レコハン記。その16。

あけおめー!毎日DJやって楽しかったんだけど新年早々急に色々と虚しくなってきて(笑)ヤバいなーとか思いつつあれなんですよ、オーファベック全集なんだけどまずアマゾンで買ったやつがありがちな話なんだけど在庫が無いのかオーダー受けてからどっかから調達するつもりなのか分からんけどキャンセルになったんよね。まぁようは無いですってことなんだろうけど。

 

んでアメリカのアマゾンで格安で新品が出品されてて送料もなぜか9ドルで済むということでこりゃ最高だ!と思ってオーダーしたらまたキャンセルされましてね(笑)もう手に入らないじゃん!とか思いつつ色々と調べてたら「On the Christian Nature of Theology Today」っつーやつの翻訳がトロント大学のアーカイヴからダウンロードできてるんで読んでるんだけどやっぱ面白いね。業界から干されそうなことばっか書いてて痛快すぎるんだよね。

 

tspace.library.utoronto.ca

 

ただ予想以上に良かったからやっぱり全集っつーか主要な論文は全部読みたい!と思ったんだけど英語の翻訳は限られてるし前にも書いたけど研究本はドイツ語ばっかでドイツ語の単語の本読んでるんだけどちゃんと読めるようになるまでっつーか高度な神学書を読めるようになるまでって道のりが大変すぎるよね(笑)

 

まぁぶっちゃけオーファベックに失礼だけどここまでニッチじゃない場合、大体英訳あるからね。そこまでドイツ語やるメリットも無いんだよね。そこが悩みどころだわ。

 

ってことでディスクレビュー無しだけど続き貼るわ。

 

まぁこれってアンチカルトだよね。大川総裁みたいなのがある意味で自分はキリストの生まれ変わりでもあるとかって言うのはまぁ宗教芸人みたいなネタの領域だけど(笑)そういう変な奴がキリスト教のマッシュアップとかをしてリミックスとかをしたところでそれがキリストの名においてのみ為されてなければならないとするのはつまりは改変は無理ですってことを言ってるわけだからね。

 

そういう論理というのが明文化されない領域で他にもいっぱいあるわけなんだよね。バルトの護教というのはそういう意味で保守とは違う危機感から来る必要性に迫られた防衛と一時しのぎではない今後もヤバいことがキリスト教を乱用したような形で起こらないようにしておかなきゃいけない!っていう使命感があったと思うんだよね。そういう意味でマジで本当に使徒的人間よね。

 

使徒って使徒の間での教理とか意見とか解釈の相違はあっても使徒的であるってのは絶対的にキリストに服従しているっていうところと押し付けではないキリスト教を維持していったり守って行ったりするっていうミッションっていう使命感がある人間が使徒的人間なんだよね。神学校とかだと入学の条件に「召命されたと思って」っていう項目があるんだけど実際に使徒的人間であるかはともかくとしてもcallingがあったと確信してないと入れないっていうか学ぶ資格は得られないっていうことだよね。

 

まぁそれは別に厳しいものじゃないだろうし客観性なんてないからただ「召命されたと思っています」って言えば良かったりすればいいだけなんだけどさっきの数学科の話と似てるよね。数学科と違って屍を築かないにしても(笑)相当な覚悟が無いと無理ですよ?ってことを言ってるわけだからね。まぁそりゃそうだよね。神学校に入るなんて相当心に決めてないと無理でしょう。なんとなく専門でデザインを学ぶみたいなカジュアルさは無いわけでね。

 

ただあれなんだよね、可能世界的に考えたときに世界観的に唯一神だったらどの可能世界でも上に君臨するのが唯一神なわけでまぁそれは唯一神が多重に存在するということではなくて一個上のレベルにいるからその下に可能世界が広がっているっていうことだよね。

 

んでまぁその唯一神はともかくとしてキリストの受肉が面白いのは今のところ俺が考える感じだとジーザスがキリストなのはこの世界においてのみなんであって他の可能世界ではキリスト教が無い世界とかキリストが存在しない世界ってのがあるわけで、まぁなんか映画でビートルズが存在しない世界がどうのってのがあったけどまぁああいう感じっすね。

 

唯一神が救いと言われてもピンと来ないんだけどキリストが救いなのはなぜか?っていうとこの可能世界においてのみ受肉した存在だからだよね。まさにそれがインマヌエルというやつで神が顕在化しているある種の唯一の証拠ということになるんだよね。マトリックスの場合、どの可能世界でもネオが創造神っつーかアーキテクトに会いに来るようになってるけど恐らくリアルだとこの世界だけなんだと思うよね。もしくは居たとしてもナザレのイエスではなかったりイエスの時期に別の世界で居たとしても歴史に残らなかったとかね。

 

まぁそういう偶然が重なって磔になって伝承も使徒とか所謂福音記者達によって伝えられることとなったっていうところがまぁそれ自体が救いということだよね。そういう存在があって福音が伝えられているっていうところがポイントだよね。全く神話めいたようなまさに迷信みたいなのが元なんじゃなくて尾ひれをつけた話ってのは当然あるにしても迷信抜きで福音にその救いの根拠が求められるという原理にあると思うんだよね。

 

それはなんだろうね、独善的になり過ぎたらダメなんだけど例えば数学者っつーかまぁ数学の魅力って議論の余地なく依拠できる原理じゃん?数学って。ドクサとかが入らない純粋な世界よね。んでまぁ人文になるとそれは宗教やらイデオロギーになるんだけど本当に根源的でエッセンシャルな原始仏教とかローマの国教とかになる前の原始キリスト教とかにはその原理があるんだよね。ようはまぁ真理よね。

 

それを信じるか信じないか?っていうのがまぁようは信仰ってことになるんだけど科学とか数学はただの事実だから信仰にはならないんだけどまぁ皮肉っぽく科学信仰とか科学至上主義みたいなことは言われるけど人文に関してはイデア的な真理というのは結局信仰によってのみにしか得られないっていうかそれは人間が神と違って有限な存在だから少なくとも今の世界のレベルでは一人の人間が知れる情報の範囲というのは限られているからその限られた中で「でもこれでしょう」っていうところに帰依するっていうことだよね。

 

まぁ一生懐疑論を張ることもできるし俺なんかはずーっとそんな感じだったけど後世によって政治利用するために都合よく解釈されたような福音とかは別として本当に原理的なキリストの言葉よね。仏教で言えばブッダの言葉だよね。宗教学とかの本を読んでると色々宗教はあれど根底では通底するものがあるっていうのをよく見かけるけどそれはマジでそうだよね。言わばレペゼンの違いっていうかさ、まぁこのレペゼンってヒップホップ用語なんじゃなくて顕在化って意味なんだけど(笑)

 

色んな所にレペゼンされてるしそれは聖書とか仏教の教典以外のところでもレペゼンされてるんだけど「あーレペゼンされてんな」って気がつくには啓示なり仏教で言えば悟りが必要だったりね、それをどう知るのか?っていうのはまぁ色々とあると思うんだけど原理があるってのはポストモダン云々以前にニーチェの時代とかにすでにヨーロッパには相対主義的なニヒリズムが蔓延してたわけでそういうニヒリズムへの究極的なカウンターに成りえるんだよね。

 

でもそれはカウンターに成りえるからあなたも勉強しましょう!ってことにはならなくてそこは個人のほとんど偶然とも言えるようなものがあって気がつくことができたっていうだけでその召命のメカニズムってのは分からないんだけどただまぁ開眼した!なんつってこれが真理だ!ってことにはならなくて自分が探しているのと近いものを感じるけど常にそれには懐疑的でいるということだよね。まぁ哲学的態度とでも言うのかな。

 

真理だ!って思いこみたい場合、それは原理を求めようとする弱い心なわけで原理を見つけて不安を解消したいとかそういう心の状態にある中で藁をもすがる思いっていう感じのだと理知性が無いでしょ。まぁ不幸のどん底とかで新興宗教とかがそういう状態にある人を謎の情報網を元に付け込んできたりするのってそういうところだと思うんだけど思うに宗教は戦争とかなんとかロクなものしかこの世に持ち込んでないってのは相変わらずその通りだと思うんだけどまぁこれってようは異端がっていうところだよね。

 

ただそれはバチカンお墨付きとかそういうことなのではなくてキリスト教だったらキリストの思想から逸れたものってのは全部異端でしょう。そうするとまさにキルケゴールが言うようにリアルなキリスト教なんてこの世にないわけでね、まぁそれが世俗的な宗教の限界でもあるんだけどただそういうものが戦争を起こしてきたりキリスト教にしても十字軍だのなんだのって現代にも繋がるような因縁深い話ってのがいっぱいあるわけでさ、でもそれって本当に原始から逸れたものばっかなんだよね。

 

魔女狩りだの異端狩りだのってのがどうやって人を殺すベクトルゼロのキリストが教祖というか神が受肉した救い主であるとされるものから生まれるのか?っていうことだよね。なんで十字軍とかであんな凄惨な虐殺が起こるのか?っていうところだよね。その逸れる過程というのは大体わかってるけどもっと知りたいなっていう風にはなってるよね。

 

ただまぁ現代のキリスト教はアメリカの福音主義みたいな実質のカルトは別として宗教会議ってのがちゃんとあってこれが正当な教義ですっていう風な規定があるからいいよね。

 

まぁそれは昔からあるっつっちゃーあるんだけどイスラムの過激派とかがなんでそれこそキリスト教みたいに異端扱いされて問題視されないのか?ってまぁ問題視されてないわけじゃないんだろうけどキリスト教みたいな会議が無いっつーところも問題みたいね。

 

まぁ世俗的な宗教でもやっぱりまぁある程度の行き過ぎないための正統の規定って必要よね。だからまぁそういう意味でっつーとあれなんだけど駅前でエホバが立ってたりすると以前はなんとも思わなかったんだけどキリスト者になるために邁進して爆裂している俺としては凄まじく許せなく感じられるようになるんだよね。

 

ああいうキリスト教っつー枠組みを使って勝手に変なことをやってるっつーのはまぁカルト認定されてるからいいにしても逆にまぁカルト認定されてるのになんでそれだったらカトリックとかプロテスタントにならんのだろうな?っつーのがまぁエホバの独特の勧誘とかなんだろうけどこういうのも昔だったらキリスト教の一派と勘違いして入っちゃう人とかもいたんだろうけど今はググれば一発だもんね。

 

んですさまじいカルトでしたっつー話が出版されてたりカルト認定されてるわけだから分かりそうなものなんだけどなぜかまぁ信者ってのはいるんだよねっていうことを言いだすとアレなんだけど一番ムカつくのは「無料の聖書勉強会」とかっつー看板を立ててることなんだよね。

 

ってことで続きますんで今年もよろしく。