太極拳徒然。

さすがにアシッドもネタが切れてきたでござる(笑)プラスチックマン系・シカゴ系・ゲットー系・・・って感じで色々やって今はデトロイトっぽい感じの壮大な感じにアシッドが絡むようなのを作ってるけど思いのほかすぐ出来ちゃって才能って怖いなーと思いつつ(笑)半分冗談ですけどね、ただまぁアシッドで何十年もやってるとかすげーなって思うよね。

 

アシッドの音には飽きてなくてっていうか飽きるわけがないんだけど作る曲がマンネリ化してくるっていう感じになってきてるのとアシッド系のレコードとかBeatportでトラック聴いてもあんまり感動しなくなってきたね。そりゃこんだけアシッド聴きまくってればしょうがないんだけどある意味での最良のものってのがあってやっぱりそれを超えるのってのが無いし無くていいんだけどね。

 

まぁそんだけ出尽くしてるから「こんなのがあったのか!」っていう発見はたまにあるにしても大半は聴き慣れたトラックって感じになっちゃうからだからまぁ良い意味で飽和状態にあるよね。そこでまぁ自分が買いたくなるようなトラックを作れるか?っていうところなわけだよね。

 

あとまぁ曲作ってそれ以外は読書かゲームか・・・みたいなサイクルもだんだん詰んでくるよね。毎回面白い曲ができればいいんだけど今は曲が出来上がったときの感動があんまり無くなってきてるから作ってる曲が退屈だとは思わないんだけどまぁいつもの色々と慣れて刺激が足りないモードになっちゃうわけなんだよね。

 

まぁそんな中で気功の流れから始めた太極拳がどんどん面白くなってきていて、本当は危険な打撃とか関節技とかを知りたいんだけど(笑)当然最初は基本功でまぁ結局これに尽きるなっていう感じになってきてるよね。技って概念もその動きがそう呼ばれているというだけで太極拳的な力の出し方とか体捌きが身についてれば危険な技ですみたいな感じで教わらなくてもヤバいから口には出さないけどこれやったら危ないよねってのは分かってくるんだよね。

 

今教わってるガチの先生はそういう物騒なのとか打撃があんまり好きじゃないっていうか先生のフィロソフィーが打撃より相手をコントロールしたほうが結果的に打撃より強いっていう感じなんで「なるほどな!」っていうのがあるんだよね。究極の威力を求めて!っつってもそれは技というよりかは相手のボディががら空きになるようにコントロールするとか無力化するっつー話で無力化した後に脊髄を狙おうが首を折ろうが勝手なわけじゃん?でもそんな危険な技は教えてないし教えてるところもないから「教わりたい!」って思ってる俺みたいなヤバいもの好きの輩は諦めたほうがいいね。

 

でもまぁ分かるようになるんだよね。まだ全然稽古数回しか行ってないけど「あーこれすんげーやべーやつだな」ってヤバいことを教わってるわけじゃないんだけど力の伝わり方とかがヤバかったりするから特に技っつーよりかは常にその武術的なヤバい動きが出来ればそれがある意味で技だし武器なわけだから手をこうやっていれて・・・とかそういうことじゃないんだなっていうのが分かったよね。

 

強い打撃っつー概念がそもそも現代的な概念で格闘っつーと格闘技がデフォだからボクシングにも負けない突き!とかさ、そういうのを考えがちなんだけど相手がどんなスタイルであれこっちの太極スタイルを崩さないで間合いに入れれば後は物騒だから色々言えないけどまぁオッケーなんだろうなっていうね、ただまぁそれは練習できないし再現もできないからね。何より死ぬわけだから(笑)あとスパーリングして使うような類のものでもないわけでって俺は基本功の段階だから全くそういうのは習ってないし今後も習わないかもしれないけどそれでいいんだろうなという気がしてきてるんだよね。

 

ヤバい武術の力の入れ方とか体裁きが武器っていうこれに尽きるよね。ただ使ったから必ずケガして刑務所行きになるから使わないし使えないっていうまぁそれは別にどんな格闘技でもストリートファイトのために使う!なんてことはこの時世ないだろうしそこで格闘技じゃなくて武術になっちゃうと相手にダメージを与えるんじゃなくて殺傷になっちゃうから喧嘩で刃物を使うもんなんだなっていう感じよね。

 

強い強くないじゃなくて刃物を使ったらダメでしょうっていうことだよね。でもその使い方ってのをあからさまに教えてるところはないから色んな動作から察しろっつー話なんだよね。例えばこの崩れたときに引くという動作があって練習でやるのは腕だけど首に入れたら脊髄行くからヤバ過ぎるってことなわけでそれが腕なのか首なのか?っつー話なんだよね。だからまぁすげー現代の総合ルールとかの格闘技だと不利だよねっていうか格闘技で刃物を使わないのと一緒で格闘技というルールの中でやれるものじゃないしやろうと思ったら使い物にならない技が圧倒的に多くなるから総合用にアレンジするしかないってことになると別に太極拳とか中国武術である必要がなくなるんだよね。空手とかキックやったほうがよっぽどいいわけよ。

 

イエスの口癖みたいになるけど、まずあなた方に行っておくけど(笑)この先色々やって行く中で発見があってこりゃヤバい!ってのがあってもそういうのは当然モラルの面から一切書かないんで期待しないでって期待なんてされてないだろうけど恐らく武術をやる上での不文律なんだと思うんだよね。教えてるところもあるかもしれないけどこれやったら相手は死にますってのを普通に教えてるってこと自体が異常なわけでそれは恐らく現代では成り立たないよね。

 

戦前の中国みたいな馬賊とかがいて身を守る必要がある時代とかだったら教えてたかもしれないけど法治国家になった状態で確実に人が死ぬ方法なんて教えるわけないよね。でもどんな武術でもそれを教わらなくても基本をやっていれば筋がいい人なら分かって来ちゃうっつーものだと思うよね。まぁこんなんじゃ腕折るのに力もいらないなっていうヤバさとか組み方ってあるわけじゃん?そこで腕折ったらアウトなんですよ。

 

でもまぁそういうもんだからっていうのを利用して大して強くなかったり実際に使えないような人間がカンフーマスターみたいに振る舞って教祖様みたいになって宗教っぽくなってるってのはどこの国でもあるよね(笑)「ヤバいから使えないのだ」ってのは最大のエクスキューズよね。

 

あとまぁ先生の行間を読み取るとかね。例えば全く今行ってる稽古では打撃とかやらないんだけど俺は打撃の質問ばっかするんだけど(笑)単純に打撃をする際に手がある程度出来上がってないと骨折したり痛くてあんまり攻撃できないってことになるから鉄砂掌的な鍛錬は必要なんでしょうか?って質問したんだけど先生は「うちではそんなのやらない」っていつも言うんだけどそれは必要ないからなんだよね。まぁようはこれの行間は何か?っていうと例えば金的みたいにこっちの手が鋼じゃなくても軽く突いただけで凄まじい威力を発揮できるような場所にしか攻撃しないからそんなの必要ないしそれをやる暇があったら基本功をやったほうがいいっていう思想なんだよね。極めて内家拳的とも言えるけど先生の哲学でもあるんだろうなとは思ったけどね。

 

別に手が硬いに越したことは無いけど手の硬さをそのまま威力にするようなものはやらないっていうことだよね。やりたいなら他行きなさいって話なわけね。なんかだから柔らかさとか脱力ってヤバいよ。マジで(笑)

 

格闘っつーとアニメとかゲームとか格闘技とかのイメージで手足を鋼鉄のようにするとか死ぬほど筋肉を鍛えるとかっていうイメージがあってもっぱら力とかフィジカルじゃん?先生もそれは否定してないんだけどね。当然そりゃそれを極めたら強いけどうちはそうではないというだけの話というのをよくするよね。その結果、内容は書かないけど練習がもっぱら「これで強くなるのか?」っていうゆっくりな基本功になったりするんだよね。でもこれが一番ヤバいなっていう確信を得たよね。それは体験入学のときにフィジカルパワーに依らない所謂勁のヤバさってのを体感したからなんだけどね。

 

でもそれってどうやるの?ってことじゃなくてすんげー繊細な動きとか体の使い方とか練習をして使えるようになるもんなんであってどうやるっていうのが書いてあるところで全くそれは使い物にならないんだよね。ここがまぁ本当に使える人からのレッスンと文字にならないようなニュアンスの部分と・・・ってことになるんだよね。だからまぁ発勁の本なんてのがあっても全く役に立たないんだよね。

 

まぁそれは武術全般そうだよね。別に格闘技でも同じだわ。ボクシングの本を読んでマイクタイソンを倒せるのか?って倒せるわけないし知識通りに体が動くか?なんて全く別問題だから知識だけじゃ何にもならないんだよね。ただまぁやった気になれるってのはあるんだけど(笑)プロの目と指導が無いと全く意味ないよね。まさに形だけってやつだわ。

 

そういう意味では腕を鋼鉄化して腕力で殴るってのはテクがいらないとは言わないけど自主練しやすいよね。まぁだからそれは好みってことになるよね。そういう体を痛めつける練習が好きでやってる感が好きならそれが向いてるってことだし、俺は体を痛めつけるのも好きだけど非日常的な身体の使い方というのに興奮するから太極拳は最高に知識欲を満たせるしずーっとやっていられるぐらいだからまぁ向いてるんだと思うよね。ホントにだから好みよね。

 

あとまぁ対峙したときにどっちが強いか?ってのも結構ナンセンスではあるよね。格闘技の場合、「ファイ!」で始まるけど武術の場合、例えばバッグをひったくられそうになったっつーところからバッグを取られまいとする動きというのにそこでパニックになってなかったら太極拳とか柔術の熟練者は素人が思いもよらない動きとか力の入れ方をしてそれで阻止したり逆に相手を抑えられたりとかっていうような武術って「ファイ!」で始まるわけじゃないんだよね。

 

そこで色々な場面を想定した型ってのがあるんだけど実際に起こることがその型通りに起こるわけじゃないから型もできるんだけどその武術の動きを自在に使えることで臨機応変にどんな状況にでも対応できるっていうところだよね。

 

だからそこで先生が面白い話をしてくれて日本か中国か分からないけど黒社会の人間の護衛とかをしてるレベルのガチの人たちが飲み屋で武術談義をしてて何流が強い弱いとかって話をしてるときにビール瓶が落ちちゃってそこで一人が「今は何流で瓶が落ちたんだ?」って言ったっつー話があるんだよね。まるで映画のワンシーンのようだけど突き詰めるとそういうことになるってことよね。

 

体っていう人間の原理と物理世界っていう物理学的な決まり事がある中で例えば腕を決めましたとかパンチをしましたっつってそれが何流か?なんてどうでもいい話だっつーことなんだよね。それはビール瓶が落ちるのと同じ物理法則における現象だから唯名論みたいになっちゃうってことだよね。ただそこで言えるのはそれが西洋的な体を鍛えて腕力でなんとかするタイプのパンチなのか、基本功で作った体で発する勁によるパンチなのか?っつーところでどっちが強いか?なんてぶっちゃけもうそれは個人差としか言いようがないよね。

 

バケモンみたいな腕力と腕周りの硬さを持ってたらそりゃ西洋式っつーかパワーで圧倒するほうが強いだろうし、でもそこで小柄な人でもワンチャンあるのがヤバい場所しか狙わない勁による打撃なんであって決まるか決まらないかは別としてバケモンみたいな腕力と腕周りの硬さがある超人ハルクみたいなやつでも完璧な勁により発せられたパンチが金的にヒットしたらもうそれで「ジ・エンド」よね。

 

でもそれって運もあるわけだし腕振り回してるだけで強かったら巨人みたいなやつが腕力でブンブンやってるのが結局は強いってことにもなるけど勁による突きが金的に決まったら腕力とか体格差とか関係なくなるよねっていうところだよね。別に勁が無くても金的決まったらアウトだわな(笑)

 

ただまぁ人間が鍛えられない弱いところを狙うってのは極めて合理的だよね。武術的には当たり前なんだろうね。何しろ命がかかってるわけだからね。その辺の命がかかってるっていうところにアツいものを感じるってのが俺が居合に没頭したりする理由の一つだったりもするよねってこれはめっちゃやってたときに散々書いたと思うけどね。

 

そういう先人が生き死にのやり取りをした上で体系化したものとか技として残っている動きとかって俺が哲学みたいな知的創作物って言って良いのか分からないけど一人の人間が凄まじい労力と頭を使って生み出したものに凄まじい価値を感じるのと同じで武術って崇高で貴いものだよね。そういう高貴さが好きなんだよね。強い弱いっていう世界ではない生き死にの世界ね。

 

なんつーか例えば居合でも相手が剣術の達人でも虚を突くじゃないけど全く戦闘を想定してなかった状況で居合切りされたら防げないよね。逆に抜刀して正眼で戦ったら剣術の達人の方が強いかもしれないけど不意の居合切りなんて防げるわけがないわけでさ、もうなんかこの世界観って現代格闘技とかと全然違うじゃん?ファイ!で始まってないし状況がトートロジーみたいになるけどsituationalだよね。そういうsituationalなものでいかに本来の動きをして最大限の威力を出せるか?っていうところに尽きるわけでこれまた何が強い弱いってことじゃないってところだよね。

 

なんかまぁそんな感じで太極拳を中心とした中国武術に興味が相当いっててそれが今は一番楽しいですね。ただまぁ稽古は週一しかないから空いてる間は基本功の自主練と読書って感じなんだけど気功は気功で本を読んでるから結構ボリューミーなんだよね。永遠に終わらない神学ほどじゃないにしても(笑)神学は全然やってねーな。バルトとかに失望したってのも大きいけど結局西洋哲学的な言葉のゲームに終始しちゃう感じと護教に走ってるやつらが多いから読む価値が無いようなのが多くて結局必要なのってイエスの言葉とイエスを真似て地の塩になるっていう実践に尽きるんだよね。キリスト的に生きるということが一番重要っていう意味で逆に生活と思想が乖離してないタオイズムとかに近い感じがするよね。

 

太極拳繋がりでタオイズムの本とか昔読んでたのを引っ張り出して読んでるけど思想と実践が結びついてて日常と乖離してないっていうところが今の自分に一番響くね。そういう意味で形而上学とかは本当にどうでもいいし実存もあんま考えてもしょうがないなっつーところがあってむしろ禅的に今のことにフォーカスしきる!っていうところが重要だなって思ったりもするよね。無駄に色々考えるから病むんであって目の前のことにフォーカスして最大限のパフォーマンスを目指すってことができればそれが一番いいんじゃないか?って思ってるよね。

 

そういう意味で太極拳の基本功やら気功は今の俺にぴったりなんだよね。思想的にもすぐ実践に繋がるってところもそうだし病み勝ちなメンタルへの特効薬だし気功はぶっちゃけ向き不向きがあると思うけど向いてればこれほどのメンタル特効薬はないですよね。んで太極拳やってるときも気功的な気感と練功というのを意識してやるとっていうかまぁデフォはセットなんだけど一緒にやると難しすぎるから太極拳で一緒に気功もやるっていうのはなかなかないかもしれないけど俺は両方に恵まれたから色々できるわけよね。

 

だからまぁ基本功が直に練功になるし気を大きくする日々の鍛錬になってるし太極拳の上達にもなるっていう、ただそれを思想的に言うとタオイズムに尽きるんだよね。別に思想とかなくてもいいんだけど思想好きとしてはそこに思想があるからより楽しいよね。

 

まぁそんな感じですかね。んじゃまた。