどまぁある程度の知識を得たから目新しいものってのが無くなっちゃってつまらなくなってるんだよね。だからまぁこれはもう自分で何かを発見するとかそういうことでしか刺激を得られないなって気がついたってのもまぁ前に書いたけどさ、まぁんでさ、いや、哲学なんだけどね、哲学自体はともかく哲学っつーフィールドで起こっていることってようは問題を作り出してるんだよねってことなんだよね。いや、ウィトゲンシュタインが似たようなことを言ってたと思うけど、別に問題でもないってことを問題にしてあーだこーだ言うことで問題を作り出してるっていうさ、いや、それが存在とか実存とかならいいけどどんどんメタ化するじゃないですか?実存に関する言説に関する言説に関する言説に関する・・・ってのが永遠に続くよね。だからまぁ哲学は文献学になるんだよな。あとは自分のポエムみたいなのに学術的な価値とか意味合いとか権威を貼付けるためにアカデミックで認められているものを引用したり言及したりして文章にまとめるっていうまぁ改めて本当に糞な分野だなって思ったんですよね。あ、そのアカデミックな哲学って意味ね。


プラトンがどう思ってたか?ってまぁプラトンしか分からないけど文献って多義的な解釈しかできないじゃん?っていうかプラトンが思ってたようにプラトンを理解するなんてことは難しいしそもそもプラトンがどう考えてたか?って分からないじゃん?まぁそれをめちゃめちゃ研究してどう考えてたか?ってのを知るってのもあるけどそれだったら自分で哲学やったほうがよくね?ってことになるんだよね。いや、そんな昔の人の哲学をディグしまくったところで何になるの?っていう。まぁアカデミックで認められてるとまぁそれがようは職業とか仕事として認められるからね、まぁホントにそういう相対的なことでしかないんだよな。プラトンって分野もまぁようは知的産業だもんね。とりあえずプラトンならプラトンに関する何々論って受け止められるじゃん?受け止めるっつーか受け入れられるってことか。めちゃめちゃエッジが聞き過ぎた言説なんて受け入れられるわけがないわけで、だからまぁ本当の哲学なんてのは分からないってことになっちゃうっつーかまぁ分からないもんなんだよね。それでいいんだと思うんだけど。だから世に認められてるものってもう死んでるんだよね。それで言うと芸術なんかも同じなんだろうなーって思うよね。別に認められてるってことをそこまで重要視することはないんだけど、ただ今まさにそこで起こっている!っていうことは世間とか飛び交う情報の上に乗り辛いじゃん?まぁ別に乗せなくてもいいって話もあるけど。


もうだからさ、何やっていいのか分からなくなっちゃって。いや、ちょうど一年前のオワコンシリーズは本当に素晴らしかったと思うんだよね。その結果っつーか主観=世界ってのを極めるとホントにバーチャルの世界に入り浸るっつーかあとは自分の世界に生きるってことを徹底することになって、んで今みたいな俺の世界があるんだなって思うと月1しか外に出ないっつーのも思索の帰結として当然の結果だと言えるよね。だからやっぱりあれなんだよな、先取りし過ぎてるんだよな(笑)もっと意識のレベルとかで情報が行き交うみたいな世界になったら俺みたいな世界の感じ方って当たり前になると思うんだけどまだ世界はアナログだからね。でもさ、そう思うと俺って未来少年じゃないですか?で、まぁそこまで歳取ってないし、あと50年は生きるとして例えば2050年とか2060年とかってSFの世界とかだとまぁ相当アレですよね、サイファイなことになってますよねっつってもまぁ1950年代における2000年代みたいなもんだから意外とそんなに進化しないのかもしれないけど、ただまぁでもいつか世界が追いつくなーと思うとそれまで待ってればいいんだよね。未来を見据えながら生きるんじゃなくて未来に生きてるんだよね。だから世界が時代遅れっつーか世界がアナログ過ぎるってことになるんでだからまぁつまらないんだよね。


でもまぁさすがにあと10年ぐらい経てば色々と違うだろうってことなわけでっつーかまぁ今でもあれですけどね、バーチャルをリアルの境なんて恣意的っつーか主観に依存するもんなんだって考えると何を世界と考えるのか?なんてことがどうでも良くなるっていうかまぁ分別がどうでもよくなるんだよね。むしろ今の俺はバーチャルの世界があるから現実の世界でも生きていけるわけじゃん?むしろ生きていけてるってことは生存に勝ってるってことだもんね。現実が糞だっつって絶望してるよりもそんなの当たり前だから楽しいインフラを自分で作り上げるしかない!ってことになるわけじゃん?で、俺は色々と実践していく上で結局は色んな世界に埋没するっていうやり方になってるんだよね。ゲームをアホみたいにやるとか映画をアホみたいに見るとかそういう時間のほうが現実の時間より長くなるとちょうど現実とのバランスが良くなるんだよね。ある程度現実の理不尽さも我慢できるようになるっつーかなんつーか。


思うにさ、数学をやる上で論文を書かなきゃいけない!とかアカポスにつかなきゃいけない!とかさ、これもいかに現実っつーものに引っ張られてる思考なのか?ってことなんですよね。いや、数学をやる上で必要なのは数学をやることで現実との兼ね合いなんてどうでもいいじゃないか!ってことになるんですよ。だから別に何も書かなくていいんだよね。ただ色々と知って考えて楽しみつつどんどん色々と研究していけばいいわけで。そう思うとめちゃめちゃ気が楽になると同時にまぁ野望とかも良い意味で無くなるから緩くなるんだよね。前みたいにストイックに数学をやる!ってことが無くなるんだよね。まぁでもそれでいいんだよな。それこそ好きな小説を読むみたいな感覚でやるのが一番いいわけでやっぱりお勉強しなきゃ!って感じになるとダメだね。結局これって頭が働かないし無理するんで無駄に疲れるし鬱っぽくなるし何もいいことがないんだよね。まさしく気が向いたらやればいいっつーそれに尽きますよね。


で、今はゲームが楽しいならそれでいいじゃないってことだよね。だからまぁゲームと半々ぐらいでいいのかな?って思えてきたね。これでもうほぼ生活の全てがバーチャル化しますよね。一方でバーチャルの世界で一方で数学っていう別の次元の世界で。こうなると世界がつまらない!なんて嘆くこともなくなるよね。つまらない世界に目を向けないで面白いと思う世界に目を向ければいいわけで。まぁ現実逃避って言われるんだろうけどね、こういうのって。でもまぁ現実と向き合うための術ですよね。まぁあれか、いつも言うけどアイドルオタクがアイドルにハマってるから生きていけるのと同じなんですよね。で、それで何が悪い?ってことだもんね。悩んで自殺するより楽しんでた方が本人は幸せなんだから。


でも現実は・・・っつってもそのリアルを自分が作ればでも現実は・・・っつー現実がまぁようは色んな世界とのつながりを持つ場所ってことになるよね。で、俺っつー体っつーか意識は色んな世界に繋がるための媒体っつーかハードウェアっつーかなんつーか。いや、ただのハードウェアなんだからハードウェア如きが実存について悩むこともあるまいって話だよね。まぁある意味これは仏教の無我と同じかもな。だからまぁ現実だと思わされている現実とか「こうしなきゃいけない」って勝手に誰かに決められているルールっつーのが人間の魂を束縛してるってことだよね。まぁそれの解放っつってもまぁ俺みたいなデフォでアウトローみたいな人に取っては楽なことだけど糞みたいな現実の中でやっていっている人には実践が難しいってのが問題だよね。いや、それは頭では分かってるけど生活があるから解放できない・・・ってことだよね。だからやっぱり解放したい人は解放できるような社会にしなきゃいけないわけだな。


いやーそれが可能になったら幸福度みたいなのってめちゃめちゃ上がると思うんだよね。フリーソウルの世界っつーかなんつーか。いや、このさ、ゲームにハマってからの悩まない感じって凄いなって思って。メンタルヘルスを考える上でこれはめちゃめちゃ重要なことだなって思ったんよねっつってもまぁスカイリムにハマった時にも同じようなことを書いてたと思うけど、まぁ俺にとってゲームっつーかバーチャルな世界はもう必須なんだってことなんですよね。まぁそれに気がついたから馬鹿みたいに高いゲーミングノートPCを買ったんだけどね。バーチャルを自分を繋ぐインターフェースがポンコツじゃダメだろうってことだったんだけどまぁ大正解っつーか思うにこれも思索の帰結の一つなんだよなーって思うと色々とアツいですよね。思索ってこと自体が生活をシェイプするってまさに哲学の実践だからね。いや、こりゃ凄いよ。何気に俺は凄いんだってのをゲームにハマり倒しながら思ったわけですよね。所詮ゲームだ・・・的な考え方とかそういうのをもうクリアしちゃったじゃん?っていうかそういうレベルでゲームをやってるわけじゃないんだってことだよね。


でもまぁあれなのよ、ずーっとやってると飽きるからそれ以外も当然必要なんでそういう時にゲームをやってない時でも数学とかスナイパー関係の本を読むとか色々とやることがあるじゃん?これって絶望から逃げてるとかってことじゃなくて生存の術だよね。いや、むしろ何を絶望する事があるんだ?ってことじゃん?いや、ニーチェはそういう意味で世界がつまらないんじゃなくてつまらない世界にしてるのは自分なんだってことを言ってたんじゃないかな?と。ニーチェ的な世界観を完全に実践すると武井壮みたいになるよね(笑)いや、それでいいんだよなってことなんだよね。こんな風に数学をやりたいとかこんな風な音楽を作りたいっつって作れたらそれって大成功なわけよ。でも実際はなかなかできない。それってのは自分を操作する術を身につけてないからなんだよねってことだよね。いや、武井壮ってガチでニーチェな人だよね。でもマジの哲学って別にニーチェを知らなくても勝手にニーチェ的な考え方に行き着いたりするのよ。いや、哲学なんて読んでないからこそ哲学なんだよねっつーかまぁ武井壮が筋肉馬鹿で本を読まないみたいな扱いにしてるけどまぁでもニーチェ研究の結果、そういう考えに至ったわけではないでしょう。色々と実践していく中でそうなったんだよね。いや、考えてることが現実化しなかったらそれはおかしいんだよね。いや、本当にその通りだよね。それはインターフェースの問題なのよね。理想の姿があればあとは自分っつーキャラをどうそれに近づけていくのか?ってことじゃん?思考が現実化してないってことはキャラを使いこなせてないってことだもんね。


んでもさ、あれじゃないっすか?俺の世界観に関してはあとはもう世の中の問題じゃん?世界がSFみたいな世界になっていけばなっていくほど俺みたいな思考が現実化っつーかガチ化していくわけじゃん?で、俺は先にメンタルの部分で先に到達しちゃったんだよね。だからあとは世界がそれに対応するのを待つだけなんだよね。世界観に関してはもう本当にこれだよね。自分がやりたいような数学をやりたいっていうのは単純にキャラを使いこなすっていう話なんでこれはやっぱり鍛錬の話になるよね。でもまぁあんまりそればかりに気を取られ過ぎても楽しく生きられなかったらそれってダメだからやっぱりほどほどにってことになるんだよね。楽しみながらやらなきゃダメなんだよね。あとはまぁ勝手にやってる身なわけだから数学に関して義務的にやらなきゃいけないことってないわけだからまさしくフリーでやればいいんだよね。やりたいときに好きなだけ好きなようにやればよろしいっていうことになるよね。多分、極めようとするならこのぐらい力が抜けてた方がいいんだろうなって思ったんですよ。このほうが長続きするじゃん?ストイックにやってると精神的に疲れるから持たないもんね。


ゲームをやって数学もやって・・・ぐらいのバランスがちょうどいいような気がしたわけですよ。あといつも書くけど楽しんでるか?っていうそれね。楽しんでなかったらまぁもうその時はやらないほうがいいね。効率悪いから。気が向いたときにやるのが一番効率いいですよね。そんなんじゃ世の中でやっていけないって言われてもそれは世の中が最適化されてないだけで自分の方法論が少なくとも自分にとってベストに決まってるわけだから世の中なんて関係ないってことになるからね。だからまぁ良い意味でどんどん世の中と離れていくんだよね。何もかもが遅れ過ぎている世の中にオサラバするっていう感じか。で、未来から現実の世界にアクセスするって感じだよね。だから今の自分の世界の臨場感としては未来なんだよね。未来から現在にプロジェクションされてる感じね。まぁそのイメージなんですよね。まぁ別に未来に限った事じゃなくてようは自我の置き所なんだよね。それによって現実というのは変わってくるって話なわけで。


コミュニケーションギャップなんかも思えば当たり前なんだよな。そもそも同じ現実を生きているわけじゃないのにあたかも同じ現実と世界観で生きているかのように思い込んで普遍的に通じると思われている言語を使ってコミュニケーションするって逆に上手くいくわけないんだよね。なんか本当に納得なんですよね。昔は色々と悩んでいた事も今では本当に馬鹿らしいぐらいのことになってるわけで。まぁこれって成長ですよね。結局なんかまぁどんどんタフになってるってことだねっつってもまぁ相変わらずストレスには弱いんだけどそういう物理的な弱さと我の弱さって違うじゃん?我を鍛えるってようは我の置き所を変えるってことなんだよね。多分。でも無我にはならなくて我を置いている場所ってのがあるわけだ。でもそれは見た目にはそりゃ当然分からないんだよね。でも全然違う世界を見ているってことだからね。これってバーチャルリアリティの話とか抜きにしてもようは世界観ってこれによって変わるじゃん?なんつーか無我まで行かないんだよね。無我まで行ける人は限られてるわけだ。俺には無理なんだよね。我が強いから。だから無くすんじゃなくて引っ越すっていう感じなんだよね。それによってコントロールが容易になったり我があることから生まれる苦痛から逃れやすくなるっていうさ、まぁさっきも書いたけど生存術ですよね。


でもこれってあれなんだよね、虐待を受けている子供が「こんな仕打ちを受けているのは自分じゃないんだ」って思い込む事で精神的ダメージを弱めるってのと構造は同じだよね。その結果、多重人格ってのが発生したりすることもあるってことじゃん?でもまぁさ、俺にとっては現実ってハーシュ過ぎるのよ。剥けてないチンポを剥くようなもんなんだよね。なので包茎のまま別の場所に頭角を出すって話なんだよね。だから自分の世界に籠るというのとは全然違うわけよ。なんつーかまぁ色んなものに対する感じ方とか変わると思うんだよねっていうかまぁ俺は変わったんだよね。だいぶ。どんどん世間とは遠ざかる感じがするけど内面的な昇華感ってのは半端じゃないよね。なんかそれで昇華しきって最終的に世間に降りてくるぐらいでいいんじゃないかな?って思ってるよね。あ、でもそういうことじゃないのか。世間にいる自分というのもいるわけだからね。でも感じ方が違うからそこから受けるダメージってのは現実が全てだって思っている人とは全然違うってことなんだよね。まぁ俺みたいなやつにとっては本当にそうでもしないと生きていけないって話なだけだよね。


でもそれは弱い人間の生き方なのか?っていうと違って明らかにニーチェ的な超人のベクトルなわけじゃないですか?そこが凄いよね。そりゃそうだよね。こういう世界観だったらルサンチマンとかなんだとかそんなのとは無縁だもんね。まぁ精神的な無敵モードっつーのかな?いや、ホントにあれなんだよな、今後はこの認識をベースにしつついちいちくだらないことで悩まないってのを徹底しようかなって思って。ようは生きたもん勝ちなんだからって話だよね。悩むのは損だとは思わないけど明らかにデッドエンドなことで悩んでてもしょうがないんだよね。思うに俺はデッドエンドなことで悩み続けてきた気がするんだよね。今はそういうのから解放されているっていう感じがするんだよね。そういうベースがあってのバーチャルリアリティとか数学っていうリアリティとかっていう話になるわけよ。


まぁそんな感じなんですよね。あ、あと軽く訂正なんだけど現実はハーシュ過ぎるっつーよりかはハーシュに感じる自我の置き所が間違っているからハーシュに感じてしまうってことだよね。現実そのものにハーシュも何も無いってことなわけだっつってもまぁ明らかな現代の虚無感ってやっぱあるじゃん?それは認めざるを得ないよね。だからこそ超人化するしか道はないんだよね。特に俺みたいな刺激ジャンキーはそうじゃないと生きていけないわけで。


ってことでんじゃまた。