製作に没頭。

いや、作ってるうちにとまらなくなっちゃってさ、いや、いつ完成するのか?って感じになってるわ。いや、最初に作ってたやつの原型がもう無いんだよね。全部変わっちゃった。それでもまだ終わらないんだもんな。あと長くなってるわ。広島が82分らしいけど俺のは90分近くになってるわ(笑)余計誰が付き合ってくれるのか?っていうか聴いてくれるのか?ってことになってるわ。でもこんなに真面目にやってるのは久しぶりだね。マッシュアップなんて所詮マッシュアップなんで適当にやるけどこれはなんかもう「俺の作品!」って感じになってきていてなんか熱の入れようが半端じゃなくなってきてるんだよね。真面目なのを最後に作ったのがもう8年ぐらい前になるからまぁ久々に「自分のやつ」っつーつもりでやってるんだろうなって思ったね。ミックスだったらここまでやらないもんな。もうミックスじゃなくなってきてるんだよね。色んな曲を使って自分のを作ってる感じっつーかそれでいいんだけどね。


いや、色々と思ったんだけど音楽ってまぁ所詮バリエーションって限られてるじゃん?いつも書くようだけども。だとしたらまぁ音楽として成立するものってもうほとんど作られてるんだよね。ノイズとかですらそうだもん。いや、今のやつ作ってて過去のエレアコとかも使ってるから聴きなおしてるんだけどまぁどれも似てるよね。特に過去のやつだと手法と機材が限られてるからどれも似るって話なんだけどまぁそれで言うと現代曲も似るよね。で、テクノロジーが発達して色んな音が出せるようになったっつっても似てるのばっかだもんな。だから多分バリエーションってそんなに無いんだよな。まぁだから感覚としてはレゴブロックだよね。造形の最小単位ってのをブロックとしての音素材としてそれでまぁ色んな形を作るって感じだもんね。ほとんど大抵の音は出尽くしているって前提に立つとさ、なんかあれだよね、俺が実数を考えるときの感覚と同じになるんだよね。無限の大きさを持つチーズみたいな塊ね。それをどう分けるか?ってのが数って概念になるわけ。


まぁそういう分けたチーズの組み合わせっていうんですかね?それが生なのか形を真似て自分で作ってるのか、まぁどの道、チーズっつー塊から取ってきてるということには変わりはないのでそれ自体は大して問題にならないんだよね。あと今まで買ったCDとかmp3のデータの蓄積が凄いわけじゃん?いや、それを全部使える!ってことになるとホントもう大体のもんがあるってことになるんだよね。俺が持ってる音楽データの中の組み合わせでのマッシュアップトラックって潜在的にいっぱいあるんだよね。それを発見してなかったりやってなかったりするだけで。まぁプラトニズムみたいな話になっちゃうんだけど。


んでもさ、主観的だからなんともいえないけど「とりあえず貼る」っつーんだとなんかね、いかにも取ってつけたような感じってのが出るんだよね。ビジョンがあってそれで音素材を使っているっていう感じになってるやつとそうじゃないやつの差が激しいんだよねってまぁ主観的だからなんとも言えないんだけどこの取ってつけたような感じのものをどんどん排除していった結果、原型を留めなくなっちゃったんだよね。まぁようは当初はミックスっぽくてんでまぁ楽曲の垂れ流しみたいなのが嫌になってきて色々といじった結果、どんどん形が変わっていったっつー感じか。いや、こうなるともうミックスじゃなくてコラージュだよな。マジで。っつってもサンプルってほど細かく刻んでないコラージュだね。まぁでもサンプルの長さってあんまり関係ないよね。それがあまりにそのまま過ぎるのか、それが異化されてるのか?っていうそういうところが肝心なところですよね。


いや、でもこれってある意味構造的なことが作り方を規定してるともいえるよね。そりゃ著作権があるものを使ってるわけだから売ることは出来ないけどグレーゾーンのミックスみたいな扱いで俺の作品だけどタダで聴けますっていうさ、ダウンロードにすると問題があるならまぁストリームオンリーにすれば作り手とリスナーの関係がそこで成立するもんね。そう思うと邪魔なのって著作権ってことになるよな。マジで。いや、だってギター弾けない人がギターの音を使いたいときにはどっかからギター持ってきたいじゃないですか?でも著作権だ何だって問題で出来ないとかさ、でもまぁ今って相当なプロじゃない限りオリジナル曲を売るなんて成立しないじゃん?


あと思うにサンプリング音楽にしても俗に言う2秒ルールみたいなのってあるじゃん?不二家的なやつ。何小節だったか忘れたけど、あれね、サンプルが一瞬だったら文句言われないけど長すぎるとさすがに申し立てが来るっていうやつね。いや、実際は使った時点で著作権侵害になるから関係ないんだけどね、何が言いたいか?っていうとさっき書いた構造的なことが作り方を規定するってことなんだよね。「あんま長く使っちゃいけない」っていうルール自体がサンプルの長さを規定してそれが楽曲の構造に影響するってことじゃん?まぁヒップホップとかハウスはそれで発展したし、一瞬のボイスサンプルとかってまぁそれはかっこいいから悪いことだけじゃないんだけどさ、長さとか関係ないっつーやり方の音楽ってのがあってもいいよねっつーかまぁ本当にそれが今の音楽って気がするよね。何もかも出尽くしてあとは過去の半世紀以上のサウンドアーカイブから音を使って曲を作るっていうさ、ポストモダン的じゃないですか?っつっても今まではそれを不二家ルールでやってたんだけど音楽フリー時代だと長さ関係ないってことだよね。ストリーミングならミックスもオッケーっつったらようはさ、ストリーミングなら楽曲でもサンプル使いまくりでオッケーってことじゃんね?ようはポイントはダウンロードできるかできないか?ってところなんでしょ?っつーか楽曲を丸々載せることとミックスの差って誰かの手が介在してるかしてないか?っていう差だもんね。で、まぁそのミックスはオッケー的なのも暗黙の了解でただ文句を言われづらいっていうだけのことだよね。


相変わらず言いたいことを簡潔にまとまった文章で書けないんだけどさ、この「ミックスはオッケー」というグレーなところが結果的に楽曲製作の手段になるってことなんだよね。昔の俺が「それはさすがに無理だろ」っつってカットアップ作ってたのもやっぱまぁどっかに送るとかリリースするっつー前提があったからなんだよね。まぁリリースっつってもcdrとかだったんでまぁ別に関係なかったんだけどさ、まぁそれはともかく今はまぁ主流はネット配信だと思うんですよね。むしろタダで聴かせろよ的な空気ないっすか?特に曲の質がたいしたことなくて楽曲のサンプルぐらいしか聴けないとすげー印象悪いっていう(笑)こんなのフリーで十分だろっていうのを販売してるっつーのがすげーダサいって感じしない?


ようは金銭的な意味での相対価値が下がったってことだよねってまぁ何を今更な話なんだけど。思えばミックスなんかはさ、90年代なんかは特に実力もさることながらいかに良いレコードをゲットするか?ってのがDJ力みたいなのに大きく影響してたわけじゃん?だから有名DJは店と仲良くなって良いレコードを優先的に買い占めるみたいなことをやってたわけだよね。あとはまぁこれも散々前に書いたことだけど経済力がDJ力に影響してましたよね。当時の俺みたいにバイトしながらレコード買ってたやつだったらまぁ買える量なんて限られてたけどウハウハなDJなんて買いたい放題なんで勝てるわけがなかったんですよね。でも今ってシングルのレコードに1300円とか払わなくても例えばA面の曲が使えるってことだったらピンポイントでそれだけ買えるじゃん?コストがめっちゃ下がってるんだよね。だから誰でも凄まじい量の楽曲を持つことが可能になったわけですよね。だからまぁそりゃDJ増えますよね。あ、そのデジタルベースのね。っつってもそれがDJとしての実力に直結するのか?ってそれはそんなことないんだけどね。ただまぁミックスとかみんな作ってるじゃん?みんなってほどじゃないけどまぁホント、死ぬほどあるよね。これってやっぱコスト的なことは本当に大きいよね。あとはまぁmixcloudとかsoundcloud的なソーシャルネットワークとかを利用できるようなインターフェースだよね。


いや、だからこそさ、いや、散々佐村河内の話でも書いたように所詮作曲って概念のコピペじゃないっすか?で、今の世の中は誰でも音楽を配信できるっつーインフラがある。で、なぜかミックスならグレーゾーンってことで特にストリーミングとかなら文句を言われづらいってことがあったらさ、そもそも作曲とミックスの境界線なんて無いんじゃない?って思えてきたってのが最近の俺の議論ですよ。むしろ直にサンプル使ったほうがパクりより道徳的に良いじゃん?やっぱパクリって最悪だよね。また繰り返しになるけどまぁこれって曲を丸々分析して譜面にして改変して勝手に使うってことだからね。でもまぁ程度の差なんであってまぁ大抵のものはそんなことの繰り返しじゃね?ってことなんすよね。曲をパクるってのはやっぱり「自分のものにしたい」っつー欲求だよね。実際は丸々使うことと変わりないどころかより悪質なんだけどさ、商用とかの話は別としてやっぱりクレジットとして「作曲者」のところの自分の名前を入れたいからなんだよね。んでもまぁその最近俺が言っていることだとそれ自体がくだらないことだってことになるわけよ。一般的な認識は違えど配信がストリーミング的なものだったらサンプリングが大胆だろうがなんだろうが関係ないわけで作曲者っつークレジットに自分の名前入れちゃっていいわけよね。ただエクスキューズとしてタグとかに「mix」とかって入れておけばいいじゃんって話なだけじゃん?


で、まぁこのサンプル使いたい放題ってまぁようは実際は10年以上前からアンダーグラウンドではやられてたことなんだよね。マッシュアップなんてのは昔からあるわけで。んでも当時はやっぱリリースしかなかったわけじゃん?だからまぁバレないような方法でリリースとかしてたわけじゃん?でも今は良くも悪くも何でもフリーなわけでさ、で、そんな中でサンプル使いたい放題をやらない手はないでしょってことになるんだよね。んでもどうせこれもまたやり尽くされるわけだからね。でもまぁ少なくとも今はやれるんだからやったほうがいいよねってことなんだよね。結局まぁ曲をそのまま使っちゃいけないって昔の名残なんだよね。今は音楽の配信の構造が変わってるんで関係ないんだけどそこは昔の感覚が残っちゃってるんだよね。まぁ今のもっと若い世代は分からないけど俺ぐらいの世代だったらそういう感覚ってあるでしょ?


なんでなんだろうね?やってることは同じなのに自分で打ち込んだっつーと作曲っぽくてサンプル使ったってことだと作曲っぽくないのってさ、本当に恣意的な差ですよね。「それじゃあ作曲とは言えないよ」っつってもさ、いや、そういう意味で佐村河内は作曲家なんすよね。楽譜を書けるか書けないか?なんて関係ないわけじゃん?いや、間違っても佐村河内の存在自体の肯定にはならないわけだけどさ、まぁ前にも散々書いたようにゴーストライターなんてデフォだし色々と調べると実際の業界の人とか業界に詳しい人とかがブログとかツイッターとかラジオで「そんなの普通だよねー」的なことを言ってるんだよね。これが示唆するところは大きいわけよ。本当に。基本的にアイデアっつーかコンセプトを作るのが作り手の仕事なんであって作業はまた別じゃないですか?いや、どっちに比重がいくのか?ってことでしょ?打ち込みとか譜面を書くってことが作曲者の仕事なのか?ってまぁそれもセットで作曲だろうっていう直感があるわけだけど実際はそんなことないし出回ってる楽曲なんかもゴーストがやってるやつが多いわけじゃないっすか?


いやね、「ここはバッハ風に」とか「ここはバカラック風に」とか「曲のイメージはジェフ・ミルズハードフロアを足したような感じ」とかさ、これ自体がコンセプションってことなんじゃないの?って話なんすよね。で、打ち込みがうまい人がそれを再現して「こんな感じでどうっすか?」っつって「いや、もっとアシッド感を前面に出して」とかって指示するってのがまぁようは作曲者なんだよね。打ち込みがうまい人はそれを打ち込むっていう仕事をやってるだけでまぁようはエクセルとかにデータを打ち込んでる人と変わらないわけよね。んでも作ってるのはその人じゃん?っつってもここがポイントなのよね。そもそも指示が「ジェフミルズ風」とかだったらもうコピペじゃないですか?リズムとか音色とかを真似てそれを打ち込んでるんだから顧客のデータをワードとかに打ち込んでるのと変わらないよね。んで皮肉なことに作曲家って言われるような人ほどこういう概念的なコピペばかりをしてるってことじゃないですか?


まぁでもあれだよね、ジェフミルズ風っつーフレーバーを持ってきて自分で打ち込めたほうがそりゃ便利だよね。まぁようはジェフミルズのmidiデータをいじれるみたいな話だからね。いや、そこなんだよなー。結局は誰かが作ったmidiデータの改変なんじゃん?ってことなんだよね。で、俺が言いたいのはmidiほどの便利さはないけど過去の音源アーカイブを全部使えますってことだったらまぁようは全ての楽曲のmidiデータがアーカイブとしてあって使いたい放題ですってことなわけよね。なんかやっぱDAWって敷居高いと思うのよ。やっぱ器用な人しか出来ない感じがあるんだけどそこはもうあれなんだよね、最初は真似でもいいどころかみんな所詮は真似のバリエーションなわけだから「作れない!でもアイデアはある!ってことだったらmidiそのまま持ってきて改変するとかサンプルそのまま使うとかマジでそんなんでいいわけよ。出来上がったものが面白ければそれでいいわけでオールフリーな時代に誰が作ったのか?なんてそんなに気にされないわけよ。


いや、音楽ダダ漏れの時代だと本当にそのかつて「作曲者」ってのが持ってた特権性みたいなのが無くなってると思うんだよね。そいつが有名だろうがなんだろうが基本アノニマスな感じっつーのかな?いや、音楽が高かった時代とかね、2500円とか出して買ったCDとかってすげー大切に扱うじゃん?っつーかレコードの時代なんてもっとそうなんだけどライナーとかまで全部読んだりとかさ、そういう物質的なことが作曲者の特権性を高めてたっつーか維持してたんだよね。でも今はワンクリックで何でも聴けちゃうからライナーを舐めるように読むとかコモディティ的な感じでCDを飾るとかってことがなくなってるわけじゃん?これってすげーでかいよね。あと中身は普通でもジャケがかっこいいからコモディティとしての価値がある的な。でもワンクリックで再生ってことになるともうそこにあるのは楽曲だけじゃん?コモディティ感ゼロなんですよね。そういうプロセスの中で作曲者の特権とか存在みたいなのも薄れてきちゃってるんだよね。


だからそういう特権性とか著作権とか利権ってのにしがみつきたい人はオールフリー化大反対なんだよね。んでもこれってすげー試金石だと思うんだよね。そういうのにひたすらしがみつこうとする人って裸の王様なんだよね。いや、実際に中身で勝負してる人とかってっつーか平沢進御大なんかは全然気にしないどころか肯定的ですらあったもんね。で、今はそういう時代になってるっていう。んでも平沢師匠は「そんなの駄目でしょ」ってムードがあるような時代で現在みたいな音楽の配信のあり方を肯定してたからね。さすがとしかいいようがないよね。で、肝心の本人の楽曲は?っていうとオリジナリティしか感じないっていう。これですよね。これが本当の「作曲家」なんですよね。


あとあれ、話は変わるんだけどホームレスのおっさんがすげー綺麗なピアノを弾くっつって話題になってたりしてるんすよね。で、これってすげー良いサンプルなのよって音ネタって意味じゃなくて「ホームレスのおっさんだから」っていう物語を聴いてるのか音楽そのものを聴いてるのか?っていうところでね。


http://www.huffingtonpost.jp/2013/12/31/david-welsh-piano_n_4522577.html


いや、これが音楽教育を受けたエリートだったらどうなのか?ってことじゃないですか?曲自体は確かに綺麗だけどんでもホームレスがそれを弾いているっていう姿に感動してるんじゃないか?っていうさ、で、涙腺に触るような音を出すもんだからそれが倍増してるっていう。まぁ俺は肯定でも否定でもどっちでもないんだけどね。


あとこれね、すげードラムテクのばあちゃん!っつって見た目が凄いんだけど実際は元プロドラマーなんで凄くないっていう。んでも元プロドラマーっていうのを知らなかったら「すげーばあちゃん」ってことになるよね。これもまぁすげー外部情報が認識に影響してるっていう良い例ですよね。


http://news020.blog13.fc2.com/blog-entry-3051.html


感動的ではあるが凄くはないんですよね。佐村河内は外部情報を粉飾して詐称してこの外部情報を増幅させてたわけですよね。実体がなかったって意味でライブドアと同じですよね。ライブドアにしてもウォールストリートにしても「金って何なの?」っていう物語の崩壊を露骨に露呈させましたよね。「働いて稼ぐ」幻想が崩壊しちゃったっていう。まぁ今うちは自営業なんでちゃんとしたところで労働をすることの重要さを痛感しているわけですがね。まぁ労働というと大げさだけども。あ、んで何を言いたいのか?っていうと音楽に話を戻すとさ、何を聞いてるのか?ってことになるじゃん?音楽をよく知る人が聞けば「これはあれのパクりだ」って分かる。でも知らない人が聴けば「中田ヤスタカ凄い!」とか「久石譲凄い!」ってことになっちゃうんだよね。ようは情報レベルの差によって聴くという体験が変わるんだよね。まぁ普通の人がそこまで音楽について考えてるわけじゃないってのは承知なんだけどさ、「何を聞いているのか?」ってやっぱ一時期すげー考えてたわけよ。まぁケージの思想とかに影響を受けつつね。で、今はオールフリーな音楽環境を前に「何を聞いているのか?」ってことになってるわけよっていうかまぁ音楽と遠ざかってて最近現代音楽家になってまぁ色々と考えてるわけですよ(笑)


まぁあとこれはシリアスな話なんだけど現代音楽って本当にこういう「聴く」とか「作曲」ってことに関して死ぬほど考えて色々とトライしてきたっつー血のにじむような努力の歴史っつーのかな?結果的に難解でわけがわからないものになってはいるんだけど一番真摯な「作曲」ということについての姿勢っつーかさ、作曲への向かい方ってのを感じててんだからまぁ現代音楽が再マイブームになってるんだよね。でもまぁ問題は聴衆との乖離があるっていう。ようは「はぁー今日は休みだー。ゆっくりしよう」と思って現代音楽を聴こうとは思わないってことなんですよね。いや、機能性の問題ってことじゃなくてさ、いや、聴くってことを追及すれば現代音楽的にならざるを得ないんだけど「普段聞く」っていう機能性がゼロになっちゃうんだよね。だから軽薄なコピペ音楽とかクラシックとかにしても久石譲みたいな分かりやすいものってのが受けるわけだよね。んーまぁ分かりやすさとかってやっぱ重要だよねってのは前の俺には無かった考え方っすよね。だからポップ音楽の重要性ってすげー昔と違って今は分かってるし、特に映画なんかは顕著なのよ。後期ゴダールみたいな娯楽性ゼロのオナニー映画ってどうなのか?ってことじゃないですか?映画の場合、高度なシンボリズムとかコラージュとかっていうような手法を使いつつエンタメに昇華できるけど音楽の場合、そうはいかないところがあるんだよねぇ。


まぁやっぱ俺はマニアックっつーか現代音楽が実際好きなんだよね。いや、単純に面白いからっていう理由なんだけどさ、でもその一方でこれが音楽っつってもそりゃ聴かれないよなぁーっていうような分かりづら過ぎるっていう部分の弊害ってのはすげー感じるんだよね。ホント、なんつーかリスナーが置いてけぼりになるよなーこれはってのが多いじゃない?そんな中でやっぱクセナキスとかストックハウゼンが結構聴かれるのは方法論やコンセプトの難解さがありつつも音楽作品として面白いものになってるから現代音楽ファンから音響・ノイズ好きにまで聴かれてるんだよね。ゴダールで言えば初期ゴダールみたいな感じだわ。芸術性と娯楽性が両立しているっていう。でさ、今はまさしく現存している現代音楽の作曲家の作品とかも聴いてるんだけどまぁーつまらないのが多いよね。実験性とかコンセプトの複雑さは理解できるけど音楽作品として成り立ってないんだよね。まぁーこれじゃー人気出るわけないよなぁーって納得しちゃうっつーかいや、現代音楽の世界も結局は過去の名作のリイシューばっかなんすよね。初期wergoの作品が初CDリリース!とかそういう感じなんよね。ナイキとかジョーダンと同じだわ。過去の名作の復刻ばっか。


んでもさ、なんか結局現代音楽もっつーか現代アートとかもそうなんだけど全部文脈依存なんだよね。俺が大御所に師事した上でフランスとかドイツの音楽院の学歴持っててわけわからないのを作っててもそれは現代曲になるけど何の肩書きも無い俺がわけわからないのを作ったらそれはわけのわからないもののままなんだよね。いや、実際こんなことがあらゆるところであるからこそその文脈を捏造しようってことにもなりかねないっていうかこれって音楽の深刻な問題だと思うんですよ。ダダとかもそうじゃん?当時は「馬鹿じゃねーの?」だったけどちゃんとした評価を受けると大層な美術館とか音楽作品でもタキシードを着た一流の音楽家で一流の音楽ホールで演奏されるわけじゃん?まぁオノヨーコってそういうののシンボルだよね。自称魔女だけど文脈を悪用してやりたい放題やってるって意味ではマジで魔女でしょう。そういうのを含めて「オノヨーコという作品なんだ」って意識でやってればそれって現代アート的ですよね。いや、なんでそんな認識の問題になるのか?って話ですもんね。


んーでもさーそれを見るなり聴くなりして「いいなー」って思えるものなんてまぁ大抵は良いものに尽きますよね。まぁ良いものってまぁようは綺麗な絵とかノリノリの音楽とか美しい音楽とかそういう意味ですよ。ノイズとかやりすぎな抽象画とかを良いと思えるってまぁそれって変わりものの世界になっちゃうんだよね。結局はそういうのも含めて主観に依存するじゃないですか?鑑賞する側に依存するんで結局は民主主義の原則が勝利するんですよね。「みんな良いと思えるもの」が勝利するんだよね。あ、ちなみにその「みんな良い」というのは学歴とか履歴が凄い人が作ったわけがわからないものがアカデミックに評価されるみたいなことも含めての「良いもの」ってことね。そもそも「素」で評価されるなんてことがありえないってことだよね。そういう意味だとお笑いとかは素で評価されるよね。そいつが無職だろうがニートだろうが面白ければ評価されるもんね。それってようは「面白さ」ってのが直だからなんだよね。認識以前に「プッ」と笑ってしまうっていう感性に直接働きかけるものだからなんだよね。でもコンセプチュアルなものになると今色々書いてきたような意味での文脈依存になっちゃうんだよね。実際は芸術ってお笑いとかと一緒で直に感性に訴えるものなはずなのに認識っつーフィルターを通して評価されるものになっちゃうんだよね。だから俺が今回言っていることはそれの逆利用なんだよね。どっから引っ張ってきたかサンプルしてきたかは知らんがそれ自体が面白いってのを作れちゃえばほかの事はどうでもいいんじゃないかってことなんだよねっつーか実際にそういうのしか求められてないよね。


だからそういう意味で二次創作物ってすげー重要になるんだよね。有名なモチーフが反復されつつリミックスされるとかって「有名なモチーフ」っつー電車の音的なさ、電車の音って聴けば誰もがそれを電車の音って認識するじゃないですか?それを利用してそれを変化させることで面白さを作るってやっぱ一つのあり方ですよね。それが古臭い著作権の法律でやれないってのは本当にばかばかしいことですよね。で、まぁでもね、しつこいようだがストリーミングならなんでもやっていいわけよ。ダウンロードは微妙なんでストリーミングだよね。とにかくそれで金を取らないってことですよ。っつーか日本ってやっぱ凄いんだよ。世界でも面白い二次創作物っていっぱいあるけどやっぱ日本の無職とかニートとかフリーターが作る馬鹿馬鹿しい創作物って凄まじいものがあるよね。それがローカルな世界で終わってるのならともかく他のつまらないメジャー音楽なんかよりよっぽど世界から注目されて凄まじいアクセス数を稼ぐって凄いことだよね。ニートがプロに勝っちゃってるんだもん。いや、それはただの既成のものの切り貼りでしょとかリミックスでしょっつっても散々書いたように面白ければいいわけだからそんなの関係ないじゃん?これまたしつこいようだが肝心のプロの方々も実際やってることはコピペばっかなんだから「いや、我々はプロですから」なんてことが全く意味を成さなくなってるよね。


・・・っつってもまぁアクセス数至上主義にはならずにとりあえず作りたい!っつー衝動があって作ったもんはアップロードするべきなんですよ。コストかからないんだから。「そんなの自己満足じゃん?」つっても「はい。自己満足ですが何か?」って真顔で言えるもんね。リスナーが楽しめなきゃいけないって理由で自己満足の世界って否定的に「オナニーっすよね」って言われるんだけど、とりあえず何でもアップロードってことになったらそれってただの物置みたいなもんじゃん?路上に物置があってそれがギャラリーみたいになってたりして、んでモノによっては気に入ったらダウンロードしてくださいっつってまぁ直にipodとか端末にダウンロードできるようになってるっていう。そういう物置だらけなんだよね。ネットの世界は。金を取らないことの強みってありますよね。本当に。っつーか金ってやっぱいらないんだよね。基本的に。


それで金を取ろうとするから色々とややこしくなるわけだ。んだからなんかさ、それで金を取らないでただ面白いのを作り続けられる人ってやっぱ保護されるべきっつーかまぁ死なない程度に生きられるようにはしてほしいよね。面白いのを作ってたニートの人が就職しちゃって何も作らなくなったとかって損害だからね。なんかそういう意味でフリーのコンテンツ作りをしている人たちへ直に金を取ることなく微々たるもんだけど生活の足しになるぐらいのお金が行くようなシステムって必要だよね。前にプロより素人のほうが面白いのを作ってるって書いたけど今改めて色々と音楽系のことをサーチするともう面白いものはほぼ素人が作ってるといっても過言ではないよね。まぁんで実際には最初はそういう素人のネット配信っつー形式から結果的にプロみたいになっていく人もいるんだけどさ、ミックスにしたって有名DJとかのミックスが全然たいしたアクセス数を稼いでなくて全く知らないようなやつのがめちゃめちゃアクセス数を稼いでるとかってかなりあるじゃん?すげー天晴れな感じだよね。オーバーグラウンドもアンダーグラウンドもネットだと裏表が無いから関係ないんだよね。


っつっても相変わらずヤヴァいのを配信し続けるプロってのはいますよ。DJ Shadowのミックスとかヤヴァ過ぎるよね。んでもなんかね、過去にネームバリューとか普通の人よりネタを仕入れやすいみたいな構造的な特権で活躍してたやつらが淘汰されてるっつーかあんまたいしたことなくなってるってすげー良い状況だと思うんだよね。だからこそそういうオールドなやつらこそ自分たちがイケイケだった頃の名残を忘れられなくて既得権にしがみつくんでしょう。だから著作権がどうのとか無料配信反対!とかってことになるんだよね。過去の著作物でしか食えないからなんだよね。今面白いのを作ればいいだけなのにそれが出来ないんだもんね。本当に情けないなって思いますよね。ええ。


っつっても前にも書いたようにみんな作れて配信できるからっつって面白いのが増えるわけではないんだよね。ただまぁ物置が増えるってことなだけだからね。んでも増えるのはいいんじゃないかな?って思うよね。いや、やっぱ俺の中にある根底のものってさ、クオリティはともかくそれに全力を注いだりね、それを生きがいにしてるとかね、そういうのがある人は幸せじゃないですか?だからなんかとりあえず創作できるならなんかやったほうがいいよってことなんだよね。多分まぁ大抵才能の無さに愕然とするけど灰野さんのインタビューにもあったように才能云々よりそれがいかに好きか?っていうファクターのほうが重要だったりするのよ。だからそういう意味で作り始めなんてみんな下手の横好きなんですよ。だから現状の下手糞加減を嘆く必要はないんだよね。ようはそれを継続して何年後かにめちゃめちゃ面白いのを作れればそれでいいんですよね。


かといってもアマチュアリズムの肯定ではないんだよね。ようは最初はそりゃ誰でもアマチュアだろうっていう。で、求道的に質を上げるということをした結果、いつか面白いのが作れるかもしれない場合もあるっていう蓋然性の問題なんですよね。よくポストモダン系の哲学で使われる意味でのcontingencyね。あとまぁドゥルーズ的な意味での潜在性ね。面白いのが無いよりかはあるほうがいいって意味で作りたい人はなんか作ったほうがいいってことになるわけよ。あ、潜在性はドゥルーズっつーかまぁ元はスピノザなんだけどね。まぁもっと元を言えばアリストテレスなんだけど。


んだからなんか、作り始めとか物事に取り組んだときの最初の自分の駄目さ加減に失望する必要ないんだよね。とりあえず最低でも凄まじくintensiveな感じで5年ぐらいはやってみろって話ですよね。で、よくそれで食えないことが分かってやめたとかって言う人がいるけどそれっておかしいよね。いや、食うために作ってたのか?っていう。まぁそういうモチベーションのものがオールフリー化によって淘汰されてるってことだよね。だからマジで作りたい人しか作らなくなってるわけでそれはそれですげー健全なことなんじゃないか?って思えますよね。


いや、その食うことと表現するとか創作活動って関係ないじゃん?ただの資本主義のシステムで関係ない二つのものが同じような次元で考えられて金銭的な成功があたかもその創作物の成功と錯覚されてたわけだけど今のオールフリーの状況ってやっとそういう創作物と金っていう関係ないものが切り離されたって感じがするよね。実はこれが本来の姿なんだよね。食えなくて当然で作るモチベーションとしては作りたいからやるっていう衝動性でしょう。その結果、食えるようになる場合もあるってだけで食えるようになるのを目標にするってのは大間違いだよね。まぁそういうやりかたもあるかもしれないけどホント、しつこく書くようだけど創作物と金って関係ないからね。だってそもそも「こういう絵が描きたいな」って思うっていうことと「お金を稼ぎたいな」って関係ないことじゃん?全く別のことを同じに考えて金銭的な成功をその創作物の成功とするってまぁ誤謬もいいところですよねっていう。


ただそれじゃ作り手が食えないじゃないかっていうのはそれはもう制度的な問題ですよね。もっと大枠の問題なんですよ。まぁでも元々学問にせよ音楽にせよ親のサポートとかがある人がやるもんじゃん?作家とかも紐だったりとかさ、いや、そういう世界なんだよね。そういう連中が結果的に食えるようになってプロになったってだけで最初からプロなんてことはありえないのに最近の風潮って最初からプロっていうのがデフォって感じがするよね。だから20過ぎぐらいの若いやつがまぁまぁ成功しててそれが成功モデルみたいになってる。でもそういうやつって大抵売込みがうまかったりプロモーションが上手かったり何かしらのあざとい感じがあるわけよ。だからみんな小奇麗なものを作ろうとするしあざとい売り込みとかをしようとするじゃない?いや、あれはモデルじゃないですからね。あんなの一時持て囃されて終わりなんだから。そうじゃなくて生涯それに打ち込めるのか?ってことが問題じゃないですか?みんなが作れるようになるっつってもみんな小奇麗なものを作ったらそれは本当の意味でのジャンクだらけになるんでそれはあんまり良いとは言えないよね。作りたいから作りました!っていうような粗野なものをどんどん出していけばいいっていうそういう話なんですよ。俺が言いたいのは。で、全身全霊をこめて作ってればいつかは上手くなるわけですよ。だからまぁマインドセットというかメンタリティの問題ですよね。


あとやっぱニーチェにしてもそうだけどスピノザ的な潜在性ってJoyじゃないですか?楽しい!っていう俺がいつも書いているウキウキすることをやりまくる!っていうそれなんだよね。そういう哲学のプラキシスなんだよね。創作はその一つの形態としてありうるってことなのよ。ディオニュソス的なね。力への意志の「力」ってこれですよ。パワーってこれなんすよ。ね?食える食えない関係ないっしょ?プラキシスの問題なわけだから。問題はオントロジーなんだよね。金とか関係ないわけで。自己啓発とかスピリチュアル系で言われるところの「今この瞬間!」っていうnowって思想もこれなんすよね。普段書いているような微分的な強度の集積が「今!」なわけですよ。ではその強度を担保するのは何なのか?ってのが芸術であったり創作であったり快楽であったりね、いや、だからそういう意味で没頭できること全般がスピノザ的な意味での善だよね。そういう意味でゲームに没頭!とかアイドルに没頭!とかもオントロジー的に掛け値なしに善いことだと言える。俺が言う「善く生きる」ってことはこういう部分が大きいよね。だから絶望にばかり眼を向けるのは馬鹿馬鹿しいので強度と善を獲得しよう!ってことになるわけよ。それがつまりは力への意志ってことになるしそれを行うことがプラキシスになるわけよ。その行為自体がオントロジーを規定するものになるわけ。それがつまりは存在なんだと。beingですよね。beのing系ね。そういう意味でのbeingね。


それが強烈であればあるほどミメーシスを生むじゃないですか?学術的な文脈とかその人が身体障害者だとか関係なくその生き様自体が影響力を持つようになる。ようは必要なのはintensityなんだよね。この論理だけを展開していくとネグリ的なマルチチュードとか資本主義的なものへの抵抗ってことにもなるんだけど、まぁそこでさ、政治とか制度って哲学的な論理だけ持ってきてどうにかなる問題じゃないじゃん?それとこれとは別なんだよね。別にマルチチュードにならんでも拝金主義とかそれこそアクセス数至上主義とかに抗うというほどのパワーじゃなくても「関係ない」ってスタンスでやるってことは結果的に抵抗になりうるよね。相変わらず金稼いで当たり前って思ってるやつ多いんだよね。


俺より上の世代とかなら分かるけど同世代か若いやつらでも意外に多いんだもんな。それが生きていくためには必要なので当たり前っていう論理ならいいけどそれ自体がオントロジーの問題になってるのが問題だよね。それをやってないと人間的にクズみたいな金っていう制度的なメカニズムとオントロジーっていう関係ないものを同じ次元で扱ってるっていう凄まじい誤謬を犯してるんだよね。これって何気に一般的に「頭がよい」と言われている人ほど多い気がするねっていうかまぁそういう単純な成果主義の人たちって深いこと考えないから思考が単純なのはしょうがないけどムカつくのはそれで自分を偉いと思っててなおかつあんまお金を稼げてない人を弱者だのゴミだのっていう扱いをすることだよね。いや、金になってなくても一瞬でも人に楽しみを与えられたりしたらそれって凄いことなんですよ!っていうさ、で、金稼いでるっつったってあってもなくてもいいようなことやってるやつらばっかじゃん?そんなんでドヤ顔されても困るよね。なんか本当に哀れだなぁーって思うよね。人生観が浅すぎて本当に惨めって感じがする。


んでも金とか金を取り巻くものってこういう浅はかなものが介在しやすいってことなんだよね。そういう浅はかなものが表現とか音とか色彩とかっていう細部のディティールにまで影響してきていいのか?ってことなのよ。まぁ最初に書いた不二家ルールってのはそこなんだよね。制度的な問題でサンプリングの尺が決まるって馬鹿馬鹿しいわけよ。まぁそれがあったことで発展したものもあるけど今は「全部使っていい時代」なのよ。でも昔の名残で「それじゃあ作ったことにならない」とか著作権的にどうだとかなんだとかっていうのが残ってるんだよね。いや、そんなのマジで関係ないよっていうか「いや、マジで関係ないよな」って思った結果が今の俺なんですよ。使いたい放題で作ってるやつの尺が1時間半になっちゃってるっていう(笑)それでも一応成立してるやつを駄目だなーとかって思って消したりもしてるわけでさ、使いたい放題で貼りたい放題って中でもやっぱそこで選ぶんだよね。出来上がったものからさらにまた良いところを抽出してまた再構成するっていうまぁ永遠とエスプレッソ作ってるみたいな感じになってるよね。いや、これの行為自体がプラキシスなんだってことなのよ。これを楽しめる人がいるのか?とかどのくらいアクセス数があるのか?なんてのは二次的なことで関係ない。まずはこのintensityだよね。それ自体が俺の存在を規定してるし強度を規定してるし俺自体になってるわけじゃん?それ自体が重要なんだよね。だから出来上がったものに署名するかしないか?なんてあくまで二次的な話なんだよね。まぁ署名したくなるのが人間の性ではあるんだけど。


あ、んで金は邪魔って書いたけどもらえたらそりゃもらったほうがいいですよ(笑)いや、そりゃ金持ちになるに越したことないっすよねっつーか金あったらレコードのコレクションを再開するかな。多分。ってことでまぁ今日はこの辺でいいかな。


んじゃまた。


あと書き忘れ。金は余計って書いたけどそれは創作物の製作におけるプロセスに外的な要因が介在することで起こる変化という意味で余計ってことね。だから何でもかんでもフリーにすべし!ってことが言いたいわけではないわけ。フリーの創作物を媒介としてなんかマネタイズできそうなこととかがあればそれは大いにやるべし!なのよ。むしろお金の生み出し方はそれが一番いいんじゃないか?って気がするのね。ようは曲とかCDを売ってどうのっていう話じゃないってことね。そういう意味でのフリーカルチャーですよね。それは何でもタダカルチャーとは全然違うわけで。