レコハン記。ファイナル。

レコハン記もいよいよファイナルですわ。分けると二か月持つってことを知ったんで(笑)今後は積極的に分けて行こうかなとか思いつつ書きたいことを書き尽くした感があるんで今後のネタが心配ですな。

 

あ、んであれなんだわ、タレブの新刊出ててさ、買ったんだけど面白いんだよねっていうかまさに俺が言ってる「身銭を切れ!」っていうそのまんまな感じでまぁ現状維持って結局現状維持になってないからね。維持したければ上昇志向を持たないといけないわけで上昇志向を持つか持たないか?って話じゃないんだよね。サバイヴしたければ身銭を切れ!って話なんすよね。

身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

身銭を切れ 「リスクを生きる」人だけが知っている人生の本質

 

 まぁタレブが書く必然性ってそこまでなくて(笑)んでもまぁ面白いからいいかっていう感じなんだけどあとまぁ職人が作品に魂を込める!みたいな話も書いてあって俺の思考とのシンクロ率高すぎなんだよね。こうすれば効率化できる!とか合理的!とかっていうところに魂を売らないっていうね、デザイナーさんとか職人さんの魂がこもったものに金を出すって俺が言ってるのとまさに同じなんすよね。

 

ってことで身銭をさらに切ろう!と思ってAcidlabのBassline注文しましたね。五回払いだけど(笑)なんかさ、今アシッド!っつーときに今は買えないから3月ぐらいに買う!ってその先延ばしが動機づけとかに影響するかも・・・って考えると相当無駄な待ち時間ってことになるよね。タンテはぶっちゃけピッチが8以上変えられるか変えられないか?って話で今でもできるからいいんだけどアシッドに関してはいくらソフトで代替できると言っても音が違い過ぎるからね。音が良い悪いじゃなくてもうニュアンスが違うというね。

 

仮にこの先作り続けて飽きたとしてもやろう!と思ったときに道具揃えて全力で作ったっていう経験は残るからね。あとまぁ逆にそれこそ身銭を切って道具をそろえた場合、高かったから簡単に辞めるわけにはいかない!っつーところも出てくるから長期的な視野で見るとまぁまさに自己投資ですよね。

 

やりたいときにすぐやる!っていうのはまさに鉄は熱いうちに打て!って話なわけでそこを金銭がどうの・・・っつー理由で躊躇すると金銭云々以上の損失が出るかもしれないわけだよね。それを考えるとやる!って思ったらやっちゃったほうがいいんだよね。

 

ってことで新作貼るわ。

 

soundcloud.com

 

んでまぁ本編のラストね。

 

結局世俗的な宗教の役割ってニーチェが言うような弱者のカタルシスというかさ、どうにもならないリアルがあるから精神保つために何かにすがりたいとかね、アイリッシュマンの最後の方でデニーロ扮する主人公とかジョーペシ扮する名前忘れたけどファミリーのボスもご都合主義的に死ぬ間際になると急に神とか言い出すわけじゃん?あの辺のアイロニーとかさすが子供の頃にカトリックの司祭になろうと思ってただけあるなっていうね、あ、スコセッシね。

 

あ、この人すんげー宗教の理解深いなって分かるもんね。それが神は最高だ!みたいなモチーフじゃなくて全体から見れば一部に過ぎない宗教的モチーフを見たときにその断片で深さが出るんだよね。

 

そういう意味で今年ハマりまくって集めたブルーレイのキリスト教関係の映画なんかも当然レベルが高いのばっかりで世俗的宗教観丸出しの映画なんて全く無いよね。むしろニヒリズムとスレスレの近さと親和性があるっていうね、下手すると自殺するんじゃないか?ってぐらいの危うさとか絶望の深さよね。

 

その深淵を通り過ぎたところに神的な絶対的な光とリンクするものがあるんだよね。だからそこでやっぱりキルケゴールが言う宗教的経験は主観的だっていう当然の命題もまぁ前も書いたかもしれないけどオワコンシリーズで到達したどんだけ客観性だのなんだのって言ってもそれは主観性における客観性という概念なんであって人間である限り主観性からは逃れられないんだよね。むしろそこを突破するというのがエックハルトだったり禅的な無だったりするんだよね。

 

決してはそれは神サイコー!みたいな世俗的なものではないよね。ただまぁ俺は信心深いからいつも書くけど鎌倉へのお参りはかかさないし神道的なものってのはガチだからね。まぁそれは日本人だからってのもあるんだけど根本的に信心深いんだよね。んでそのベクトルがっていうかキリスト教の俗っぽさは世俗化された結果なんであってそれは大いなる誤解であったってのが分かってからそれがキリスト教に向かうようになったというところだよね。前もエキュメニカル参拝とかって書いたけど全く神道とキリスト教って矛盾しないからね。

 

ただまぁ悔い改めって一般的な意味じゃなくて個人的に悔い改めなければ!っていうところがいっぱいあってまぁこんなナイーヴな性格では世の中でやっていけない!といってもそのナイーヴさというのが神へのベクトルになればそれって敬虔さってことだからね。世俗ではやっていけないか前に書いたようにハイパーセンシティヴ過ぎてバッドなヴァイブスを発してるやつとちょっと接しただけで気分が悪くなってしまうぐらいナイーヴなんだけどでもそれは別な言い方をすれば純粋ということでだから高潔さを保つというのは悪いことじゃないんだなって思ったんだよね。

 

それでも世の中でやっていかなきゃいけない!っつって俗っぽくなる必要は全くなくて生まれついたこの素質でやっていけるようにすればいいんだし世の中邪悪なものだらけだという認識も間違ってないわけでだから人間にはモラルが必要なんだっていう当然の帰結にもなるんだわな。

 

でも邪悪な人間が多いからこそ善い人間ってレアだから出会えたりすれば凄くそれ自体が素敵なことになるよね。邪悪な人間が多いというだけで人嫌いになる必要は無くてまぁ昔の俺みたいに警戒が無さ過ぎると色々とカモられたりするんだけど(笑)嫌な経験とかを一般化しちゃいけないんだよね。仮に善い人間が1割だとしても1割いることに希望を持たないとダメだわ。

 

そこで俺はなんでこんなに長年「善くある」ということにこだわりつづけてきたのか?っていうと色々と理屈はあるんだけどやっぱりまぁそれってキリスト教へのフラグというかさ、まぁ元々そうだったんだろうなって思うんだよね。知らなかっただけでそうだったんだよね。

 

何しろ突き動かされる元というのがある意味不明だったからね。まぁ凄く邪悪さを憎むとか昔は暗殺だテロだって物騒なことばっか書いてたけど(笑)そういうのもまぁ正義感というとこれまたナイーヴなんだけど悪は絶対許せない!っていう内発的な説明できない何かってのがあるからなんだよね。

 

それがつまりは神へと向かう純化された衝動っていうまぁ神の部分をエロスにすればそのままプラトン哲学だけどまぁ結局そこなんだよね。あとまぁ真理を渇望するのと常に精神が乾いているからその渇きを満たすようなものを常に求め続けるということだよね。それが哲学だったり数学だったりしたんだけど今はそれが神学になっててただまぁ護教的なくだらない神学じゃなくて真理を求める学としての神学だよね。まぁフッサールの厳密な学としての哲学と全くコンセプトは同じだわ。

 

ただ結局キルケゴールとかフッサールとか近代哲学のコアを成すようなものってのがヘリテージされて実存的神学とかね、ブルトマンとかもモロにそうなわけでしょ?これは凄く現代的で近代的な神学ということになるよねっつってもまぁ年代的に実存哲学とかと同じぐらいだから相当古いんだけどね(笑)ただその立脚点が実存だったかはともかくとして例の上智の中世神学シリーズなんかを読んでても護教的というよりかはひたすら真理を求める僧侶とかさ、純粋なものを求めるベクトルっていうのかね?なんかそういうのに凄く自分が共鳴するんだよね。

 

だからまぁ自分のレゾンデトール的なものは暴力革命とかじゃなくてアガペーによる無血革命なんだなって思ってるんだよね。ほぼ周りに味方はいない!とかって思えてもキリストという原理があるからいくらでも戦えるでしょう。逆にそこの原理が揺らぐといつでも堕落する可能性があるんだけどまぁ自分は絶対正しい!みたいな偏屈な感じになっちゃいけないんだけど譲れない真理ってのはあるじゃん?全ての真理ではなくてそれは全てを超越して真ですよねっていうところは譲れないっていうところだよね。そこを社会的だったり世俗的なことで妥協しないということだよね。

 

結局そこで妥協をしてしまったら口では神への献身だの敬虔さってのをいくら言ってても生活の中でそれが矛盾しまくっているっていう支離滅裂なことになるからね。まぁ逆にそこが一貫してるやつは世間的には変人扱いされるんだけど俺に言わせれば変人扱いしてくるやつらのほうがよっぽど支離滅裂な変な奴らだと思うんだよね。場面によって言うことがコロコロ変わったり信念があるようでなかったり平気で嘘をついたりまぁそれ言い出したらキリないけどね。

 

ただまぁ俺は聖人君子ではないですよ(笑)なりたいとは思うけどやっぱり精神的に未熟な面があり過ぎてそれには程遠いんだけどキリスト者として生きるということで研磨されるような感覚とか感性とかってあると思うからそこは修養的な面も含めての学問なんだよね。そういう生き方とか生活とか人生観みたいなのとダイレクトに繋がっていくものだよね。そういう神学を俺はやりたいよねっていうかもうやってると思うんだけど。

 

ってことでまぁ長かったレコハン記も終わりな感じですわ。まぁ今後もなんかそりゃもちろん書いていくんでんじゃまたそれは次回にってことでんじゃまた。