魂のゆくえ。その9。

カール・バルトの「それは神に規定されている」っつー善とは何か?とかいうような議論をさせない感じって前に書いたようにそれは危機感から来ているものもあると思うんだけど一方でこれってすげー過激な主張だよね。

 

ある種、数学のように自明であるって言いきっていてそこの議論をしないってのは哲学的に見れば怠慢なんだけど、そもそもカール・バルトとかの神学系哲学といっていいのか分からんけど、こういうのって哲学とは相いれないよね。キリスト教の倫理っつってもそれはキリスト教における倫理なんであって普遍性はないよね。

 

でも俺的にそもそもの普遍性とか本質なんてあるわけないっつーポストモダン的な相対主義の世界をぶった切るようなダイナミックなものに感じられるし、むしろそんな乱暴な言い方ができるのは宗教ぐらいだと思うんである意味、なんつーかすんげー過激化したマルクス主義とかより良い意味でエクストリームな思想だよね。

 

過激な思想にかぶれてた俺が神学っつっても結局はカール・バルトとか聖書の中にある過激さってのを見出してそれに魅入られるんだよね。逆に哲学的にしようとすればするほどスコラ的といっていいのか分からないけど肝心な霊性とか神という概念が希薄になっちゃって「それ宗教の範囲でやる必要なくない?」みたいな感じになるんだよね。いろんな意味で人って意味での普遍性は無理だよね。

 

それこそ宗教とか文化とかの違いで何が善なんだ?って言い出したらもうやっぱ形而上学になっちゃうわけですよ。で、そういうのって好きな人だけやってればいいジャンルなんであって例えばキリスト者にとってはキリスト者としてどう生きてどう行動するべきか?ということが大事になるから、実践しようとすればするほどキリスト教的倫理っていう世界で考えるようになるよね。ボンヘッファーなんかもそういうようなことを言ってた気がするんだけど。

 

結局、神のロゴスではない人間の言葉の中で言えたり展開できることには限りがあってまさにウィトゲンシュタインじゃないけど語りえないものについては語らないか、あとは宗教家なんだったら宗教的に語ればいいだけなんだよね。でもなんで言葉は無力で実践や行動は凄いのか?ってそっちのロゴスのほうが強いってことだよね。もちろんフックとしての思想とかはあるにしても言語ゲームに陥りがちな言葉の世界だけだとそういった思想を顕在化させる方法が無かったり、それこそアームチェアとかって揶揄されるような現実性に欠けたものになったりしちゃうよね。

 

だからそういった霊的実践とかって意味でも初期の神学者達がプラトンの影響を受けていたっつーのもすげー分かるよね。まぁプラトン自体が神学のひな型といっても過言じゃないだろう。善はイデアによって規定されてるってまぁオカルトだけど(笑)すべてがイデアに規定されているかはともかく例えば数学的なプラトニズムというのがあるように、プラトニズムを出してくるのが一番手っ取り早かったり「これだ!」というハマる感じがあるのはやっぱりそれがそうだからなんでしょう。

 

規定できないと考えるのは人間の傲慢さだと思うんだよね。快楽殺人者とかの例外もあるけど大抵はアプリオリに善いことだとか美しいことだということが分かる感覚が人に備わっているじゃん?もちろんそれは育った環境とかにもよるんだけどさ、ただそういった感覚が備わってないか欠如してるとやっぱりアウトじゃん?凄くそれが破壊的なものになったり他人の人生を踏みにじるようなものになったりしちゃう。それが悪かどうかは別としてね。善の欠如が悪だって言い方もあるけどまぁそれはいましなくてもいいかな。

 

人によって違うって究極の屁理屈だよね。立ち上る朝日を見て「なんて美しいんだ・・・」って感じるとかさ、人によってはそれは感じない人がいるっつってもなんかそれ言い出すとなんでもありじゃないですか?別に美しいと感じなくてもいいんだけどね、ただなんだろうドビュッシーとデスメタルを対比して美しいのはどっちでしょう?っつってデスメタルだって言うやつは相当ひねくれたやつだよね。俺がそうだったんでそういうのはすげー分かる(笑)

 

でも美しい旋律の美しさの規定なんてできないんだよね。それがただ美としてあるっていう現前性でしかそれは規定できないんだよね。それを分析したり音響的にどうだとかって言えるんだろうけどそういうことじゃないじゃん?そこがまたすげー誤謬でさ、全ては機械的でなんでも工学的に規定できるとかって考える理系のバカがいるけど、人間の心を何にも分かっちゃいないよね。

 

まぁ一般的に問題になるような倫理問題はともかく、明らかなものに関しても自明じゃないって言い出すのは数学基礎論みたいなマニアックな話なんであって、むしろ必要なのは所与のアプリオリに規定されている善をいかに行うか?とかそれで満たされるような世界にしていくか?っていうことだよね。ここでもまたひねくれものは傲慢だって言うかもしれないけどそれ言い出したら政治なんてできないですよね。

 

プラトンの賢人統治の話はともかく善という感覚が欠如した統治なんてのは基本的に工学的なものでしかないよね。何が人間にとって社会にとって良いことなのか?ということが自明じゃない権力ってのは基本的に良くないよね。もしくはそんな哲学的な深みとかいらないから最低限の善ぐらいやってくれよって話だよね。

 

なんかただ哲学って誤解されるところがあって「それはなぜ白いと言えるのか?」みたいなことを言いだすと「哲学的」とかって言われるけどそれってただの屁理屈なんですよね。ただ言語ゲームの中に突入してループするっていう言語に頭がやられるっつー類の話で全然知的じゃないしつまらないんだよね。

 

そうじゃなくて哲学って本来はニーチェだとかスピノザみたいなさ、認識によって世界像が変わるとかね、衝撃を受けたのと受けてないのとでは人生に違いが出るぐらいのものだと思うんだよね。それが思想よ。やっぱり。思想と屁理屈は違うよね。

 

思想そのものと普遍性って関係ないと思ってるんだよね。普遍を目指していた哲学者もいたかもしれないけど、誰々の倫理概念はこういうところで問題があるってそりゃ普遍という観点から言えばバイアスだらけだし時代の制約なんかも受けるだろうから普遍なんてないんですよ。ただそこにあるのは共感だけだよね。で、それは凄く私的で主観的だよね。主観的だからこそ思想なんですよね。主観的だからこそ人を動かすものがあるわけだ。

 

でも仏典とか聖典の類はこっちの準備ができてないと分けが分からないか、あとはすげー昔の荒い議論にしか見えないんだけど、色々と経験して例えば我が落ちたときに理解できるようになるとかね、下手な思想より本質的に普遍に近いなって感じるわけじゃん?まぁそれが言わば神だよね。もしくは無とか呼び名はなんでもいいや。

 

だからそれは人によるものではないんだよね。というか人によるものから普遍は出てくることはないわけだ。だから神にひれ伏すしかないっつーとまぁイスラム的だけど神に従うという概念がひと際強いイスラムなんかは本当に分かってるなって思うんだよね。だからまぁ悪用すると過激派みたいなことになるのは別にどの宗教も思想も同じなんですよ。

 

だから普遍に近いものって危険なんだよね。だからそれは行きすぎだろうということで中庸とかいう言葉で濁したりして市民的相対主義の世界を生きるっていう建前を作るしかなくなるんだよね。「まぁ人それぞれだよね」と言ったりふるまうことが市民性でしょ。でもそれでは悪に「それはダメだろ」って言えないよね。悪っつっても法律でダメとされていることをしちゃダメ!みたいな学級委員的なことじゃないですよ(笑)

 

別に悪でもないのに法律的に悪とされることもあるわけだし、あとはただの政治的既得権で作られたような法律とか守られ続けてる法律ってのもあるから法律って関係ないんですよね。何を成すべきか?なんだよね。もしくは成さなくてもいいから何をやるべきではないのか?というのは恐らく明白なはずなんだよね。でもそこで人の道を外れる外道ってのは大勢いてヤクザが外道とかって言われるけど一般人の面をしたやつらが一番怖いからねってのはいつも書くことだけどね。

 

一番怖いのはおばけでも悪魔でもなくて人なんだよね。唯一生きている俺のばあちゃんの口癖なんだけど深みがあるよね。人生経験によるものでしょそれって。子供の頃にもよく言われたもんな。まぁ思えばただの霊感体質だったんだけどまぁなんかいる!みたいな感じって子供は強いからさ、それでまぁばあちゃんは笑って「おばけなんかより人のほうが何百倍も怖え」って言ってたよね。まぁホント、そうですよね。

 

そんな怖いもんが市民的相対主義の中で生きていることの危険さだよね。そこは行き過ぎてもいいから善を語るやつがいてもいいんじゃないかと思うんだよね。かといっても抹香臭かったり宗教臭いものではなくてガチの善の語りだよね。語りっつーとダサいから善のディスコースとか善のパロールとでも言っておくか(笑)

 

んでここがどうしても精神世界とか見えない世界と繋がりがあるものなんだよね。基本、哲学とかまぁまともな科学だったらそんなのを扱わないのがデフォだけど、規定できないのはそういった世界の狭さにあって、ただ覚者が分かっているのは善だけではないけど明らかにある種イッちゃわないと分からないものがあるんだよね。

 

だから常識とか限界とか正常ってことすらも疑わないとどうにもならないんだよねっていうか勉強したり金を出して得られるものとかって限りがあるし見えつくしてるじゃん?あんま面白くなさそうでしょ?だからまぁそっちの世界しかないんだよねっつっても超能力みたいな安易なものじゃなくてプロセスの中でそういうのが得られても目指すところは高尚なアプリオリの善を理屈ではなく体感するってことだよね。

 

善を体感って凄くない?禅を体感も凄いけど善を体感って凄いよね。善や義を道理や理屈ではなく体感で感じるっていうね、理解とはまた違うまぁ気を感じるとかと同じ感じだよね。禅の体験が不立文字なのと一緒で神も善も義もそうなんだよね。なんかもっと将来とか金のことを気にしなきゃいけないんだろうけど俺の関心はそこにしかいかないんだよね(笑)それもイッちゃってるっつーところなんだけどね。バランス考えないっていうね。

 

まぁそんな感じで続きますんでんじゃまた。