ほどほどに孤独。その10。

続きますんでっつってストックがあるかと思ってたら無いから続き書いてないんだけど何を書こうとしてたのやら(笑)

 

まぁいいや。アレだわ、俺の心の愛人であるシモーヌ・ヴェイユの著作集を買ったんだけど断片的に持ってたやつと被るんだけど単品で買うと中古価格が割高だったからセットで買った方がいいかなと思って買って早速読んでるっつーか何冊同時進行なのか分からなくなってきたけど(笑)俺が思うキリスト教というよりキリスト的なものの有用性ってのを体現してる人がシモーヌだよね。

 

まぁあと他にエックハルトとかもいるけど所謂、異端とか普通のキリスト教では扱えないような人たちが実際の社会に有用っていうまぁようは聖書無謬説とか聖書のファンダメンタルな部分から逸れるようなものはダメだっていうような結論ありきのキリスト教的教えに何にも意味がないということなわけで、とりわけシモーヌが好きなのはっていうか僭越ながら言わせてもらうと俺が思うキリスト教観にもっとも近い人なんだよね。

 

ユダヤ人なんだけど旧約聖書は一部を除いて一切認めてなくてようはパリサイ的な律法主義みたいなのを徹底的に批判しているっていうところとかね、何しろキリスト教が難しいのは一般読者としてキリスト教を勉強しようとするときに旧約と新約は全く関係ないものなのにも関わらず繋がりがあるというような、もっと他にも暗黙のルールって山ほどあるんだけどそれが全部肯定されているっていう前提に立った著者が書いた本とかってのはようは学問的ではない護教的なドグマティックなものを学問的体裁にしているだけのカルトとしてのキリスト教だから違和感ある人は当然入っていけないしその教義をすんなり受け入れられる人はちょっとヤバいってことになるんだよね。

 

例のくだらない神義論入門を読み終えたけど内容は今までにあった神義論のただの批評で本人が悪を神学してるのか?っつーとまったくそんなセクションは無くて実にくだらない本だったっつーのもさ、神への信仰が揺らぐとか神義論の考え方が例えば息子のショッキングな死によって変わったとかっつー話とかもこの本だったか忘れたけどまぁそういうのってあるじゃん?あとまぁ311的な災害で信仰が揺るぐとかさ、それってもう暗黙かどうか分からないけどユダヤ的な人間に語り掛けるなんか人間なり世界に対しての力を持ってる神っつーのが前提になってるんだけどさ。

 

でもその揺らぐって意味がさっぱり分からなくて思えばもう20年以上も前からネットにグロ画像が出回るとかその前からもジャンクみたいなグロいビデオが好きというよりリアリティを知ることが好きだったんでそういうのをよく見てたりあと快楽殺人とかカルトの事件とかの本とかも読んでたりしたんだけど揺らぐってやつらって想像力無さ過ぎじゃない?って思うんだよね。

 

ホロコースト以前の以降の神学は意味合いが変わるっつってもそれってホロコーストが人類史の中で現代において一番鮮明な恐ろしいものだったっていうだけで大量虐殺って歴史的に色々あったわけじゃん?だから以前も以降もなくて人間ってああいうことをするもんなんだよね。だからデフォで神も仏も無いわけで少なくとも人間の倫理を司るような神なんているわけないってのは明白じゃん?

 

それでもなんだっけな?苦しみは人間にとって必要だからそれは神が人間の成長のために与えたもんだとかっていうくだらない論法とかもあるんだけどそんな神がいたとすれば凄まじいマゾヒストだよねってこれは昔から書いてると思うんだけど人間を成長させるために津波を起こしたりホロコーストとか戦争が起こったり自爆テロが起こったりってまぁ旧約的な神ならやりそうだし実際に旧約の神ってそういうことをやってるから言われれば確かにそうだけどそんな神を崇める必要ありますか?ってことだよね。

 

でもいるってことを大前提にしないといけないから詭弁が永遠と続くんだけどでもまぁ神といっても唯一神的なのはいないと思うけど神的なものはあると思ってますよ。まぁ例えばそこの山にいる神様とかまぁ神道的な考えかもしれないけど一つじゃなくてまぁ属性よね。あとはまぁ聖なるものとかさ、それは別に唯物論者みたいな俺でもまぁある意味観念論者でもあるんだけど否定しないどころかそれはあるわけだよね。でもそれがなんなのかは分からないんだけど追い続けるわけだよね。

 

まぁシモーヌもそんな感じっていうと大雑把だけど(笑)教会で洗礼を受けなかったのも教会が社会的な組織だからっつー理由でまぁようは教会が過去からやってきた魔女狩りだ異端の静粛だ十字軍だってまぁ悪の枢軸だったわけでそういうセクトみたいになってるものに属すると自分も影響を受けやすい人間だから教会の思想に染まってしまうかもしれないなんてシモーヌは書いてたけど何気に凄まじい教会批判だよね。

 

よくカルトを追ったドキュメンタリーとかで異様な内情が暴露されてたりするけどカトリックとかプロテスタントはどうなのか分からないけど別にカルトじゃない教会でも起こってるわけだしカルトではないといっても知能が猿程度のやつらが信奉する世俗化されたキリスト教ってのはジーザス・キャンプみたいなアメリカ教とも言えるようなめちゃめちゃなキリスト教とかが蔓延ってるわけで、世俗化ってそういうことだしキリスト教ほどひどくないにしても仏教だって分派っつって色々なセクトになってて中には危険なところもあるわけで一つの思想から勝手に人間が作り出したものってのが上書きされて色んなもんが生まれるわけよね。

 

だからまぁそういう歴史の手あかがついてないキリスト教ってのがあるわけでドグマティックではあるんだけどまだそこまで世俗化されてない感じがする中世のキリスト教思想とかはやっぱり共感したり得られるものが多いよね。まぁ中世なんで旧約と新約をごっちゃにしてるとかメタ批評的な観点が無いとかって問題はいくらでもあるんだけど仏教で言うところの仏教が元の空海だのなんだのっていう偉人たちの仏教思想みたいなもんだよね。

 

仏教がベースなんだけど空海の思想ってのがあるわけでそのルーツよね。そこでキリスト教っつーとペドフィリアとか戦争のイメージしかないんだけど(笑)ちゃんと読んでいくと中世とかにすげーキリスト教思想家がいたりそれこそキルケゴールとかニーチェも言わばキリスト教ベースの世俗化されたキリスト教ではないギリシャ的なキリスト教をベースにした思想とも言えるわけで、あとはまぁティリッヒとかブルトマンとかゴーガルテンみたいな個人的に凄くインスパイアされるところがある比較的近代の神学者達のキリスト教思想なんてのも奥深いわけだよね。

 

だからまぁ神学を勉強してるとかいいながらまぁ一応基礎として勉強してるんであって主な関心はキリスト教思想とかキリスト教がベースになった思想だよね。でもそれってようは言っちゃえばルーツはギリシャ哲学とかだからレオ・シュトラウスの影響でプラトニストになった俺としてはキリスト教というよりプラトニストだよねって言われればそれまでだし、ただキリスト教というかキリスト者であるってのは哲学に比べて常に実践を必要とされるっていうところがあってその実践性に惹かれるってところがあるんだよね。

 

だから別にその動機づけが自分の救済でもいいわけだし社会貢献しなきゃいけないなんつールールは無いわけだよね。でもまぁ結果的に社会貢献出来たら最高だとは思うけどその辺がまぁキリスト者として生きるっつーコミットメントだよね。それがまぁ帰依だよね。

 

だからまぁそれは思想なんであって宗教じゃないよね。恐らく。決められたお祈りの仕方とかこの日は何の日だから何々…とかってのを守ったりやったりするわけじゃないからね。ただまぁ世俗的なものではない宗教が涵養してきた思想ってのは深みがあるっつーかまぁそれは仏教が分かりやすいんだけど実はキリスト教も凄いんですっつーところだよね。

 

特に日本の場合、西田なんかがエックハルトはどうだったか忘れたけどバルトだのゴーガルテンだの当時は相当手に入れづらかったんだろうけど読んでてまぁすんげー面白いぞなんつって弟子に読ませたりしてたのもあって京都学派の宗教哲学研究なり京都学派自体の宗教哲学の質ってのがなんといったらいいのかフランクフルト学派なんかと比べても質が高いドメスティックなものではないグローバルな質があるもので、そういった学派の著書を日本語でそのまま読めたりするってのも何気に凄いことなんだよね。

 

日本で読めるキリスト教思想を研究している質の高い本とかってなると自ずと京都学派系にいくから色々と神学の本を読み始めたときに自然にそういう本が集まってきてて多分俺は相当影響受けてると思うんだけどまぁなんつーかある意味で無神論的な無宗教な日本人だから欧米のファンダメンタリストみたいな神が偉大でどうの・・・みたいな無駄な記述に紙面を割くことなく学術的にちゃんと研究されてるってのがまぁ抹香臭くないっつーのかね?それは仏教の場合だから抹香ではないんだけど(笑)宗教臭くないってことだよね。

 

逆に仏教研究のほうが抹香臭いかもねってぐらいキリスト教はそのファナティックな神を絶対に信じる!とか聖書は間違ってない!みたいな立場に立って書いてないっつーか客観的にキリスト者としてっつーより宗教研究としてやってる感じがあるからそのオブジェクティヴな感じが好きなんだよね。

 

だからそれが世俗的な仏教とかキリスト教と合致するかはともかく学問しながら仏教者として生きるということも可能だっただろうしそれはキリスト教然りなんだけどね。まぁこれは文化的なヘリテージだよね。だからまぁ文化って大事なんだよね。全然読む人いなくても俺みたいなやつが掘り出してきて熱心に読んだりするわけで(笑)

 

まぁそういった意味でキリスト教がデフォじゃない国だからこその客観性とか身に染みついちゃってる感じが無いからああいう客観的な感じの研究ができたんだろうなってのはあるよね。神学者が書いたやつってまず学術性より個人の信仰が先立っちゃってるからその場合、暗黙の了解ありきの神はいるとか聖書に誤謬無しとかっつーところから始まっちゃってるともうそれは宗教なんであって学問じゃないんだよね。

 

でもそこで学問面してるのが許せないっつーかね、バルトとゴーガルテンが決別したのも当初の実存的な感じからバルトが護教に走ったからとかって言われてるらしいけどまぁそれすげー分かるよね。護教に走ったらそれはもう学問じゃなくなるもんね。

 

まぁそんな感じでまだ多分書くことあるけど長くなったからまた今度で。

 

んじゃまた。