滅する系の話について。

仏教というかある種のミニマリスト(?)的な考えに共感できないっつーのはさ、いや、まずあれだよね、何もかもが苦であるみたいな負け犬的な決めつけだよね。期待をするから裏切られるとかがっかりするってのはあるにしてもさ、全く期待していなかったところから面白いものに出会ったりすることもあるわけじゃん?生きてて良かったなーって思えるような瞬間とか事柄っつーのかな?そういうものでも過ぎ去ればそれまでみたいな考え方もあるけどそれ言い出したら生きてる意味ないじゃんね?苦楽も主観から生まれるっていうか主観から離れてしまえば意味を成さないってのは確かに言えてるけど、そもそも我々は主観で生きているわけだし苦痛の中で生きられるわけじゃないよね。そういう風な達観ができるというのもある程度のインフラが必要じゃん?社畜はそんな風には考えられないよね。いや、それは社畜をバカにしてるわけではなくて社畜ぐらいしか現状生きていける方法が無いからいつでもやめたいけどやめられないみたいな人たちって意味ね。


社畜ってのは奴隷みたいだからそんな風に言われるわけでさ、じゃあこれも主観から離れれば苦楽もないわけだからそれをそのままに肯定していくとかそれそのものとして認めていくのか?っていうことになるよね。まぁ良いわけないよね。まぁ特にブラック企業なんかは違法なことやってるわけだからね。サービス残業とか意味の分からない制度があったり契約外のことをやらされたりだとかさ、それもじゃあ仏教的に言えば「契約外」ということも主観から生み出されていることなんだからそんなの気にせずに「やれ」と言われたらやるべきってことにもなりかねないよね。あるがままっつってもそんなもん良い条件とか良い環境においてのみだよね。西洋でもフィヒテみたいな観念論者は同じようなことを言うよね。高潔なことを言うんだけどそれって貴族みたいな立場だから言えるんであって奴隷の立場じゃ成立しなくね?っていうような観念論だよね。


いや、貴族のための観念論とか隠匿の方法論って割り切ってるならいいけどそうじゃないじゃん?まぁある種の普遍性を説いてるわけじゃん?で、その普遍性とやらが全く現実とかみ合わないというのはどういうことなのか?って話だよね。それって結局は理想主義的なことばかり掲げてて実際に応用したらうまくいくわけがない空想的な政治思想とかと同じじゃね?って思うんだよね。まぁただ観念の問題の場合、個人がそれを実践できる立場にあれば勝手にやればいいと思うんだけどまぁでも人生が基本的にクソゲーとかオワコンであるって認識は俺は変わらないし、そういう意味だとニヒリズムといっていいかはわからないけど仏教的ななんでもかんでもまぁ苦と言えば苦だよねーっていう考えはそりゃベースにあるんだよね。


でもまぁそこはattitudeの違いっつーのかな?そのベースは共有しつつも俺は主意主義的なんだろうね。ある種まぁアナーキズム的な反逆精神っつーか現実がクソだったらそれをぶち壊すなりまぁあえて破壊しなくてもいいかもしれないけど勝手に自分でなんか作っちゃえばいいんじゃない?っていう創造性とか能動性っていうところに向かうんだよね。そういうところから大げさなもんじゃないにしてもイノベーションって生まれてくるわけだし、それこそ生きがいだとか「楽しいな!」って思えることができたりとかさ、で、そういうのを他人と共有できたりそれがコモンズ的な知恵として共有されて社会にフィードバックしていくとかさ、こういうポジティブな感じだよね。


諦めたら終わりじゃないっすか?あと欲望するということをやめても終わりだよね。まぁ断捨離とか流行ってるっつーか今はどうなのか知らんけど欲の限りを尽くした人が後になって断捨離に目覚めたならいいんだけどなんかが好きな人があえてそれを実践する必要もないよね。レコードが好きだったら買い続ければいいし洋服が好きだったら買い続けてそれを楽しめばいいわけじゃん?あとはまぁ社会工学的っつーと大げさだけど欲望が軸になってないと消費ってありえなくなるからね。何かやろうとするからお金がかかるし何かをするためのコストってのがあってそれに応じて産業とかってのが生まれてくるわけじゃん?まぁ生まれるっつーか成立するっていうのかね。


何もかも良い意味で諦めて瞑想してればいいんだったら例えば観光だのさ、旅行だのってのをやらなくなるって話だよね。いや、旅行いいじゃないっすか。恋人なり友人たちと一緒に行って最高の時間を楽しむとか思い出を作るとかさ、それ自体で掛け値なしの価値があることだと思うんだよね。ようはまぁ楽しむってことだよね。それで言うとまぁ昔から言ってるレイヴとかクラブとかもまさにそういう話だよね。もっと言っちゃえばドラッグとかもそういう話なんだよな。結局まぁすげー底辺の人とかギリシャみたいに崩壊した国とかの底辺の人たちがドラッグやってるっつーのもまぁようは救われないからだよね。仏教的な諦めが本当に有効なんであればみんな仏教に目覚めるはずっていうと変だけどじゃあなんでドラッグに走るのか?ってそんな瞑想だの認識だのなんて考える余裕が無いぐらいひどい生活をしてるからだよね。だからドラッグに逃げるしかなくなるわけだ。これがリアリティじゃん?


あと凄く疑問なのは過去のアナーキストとかもそうなんだけどまず大体貴族出身だよね。貴族出身だからこそ自由とか博愛ってのに執拗なまでに執着できるんであってさ彼らの言う革命主体である農民からはそんなもんは生まれないんだよね。農民ディスるつもりはないけどなんであんなに農民のロマンを感じてるのか?ってぐらい民衆に期待を寄せてるよね。そこってやっぱ世間知らずなんだと思うしさ、所詮は貴族出身のやつの観念論なんだよね。リアリティに立脚してない。ぶっちゃけ仏教も似たようなもんだと思うんだよね。仏陀もそうじゃん?元が王子だし。娑婆に出たといってもそれってバクーニンとかがヨーロッパを放浪してたようなもんでさ、根本は生まれが良くて血筋も良くて頭良いじゃん?で、なおかつ生まれが良くて教養がある家に育ったから高潔なんだよね。だからこそああいうことを説けるわけなんだよね。


それって言わせてもらえば徹底的なエリート主義だと思うんだよね。高潔で頭が良くないと実践できないことなんだから。それがある種の心理でも実践はほぼ不可能に近いって意味で小乗ってことならまぁ説得力あるんだよね。まぁようは大体的に「これは選ばれしもののみが探求できる認識の道なのです」って言っちゃえば問題ないっつーかまぁ元々仏教って小乗だもんね。そこをまぁそれおかしくない?って批判したのが大乗仏教にしても、そもそも元の教義が小乗的というかエリート的なものなんであればすべての人をそのエリート的なドグマで救えるはずが無くてさ、だから違和感があるんだと思うんだよね。ずいぶんと高尚なことを言ってるけどまぁ凡人に実践は不可能に近いよなーみたいなことになっちゃうんだよね。


贅沢の限りを尽くした人が「贅沢など意味がない」っていうのは説得力あるけど凡夫にとっては贅沢って魅力的じゃないですか?まぁ贅沢っつーよりかは美味しいもん食べるとかさ、大胆に休みを取ってバカンスを満喫するとかさ、それってまぁようは風前の灯火とさんとのやり取りでも出てきたような個々が物語を生きているからこそ生まれてくるハレとケっていうのかな?物語を生きないとかそこから抜け出すという選択ができた人は何もかもを捨てるなり悟るなりってことができるけど、大抵の人は物語の中を生きるしかないわけじゃん?そこで何もかも捨てちゃったら何にもならないよね。


物語に生きるしかないからこそ苦痛の連続であっても輝くような瞬間とか「これがあるから生きていける!」というようなものとかさ、熱中できるものとかってのに打ち込んだり探したりするわけじゃん?まぁ別にその理由付けが人生は苦痛だからって理由である必要はないんだけどね。ただ好きだからやっているっていうそれでもいいんだけども。でもその「ただ好きだからやっている」っていうことが人生にあるだけでどんだけ素晴らしいことか?っていう価値ってあるじゃん?それは物語の中を生きないと見えてこない価値だよね。なんでそれがそんなに素晴らしいのか?ってまぁやっぱり人生自体はそんなに素晴らしいもんじゃないからだよね。やっぱ根底的にはみんな気づいてるけど気づかないフリをしているニヒリズムってのがある。で、そういうのを超越できるものを持ってる人は素晴らしいよね!ってことになるんだよね。それは別に趣味に限らず家族とか人間関係とか恋人とかでもいいんだけどね。


良縁に恵まれたり好きなものがある人はいいよなーっつってそれが妬みに変わるみたいな感じだったらまぁそれは最悪ですよね。まぁニーチェが言う終わってる人たちだよね。んでもそういうものをwill powerによって得ていくっていう能動性こそが生の肯定に繋がるわけじゃん?それを良いものだと思ったりそういったものを得られれば幸せになれるって考えること自体は幻想だしね、それと幸せってのはまた別問題にしてもやっぱりなんつーのかな?個々なりのQOLを追求していくってことだよね。いいなーって思うから妬みが生まれるんであって最初からいいなーなんて思わなければいいってミニマリスト的かもしれないけどじゃあ友達もいない娯楽もないやることもない趣味もないみたいな環境でハッピーなの?ってことになっちゃうよね。


あとすげー強調したいのがモラルだわ。苦楽は主観と言えども単純に苦痛ってのは良くないよね。だからQOLという観点からっつーかまぁQOLっつー概念が生まれて苦痛を取り除きましょうってことになるわけじゃん?だからガンの激痛で苦しんでいる人に「ドラッグダメ!」なんつって激痛のまま放置しておくのか?ってことになるじゃん?どうせ死ぬんだから楽に死なせてあげるのが良いことだっていう当たり前の話になりますよね。もちろんそれを当たり前とするのも一つのイデオロギーだしそれが普遍的とは言わないけども、ただまぁそこが人間の直感って部分ですよね。何もかもを良心に任せてそれを軸に考えるなんてことはできないけどただやっぱり直感的にダメだなとかこれやっちゃいけないよなとかやったら人間的に終わりだよなっていうことってあるじゃん?でも誰にも見られなければそれをやろうがやるまいが変わらないんだよね。そこで良心の問題ってことになるよね。virtueってことになってくる。


なんだろうね、どことは言わないけど文化的にそんな状況だったら誤魔化して金くすねるよとかさ、自分の利益が第一みたいな文化ってあるじゃん?どこって言っちゃうとその文化の一面しか捉えてなくてただのディスになっちゃうからどことは言わないけどなんつーかまぁそれがデフォって言われると呆れるっていうようなものってあるじゃん?でもそれってさ、「いやーそれありえないわー」って思えるボトムラインを押えている日本の倫理の基準だよね。他の自然状態が永遠と続いているような国だったら余裕がないから少しでも自分が有利になるように振舞ったり道徳なんて二の次だっていうことになるかもしれないけど日本はそこまで酷くないからさ、だからそれこそ他国から関心されるぐらい「日本人は正直だよねー」ってことを言われたりするわけじゃん?まぁそりゃ個々を見ればいろんな人がいるにしてもまぁスタンダードは高いんだよね。


その「高さ」を規定してるものはなんなのか?っていうとやっぱりそれはつまりは道徳というか倫理だと思うんだよね。よく言われるのがさ、路上に何か落ちてたらどっかの国だったらそれが価値があるものだったらくすねるのに日本人はそれを拾って届け出たり踏まれないように隅に置いておいたりするっていうさ、「そりゃー関心だね!」とか「さすが日本人だね!」ってどこの国だろうがそう思うっていう直感ってやっぱり元々の倫理ってことだよね。そういう感覚ってのがアプリオリにあるってことなわけだ。全くない人もいるけどね(笑)


で、そのアプリオリに与えられた言い方が大げさになるけどそういう善悪の感覚ってギフトだと思うのよね。それがわかるからこそ良心が生まれるしっつーよりかはあれか、サイコパス系の本を読んでいると「何が悪なのか?」とか「モラルとは?」っていう問題が悪というものから生まれるっていうことなんだよね。それだからこそそんなものをのさばらせてはいけないから善くあるということが大事になったり善ということが凄く重要になったりモラルを守るということが社会的に凄く意味のあることなんだっていうことになるわけじゃん?これって善悪を判断できる主観ってのが無いと成立しないよね。確かに善悪なんてのも主観が生み出した幻想かもしれないけどでもそれがあることで成り立つ社会とか秩序ってのがあるわけだし、それがあるからこそ克服できる苦痛を取り除くということとかさ、よりよい社会を育むっていうようなことになるわけだよね。悟りとかの世界って内面の世界じゃん?で、悟ったらあとは関係ないみたいなさ、究極的な観念論だよね。


ただまぁあれね、方法論的に悟ってでも娑婆で説法などをしていて、んで例えば末期ガンで苦しんでいる人に生について語るとかっていうのはまぁ功利的に意味があるしまぁそれって道徳に繋がってるからいいと思うんだけど、そういうのありきじゃないとねって気がするよね。でもそれはやっぱり本当に限られた人しかできないよね。まぁそういう限られた人になるための修行の作法って意味だと分かるし、そういう意味での悟りのプロセスというのは悟りという体験をする認識の方法論なんだっていう風に捉えれば納得がいくよね。分からんけど「仏教思想のゼロポイント」もそんなような感じで書いてあるんじゃないか?って勝手に思ってるんだけどねって恐らく明日届くからすぐ読むつもりだけど。


だからまぁ読む前から別に仏陀はどうあるべきか?なんてことは言ってないっていうそこだけを見ても「おお!」ってなるよね。いや、それなんだよね!って思うわけ。道徳とかどうあるべきか?とかってそれって後付けじゃないですか?っていうさ、悟りそのものを見るとそれってようは認識論なわけで、それとまたモラルとは別だしどう生きるか?ってのもまた別ってことになるんだよね。悟りのためには分別なども不要だから方法論的に何も分けることなくイコールで考えるってのはあるにしてもじゃあ生活に戻って分別しないか?って分別するじゃないですか?それこそごみも分別して出しますよね(笑)


あとその悟りの体験をしても趣味でFPSやってるかもしれないしさ、でも仏教の実践者がゲーム内で殺し合いしてるのってどうなの?って話になるけど、単純な認識論って意味での悟りと仏教での殺生はいけないみたいなのって全然別だと思うんだよね。あとまぁなんでも仏陀っていうファンダメンタルに繋げるっていう悪い癖があるじゃん?ドグマって大体そうだよね。後付けだったりするのもムハンマドなり仏陀なりイエスなりっていう経典のソースでこう書いてあるからみたいなのを拡大解釈して勝手に色々と付け加えたりとかっていうまぁようはどんどんと異化してくるんだよね。で、それがまたどんどんと時を経て異化していって世俗化していって異様な継ぎ接ぎだらけのキメラのような様相を示すものに成り果てたりしちゃうんだよね。


でもね、だからこそ認識論としての悟りとか仏教ってのはそれこそそういう後付けの教義とかから離して考えれば依然として凄まじい威力を持ったものだよね。言わば「認識の仕方」として例えばめちゃめちゃ辛いことを乗り越えるために悟りを得るとかさ、悟りに近い認識をしてみるとかさ、方法論的に使えるってことになるんだよね。あと普段は俗人と変わらない生活をしているけど過去に悟りの経験をしたからそれがわかっているというベースがある中で世俗で生きているっていうこともあるからね。でも別に過去に悟りがわかったからといって日常生活で全く怒らない人になるのか?ってそれは多分普通の人のままだよね。でも根底には悟りがあるっていうさ、悟りがあるからこそ生まれてくる能動性とか人間の価値とか人生の意味とかもあるだろうしそれは千差万別だよね。まさに人によるっていうことになるよね。


だからまぁつまりは俺が言いたかった違和感ってそういう悟りに至るための認識論の方法論のようなエクストリームな世界観というのを常に持っていてそれを生活の中でもアプライしながら生きていくということの不可能性なんだよね。全く社会生活と両立しないどころか反社会的にもなりうるわけでさ、で、さっきも書いたけど、いや、そういうのとは関係ないんですよってことを明確に「仏教思想のゼロポイント」では語られてるんじゃないかな?って思ったのね。とにかくまぁ若手による名著ってことで期待が高まりますな。


あとまぁなんつーかさ、基本的に欲望することって重要だよね。ジジェクは映画が欲望するということを教えてくれるって言ってるけど、その欲望がある上でそれに振り回されたりそれが原因で不幸になったり生活が破たんしたりしたら別だけど快楽主義的にとにかく色々なことを楽しむ!って意味で欲望するってことは良いことだよね。だからまぁセックスしまくりでいいわけだし酒池肉林万歳!なんだよね。もちろん現実的な生活との兼ね合いも含めてだけどね。そこはまぁやっぱバランスなんだと思うんだよね。普段はストイックでハメを外すところでは外しまくって弾けるっていうハレとケのバランスだよね。あとまぁ性欲ってそういうストイックな世界だと悪いものとされるけどさ、性欲を我慢してまで生きようと思わないよね(笑)


かわいい子を見かけて「うわーあんな子とやれたらなー!」って思ってオナニーするとかさ、まぁ抜いた後は寂しくなったりもするけど「あんな子とやれたらなー!」っていう高揚感って良いもんじゃん?あとまぁすげーお気に入りのAV見つけた!とかさ、それ自体は明らかに良いことだよね。かわいい子を見かけて「うわー可愛い!」って思うことを我慢するなり滅却するなんていうストイシズムなんていらないよね。むしろ色々と欲望して経験して人生の経験値を積んだほうがよっぽど修行になるし徳になると思うんだよね。何もかもから離れたら成長できないじゃん?そこで瞑想とかで修行はできるのかもしれないけどリアル社会での辛さとか人間関係の煩わしさとかさ、まぁいわば最近マーシャルアーツで書いてるところのリアル社会って言わば実戦なんだよね。認識がどうのとか悟りがどうのってことだけを言ってるっつーのはただの型修行みたいなもんなんだよね。で、どんだけ普段修行してようがブラック企業に就職して頭がおかしい上司とかに永遠と嫌がらせさせられつつ永遠とサービス残業やらされるみたいなさ、そんな環境にあったらその人が高僧だろうがなんだろうが精神的におかしくなるわけだよね。


そうそう。だからこそなんだよね。だからこそなんだよね。悟りと悟りの認識に至るプロセスを得られるような環境にいるということは全く別ってことなわけだ。だからファンダメンタルな認識論としての悟りという意味で言うと俺の言うじゃあ高僧がブラック企業入ったらどうなるの?的な話は全くお門違いということになるんだよねって前にもさんざん書いたけどね。だからこそをやっぱりmixupしないってことなんだと思うんだよね。でもまぁ世俗化された仏教だとその辺がごちゃごちゃになってたり体系が論理的になってなかったりするっていうそういうことだと思うんだけどね。でもそれはそういうごちゃごちゃになったわけのわからない世俗化された仏教の問題なんであって仏陀の問題でもなければ仏教の根幹の問題でもないからね。


ただまぁなんつーかなしつこいようだけど俺は徹底的に抗うってことをやってほしいって思うよね。常に反逆的でいるということね。それもまたブルジョワ的な発想だってのはわかるけど能動的な創造のための反逆とか破壊ってことだよね。だから明らかに害悪なもんは破壊するなり規制するなりなんとかしろ!ってことになるし、見ざる聞かざる言わざる的なことなかれ主義みたいなのに流されないってことになるんだよね。どうにもならないことを達観して諦めるんじゃなくてどうにもならないかもしれれないけど人間的な憤りとか怒りを感じるってことだよね。で、なんとかできないものか?ってなんとかできないにしても思い続けるってことなんだよね。そういう意味でマジで諦めたら本当に終わりだからね。本当にそこに残るのはニヒリズムだけだよ。マジで。


あとまぁ道教とかにしても仏教とかにしても滅せよみたいに言っている感情の中ですげー人間にとって大事なものってあるからね。全部を二項的に考える必要はないんだけど喜怒哀楽っつーかさ、それってやっぱ人生のドラマじゃないですか?感情があるから感動とか感激とかがあるわけでそれってやっぱ良いことだと思うんだよね。まぁそれで言うと俺は昔から「快」を増大させるのが倫理だって言ってきたと思うんだけどっつーか後まぁやっぱこの辺はスピノザからの影響も大きいんだと思うけどやっぱそこなんだよね。でもまぁ結局それって内面的なものを磨いて既成のものっつーかそれまでなんとも思わなかったものに感動する感性を養うとかさ、ようは教養とかにしてもそうだけどそういうのが身につくと楽しめるようになるものって多いからね。


まぁそんな感じで今日はこの辺で。