deiziさんと風前の灯火とさんへの返信。

deizi 2015/12/09 03:16


全然ハードコアじゃないし超ダサいですよ。軸を身体寄りにして形而上学的なものからの決別期間?ならわかるんですけど、あくまでそうじゃないらしいですし。なんで殺人術?話し変わりますけど、最大の善行って何だろうって昔考えたとき出た答えが「自分が自分で在る事」だと思ったんです。歪んだ精神から出た善行って即時的には他の助けになったりしますけど、大きな視野で後から見ると余計な事だったりすると思うんです。むしろその時のインスタントな善ってその時だけですけど心の在り様って歪みを含めて深い目に見えないとこから形になって形を変えて延々と人を通じて影響をおよぼすというか。もちろん普段善だ悪だなんて事で見てないですけど。中途半端な善それよりも、ある人が素直に生きてる様そのものの方が直接的であるないに関わらず結果的に人の助けになってたりすると思うんです。僕にとってのmimisemiさんの存在がそれでしたし。でもなんか今焦ってませんか?言葉足らずで意味不明の戯言のようだったら申し訳ないです。


実は最近のmimisemiさんとモトカノのログ読んでから、何かしらないけど勝手にめっちゃ落ち込んで、何かここに書きたいけど、また読み返して、やっぱ書くことじゃないな。。。みたいな状態だったんですけど、今日きて今回の記事読んでたら何考えて書こうとしてたのか忘れた。  あ、ダサいとは書きましたけど極めたらそれはそれでクレイジーでいいんじゃないでしょうか。そこは嫌いじゃないです。


deizi 2015/12/09 04:41


先ほどのコメント撤回と同時に謝罪します。ごめんなさい。今までのログ読んで繋がりました。前回来たとき読んでたつもりだったんですが、その時はモトカノさんとの件で頭がいっぱいで思ってたより全然読めてなかった事に気づきました。しかもその内容は俺の好きなmimisemi節だったし。全くの赤の他人の俺が勝手に落ち込んで当事者のmimisemiさんの切り替えに付いて行けてなかっただけでした。ひとつの記事にクローズアップしたまま書き込んでしまい失礼しました。ほんとに。


書き込みありがとうございます。無事繋がったようで安心しました。deiziさんもおっしゃっているように自分の中でも切り替えをしてなおかつ今までの自分の生き方とか考え方なども踏まえてmimisemi節で生きていくという整合性を保つというのは僕の生命線であるのでそれはなるべくウォール伝にフィードバックしているつもりだしフィードバックできているからこそdeiziさんの中でちゃんと繋がったのだなと安心できました。ただまぁ「ハードコアじゃない」とか「ダサい」ってのは分からなくもないんですよね(笑)それは僕がどこかでディスったような、中年になって色々とわかっちゃったりなんかしてその空虚感を埋めるためにひたすら筋トレに打ち込むみたいなダサさとか、あとはまぁ体育会系的なダサさですよね。空虚さを埋めるために焦り始めて急にトレーニングをし始めたと思われてもしょうがないという面はありますね。


でも「焦っていないですか?」というのは言えてる部分もあると思います。精神的に何かに必死に打ち込んでいないと不安定になってしまうというような要素は少なからずあります。今は習慣化したのでそういったネガティブな動機付けでやっているのではなく、純粋な知的刺激と好奇心とあとまぁ単純な健康のためのエクササイズって意味でもやっているんですが、コミットし始めた当初というのは焦りは少なからずあったと思うんですね。でもその中でやはり自分のコンテキストという軸を持っているので自然にそのコンテキストに馴染んだという感じなんだと思います。ただまぁ一般的に武術ってあんまかっこよくないのは実際そうなんでしょうね。武術やってるとか言うとそれだけでダサいって言われたりとか少なくとも女子からはモテないとかね(笑)腕を鋼鉄化するとか「バカにでもなったのか?」って思われてもしょうがない面はありますよね。でもコンテキストの中でやっていることなんだということを理解していただけたようで本当に安心しています。


まぁいつものことですからね。「こいつ頭おかしくなったのか?」みたいなことは今までも多々あったし今後もあると思うんですが、でも今までのことは当然として今後「どうしちゃったの?」って見えるようなことがあっても必ず自分というコンテキストはそこにあると思うんですね。そういう集積の中で生まれてくるもののはずなんです。ただまぁ「こいつおかしくなったな」って思われても全然一向にかまわないっていう見栄えを気にしないっていう徹底的に自分を通す感じというのは今後もそのままでいますよね。逆に見栄えなんか気にし始めてたら完全にヒヨってるってことになりますよね。それこそそれはマジで一番ダサいですね。だからまぁかっこいいかはともかくとして(笑)恥ずかしいとも一切思わずに素で「腕を鋼鉄化する」とかって言うっていうのが自分流だと思ってるんですね。そういうのを何も気にせずにいきなりやりだしちゃうやつだよねーっていうのはdeiziさんの中にある僕の姿そのものだと思うんですね。まさに「自分が自分で在る事」そのままなんです。


ただその結果がなぜか今はマーシャルアーツというよりかは力まない殺人術みたいになって「は?」って感じではあるんですが、ちゃんとそこに意味もあるしシリアスに追及していった結果、そうなったということでもあるし、形だけのマーシャルアーツなんてやりたくないという、中途半端なものが嫌いな自分の考えの反映でもあるんですよね。でもまぁどの道、それは哲学とか数学やるよりダサいけど極めたらクレイジーでそれはそれでいいですよね(笑)だからそういう意味で生涯をかけて極めていくことの一つになったということですね。あ、ただこの辺の知的行為と身体性が自然に繋がっていく感じというのは「習得への情熱―チェスから武術へ―:上達するための、僕の意識的学習法 ジョッシュ・ウェイツキン」を読んでみてください。まさにこれ!なんですよね。learning processとか身体性もlogicが支配するとか一見体育会系に見える武術というのが凄まじい知的文化なんだということがよくわかると思うんですね。だからそういう意味で僕はマッチョなひたすらただ体を鍛えるみたいなものを否定して徹底的に技を極めるというベクトルになっているんですね。思考停止的なエクササイズとか体育というのを一切せずに知的行為としての武術というのを極めたいと思っているんですね。まぁそれでもダサいと思いますが(笑)


とりわけ中国拳法に関しては過去に現象学などの本を読んでいてノエシスノエマということを凄く意識するようになったのと、意識が世界を構成するというような現象学に立脚したと言うほどではありませんが、独我論的自我という方法論にあえて立ち戻った結果、そこで主観性と客観性というdichotomyで考えるのではなく認識の超越性というのを吟味するということになるんですよね。もちろんそれは宗教的な意味はありませんが、でもそれを宗教的に考えることは可能です。そういった意味で僕は仏教道教的な考え方というのには共感してきたし読んできたし、最近ではキリスト教イスラム教についても色々と読んだりしています。全部一緒くたにするわけではありませんが、主/客の世界にとらわれないtranscendenceというのはやはり宗教的な考えにおいても共通する一つの概念だと思うんですね。それを獲得できるかはともかくとして概念として凄く重要という意味です。


そこで僕は認識の超越性や神に帰依するような認識の在り方ではなくて、仏教的な空というものに惹かれ続けているんですが、でもそこは道教でも似たようなところがあって、中国の言葉で道教仏教は兄弟みたいなのがあるんですが、そこは別に教義的にならずに概念的に考えれば「なんたら教」というのは問題にはならないと思うんですね。そこでタオということになるんですが、簡単に言えば自然と調和するということです。ただ仏教と違うのは仏教は自我を律するという意味で自我を無くすというようなベクトルに進みますが、タオではありのままに自発的に行動するという能動性を持っています。ただ当然そこは律されて磨き上げられた自我というのが必要で、徳がベースになっているのは言うまでもありません。anything goesではないということです。


そこで中国拳法というか太極拳というのはタオの思想がベースになっており、象形的な意味でのタオを表すような動きとか八卦掌などでは5行説をベースにした動きや体の動かし方があるんですが、プラクティカルかはともかくとして考え方のベースが「気」にあって、自分の気をいかに相手に効果的に発するか?ということであったり、相手の気を利用してそれにあらがうことなくそのまま受け流すみたいな言わば合気道とか柔術的なものがあったりするんですが、これもプラクティカルな部分もあるんですがやはり気という思想がベースになっているわけですね。相手が向かってくるという気に抗うことなくその気を利用して相手を制するってまぁ合気道ですが、合気道の元が太極拳かどうかはともかくとして、そういったベースがあるんですね。


で、身体性に戻りますが、身体性ということに意識的になった結果というかまぁたまたまでもあったわけですが昔に半年ぐらい道場に通ってやっていた居合をやり直してみようという気になってやってから意識の志向性というものが純粋に身体に向けられるという武道の認識の境地というんでしょうかね。そこで宮本武蔵なんかは行き着くところは無我で何も考えることなく体が勝手に動くみたいな禅みたいな境地に至ったわけですよね。自分のコンテキストとしてはそういった意味で自我や意識の志向性という意味で今まで自分がやってきた哲学などと通じるどころか身体を介した認識論のようなもので実践せずにはいられないというようなものだったわけですね。あとは古武道などの先人が殺し合いなども含めて苦労して作り上げたという技や型や体系というものに知的な偉大さを感じたというのも大きいです。哲学者が死ぬほど色々と考えて導き出した考えとか、そういったものが集約された著書とかっていう、そういった魂がこもったものということですよね。


中国武術にしてもそういった長い歴史があってそれが伝承され続けてきたものでなおかつタオという思想や気というものがはキー概念になっているという中国的な哲学と武術が一体化した自分にとっては理想的な武術なわけですね。まぁ主に内家拳ですが、でも南派にしてもベースは中国拳法なので気などの概念はありますし、それこそブルースリーじゃないですが、タオと中国武術というのは切っても切れない関係にあるわけです。そういう意味で哲学や思想的な部分ではある意味で何ら新しいものではないんですよね。今まで自分がやってきたことの延長として武術があるという感じです。それは数学に目覚めたときにあくまで思い返してみれば哲学の延長としての数学だったなっていうそういう感覚ですね。


あとまぁ恋愛などについてはシニカルになっていなくて、そこはあくまで楽天的でいます。色々と磨いていれば良縁に恵まれるだろうとかって思っていますね。とかって思ってた時にたまたま発見した本がありました。「悪縁バッサリ! いい縁をつかむ極意 枡野 俊明」という本ですね。大体自分が思っていることが書いてあるだろうって思ったんですけどまさにこれなんですね。自分に閉じこもるのではなく、あくまで有機的に開かれた形で自分を磨くっていうんでしょうかね。ウォール伝も言うまでもないんですが、本当に人との関係というのは大切だなっていうことを痛感したので、人間関係というのは本当に大切にしたいなと思っています。この辺はシニカルになるどころかより大切なことが見えてきたという感じです。実際に色々と協力してくれた友人もいましたし本当に色々と助けられています。なので自分の経験としては凄くポジティブなんですね。


あと自分が当たり前に生きてきた環境と現在の環境ですね。元々僕はかなり家族というのを大事に考えるほうなんですが、それがより強くなったっていうんでしょうかね。もちろん普段はそんなにベタベタしているわけではないんですが、本当に両親に変人にはなったけどこういう独自の道を勝手に歩めるように育ててくれて本当にありがとう!っていう気持ちでいっぱいですね。あといろんな話をそんなに乗り気じゃなくても一応聞いてくれる妹ですね。そういった色々なものに支えられて生きているんですよね。だからこそ自分は自分がやれる範囲で良いフィードバックというのを生み出したい!って思うんですね。それが自分なりの「善く生きる」ということだし、自分の道を探求といっても自分だけで終わるのではなくて、その落としどころは社会というか、そういう意識ですよね。やっていることは凄くクローズドで自己完結しているんだけどもベクトルとしては常に能動的に有機的に外に働きかけるということになるんですよね。それがつまりは活動ということなんだと思うんですね。


何はともあれ色々と書けるきっかけを与えてくださってありがとうございました。またなにかあったら書き込みよろしくお願いします。あと武術に関しては支離滅裂で繋がっていないように見えたのがダサかったり、焦った結果、身体トレーニングに走ったように見えたので超ダサいって思ったのであって実際はそうじゃなかったし、武術自体をディスってるわけではないというのは理解しております。ただでもそれでもまぁ中二病的なニュアンスとは紙一重なので本当に危ない世界だなとは自覚してるんですよね(笑)それも含めて超越して貫き通すっていうことですよね。あとまさにそれを体現すればいいわけで、まさにそれが知行合一ということになるということですね。

風前の灯火と 2015/12/09 03:35


返信ありがとうございます。


私から言い出したことですが、私自身は悟っているわけではないので悟りの境地について断定的に語ることはできないんですが、善悪を思わずに偏りなく現象を見ることができるといっても物語の中の価値基準が理解できないわけではないし、その中で生きている人の気持ちに共感できないわけではないということなので、害を齎す人をそのまま野放しにして良いとするような立場をとることはないとは思うんですね。自分が苦しくなければ後は他の人の気持ちは関係ないし、やりたい放題しても自分には関係がないというような冷淡な立場とは違うという。


坐禅をする際の心得として善悪を思わず…といったものがありますが、いわゆる涅槃の境地が善悪の価値基準の外にある何ものにも条件付けられていない境地であるためにそのように語られるのだと思うんですね。しかしその涅槃の境地といわれるものはあくまでも苦しみの原因を取り除くために必要な直観的知を体感する上で求められる「経験」として重視されているものであって、日常的に善悪の価値基準の外にある涅槃の境地を維持する「ことによって」苦しみのない状態に住することを目指すことは仏教の教えではない、ということみたいなんです。価値を判断する基準が一切無い状態を死ぬまで維持することを手段としなさいという単純な話なのであれば、それに則れば本当に危険人物になりかねないし、有難がるようなものではない。


これは私が原典を精査した上で至った理解ではないので確かなことはいえないんですが。ほとんど前回のコメントで紹介させていただいた本で得た知識を頼りしています。さらにそれを曲解している可能性もあるかもしれないですが大体あってると思います。例の本では(当然といえば当然ですが特筆するほどに)緻密かつ丁寧に説明されているので直接読んでいただいた方が誤解がなくて良いかもしれません。


繰り返しのようになっちゃうかもしれませんが、仏教がただ徹頭徹尾、善悪の区別なくまた煩わしいことのない環境に居続けなさい、という教えなのであればそれは私もただの逃避だと判断しますが、物語からの逃避や否定を目的としたものではないと私は思っています。仏教が目指しているものが「物語からの逃避や否定という物語」の域を出ないもののように感じられることがあるのは、修行のためのその環境設定であるとか善悪を思わないといった、修行が完成していない段階の僧のための教え自体に逃避的な印象を受ける要素があるためだと思うんですが、あくまでもそれらは苦しみの原因を取り除くために必要な直観に至るために要求される条件ということみたいです。(少なくとも上座部仏教に伝わっているものについては)


たしか南直哉さんも耳蝉さんが指摘したことと同じようなことを言っていて、修行の場に慣れると世間よりも居心地がよくなるのだそうですが、その場で作法に則って過ごすことが仏教の全てなのであれば本当にただの「テクニカルな隠遁生活の仕方」といった感じになりますよね。また実際として特権と感じられるのは日本には上座部仏教のような本来的な出家や出家を支えるシステムがほとんど根付いていないことが原因かもしれません。


借りた知識と想像ばかりで本質的な理解が欠けている半端野郎の返信なので的を射ない話をしてしまったかもしれませんが(私のコメントをこのように取り上げていただいて嬉しかったということもあって少し興奮気味で)また私的断片的な仏教理解を書かせていただきました。しかしこのような話になってくると最終的に自ら原典に当たる必要性が出てくるのかもしれませんが、耳蝉さんほど好奇心と生きる技術のための学習に熱意がある方ではないので、おっ!と感じたものを紹介することぐらいしかできないことが少しさびしいです。在野のさらに外野が何か言ってるぐらいの感じで読んでいただけたら幸いです。


書き込みありがとうございます。


読まないうちになんか言うのはルール違反かもしれないんですが、先走ってあえて言ってしまえばその本を読んで「経験」に至るまでのプロセスが理解できたとしても僕の社会性という意味での疑問は無くならないでしょうね。というのはざっくり言ってしまえばその「苦しみ」について葛藤することがヒューマニズムだと思うからなんですね。それは個人の境地とは関係ない世界が存在する限り存在し続ける苦しみなんですよね。いきなり理不尽な不幸に見舞われるとか病苦とか認識とかではない残酷な物理的な話ですね。仏教がどう言っているかはともかくとして、苦しみが心から生まれるという論理をそのままにしてしまうと倫理が無くなっちゃいますよね。苦しむことがそのままあってはいけないことという風にはならないんですが、ショーペンハウアーなんかは東洋思想に影響を受けた上で幸福とは苦痛からの回避であるというようなことを言っていますよね。


それが本当の幸福かはともかくとして、何が苦痛か?というのがわからないとそこから逃れることはできませんよね。必要な我慢や苦痛はあるとは思いますが、苦痛というのは心が作り出すという論理をそのままにしてしまうと人間性や社会性が失われるということなんですよね。もちろん倫理が心の痛みや苦痛などから生まれるというわけではないんですが、結局は仏陀は「気の持ちよう」みたいなことを言ってるという印象しかないんですよね。それを言っちゃーおしまいよみたいなことを言っているのでそういう境地に至って輪廻転生から抜け出すということを選べる人はいいけども大半の人はそうじゃないわけだし、自分の心を無にして輪廻転生から抜けるといっても自分はそれでいいかもしれないけどほかの人はどうなるの?って思うんですよね。


この世を苦しみの連鎖と捉えてそこから自由になるということを志向するのはいいんですが、どうせ苦しみばかりなんだから解脱したほうがいいって考えるような思考法が好きじゃないっていうんでしょうかね。苦痛にしてもなるべく多くの人が苦痛でいないという世界を目指すべきだし、だからこそ苦痛の原因となるものを取り除くなり何とかするっていう世界への働きかけになりますよね。それがモラルにもなりうるしそれが人間であるということだと思うんですね。だからそういう意味で僕は生きるということは闘争だと思っていて、逆に解脱というのはそういった闘争からの逃走だと思ってるんですね。最終手段としてはアリかもしれないけどでもだとすればこの世に生まれてきたこと自体が一体何なのか?ってことになっちゃいますよね。それを悟るための場なんだみたいな考え方もあるのかもしれませんが自分が一抜けできればそれでいいやみたいな著しく社会性を欠いたものだと思うんですよね。


より良い社会とか良い人生なんて幻想なのかもしれないけど、ボトムラインとしてとりあえずその辺で常に争い事が起こっていて人々が殺しあってるみたいな環境はどう考えても良い環境ではありませんよね。クレイジージャーニーという番組でスラムに潜入するというようなものがあるんですが、ごみの山で子供が暮らしていたりそこでごみから使えそうなものや売れそうなものを拾ってきてお金にするというような生活をしている人たちがいて、で、これをやはり「劣悪」と言わずしてなんと言うのか?っていうことになるんですよね。見方によっては生きるだけでいろんな負債を背負わされて常に金を稼ぎ続けないといけないというような先進国に比べたら我慢すれば気楽というような見方もできますよね。極端な先進国と後進国の比較をして後進国のほうが貧しいけど自由だみたいに言う意見もあると思うんですが、これって突き詰めると何が幸福なのか?っていうことになりますよね。


何もかもが幻想なら別にごみの山で暮らしていようがいいじゃないかみたいなことにもなりかねないっていうか、それはある意味真理である反面、反社会的ですよね。ある意味でホームレス的というか、ホームレスと仏陀は認識の差があれど結果的にどちらも違わないものなのであればそれって不毛じゃないか?って思うんですね。人間や社会は進歩するべきだというのはイデオロギーですが、やっぱり個々がよりよい社会を生きるために進歩していくというのは必要なことですよね。でもそれって別に必ずしも「社会の進歩へ向けて!」なんていう大義名分は無くてもいいんですよね。ニートが便利で経済的だからっていう理由で生み出したモノとかシステムとか価値観みたいなのが結果的に社会的なものにフィードバックしていくということもありますからね。こういうのって滅却っていうベクトルからは生まれませんからね。


働きたくないけど生活してかなきゃいけないし困ったなー・・・っていうところから工夫が生まれるっていうんでしょうかね。ニートじゃないんですがphaさんなんかはまさにこういったことを実践していっていますよね。こういう生活から生まれるクリエイティブなことっていうんでしょうかね、そういうパワーを自己に向けすぎることこそ病理の原因であると思うので、やっぱり人間って建設的で前向きであるべきだと思うんですよね。で、結果的に苦しんでいる人の助けになれば!なんて大義名分は無かったけど結果的に社会や人生に対して能動的であるというところから来る創造性が何らかの形で社会というものにフィードバックしていってその生成と還元されるものとか元となるようなものが次々と生み出されていくっていうような有機性を生み出していくと思うんですね。もちろん実際は悲観的で大抵は不毛なものでしょう。でも大事なのは生きようとする力ですよね。で、人生をより良いものにしていこうとする意志ですよね。


ももちろん仏教自体が不毛だなんていうつもりはなくて、まさに名前が出ていた南直哉さんのようなプラクティカルな形で仏教的なことを説くということもあるし読んでないのでまだ言うべきではないんですが「仏教思想のゼロポイント」の魚川祐司さんも現代に対応してどんどんアップデートしていく仏教というような姿を模索しているんだと思うんですね。つまりは仏教は人間として正しく生きる道を説くドグマではなく方法論的な認識の在り方とか認識論なんだと解釈することでドグマや宗教性などから自由になった本来の原始的な仏教というのが見えてくるっていうことだと思うんですね。だからこそその貴重な方法論的認識論というのは人類の大いなる遺産なのであって生かすも殺すも人次第ってことになるんですよね。道徳だのなんだのってのは後世の後付けでファンダメンタルな仏陀の認識論のレベルだと純粋な方法論的認識ってことになるんですよね。それはどちらかというと密教の秘伝みたいな、そういう技っぽい感じかもしれないですよね。


最近は気功の関係から「Qigong, The Secret of Youth: Da Mo's Muscle/Tendon Changing and Marrow/Brain Washing Classics」という本を読んでいるんですが、brain washingとは言いえて妙だなって思ってるんですよね。つまりはマインドセットの話なんであって認識なんですよね。だから脳を洗うってことになるわけですよね。でもそれは純粋に方法論的なんであって徳とか社会については語られないわけですよね。認識の話をしているわけだから逆にそんな話が出てくるはずもない。まぁ落としどころとしてはあるのかもしれないけど方法論的というのはつまりはそういうことですよね。これで言えば瞑想法としてこうこうこういうのがあるけどそれは瞑想するときの認識の方法なんであってその認識を携えたまま社会生活をそのまま送るということにはならないということですよね。


だからまぁそういう意味だと悟りに社会性が無いなんて言うのはお門違いで、そもそも社会性とは何の関係もないということですよね。達磨にしても瞑想法と社会って関係あるかもしれないけど瞑想法自体は社会とは関係ないですからね。仏陀の教えもそういうものなんだと思いますよね。そういうところをクリアに書かれてる本なんだろうなって勝手に予想しているわけですが、何はともあれ読んでみますね。名著であることは間違いなさそうなので。


書き込みありがとうございました!