ウォール伝、ディープWebアンダーグラウンド。

わたしがウォール伝を書くのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために書いているのだ。

知は大事。

井筒俊彦が凄いのは世代的にチョムスキーぐらいのグランドファーザーな世代の人なのにっていうと失礼だけどポストモダン哲学が出てきたあたりに一瞬でその思想とか思考とか形を取り込んでそれをイスラムとか今ハマってるスーフィズムとか神秘主義を説明してたりするところなんだよね。

 

ちょっと上の世代になっても吉本隆明とかってポストモダン的感覚に関しては鈍いじゃん?無駄に晦渋なあの世代独特の言語ゲームという感じがするんだけど井筒は頭の良さが飛びぬけてるのもあってデリダとかポストモダン思想家が使うところのソシュールなんかの概念を使ってさっき書いたイスラムとかスーフィズムとか神秘主義を説明したりしてるんだけど凄いのがまだ生きてるポストモダン世代の生き残りみたいな人たちでもポストモダン哲学解説とかになるとオナニーみたいになりがちなんだけど井筒のそれはとにかく明快なんだよね。

 

明快過ぎるからデリダ入門とかソシュール入門とか読むより井筒の著作でデリダとかソシュールの概念が使われているものを読んだ方がよっぽど入門になるし分かりやすいっていうね、まぁそりゃ俺が哲学経由してるから既知の概念だから理解できるんだろうって思われるかもしれないけどそうでもないんだよね。とにかく明快なんでポストモダン世代って欧米アジア関係なく無駄に長く晦渋に書くじゃん?

 

チャールズ・テイラーの世俗の時代なんかも今読んでるんだけどもうちょっと要約すれば3分の1ぐらいになりそうだよねーっていうところがあるわけじゃん?テイラーもだいぶ昔の人ではあるけど井筒は大正生まれだからね(笑)

 

あのぐらいの世代の人なんかポストモダン系の概念なんて使わないで一昔前の哲学の概念に終始する感じがあるけど井筒っつったらポストモダンまで取り込んでるんだから凄いよね。

 

保田与重郎並に心酔できる手の届かない知の巨人を発見したなっていうか著書は持ってたけど今ほどイスラムとかに関心が無かったからサラッと読む感じだったんだけど今回ガッツリ何冊も買って読んでみるとその凄さが分かるんだよね。それを思うと日本ってイスラムとかキリスト教とかの信者数は少ないんだけど学ぶリソースはすげー良いものがあるなって思ったんだよねって前にも書いたけどね。

 

宗教哲学系は西田からの流れの京都学派が恐ろしいSpec Opsみたいな知の精鋭部隊で下手な欧米の抽象度の低いキリスト教入門なんかを読むよりよっぽど良かったりね、あと京都学派かはともかく歴史認識的なエラーがありつつも例えば和辻なんかが言ってるようにキリスト教から程遠いキリスト教圏じゃない場所の人間だからこそ書けるイデオロギー的な洗脳とかがないある種思い入れも無いが故に書けるドライなキリスト教雑感とか研究っつーのがさ、欧米で言うとキリスト教がドミナントだから入門!なんつーと宗教ズボズボの人が学術的厳密さを欠いたあくまで神ありきで信仰ありきなものを書いてたりするのが多いじゃん?

 

だからそういう意味で神学者じゃなくて神父とか牧師が書いてる本って学術書足りえないんだよね。絶対的な信仰が先立っちゃってるから学術性が無くなっちゃう。でも神学者の場合、まぁズボズボのどうしようもないやつが多いってのは神学をやり始めた頃にだいぶ失望したけど、でもまぁそうじゃない信者ではあるんだけど学術性を担保してるが故にキリスト教側からは逆に迷惑とされたりするとかこないだ書いた「信仰の邪魔をする勢力」扱いされちゃうとか(笑)っていうまぁそういう人たちもいるんだよねってまぁ当然なんだけど。

 

だから読む時にそれこそレコのディグと一緒で神は素晴らしい!みたいな間違えではないんだけどズボズボの人が書いてるやつは所詮護教論なんでそういうものには見向きもせずに鋭い学術的なものをディグするっていうことが重要になるんだよね。そう思うと神学書とかまぁ古典はともかく現代のやつは膨大にあるようで真っ当なものは少ないから探し方に気をつければハズれを引かなくて済むようになるよね。

 

あとまぁ買っちゃったけどズボズボ系だと思ったら読むのやめたほうがいいよね。そういう意味で俺の学術的なキリスト教っていうベースを作ってくれたのは田川健三大先生なわけですよ。「そんなの後世の後付けだ」とか「護教論に走る連中が騒いでるくだらない議論に過ぎない」とかってズバズバ書いちゃう人で(笑)抹香臭さゼロなんだよね。んで改めて思ったのが自分のキリスト教的認識の基礎を作れたのがほぼ日本の思想家寄りの学者達なんだよねっつーのがさっき書いた京都学派周辺とか田川健三師匠とかっていう感じなんだよね。あとは上田閑照とか西谷啓治とかっていう宗教というより思想家よね。

 

やっぱそこは俺が根本思想が好きで抹香臭い宗教は相変わらず大嫌いっていうのがあると思うんだよねっつってもアトスとかの霊性とか世俗に侵されてない場所の世俗的ではないミサとかは好きなんだけど世俗的な宗教が大嫌いでそれは仏教然りなんだよね。だから仏教にしても同じく京都学派とか井筒俊彦みたいな抹香臭くない超精鋭が書き残したものに感銘を受けるしある意味それ以外受け付けようと思わないっていうね。

 

あ、でもまぁ今思い出したけどベルジャエフとかブルトマンとかオットーとかまぁ海外でもいるね。かなり。まぁでもなんつーのかな、所謂世俗的なものから見たら異端か学術的過ぎて宗教ではないというようなものが多いよね。まぁ何回も書くけど特にキリスト教に関しては真っ当であればあるほど異端なんだよね(笑)それは現代社会でまともであろうとすればするほど狂ったものがデフォだからまともなものが弾かれちゃうっていう現象と同じだよね。だからそういう意味で真なるものは常にマージナルなんだと思う。何よりイエスがそうだったからね。

 

あとあれだ、パネンベルクなんかも好きなのは抹香臭さが無いってところなんだけど本人が元々は別に全く宗教とは関係ない環境で育って無宗教だったかはともかく宗教に関心が無くてニーチェとかの哲学をメインに勉強していく中でキリスト教を研究するようになったっつー経歴の人なんだよね。だから根本が哲学だから響くんだよね。根本が宗教だと意味不明な神は偉大なんだっつーところに帰結したり護教的なものに帰結しちゃうから得るものが少ないんだよね。

 

かといっても俺はめっちゃ宗教的で敬虔な人間ですよ(笑)でも真なるものに世俗臭はしないと思うからやっぱり根本が思想とか哲学とかフッサールが言うような厳密な学としての哲学っつーところに無いとダメだよね。まぁティリッヒとかキルケゴールとかめっちゃキリスト者な人で響くものを書くっていう人もいるから別にNo宗教ってわけではないんだけどね。ただティリッヒもキルケゴールも哲学じゃん?

 

田川健三の新約聖書の翻訳の帯にあるような、教会の壁を突き破るある意味宗教とかは関係ない知的なコモンズなんだっていう意味での聖書なりキリスト教思想だよね。それを教会の権威の道具にしたり戦争の口実にしたりってのは言語道断なわけで、本来はシェアされるべき善い知識であり認識なんだよね。まぁそれが福音っていうことでしょう。

 

それに比べて仏教は皆無とは言わないにしても歴史的に他の宗教ほど政治的権威付けに使われたとかまぁ統治の道具としては使われたとは思うけどイデオロギー臭さが無いんだよね。で、どう勉強すればいいのか?っていうと仏典ってことになってキリスト教みたいに胡散臭い神父とかが変なことを書いてる3流のスピリチュアル本みたいなものが無いからダイレクトに仏典に行くか、あとは学術的に仏典の解説をしている厳密なものが多くてキリスト教ほどのノイズが無いんだよね。

 

だから実践するとなると難解な仏典に行くしかなくてだからまぁカルチャーとしての仏教ってのはあっても仏典を研究する人ってあんまりいないと思うんだけど、でもまぁイメージ的には仏教ですよね。例えばマルクスがイデオロギーに使われたり虐殺の道具に使われてきたけどそういうイデオロギーとかとは関係ない純粋な知の財産として読もう!っていう再評価が資本主義のオワコン化と共に2000年代に入ってから進んだわけじゃん?昔はアカのバイブルだったのが今はイデオロギーとか関係なくニュートラルに読まれるようになってるっていうね、まぁアメリカみたいに共産主義なんつったらイコールISISとかオウムを意味するぐらい反共な国は別としてね(笑)

 

まぁでもアメリカに居たときにチョムスキーTシャツとかAKプレスのアナーキストTシャツとかマルクスTシャツとか着て街を歩くのは楽しかったよね。二度見するやつ多すぎっていうね(笑)あいつらからするとテロリストが書かれたTシャツを着てるキチガイにしか見えなかったんだろうなっていう(笑)学校の先生とかもブルーノートのTシャツとか無難なのを着てるときは普通に接してくれるのにアナーキストとか共産系のTシャツ着てると一気に態度変わって無視してくるやつとかいたけどあれでよく思想の自由とか言うよねっていう(笑)

 

海外では思想なナイーヴなものとかっていう恐らく「デリケート」と言葉を間違えた説明をされたりすることがあるけど(笑)まぁデリケートな場所だからこそTシャツとかファッションで思想表明って楽しいわけですよね。日本だとクロスにしてもただのシルバーアクセサリーの定番ファッションだけど海外だと強い宗教的な意味合いを持つっつってもそのほうがいいわけだよね。その意味合いでつけてるわけだから。まぁ今の俺はね(笑)

 

なんか話逸れたけどイスラムはまだ分からんしちょっと難しいかなと思うけどキリスト教は教会とか宗教っつーイデオロギーの枠を取り除いた、マルクスが共産主義っつーイデオロギーから解放されたものとして読まれるようになったように旧約はともかく(笑)新約聖書とかそれに準ずる厳密な学としてのキリスト教の本とかは所謂宗教ではなく思想の本として読まれるべきだと思うんだよね。

 

イスラムとかユダヤ教だと宗教と密接に結びついてるからそれだけ読むってのがちょっと無理かなって思えるのに対してキリスト教思想ってのはキリスト者じゃなくても読めるし得られるものが多いんだよね。でもまぁ選ぶのが難しいけどね。新約が軸になってるものは思想的な整合性があるけど旧約的な概念とか原罪についてとかってのが書いてあるのはそもそも旧約と新約って関係ないわけだからそうなってくると矛盾し合う二つの別の宗教の教典を一つのものとしてみなすっていう前提で書かれてるものってのは特に非キリスト者にとっては説得力無さ過ぎる!ってことになるよね。

 

なにしろさ、例えばマルクスは好きでもこういうところは時代遅れだなとか今の資本主義には合致してないからオミットだなとかここはどう考えても同意できないなっつーそういう読み方ができるじゃん?まぁマルクス学会とかに入っちゃうと無謬説系の考えになってそれは悪名高い(?)ラカン学会とかもそうだと思うんだけど(笑)田川師匠が言うように聖書なんて人が書いたものなんで間違えるし矛盾するしモノによってはそれが古代のものであるっていうことを加味しても稚拙にもほどがあるっつーところもあるんだけどでもやっぱり思想的に有用なところが多いから価値がある知的コモンズなわけだよね。

 

だから隅から隅まで全部に同意しなくても「お!」とかって思えるところがあればそこだけピックアップして心に刻めばいいんだよね。ぶっ飛んだ黙示録まで信じろ!なんていう強制は無いわけだから(笑)

 

面白いのがさ、バート・アーマンの本だったと思うんだけどヨハネの黙示録が聖典に入っちゃった経緯ってのが元は無名のやつが書いた怪文章だったかもしれないものをようは当時は無名で書いても誰にも読まれないから例えば「マイケルジャクソン作曲」っつって出した方が聴かれるから(笑)みたいな理由で有名な使徒が書いたものですってねつ造したほうが読まれやすいからっつーんでそういう偽の文章がすんげーあったらしいんだけどヨハネに関しては使徒じゃない誰かが書いた怪文章である確率は高いっていうかアーマンはそう言ってないけど俺は完全に関係ないやつが書いた怪文章だと思ってるんだけど正典として入れられたのは使徒ヨハネじゃないかもしれないけどでも実際に書いたやつの名前がヨハネであるのは間違いないっつー理由からなんだよね。

 

でもそれはありふれた名前で実際の使徒田中が書いたかは分からないけど黙示録を書いた人間の名前は確かに田中だったっつー理由からみたいなことなわけだから(笑)そういう選定も含めて為されたのは古代だから恣意的なんだよね。でも権威的な書物になっちゃったから修正できないんだけど音楽と一緒でここ十年ぐらい音楽なんてエディットの時代じゃないですか?

 

こないだ書いたように録音された音とか有名なフレーズとかはコモンズなわけですよ。で、新しいものを作曲するなんてほぼ不可能なんだからその有限のものの組み合わせでしかないわけで仮にそのフレーズとかリフを自分で作ったなんつってもそれは過去に聞いたものから出てきたもの以外ありえないわけよ。鼻歌とかと一緒だよね。あんなのも過去に聴いてきたものが色々とミックスアップされてメロディで出てきてるだけであたかも自分が即興で作曲したかのように思えるけどただのコモンズの組み合わせでしかないんだよね。

 

だからまぁ本当の意味での作曲なんてのは幻想だしそういう意味で灰野さんとかが即興という言葉に異様に突っかかるのもまぁそういう理由だよね。その灰野さんの即興への異様な突っかかりってのは作曲全般に言えるわけよね。作曲なんつってるけどそれはただの過去のもののミックスアップだったりエディットでしょ?っていうね。

 

即興が本質的に無理なのもそうじゃん?出てきちゃう演奏ってのはどう足掻いても自分が聴いていた音楽に依存しちゃうからそれを脱構築するにはベイリーみたいになるしかないわけでさ、そこでまぁ灰野さんは俺は即興できるけど他のやつの即興なんて99パーセント即興じゃないね!ってことなわけでしょ。何言ってんだこいつ?って感じだけどでもそれってマジなんだよね。

 

んでまぁキリスト教に話を戻すとエディットの時代なわけで全部を信じたり全部を価値があるものなんて考えなくてもあれは色んな使途がまとめた本のコンピなんだから俺はこれが好きだなとかあれが好きだなっていう別にコンピの全曲を体系的に好きになる必要はないわけで部分的に好きっていうだけでオッケーだしそれでいいんだよね。現に俺は旧約の成立は面白いけど思想的に全く共感しないしどうでもいいと思ってるしっつーのはユダヤ教徒が新約聖書を読まない理由と同じで俺はキリスト教徒なので旧約聖書は読まないみたいなもんだよね。

 

キリスト教ってのは新約聖書の宗教なわけでつじつま合わせに旧約との関連が無理やりされているだけで旧約ってのはユダヤ教の聖典なわけでキリスト教とは関係ないわけよね。んでもっと言えばジャン・リュック・ナンシーとかがやってるキリスト教の脱構築とかね、そんな高度なものじゃないにしても黙示録なんてとてもまともに読めるもんじゃない荒唐無稽なものだからオミットしてるとかっていう、ただそれはなんかさ、良いコンピなんだけどレコード会社の重役の娘がやってるバンドのしょーもない曲をその重役の圧力で入れるしかなかったっていうクソ曲を好きになる必要はないんだよね。

 

CD時代だったら自動でかかっちゃうけど(笑)今はプレイリストの時代だからそんなのもう無かったことにしちゃえばいいんだよね。よく哲学も正典も正統の読み方があるとかっていうけどそんなもん幻想ですよ。デリダを出すまでもなくエクリチュールになった時点で浮遊するわけよ。んで多種多様の解釈をされるわけでそこに合意なんてないしむしろ合意が無いからこそ多様性が生まれるわけだよね。

 

逆を言えばその多様性が無いものがドグマとも言えるよね。ただドグマとしてしか存在できない宗教的教典ってのはあって恐らくそれはユダヤ教とかイスラム教に顕著なんじゃないか?と思うよね。普遍性というよりかは民族性とか土着性にも凄く依存しているっていうね。

 

井筒が書いてたことだけどコーランに限らずだけど翻訳の不可能性って例えばコーランの中で言われている「泉」って言葉が砂漠の世界にある泉なのか日本にある泉なのか?っていうので同じものを差していても全くニュアンスが異なっちゃうっていう文化による意味合いの違いってのがあるわけじゃん?そこでまぁ言語の普遍性なんてのを唱えてるやつはすでに死んでるよねって井筒は書いてるけどまさにその通りで言語ってそんな簡単なもんじゃないじゃん?

 

俺が分析哲学が大嫌いなのも言語に比重が行き過ぎてるからなんだよね。まぁ思想的な深みが全くないってのもあるけど豊かな言語を数学の記号みたいな扱いをしてっていうかその扱いが出来るってのは西洋の普遍主義なんだよね。ロールズが勘違いしてた西洋的な概念の普遍的リベラリズムとかと同じだわ。でもそれは文化とか場所によって何が良いのか悪いのか?ってのは違ってくるし指している概念が同じでも質感や意味合いは全然違ったりするじゃん?

 

だから指している意味が同じであっても意味が同じとは限らないってことになるんだよね。シニフィアンは同じでもシニフィエは違うっていうね、んでコーランが面白いのはシニフィアンの段階でも声に出して唱えるということがコーランだから書かれているという時点でもうニュアンスが変わるっていうところなんだよね。

 

だから西洋的な考えの分析哲学とかに見られるような言語の普遍主義みたいなのってイスラム文化における言語とかコーランの哲学とかもっと言えば西洋人が第三国とまとめて取り扱わないようなものも含めて完全にそういうのを無視してるからああいう短絡的な思考になるんだよね。よく普遍なんて言えるよなって思うよね。なんで自分が知ってる世界だけで普遍を規定できるのか?って話じゃん?

 

まぁなんかそういう意味で長くなったからまぁまだ色々あるのは今度に回すとして俗流の宗教批判とかって深みまで行って無かったりあくまで表層的だったり自分の文化か英語圏ぐらいの言語感覚で批判してるに過ぎないから全く意味ないんだよね。ドーキンスとかにしてもそうだけどめっちゃ神学を勉強して宗教批判をしてるわけじゃなくて表層的な宗教とか実際の真の宗教とは全く違う俗化された宗教も一緒くたにして宗教としてるから整合性が無いんだよね。

 

読んでないけどなぜか売れたとされて評価が無知層では高いと言われる「ふしぎなキリスト教」なんかもそうだよね。ロクに勉強もしてないやつが浅い知識でキリスト教を語っちゃってるから間違いだらけになっちゃってるっていうね、いや、宗教なんて浅い知識で語れるものじゃないですよ。特に日本は形だけの神道とか仏教とかの無宗教国だからイスラムとかキリスト教の誤解と扱いの粗さが酷いんだよね。もう適当すぎるんだよね。それはまぁニッチなもんだからあんまり気にされないっていうところだと思うんだけど宗教的に正当であるみたいな厳密性は抜きにしてってようはそういう難しい話は抜きにして例えば即物的な100人というのが事実なところが1000人となってても特に問題とされないみたいな扱われ方なんだよね。

 

それが歴史的なことだったり戦争の死者数とかだったら大騒ぎじゃん?桁が違うぞ!ってね。でも宗教に関しては些細なことなんだよね。でも事実に些細もクソも無いんですよね。事実が間違って認識されてる異様さって例えば一昔前の海外映画の日本の扱われ方とかじゃん?

 

タランティーノとかは意図的にやってるけど例えば日本食レストランのシーンがあったりして、でも完全にモンドなエキゾの世界なんだよね(笑)芸者さんみたいな恰好をした人がウェイトレスをやってて寿司職人みたいな恰好をした人がシェフで、ただ店内の音楽は中国寄りのオリエンタルな曲で(笑)飾られてるインテリアは日本のものと中国のものが混ざってたり掛け軸も変な日本語だったり中国語なのか日本語なのか分からないものだったりとかっていうね、まぁそれってなんかみっともないじゃん?欧米人の日本の認識ってこんなものなのか?っていうまぁ日本がどうでもいいエキゾな国として見られるのは常にアメリカが1番と考える妄想から来るものだとしても知的水準を疑うじゃん?

 

それの逆バージョンですよ。宗教についての認識めちゃめちゃじゃん!っていうね(笑)鬼滅の刃のDVDに入ってるボーナスサウンドトラックでアザーンの一部がボーカル曲みたいに解体されて音楽利用されたのが問題になったみたいなことに見られるように昔はローカルでしか流れないアニメだったら問題ないかもしれないけど良くも悪くもグローバル時代ですよ。

 

中東の正式な字幕が無いぐらい新しいアニメを有志が字幕作って観てるっていう情報の早さなわけですよ。というより中東に行くのが早い遅いじゃなくて同時っていう認識じゃないとダメだよね。だからもう繋がってるし過去における「他国」っていう概念じゃ済まされないわけで、だから宗教的な無知ってのも強制的にグローバル化した世界では致命的なことなわけですよ。

 

それってまぁ右翼用語みたいになっちゃうけど国体に関わることじゃないですか?日本の知的水準ってこんななんだねって思われたら損なわけよ。まぁ政治的にはクソな国だけど「日本人は礼儀がある!」とかさ、鬼滅の刃の件にしてもすぐに謝罪してDVD回収するのはさすが日本だね!とかって評価されるわけじゃん?欧米だったら「ふざけんな!」っつってコーラン燃やすやつとかも出てくるのに日本人は対応が素晴らしいとかって思われるのは国益なわけですよ。

 

だからこそ宗教的無知ってのは無宗教な人々にとっても宗教的なものを意識せざるを得ない世界の中では致命的なわけだよね。グローバリゼーションに丸腰で挑むみたいなものなわけだから最低限のリテラシーは必要なわけだよね。まぁなんだろう、祝詞とかミサの祈りとかはサンプリングされてたり使われるのになんでイスラムはダメなの?とかってのもさ、まぁ厳密な理由があるにしても今回の話でもしたようにイスラムってのは唱えるっていう音声がメインのものだから音声メインっていう常識が無い人には分からないロジックなんだよね。

 

読むんじゃなくて唱えてるものでそれ自体が聖なるものだから音声であって音声じゃないんだよね。まぁそれで言ったら祝詞もキリスト教の祈りも声明も唱えてるじゃないか!って言うかもしれないけど同じ唱えるでもニュアンスが違うんだよね。聖性が違うということではなく言語と正典の関係が根本的に違うってところなんだよね。それは些細な違いかもしれないけど「些細だ」って思うのがようはさっきのエキゾな日本食レストランのシーンみたいなもんで、なんで日本食レストランで中華風のオリエンタルな曲が流れてるんだ?って話じゃん?

 

別にそれで激高する人はあまりいないかもしれないけど(笑)中国を下に見てるとか差別するとかって意味ではなく中国と日本両方にとって失礼じゃん?モンドミュージックってPC的に今だったらアウトだよね。土人の音楽ってのをイメージしてるわけだから。でもそれはサイードのオリエンタリズムを出すまでもなく人種主義的で帝国主義的なんだよね。自国の概念が絶対とは思ってないにせよそれがコモンセンスだっていう表象が出ちゃう時点でもう人種主義的なものが現れちゃうわけでそれは凄まじい損失なんだってことだよね。

 

だからアザーンを使っただけでキレるムスリムは寛大さに欠けていると思うのは大間違いってことなんだよね。そこが言語と音声の関係性の決定的な違いがあるから他の宗教と比べても全く意味がないというかそれが基準にはならないってことなんだよね。まぁそれがしつこいようだけど祝詞とか声明は音楽利用されてるのになんでイスラムはダメなの?っていう尺度自体が相当アウトってことなんだよね。

 

日本は大丈夫だと思うけどバカの田舎者が8割ぐらいのアメリカとかだとこういう文化のセンシティヴな差異とかのニュアンスが理解できないっつーやつが多いから永遠に溝は深まるばかりだよね。アメリカが世界の中心であるって思いこんでるやつらが多すぎる国から出てくる表象というのは本当にヤバいものがあるよね。

 

ただもうアメリカはオワコンだから他国からは見限られてると思うけどね(笑)アメリカは自滅していってる感じだよね。日本も大概だけど政治家の質とかがヤバ過ぎるだけでそこはアメリカと逆で市民のアヴェレージがアメリカほど低くないからなんとかなると思うんだよね。絶望的なバカが増えたら終わりだと思うけど最低限のラインは担保されてるじゃん?ただどこの国でもそうだけどSNS然りネット然りだけどノイジーなバカの意見ってのがすんげーラウドに聴こえるから「この国は終わりだ・・・」っていう終末観が出ちゃうけどこれはほんの一部だって思わないとダメだよね。ノイジーマイノリティだよね。

 

アメリカの場合、ノイジーなのがマイノリティでもなかったり(笑)ネオナチ団体とか白人至上主義団体とかレイシストとかなぜか放任されてる詐欺師とか詐欺集団とかが腐るほどいるから長所と言えば経済だけだったのにそれが終わってるからもう未来無いんだよね(笑)

 

だからまぁアメリカを反面教師として見ると簡単な要約だけど知は大事ってことなんだよね。それに尽きるね。

 

ってことでんじゃまた。