キリスト教に目覚めていく私。その3。

新作貼るね。煩いんで。

 

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なんか日々があっという間なんだけど良い意味でね。やっぱりなんかにフォーカスできるってのはそれだけで幸せだよね。確信したのは今やってるキリスト教とか神学とか宗教哲学とか宗教社会学ってのがしつこいようだけど過去の俺で言うところの哲学とその後の数学と同等のっていうか同等だからこそ数学からの期間が長いけどそれがまぁキリスト教と神学と宗教哲学って書くと長いから(笑)「俺の神学」って呼ぶことにするけどまぁそんな感じだよね。

 

あとまぁやっぱ特に哲学のやり始めとかと違って日本語にせよ英語にせよ読むのが速くなっててなおかつまぁ色々と鍛え上げられてきた結果ですけど難解過ぎて理解できないっていうのが基本的にないよね。あるとすれば聖書を一回も読んだことが無かったりっていうまぁ予備知識が無さ過ぎて理解できないってのはあるんだけどまぁそれは単純に知識不足だからそういう専門的過ぎる本は積読のままで入門的なものとか概論的なものを読んでいけば攻略できるなって感じでまぁ日々充実しておるよ。

 

結局なんつーのかな、ここ数年物欲まみれだったと思うし去年なんかは湯水の如く金を使った感じだったけどまぁ無駄遣いはしてないけどやっぱりまぁ実存的な危機でそれからのストレスで過剰な消費に走るってのはあったと思うんだよね。今は本を買うことで物欲が満たされてるってのもあるんだけど基本的にずーっと本読みたいからほとんど家から出ないっつーのもストレスにならないんだよね。

 

良い意味での読書囚人生活っていうかまぁフォレストヒルズの地下に住んでた時みたいなすんげーフォーカスしてる感じがあるわ。まぁ帰国後の数学然りだけどね。まぁこうなるともう最強ですよね。頭がスポンジの如く色々と理解するようになってなおかつ常に飢えているっていうか特にここ数年は知的刺激を受けたりするってのがあんまりなかったからまぁすんげー脳がビンビンになってるのを感じるんだよね。

 

まぁある種のオブセッションなんだろうけど積み上げられた本を見ると安心するっていうかこんだけ読む本があれば基本的に虚しくならないなっていうようなのがあってさ、しかもまぁ本は大部であればあるほど良いっていうか時間かかるじゃん?そこをじっくり取り組めるっていうかねっつってもまだ先月の頭に買った実存系の本が相当残っててなかなかまだ本格的に神学にはいってないんだけどまぁ同時読みが常に5冊ぐらいって感じだよね。

 

ADHD的な読み方だけど一冊読んでてちょっと飽きてきたら別の本を読んで・・・っていうのを回していくと基本的にずーっと読書していられるよね。ただまぁ実存系と言えばヤスパース精神病理学なんたらってのも実存ついでに買ったんだけど量が膨大過ぎるのと今の関心と違うからとりあえず買っちゃったみたいなやつは斜め読みしてますね。まぁ実存系を色々買い過ぎて相当実存系の本に飽きてきたっつーかまぁでも色々と学べるところはあるからいいんだけどね。

 

んでまぁ聖書なんだけどさっていうかキリスト教なんだけどさ、まぁそんなベラベラ言えるほど読んでないからアレなんだけどまぁ今の印象で言うとなんつーかまぁキリスト教って他の宗教と相性が良いっていうとアレだけどまぁ日本的なミックスアップの感じっていうまぁよく言われる冠婚葬祭は仏教でクリスマスは祝うくせに新年は神道の神社にお参りするとか実はこれってごちゃごちゃじゃないんだよね。

 

で、まぁキリスト教の神って一神教系ってよく言われるけどそもそもあれって三位一体を持って神とするわけでアラーとかヤハウエ的なのが神でそれと人間っていう関係性じゃないんだよね。神とその子のキリストと聖霊ってのが一体となって神になってるっていうさ、で、基本的にイコン的に崇拝されるのはジーザスなんだけどそれもまぁすげーよくできてて父そのものってまぁ前も書いたけど世界作るレベルな神なわけで分からないですよね。でもそこでジーザスがいるから神の人格神バージョンっていう信仰対象として凄く便利な対象というかさ、いつも書いてるけどキリストの受肉がすげー重要だっつーのもやっぱりそれは人間が文化と共に生きるっていう世界の中での宗教っていう意味で人間にとって実践しやすい宗教っていう感じなんだよね。

 

んでまぁ別に神道とか詳しいわけじゃないんだけど例えばまぁ日本の神々って八百万の神とかって言われるけどこれってまぁ所謂創造主みたいな神じゃなくて神っつー属性を持った聖霊というかさ、聖霊っつーと三位一体の聖霊みたいになるけどまぁそれとはとりあえず別にしといて例えばアニミズム的に神秘的とされる霊山ってのを神と見立てて祭っているのとかって創造主とは関係ないその場の現前って意味での神なんだよね。創造主ってのはこの世に現れない神じゃん?

 

まぁ言わば一番上なわけなんだけどそれとは別にどの国でも民間信仰で例えば豊作を願うために神を祭るとかっつーのも民間神話とかっていうまぁエスニックな土着の神としてそれって存在してるわけじゃん?海を守る龍がいるという言い伝えがあるってのも神話ですよね。ただそれと創造主とかジーザスとかって関係ないよね。その場にいる神聖な存在としての龍とか神じゃん?山の神とか海の神とかっていう意味だよね。

 

あとまぁ祟りを恐れて神として祭ることで慰霊するっていうようなタイプもあってこの神ってのも神という言葉では同じだけど創造主やジーザスとかとは関係ない神として祭られている神だよね。ただキリスト教でも聖人とかキリストやマリアと関わりがあるものとかってのが聖遺物とかって言われてご利益があるみたいな論理の飛躍ではあるんだけどまぁ尊いものとして崇められる対象になったりするわけでまぁ日本の神々もこういう感じだと思うんだよね。

 

なんつーか概念的に創造主がいてジーザスがいて聖霊ってのがあるっていうのとそれとは別に霊山と呼ばれるところにいるとされている精霊や山の神みたいなのがいるっつーのは全く矛盾しないんだよね。だから別にキリスト教徒でも神社に行って拝むってのはそれをその場での神様を拝むっていう意味で拝むっつーことに関しては全く問題ないよね。問題があるとすればその神を崇拝したらそれはちょっと違うんじゃない?ってことだよね。

 

ただまぁ自明だけどそのご当地神様みたいなのを普段から家でも祭壇を作って崇拝をしてるとかお参りしているなんていう人はいないでしょう。せいぜいお守りを買って飾っておくとかお守りを持ち歩くっていうようなことだよね。まぁなんか世界観的には霊気とかっていうまぁ気とか気脈とかっていう風水的な感じもあるよね。んであとまぁ仏教なんだけど仏教に関してはそれを宗教なの?って呼ぶのはどうなの?っていうぐらいっていうかまぁどうなのか?っていう議論はあるらしいんだけどまぁこの辺は前にも書いたけど儒教とかと同じで開祖ってのがいて別に開祖はイエスと同じでなんたら教みたいなのを作るつもりはなかったんだけど周りの弟子たちがその開祖の思想とか言葉ってのを記録してまとめたものが教典みたいになったりしてまぁ聖書もそういう意味で特に新約においてはそうだよね。

 

んでまぁ仏教ってのは神様はいるけどそれもまぁ神々なわけで創造主みたいなのがいないわけじゃないんだけどまぁ立場にもよるだろうけどまぁ基本的に宇宙自体が神様っていう汎神論とは違うんだけど全くまぁわけのわからない次元のレベルの神様っていうことで別にそれって仏教の創造主とされる具体化された形とかってのが無いわけじゃん?それはキリスト教も同じだよね。あ、そのキリスト教で言うところの父には絵とかはあるのかもしれないけど基本的に像ってのはないじゃん?

 

だからまぁこれまたキリスト教徒ではあるんだけど仏教の教えを実践したり研究したり知恵のネタにするってのは全然両立できるっていうかまぁそれはあれですよね、特に戒律を守ることでその宗教の徒とされるようなものでない限りまぁだいぶ具体的に書くとどれも思想じゃないですか?お経とかってのはまぁ尊い真理が書かれた神々しいエクリチュールっていう意味でまぁ聖書も同じだよね。

 

仏教の思想とかは哲学やってたときに相当読んだけど神様がどうのってあんまり知らないんだけどまぁようはなんたら如来とかってのは修行中の仏を指すわけで言わば聖人を祭ってるってことだよね。キリスト教においてもさっき書いた聖遺物ってのが祭られたり聖人自体もご利益があるっていうまぁスピ的な感じでまぁようはただの偉人とは違う聖人っつーレベルでまぁ実在した人たちなんだけどまぁ信仰っつーかまぁ拝むような対象になったりもするよね。ただまぁ聖遺物的なものをありがたがるのかそうじゃないのか?ってのはキリスト教内部で色々とまぁ見解の違いがあるみたいだけどまぁなんつーか人間的な感覚としてまぁそりゃありがたやーってことになりますよね。

 

こういう言わば神とか神話っていうレベルになると形而上学なんで意味が無いとは言わないけど神話レベルで矛盾するからどうのっていうことでもないよね。例えば仏教者でも仏教を自分の思想のコアにしてる人でも別になんたら宗に属している僧侶である必要はないわけでこれってキリスト者も同じだよね。洗礼を受けてようが受けてまいが一応定義上はキリスト教を信じていてまぁ実践しているっていう人ならもうそれはキリスト教徒だからね。だからといってっていうかだからこそ別にキリスト教徒だから教会に行かなきゃいけないとかっていう義務も無いし神社で拝んだりお寺で拝んだりしちゃいけないっていうことでもないんだよね。

 

三位一体の神を崇拝するんだけどありがたいことにそれはよく言われる唯一神なのではなくてよく分からない創造主である父とその子のジーザスと聖霊っていうところでただクリスチャンだと拝みやすいシンボルでなおかつ神のロゴスというのを体現した偉大な受肉をした神という意味でのジーザスってのが主に崇拝される神なわけなんだよね。だからまぁ語弊があるかもしれないしもっと研究していけば変わるかもしれないけど基本的にジーザスがすげー重要なんだよね。

 

で、まぁそれはありがたいことに人であったわけだ。仏教に関して色々書けるほど詳しくないけどまぁ仏教では教えとか考え方が重要なんであって神って重要視されたりいるのかいないのか?ってあんまり関係ないよね。とにかくまぁ自分の宗派の開祖の教えってのがベースなわけであとまぁ原始仏教なら釈迦の言葉が聖なる言葉ってことになるよね。まぁようは帰依できる対象としてそういうのがあるっていうことでそれをキリスト教で言えばジーザスを帰依できる対象するっていうことだよね。

 

そういう意味で語弊があるかもしれないけど日々教えを実践したり聖書の中に神の存在を見出すっていう意味で研究したり実践しながら感じていくっていうプロセスの中で神がいるかいないか?ってあんまり関係ないんだよね。神がいなければ全く意味が無くなる宗教なのか?っていうとそうじゃないもんね。史的イエスの存在はいたかいなかったか分からないとされているけどとりあえずありがたい新約聖書ってのがあるわけでもうその時点でオッケーなんだよね。

 

もちろん神を重要視する考えってのもあるとは思うんだけどそれってまぁ人によるよね。まぁ俺はやっぱり思想的なところに感化されるからジーザスの行いとそれが刻まれたエクリチュールってのにありがたみを感じるんだよね。ただまぁそれとは別にスピ的な意味で導かれているっていう感じがあるっていうところはあったりするんだけどでも別にそれは仏教で修行をしたところで加護が得られるっていうことでもないわけじゃん?加護が得られる人もいるかもしれないけどそうじゃない人もいるよね。

 

ただまぁ宗教者だったらそういう超自然的な存在というのを感じる瞬間ってのはあると思うんだよね。それが仏なのか三位一体の神なのかは分からんけどそこがまぁ信仰っていうところだよね。論理を飛躍させて仏教徒ならそれはやはり仏の加護なんだってことになるしキリスト教なら三位一体の神になるわけだよね。

 

まぁそんなわけで俺的に日本は宗教的にミックスアップされためちゃめちゃな国だっつーよりかは主に神道と仏教っていうのが宗教というよりかは日本の文化として基本にある中でただまぁ一部の酔狂なやつとか召命を受けた人がキリスト教徒になっても別に文化的基盤である神道や仏教を無視するとかお参りはしない!みたいに頑なになる必要も全然無いんだよね。ブルトマンだったか忘れたけどすげー良いことを言っていてキリスト教ってのは伝道されるとブルドーザーのようにその地の土着信仰とか文化を破壊してキリスト教化するってよく言われるけどキリスト教にとっても大事なのはその国特有の文化ってことなんだよね。ようは土着信仰をブルドーザーで破壊する必要はなくて文化とか歴史ある土着信仰というのは凄く大事だっていうところなんだよね。

 

実際にペルーだったか南米のどっかはもちろんまぁスペインが侵略して野蛮なキリスト教が得意な大虐殺をして制圧をしたわけなんだけどそんな中でも元々の現地の宗教っていうのがブルドーザーで破壊されたところもあるんだろうけどやっぱりトラディショナルなものとして残っていてそれはクリスチャンでありながらも現地の土着信仰も同時に信仰されるっていうような、ご当地特有の信仰になってるらしいんだよねっていうかまぁそれは日本人の場合、すげー分かるって気がしない?なんだろう、例えば儒教を信奉していてっていうかまぁそれが文化的基盤でもキリスト教になったから異教徒になるっていうところでもないんだよね。まぁもちろんそのキリスト教ってのがカルトみたいなのじゃなくてちゃんとしたものであれば儒教的な教えを守ったり実践をしながらキリスト教徒としてもいられるっていうことだよね。

 

まぁざっくり書いちゃえば日本人であるっていうことはまぁ少なくとも大体において基本的に生活の中で宗教って意識することもなくカルチャーとして神道だったり仏教ってのが当たり前にあるわけだよね。それを宗教とは感じないっつーレベルで普通になってるっていうか例えば飼ってた亀が死んだから庭にお墓を作ってあげてお線香をあげたっつーのも別にそれが仏教的っていうよりかは自然な埋葬っつー行為がそういうことになるっていうことだよね。

 

で、別にその仏教的な埋葬をしている人が仏教徒か?っていうとそうじゃなかったりするわけだよね。ましてやお釈迦様の言葉なんてのとまともに向き合ったことが無いっていう人のほうが多いでしょう。だから別になんつーか新年に神社にお参りする人たちが神道を信奉するっていうわけでもないんだよね。信奉するしないじゃなくてもうそれは宗教というよりかはカルチャーなんですっていうところだよね。仏教然りだよね。

 

そうだ京都に行こう!と思って京都に行って神社やお寺を見て回っても別にそれは敬虔な信徒が聖なる地を巡礼しているっていうことでもないじゃん?ぶっちゃけ神道も仏教も分からないけど自然にとりあえず行ったらお守り買うとかお賽銭入れて拝むとかっていうのが宗教的行為じゃなくて文化的行為として自然になされるわけだよね。

 

まぁそれが文化っつーところなんだけどまぁ仮説でさ、日本は海外と違って落とした財布が自分に戻ってくるっていうことが多いっつってまぁ特に海外の人たちがそれに感心するっていうことがあるっつー話があるんだけど基本的にまぁその倫理観ってどっから来ているのか?っていうのは色々だと思うけど基本的にそりゃ無くした人は困ってるから交番に届けよう!っつーことになるんですよね。そこで中身を抜いて財布を捨てるってことしないっていうのが自然に為されるわけなんだよね。そのベースってのがお天道様が見ているから悪いことをするべきではないっていうところなのかそんな悪いことをしたら地獄に落ちるからやらないとかってわけでもないんだろうけどまぁでもこれもカルチャーの所産ですよね。

 

まぁそりゃ中身抜くやつもいるけど諸外国と比べれば中身を抜かれる率は低いのかもしれないよね。で、それが宗教的バックグラウンドを持った行為なのかは分からないんだけどとりあえずまぁそれは善いことですよね。んでまぁ結局そこでキリスト教ってのも日本人に馴染みが無いものなんだけどイメージとして教会に行って讃美歌を謳うとか毎週日曜日に教会に通うとかっていう儀式的なところとか色々とやっていく上で制約が出てくる特殊なものっていう感じがあると思うんだけど俺的に今まぁ俺が開眼して召命されて色々思うのは日本人が何気にすることが実はその教えは仏教にありました!とかっていうのと同じぐらい特に宗教を意識せずにただ倫理の規範というと堅苦しいけど善く生きるための思想というかさ、そこは日本人の平均的な考えとは異なるところが若干ありつつも別に普通に教会とか行ったりどっかに登録とかしてボランティア活動とかをしなくても信仰はできるし実践はできるんだよね。

 

ある意味財布が返ってくる国なんてのは倫理の基準が高いってことですよね。卑しくないわけですよっつってもまぁ日本特有のダメなところは腐るほどあるんだけどでもまぁそんな中で親切かどうかは分からないけど財布が自然に帰ってくるとかアメリカのバカな宅配業者みたいに荷物を庭に投げたりしないですよね(笑)アメリカってあらゆる点で野蛮ですよね。こんなのが普通に就職してやっていけるんだ!っていうぐらい不真面目で適当なやつが多いんだよね。でも日本ってまぁ堅苦しいっていうマイナス面もあるけど基本真面目だよね。荷物をちゃんと届けるというのはちゃんとやるじゃないですか?もうぶっちゃけその時点でアメリカよりキリスト教的なんだよね。自発的か強制的かはともかくとして最低限のモラルのレベルが高いんだよね。

 

だから人をだますのが当たり前とか財布落としたら自己管理しないやつが悪いわけで財布の中身を抜かれるのが当たり前とかっていうような思考回路になっている国とかに比べるとよっぽどキリスト教との相性が良いっていうかさ、その根本的な真面目さがキリスト教的な気がするんだよね。というかそれはキリスト教由来ではないんだけど無駄にキリスト教徒が多いわりに殺し合いとか事件ばっかが起こってるような国よりよっぽどキリスト教的っていうことなんだよね。

 

で、まぁさっきも書いたように神社に行ってなおかつお寺にも行って教会にも行くとかってのが普通に矛盾なくできちゃうわけですよ。そこがパリサイ的な戒律ガチガチの宗教じゃないからこそ実践しやすいっつーのかな?何よりまぁ宗教に共通して言えるかどうかはともかくとしてやっぱりテロスの一つとして善く生きるってのと魂の配慮をするっていうことですよね。そこはもう宗派とか宗教関係ない普遍的な真理でしょう。

 

言わば信仰ってのはその普遍的なそれがデフォになることはほぼ不可能でもそれが真理だと思えるっていうところなんだよね。だから神がいるいないってのは仏教において神がいるいないがあんまり重要じゃないのと一緒でそれはキリスト教にも言えるんだよね。神がいるいない関係なくジーザスというロゴスが体を張って残してくれた教えがあるわけじゃん?お釈迦様の経典とそういう意味で同じなわけですよ。

 

いや、それは大雑把に言えばっていうことだからね。厳密に言えばそりゃ違うところはいっぱいあるけど大枠で言えばそうなわけだしなんかまぁ俺がこないだポストモダン神学って書いたけどそれは脱構築をするとか相対化するとか科学化するとかっていうことじゃなしにどうすりゃいいのかわかんねーっつーポストモダン的状況における神学や宗教っていうことなんだよね。そこで俺は宗教ってのは世界的には宗教離れしてるんだけど何気に今後すげー重要になってくると思うんだよね。もはや理詰めでは無理だし断捨離だのミニマリストだのライフハックだの色々あるけど魂の救済ってのは何でも合理化するっつー思想からは生まれないからね。

 

そういう魂への配慮としての宗教とか別に宗教じゃなくてもそういう世界観ってのがすげー重要になるっていうかまぁもう重要なんだよね。それが。まぁオワコンシリーズで書いてた自分の世界を作るっていうことだよね。基本はやっぱそれなんだよね。ただそこで唯物論的になる必要はなくて宗教的観点ってのは世界形成をする上で凄く重要なものになるって思うんだよね。あとまぁ宗教リテラシーですよね。

 

ジーザスを交霊させたなんて言ってるR1グランプリの予選すらも通らないような笑えない交霊術をしてる教祖様とか聖書を書き換えて都合の良いマネタイズをしてるキリスト教もどきとか寄付させまくって超バブリーな300億する自分の教団の神殿を作っちゃう宗教とかまぁとんでもない宗教ってのがいっぱいありますよね。もしくはもうカルトと認定されてるのにそこに入っちゃうやつとかさ、まぁ別にそれは日本に限らないんだけど宗教っつーと目立つところはそこだよね。

 

胡散臭いカルトっていうイメージが強いんだけど真の宗教ってのはキリスト教も仏教もそうだけど基本哲学ありきのものだからね。まぁだから端的に言えばめっちゃ難しいんだけど勉強すれば凄く認識の上で生きていく上で価値のあるものというのを自分のものにできるわけなんだよね。だからまぁ宗教と哲学ってのは切っても切り離せない関係にあるっつーかまぁ誰が言ってたのか忘れたけど信仰無き哲学は空っぽで逆もまた然りで哲学が無い宗教ってのはただの盲目だっていうまぁつまりはそういう知性とか理性っていうところなんだよね。

 

でもそこで特に聖書に関してはなんでも理性に帰結させてしまうと重要なところを見逃がしちゃったりするわけだからなんでも理性で突き抜ければいいというわけでもないっていうのはまぁ仏教も同じだよね。すげー知的作業を必要するものなんだけどだからといって理詰めでいいか?っていうようなものでもないっていうね。まぁただここって潜在的にそもそもそいつの地頭にかかってるから真の意味で宗教の道で修行をしていくっていうのは難しいんだよね。だからまぁお手軽な寄付すれば救われますみたいなカルトとかさ、この集まりにくれば楽しいですよ!みたいな知性を微塵も感じない浅いカルトとかが流行ったりするんだけどそこでやっぱり真の宗教の価値ってもっと意識的になるべきだと思うんだよね。

 

そういう表層的な軽さではなくて存在そのものを見に受けるっていうまぁまさに受肉ですよね。そこで仏を目指すかジーザスを目指すかってのは目標が高すぎて大変でも毎日忙しいなりに実践できることはあるからね。そういう理詰めだったり合理主義だったり経済主義だったりするところに宗教的世界観とか宗教的な生き方とかってすげー良いカウンターになると思ってるんだよね。

 

んでまぁそれはなんでも科学に依拠させようとする科学寄りになった哲学へのカウンターでもあるんだよね。もちろん現代思想から見れば今さら宗教なんて後退もいいところだろって感じなんだけどでも宗教的気づきとかそれが仏教であれキリスト教であれいろんな形の啓示があると思うんだけど勉強したり理詰めで色々とやってるだけじゃ永遠と分からないものっていうところが宗教にあるわけなんだよね。そこに実はめちゃめちゃ大事なものがあるっていうことなんですよ。

 

仏教とキリスト教に共通して言えるのはそれをシリアスに実践すると薄っぺらい今の暗い世の中へのどう生きていくか?っていうある種の究極的なサヴァイヴ術を兼ね備えているっていうことなんだよね。それは資本主義的なまぁ資本主義はいいとしてまぁなんでも金っていうか貯金だなんだ金をセーブしてどうだっていうような、あとまぁネットとかにしてもアクセス数がどうだとかっていうまぁ薄っぺらいものに対するカウンターだよね。本当の意味で深いシュトラウス的に言えばesotericなものってのが宗教にあるわけなんだよね。

 

そういう意味で宗教のesotericな部分を学びつつ神道的な自然崇拝とか崇高で神聖なものへの畏怖を感じながら仏教の深い教えに感化されつつそのesotericな教えを体を持って体現するっていうキリスト的な生き方っていうのができなくもない日本の文化的基盤はすげーポテンシャルがあるんだよね。いつも書いててアメリカ行ったからこそ愛国者になった俺はよく言うのは日本の文化的基盤と過去からのヘリテージは凄まじいものがあるんだけどそんな中で宗教もハイブリッドで少なくともその対立で殺し合ったりするような国じゃないっつーのも宗教的基盤ってのを考えたときに凄まじく肥沃な大地だなって思うんだよね。

 

まぁ啓蒙的に言えばくだらないその場限りの自己啓発本を読むより仏教とかキリスト教に触れたほうがよっぽど自己啓発的な効果がありますよっていうことなんだよね。あえて精神性とか抜いたところでも結局功利的な意味でも仏教やキリスト教は凄まじく強力なんだよね。まぁもっとベタに言えばどの学校の先生も言うであろう古典を読みましょうっていうことに尽きるんだけどね。まぁでもそういうことなんですよ。ただまぁ読んだらすぐ心が晴れる!みたいなものではないんだよね当然ながら。長く考えながら実践をしていきつつ研究しながらやっていくと時間はかかるけど世俗的な意味での自己啓発的な効果ってのは下手なセミナーとか本よりよっぽどありますよっていうことなんだよね。

 

神学は虚学だとかまぁ哲学も虚学とかって言われたりするのかもしれないけど永遠と形而上学についてやってるならともかく、魂への配慮とか実存とかどう生きていくべきなのか?っていうところにヒントを与える可能性があるものとしては仮に自己啓発本とかが実学とされるなら神学も哲学も実学ですよね。むしろ俺にとっては最強の実学と言えるわけだ。よくここで書いてる価値観っていうことなんだけど客観的にその学問が実学なのか虚学なのか?ということではなくて長期的な目で見て結果的に実学になったっていうような主観的な価値が重要なんだよね。つまりはそれは人間についての学なわけでかといってもフォイエルバッハキリスト教ってのは人間学なんだっていうような意味ではない生きるための学としての神学とか宗教ってことなんだよね。あ、まぁあと哲学ね。

 

時代と共にインフラとかが変わって実学とされていた商業においての有用とされていた技術なんかが陳腐化されて一気に意味なくなるとかっていう賞味期限の短さとかを考えると普遍に立脚する学ってのは時代関係ないからね。当時は良かったけど今はそんなの通用しないっていうようなことがないからね。だからまぁ古典にせよ何千年も受け継がれてきたってのはその普遍性にあるわけだよね。だからこそはポストモダンニヒリズムとかシニシズムは分かるんだけどそこを通ってたりそこの沼から抜けられなかったりするからこその普遍への愛ってのが必要なんじゃないか?って思うよね。

 

普遍や真理への愛とエロスとするならそもそもその真理を渇望する愛というものは愛というのが常に神的属性にあるってことなんだよね。それはまぁ人間に見られる神の現れの一つなんだっていう理解だよね。表層的な愛ではなくて根源的な愛だよね。まぁそれって最もラディカルなものでしょ。そこを適当に左翼思想に結びつけるとその神的な現れである愛の力というスピノザ的倫理を持って人類が連帯して世界を変えていくっていうのがまぁざっくりとしたネグリの革命理論の一つだよね。愛というのはもちろん引きこもり的に真理への愛のみというのもありえるけど基本的にキリスト教が言う愛はそれだけじゃなくて隣人への愛ということでもあるわけで、そこで人間は元々政治的動物なわけだからその愛を軸に考えると他色々端折っていきなり結論から言うとそれが政治的なものに繋がるのもある意味で必然的だよね。

 

まぁ問題はそういった宗教なり思想でもいいんだけどそれが組織的になると組織的腐敗っていうのが出てきちゃうのと理念だけじゃ無理な部分ができるからそんなに簡単に革命とまではいかないでしょうっていうことになるんだけどまぁそれは組織論とかっつー別のジャンルなんだと思うんだけどただまぁ俺が言いたいのはそういった愛を神的属性とするような観点から導き出されるものというのが自然に哲学的な論理とか立場に繋がるっていうことなんだよね。無理に繋げるんじゃなくて必然的に繋がるんだよね。そこがまぁやっぱ俺がハマれるっていうか面白い!って思えるところなんだけどね。

 

まぁそんな感じで今日はこの辺で。